40.臥所の革命家
この二百年の間に、メンフィスの街は大きく変化した。
ヴァロニアとの国境が封鎖された後、オス・ローの医者や薬師たちがメンフィスに移住し、メンフィスの交易家たちは職人や農民に姿を変えた。大名士と呼ばれる地方領主は、今では昔ほどの力は無い。
その大名士、ラシードの家はウバイド皇国時代から続く家系だ。皇女を妻に迎えいれたり、第二皇子を養子として預かり、今でも皇族との繋がりは深い。
一昔前にはフロリスとの交易で財を成したが、国境封鎖から街とともに徐々に衰微している。南方のアルザグエとの交易収入と、皇族の妻や養子の持参金とで、どうにか生活を続けている状態だった。
数年前までは、街の小名士たちがラシードの家によく出入りしていたが、ラシードが病に臥せってからは、彼らの姿もぱたりと見かけなくなった。
* * * * *
夏が近づき、メンフィスの街では、張り巡らされた水路の水位が下がりはじめた。
交易が盛んだった頃は、水路は大小さまざまなはしけ船で埋め尽くされていたというが、今ははしけは一艘も見当たらない。真上に昇った太陽だけが、水面にまばゆくきらめいている。
この街の中心にある大市場では一日中人々が行き交い、市場は朝と昼と晩とで違う様相を見せる。昼間は朝や夜と比べると、人通りの少ない時間だ。軒下に張られた布の影で、職人たちはゆったりと作業をしていた。
聖地オス・ローから戻ったソルは、主人が起きていると聞いて、真っ先に階段を駆けあがった。長靴の靴音を床に響かせて、ラシードの部屋へと飛び込んだ。
「ラシード! 具合はどうだ?」
ソルは、斜めに背負っていた大きな布の包みを床に放りだすと、ラシードのベッドの上に飛び乗った。旅の疲れなど微塵も見せず、一番にラシードの顔色をうかがう。
「まだこの通り、生きているよ」
最近寝ている時間が長くなっていたラシードだったが、ソルが部屋を訪れている間はいつも身体を起こしてくれている。
痩せて軽くなった体重を枕側の壁にすべて預けながら、ラシードはソルの旅の話に耳を傾けた。
「人探しの依頼?」
「うん、『魔女探し』だってさ。一年以上前に逃げたヴァロニア人を、ランスの王族が捜してるようなんだ」
ソルが魔女狩りの書状を懐から出して手渡すと、ラシードは元気だった頃の癖で自分の顎髭をなでながらつぶやいた。
「この魔女とやら、何か重要なことを知っているのかもしれないな。たとえばヴァロア王家の内情のような……」
ラシードは異国の伝承など信じておらず、そこに政治的な意図を見いだす。魔女は人柱だ。ソル自身の考え方も、主人であるラシードの影響を強く受けている。当然、魔女の存在など信じてはいない。
「それに、これはランスからヘーンブルグに宛てられているだろう。むしろヘーンブルグの領主を陥れようとしていたのかもしれんな。いや、しかし、何故ヘーンブルグなんだ?」
ヘーンブルグと聞いて、ソルは海岸で聞いた情報を思い出した。
「そういや、ヘーンブルグが王太子派に名乗りをあげたらしいぜ」
「ヘーンブルグが王太子派に?」
ラシードの言葉に疑いの色が現れた。眉間にしわが寄る。
「うん。今のヘーンブルグの領主、七年前のヴァンデの戦いで【悪魔】って呼ばれたやつらしいんだけど、」
ソルの言葉の途中で、ラシードの目が輝きだす。
「正式に王太子派に名乗りをあげたって話だ」
「ヴァンデの悪魔というと、ランスのヴィンセント・フォン・ラヴァールか! 六年前に姿を消して、消息が途絶えていたが。ヘーンブルグへ流刑になっていたのか」
「流刑?」
「ああ、少々複雑な事情があって、ヘーンブルグはヴァロニアでも疎隔されている領地区なんだ」
「なんか、春から王太子が騎士と資金を集めはじめて、それにヘーンブルグ領主が参加したらしいんだ」
ソルの話を聞きながら、ラシードは書状の封印に見入った。
「ソル、この魔女狩りはおそらく王太子からの発令ではないぞ。ギリアン王太子の他にランスの封印を使えるのは王妃イザベラだ」
「ヴァロニアの王妃が? なぜさ?」
「イザベラは息子を王位に就かせる気はないようだ」
「母親なのに?」
「理由はわからんが。ヴィンセント卿と王太子は旧知の仲だ。王妃の狙いはこの魔女ではなくヴィンセントなのではないか? ヴィンセントが味方につけば王太子は動き出す。ヴァロニアでは黒髪が忌避されているのだが、ヘーンブルグ民は黒髪ばかりだ。魔女裁判を利用してヴィンセントをつぶそうとしたか。
それに、一年過ぎてもまだこの魔女を探しているとなると、王妃にはこの魔女を見つけなければならない何らかの理由があるのだろう。もしかすると、本当に重大な秘密があるのかもしれないぞ」
「そういえば、身代金を出すとまで言ってたぜ」
「身代金? 生きたまま引き渡せと? この魔女を探しているのは王妃ではないのか?」
「さぁね。取引ではお互い身分は明かさないのが決まりだろ?」
「この少女を見つければ、ヴァロニア王妃と良い取引ができそうだな」
ラシードの口元に、昔のように強気な笑みが浮かんだ。しかし、その顔からすぐに笑みは消えた。
「シーランド王国のアンリが成人するまで後八年。……いや、今更間に合わんか……」
ソルは上がりこんだベッドの上で足を組み替え、主人のつぶやいた言葉が聞こえなかったそぶりをした。間に合わないのはアンリの成人ではなく、ラシードの命の期限だろう。
「ソル、お前はギリアン王太子をどう思う?」
ソルは主人の方に向き直った。暗い考えを見抜かれないように、あわてて気持ちを切替える。
「ギリアンって、父親から虐げられて育った王子だろ? オレは、善い王になるとは思えねぇけどな」
政治など興味なく、自らの直感でものを言うソルの言葉にも、ラシードは深く耳を傾ける。
「彼にも聖地の価値はわからんか」
声を落とすラシードの言葉が、ソルの心に引っかかる。




