41.誓い
皇都サンドラでも、雲一つない青い空が広がっている。空はまだ明るいが、時刻は夕方近くになっていた。
いつもと違う時間に、ソルが布包みを携え【王の間】にやってきた。ジェードは日課の仕事で井戸端に行っていて、【王の間】に居たのはハリーファだけだった。
今日のソルは服装もいつもとはどこか違う。随分質素ないでたちだ。いつも丁寧に巻かれているターバンもなく、黒髪を日の下に晒している。長袖ではなく、半袖の上衣からは、黒い腕や胸元が見えていた。
黒い肌の少年は、【王の間】に入るなり「水をもらえるか」と言って、入り口の水瓶から杓で水をすくった。
「こんな時間にどうした」
ハリーファは服装だけでなく、どことなく落ち着かない様子のソルを、不思議そうに眺めた。
「一月後だと言っていたのに、随分早くに来れたんだな」
「……オレも主人に仕える身だ。色々効率考えて動いてんだよ」
口を手でぬぐいながら言うソルの心の声は、相変わらず何も聞こえてこない。しかし、ひどく疲れているように見える。
「短剣は見つけられたのか?」
「ああ、見つけたぜ」
ハリーファの問いかけに、ソルはうなずいた。
「だけど、今は持ってきてねぇんだ。オレは、入り口で必ず身体検査をされる。刃物の類はぜんぶ門で取られちまって、ここまで持ち込めねぇんだ。入口で没収されたものは、あんたが回収できないか?」
「無理だ」
「じゃあ、あの番兵、あんたの采配でどうにかできねぇのか? ちょっと金でもつかませてさ」
「俺では駄目だ。お前の方でどうにか出来ないのか?」
ハリーファの答えに、ソルは呆れたように肩をすくめた。
「大体な、あの剣、大して価値のあるものでもねぇだろ?」
同程度の品なら、ソルに頼めばメンフィスで簡単に手に入るものだ。だが、敢えてオス・ローまで捜索に行かされた事に疑問を持っている言い方だ。
「……お前にとって、価値はないな」
ハリーファの肩透かしの答えに、ソルは「あんたにとっては、いったいどんな価値があるってんだよ」と悪態をついた。
「しばらくお前が預かっておいてくれないか。その間に、打ち直しもしておいて欲しい」
「わかったよ」
ソルはゆっくりと息を吐いた。
「でもよ、手ぶらで来るのは性に合わねぇんで、今日は短剣の代わりにこれを持ってきた」
ソルは、小脇に挟んでいた布の包みをテーブルの上で広げた。包みの中から出てきたのは、薄汚れた深緑色の背表紙の聖典だった。
ソルがその表面をなでると、まだ細かい砂が手にまとわりつく。黒く長い指が白い砂で汚れた。
「これは? クライス信仰の聖典か。これも聖地で見つけたのか?」
ハリーファの言葉に、ソルはうなずいた。
この聖典は、おそらくジェードのものだろう。ジェードに渡せば、きっと喜ぶに違いない。
「ヴァロニア製の短剣に、クライス信仰の聖典。ヴァロニア人の落としものなのか?」
ソルはいぶかし気な視線をハリーファに向けるが、それ以上は何も聞いてこない。
「あんな広い場所で、絶対何も見つけられないと思っていたんだけどな。短剣もこいつも、時代の違うものは、聖地に馴染まずに、浮いて見えたってわけさ」
ソルは、ハリーファの前で聖典をパラパラとめくり、胸の前でパタンと閉じる。かすかに砂埃が宙を舞った。
「短剣は持ち込めねぇから、今日のところはとりあえず、こいつが聖地に行ったって証明だ」
片手で聖典を持ち、ソルは少し肩を上げて見せた。
ソルは【王の間】を出ようと、力まかせに扉を押し開けた。
外側から「きゃぁっ」と小さな悲鳴が聞こえた。中に入ろうとした女奴隷が、地べたにしりもちをついて転んでいる。勢いよく開いた扉に押し返されたようだ。
「おっと! 悪いな」
以前遠目で見たハリーファの女奴隷だ。皇族の女奴隷はさぞや美女かと思っていたが、自分と変わらぬ歳端の普通の少女だった。ただ、髪を晒しているのは珍しい。その髪には、ソルが職人に作らせた、異国風の櫛が留められている。
少女のまわりには洗いたての衣類が散らばり、洗濯物を入れていたカゴも転がっている。
申し訳ないとばかりに、ソルは少女に手を差し出した。しかし、女奴隷は差し出された手を取ろうとはしない。まるで怯えるように、ソルの顔を凝視している。
「……ァ……」
何か言おうとしているようだが、言葉になっていない。
ソルは、もたもたする少女の腕をつかむと、強引に引っ張って立ち上がらせた。
少女はひどく驚いて、泣きそうな瞳でソルをにらみつけた。怯えたように眉根を寄せる。それほど強く握ってもいないのに、つかまれた手首を反対の手で押さえたまま突っ立っていた。
ソルは転がったカゴを拾い、衣類を拾ってカゴの中に放り込んだ。それを女奴隷の手に無理やり押しつけると、さっさとその場を立ち去った。
今は、ハリーファから受け取った『報酬』を持って、一刻も早くラシードのもとに戻りたい。ソルの頭はそのことで一杯で、女奴隷にいちいち構っている暇はなかった。