39.禁足の地
蒼白い月影のもと、粉砂漠を黒馬が駆ける。
馬の口には布製のマスクが付けられ、騎手も同じように布で頭をおおっている。漆黒の馬を駆り、ソルは中央の地を駆けぬけると、ヴァロニア方面へと向かった。
やがて進行方向の空が青紫色に白んでくる。じきに夏が来るきざしであった。
中央の地を過ぎると、地面は赤茶けた土に変わった。明け方の空気は湿気をはらみ、空気はツンとしみるように冷えている。
国境近くには、そこかしこに崩れた石垣が点在する。その石垣の表面には、ピンク色の葉の蔦植物が群生していた。水の少ない土地で、まるで炎のように揚々と咲きほこる。
(グハンナメイヤ……、『地獄の花』か)
炎のように咲きこぼれる濃ピンクの花を、ソルは馬上から眺めやった。
もう国境は目の前だ。そこを超えると異国ヴァロニアの領土となる。だが、今日の目的地はヴァロニアではない。ソルは馬の速度を落とすと、北の海岸へと馬首を向けた。
左手にシュケムの街跡を眺めながら、国境沿いを北へ馬を走らせる。
間もなくして、黒馬と少年は海岸にたどり着いた。
砂浜に着くと、ソルは馬の背から荷物を下ろした。
「アキル、行ってこい」
ソルははめていた手袋を外し、黒馬の鼻をなでた。漆黒の馬は打ち寄せる波で遊ぶように、蹄を弾ませながら海岸を歩いて行った。
合流場所はここで間違いないはずだ。辺りを見回すと、浜辺の様相は以前とは変わっている。船の残骸や流木が、波に流されて姿を消したり、位置を変えていた。
ソルは以前と同じように、大きな流木に腰をおろす。
波が穏やかに打ち寄せる様を、一人眺めた。
――波の音が耳の奥に響く。
荒波の押し寄せる南側の海とは違い、北の海の波は穏やかに砂浜に打ち寄せる。遠く波間に浮かんでみえる流木も行ったり来たり。ただひたすらに波間をたゆたう。
ゆったりと流れる時間のように、ゆらりゆらりと波打つ海面は斜めに射す光を浴びて輝いていた。
波は、ざざん、ざざんと、ゆるやかに打ち寄せては引いていく。
(砂の音みてぇだな……)
遠くでのたりと揺れる海面は、まるで砂漠のうねりのようだ。
(砂漠は天国に一番近い場所……。だったら海は……)
ソルは波打ち際へと歩みよった。長靴のくるぶしまで水につかる。砂浜をはって寄せる波は、少年の足首を捕らえて海へ引きずりこもうとする。ソルは足をとられる感覚に眉をひそめ、また元いたところへ戻った。
波が引くたびに砂浜は模様を変える。ソルは時間を忘れて見入った。
水平線から一艘の小船が近づいてきた。
緩やかな波に揺られ、二人の男を乗せた小船は海岸手前で動きを止めた。一人が立ち上がり、家紋のメダルをソルの方に掲げて見せてきた。
ソルも立ち上がり、波打ち際のぎりぎりまで歩み寄った。応えるように、胸元から家紋のメダルを取り出して見せる。
ソルの掲げたメダルを確認し、メダルを持っていた男は船から下りた。もう一人の男を小船に残したまま、男はソルの居る浜に向かって遠浅の海を波に押されながら歩いてくる。
金の髪に青い瞳の壮年のヴァロニア人だ。
ターバンを頭に巻き、砂除けを外さないソルに向かって言い放つ。
「いつもの仲介人はどうした?」
「熱病で死んだ」
「顔を見せるんだ」
そう言われて、ソルは指先で少しだけ砂除けをおろす。
「いや……、わかった、そのままでいい」
ソルの肌の色に気づいた男は、砂除けを外すことを止めさせた。
フロリス人は黒い肌の人間を見たことがない。こんなことがあるので、メンフィスの交易家たちは仲介人と呼ばれる金髪の白人奴隷を所有し、フロリスとの直取引には必ず彼らを使っていた。
しかし、ラシードが病床に倒れた時、ラシードは仲介人を含めた奴隷のほとんどを解放してしまった。今、ラシードの家に残っているのは、小麦色の肌のアーランと、ソルを合わせた三人の黒人奴隷だけだ。
「今回は、とても大切な御方からの依頼だ」
男は、荷物の中から丸めた書状を取り出し、ソルに手渡した。
書状を受け取ったソルは、その場でひもを解くと紙を広げた。書面には黒インクで書かれたヴァロニアの文字が並んでいる。
「今回は人探しの依頼だ。ファールーク皇国に逃げたヴァロニア人を探している」
ソルは広げた羊皮紙をにらんで目を細める。
「捜しているのは、そこに書かれてる罪人だ」
「ジュスト、ダーク……?」
書かれていた人物の名前をソルは口に出した。ラシードから受けた教育のおかげで、ヴァロニアの文字もひととおり読むことができる。
名前の下には、黒い髪、黒い瞳、十二歳と書いてあるのが読める。どこかで聞いた話だと思いながら、ソルはそのまま罪状に目をすべらせる。
さらに異国の文字を視線で追っていくと、文末に記された日付に目がとまった。
「一年以上前? フロリス人が砂の国で生きているとは限らねぇぜ。ファールークに逃げ込んだのが最近なのか?」
「その者が逃げ込んだのは、おそらく一年半ほど前だ。だが、今も生きている。見つけて引き渡して欲しい。もちろん身代金は払う準備がある」
――身代金?
生かして引き渡せということなのか。思わぬ言葉を耳にし、ソルは書状を裏返し封印の蝋を確認した。
「ランス……、これは……」