40-3
「それは【王】はずっと囚われて、皇宮に居たからだ。血濡れの監獄に閉じ込められてな」
ラシードの言葉に、身体に電撃が走る。ハリーファの住んでいる朱鷺色の離れは、たしか【王の間】と呼ばれている。その呼び名は皮肉だと思っていた。
「今、その【王の間】に住んでいるのは……ハリーファだ」
「ハリーファ皇子が【王の間】に……? そうか……」
すっかり肉の落ちたラシードの眉間にしわが寄った。
「そういう事か。ハリーファ皇子が新しい【王】だったのか」
さっきまで青かったラシードの顔に、血が巡りだしたのが見て取れた。
「なぁ、ラシード。ファールークの王は初代宰相アーディンが最後の王だろ? ハリーファが【王】ってどういうことだ? あいつは第二皇子なんだろ? 【王】って何だよ」
「【王】は、ファールーク皇国の始祖アル・マリク・ユースフのことだ」
「……ユースフ……?」
【王】の名を呟くソルの言葉尻には、どこか親しみが含まれる。西大陸では珍しくないその名は、ソルの本当の父親と同じ名前だった。
「【王】は神を殺して、ウバイド皇国、シュケム、そしてオス・ローの三国を手に入れた。初代宰相のアーディンの方が、実の兄を利用したという説もある。ともかく、『神殺し』の兄弟によって呪われた国、それがこのファールーク皇国だ」
「神殺し……?」
「お前は知らないか? 父親殺しのことを『神殺し』と呼ぶんだ。『神』を殺した者の子孫は、代々呪われると言い伝えられている」
神を殺すなんて、呪われて当然だ――、ソルは思った。
ラシードはソルを見つめてかすかに口の端を上げると、ぼそぼそとつぶやいた。
「なぜ誰も気が付かないんだろうな。ファールーク皇家は呪われ、この国は病んでいる。まるで砂漠の真ん中で駱駝の背の上でうたた寝をしているようではないか。目を覚まさないと、落ちれば死が待っているというのに、いつまでも目を覚まさないんだ」
「国が病んでる……? 『神殺し』の呪いで?」
「【王】を人柱にして、この国は守られているんだ。二百年以上もの間、他国から干渉されることもない。何者もヴァロニアとの国境を越えてこない。ファールーク軍は一度だって動いたことはなく、軍事力は低下する一方だ。そして領土になったはずの聖地が復興しない。異常だと思わないか?」
語りだすラシードに、以前の力強さが甦ってきた。ソルは口を結んでラシードの言葉をじっと聴いた。
「皇家の血は呪われている。このままでは、いずれこの国は死ぬ。いや、この国は死んでも構わんのだよ。だが、問題は聖地だ。ソル、私はな、【宰相】の呪縛から聖地を解放してやろうと思っていたんだ。聖地が復興すれば、お前も、アーランも、きっと救われるはずだ」
数年前から、メンフィスの名士達がラシードの下に寄り合っていたのは、この事を企てていたに違いない。だが、ラシードが病気になって頓挫してしまった。その志を中途で諦めざるを得なかったのだろう。
今までラシードが、その志をソルに直接語ったことはなかった。初めてラシードの秘めた想いを聞けて、ソルは嬉しくもあり悲しくもあり、胸の奥がつかえる。
「ラシードも?」
「ん?」
「ラシードも、救われるのか?」
ソルの問いにラシードは答えなかった。
「なぁ、ラシードも皇国の血を引いてるだろ……。その病こそ、神殺しの呪いじゃないのか?」
ソルの言葉に、珍しく哀切がこめられた。
「そうかもしれんな」
ソルとは違って、ラシードは穏やかに笑っていた。
「ソル。最後まで残ってくれたお前に私の財の全てを与える。私の死をもってお前を自由人とする。これは天使への宣誓だ」
ラシードは、ソルの想いとは裏腹に、自分の死後の話を簡潔に伝えた。
「あんたは善き養父だよ、ラシード」
痩せ衰えても頑固な養父に、ソルはおよそ感謝しているとは思えない態度で言う。ずずっと鼻をすすりながら、目に浮かんできたものを隠すように腕でぬぐう。
何故、今になってラシードは自分に志したものを教えるのだろうか。そのくせ、自由にしろという。
「……ハリーファを殺せばいいのか? そうすれば、【宰相】の呪縛は解けるのか? ラシードの望みは叶うのか!?」
感情的になるソルをラシードはそっと引き寄せた。そして弱々しく抱きしめる。幼い頃を思い出し、ソルは恥を捨てて、ラシードを抱きしめ返した。
懐かしい匂いがして、目頭が熱くなる。
「ソル。お前、ハリーファ皇子と仲良くしてるのかと思ったんだが、私の思い違いだったのか?」
ラシードの手が、ソルの後ろ髪をなでた。
ソルが離れると、ラシードは骨のういた肩をすくめ、呆れたように苦笑した。
「ハリーファ皇子を殺しても無駄だ。また次の新しい【王】が生まれてくる。ハリーファ皇子の前の【王】を殺したのは、この私なんだ――」
コンコン、と扉を叩く音が響いた。
張り詰めていた部屋の空気がいっきにゆるむ。
ソルはラシードのベッドの上からすべるように下り、扉を開けた。そこには医者とアーランが立っていた。アーランの手には、いつもの薬の器が握られている。
二人が入室すると、ソルははらした目を見られまいと、急いで短剣と聖典を取り、床に置いていた包みをかかえて部屋を出た。
ソルはようやく、くたびれた旅装束を脱ぎ捨て、市井の服に着替えた。
まださっきのラシードの話で頭が混乱している。今頃になって旅の疲れが出てきたが、まず馬の世話に行こうと思い立った。彼女に話しかければ、少しは考えがまとまるかもしれない。
裏口から外へ出ようとしたとき、ソルは医者に呼び止められ足を止めた。
「ラシード殿のお身体の事なんだが……」
医者はソルのそばに来ると声を落とした。
「おぬしが居なくなった数日前から、薬の量が増えてね。実はもう薬が尽きてしまって……。今奥方が持っていたもので最後だ」
疲れもあって、ソルは盛大にため息をついた。
「あんた医者だろ。どっか薬師のコネとかねぇのかよ」
「もうメンフィスでは手に入らないのだよ」
「この前オレが渡した分があるだろ? あれは?」
「あんな量、とっくに終いだ。このままだと明日の分はない。以前より痛みも強くなっているようだ。ラシード殿は、おぬしの前では痛みに耐えておるのだよ。もうわしは苦しむ姿を見ておれん。……あれは、地獄の苦しみだ。もういっそのこと楽にし――」
ソルには、医者の言葉の最後が聞き取れなかった。この男、今何と言った?
ラシードの命がもう長くないことは、ずっと看てきたソルも十分わかっている。しかし、奴隷の主人殺しは死罪だ。たとえラシードが望んでも、立場上、ソルに答えられる答えは一つしかない。
ラシードにとって延命が苦悶でしかない事を訴えてくる医者が忌々しかった。
(お前ならオレが一思いに殺してやるのに!)
目の前の医者をにらみつけて、ソルは舌打ちする。
ソルは急いで部屋へ戻ると、再び荷物をさげて厩へと走った。馬の世話をするどころか、そのまま黒馬にまたがると、急いで南へと馬を走らせた。