38-3
ハリーファは一人長椅子にすわり、ソルのことを思案していた。
ソルはオス・ローへ行くと約束して帰っていったが、本当に短剣を見つけてこれるのか半信半疑だ。
ソルと入れ替わるように、ジェードが【王の間】に戻ってきたのは、真昼を少し過ぎたころだった。
「ただいま」
そう言って戻ってくるなり、ジェードはテーブルの上を片づけ始めた。朝食の食器を盆にまとめ、テーブルの上に置いてあった布包みをそっと横にずらしながら、濡れ布巾で天板をていねいに拭く。
ジェードがハリーファのそばに来た時、かすかに潮の香りがした。後頭部でふわりとまとめられた髪は、先日贈った櫛でまとめられている。
ハリーファは、つい今ジェードがよけた布包みを取って手渡した。
「ジェード、お前が欲しがっていた鏡だ。部屋に持って行け」
(えっ? 鏡?)
驚いた表情と一緒に、心の声も聞こえてきた。
「あ、ありがとう。でも、どうしたの? 宮廷には鏡はないんじゃなかったの?」
ジェードは贈り物に対しての喜びよりも驚きの方が上回り、不思議そうな顔をしていた。
「この国の者は大半が鏡を厭うからな。絶対に部屋から持ち出すんじゃないぞ」
脅迫めいた言い方をされ、手に持たされている物が、とても悪い物のような気がしてくる。
「本当に……鏡を見ないの?」
「ああ」
先日の話をいまいち信用していなかったのか、ジェードは不可解な顔をする。
「信じられないわ。この国の人は皆そうなの?」
「ああ、モリス信仰者は、鏡を嫌うし、酒も飲まないし、《《黒ヤギを恐れない》》」
「……わ、わかったわ、そういうことね」
ばつの悪そうな顔のジェードを見て、ハリーファはくすっと笑った。
「でも、鏡がないと顔が見えなくて不便じゃない」
「何が不便なんだ。必要なら水瓶を覗けば良いだろ?」
それを聞いてジェードは合点がいったようだ。この熱い国では水瓶のない家はないだろう。
ジェードは片づける手を休めて、手渡された布を解いた。中には両手ほどの四角い鏡が包まれていた。濃茶色の木枠に薄く磨かれた金属板がはめ込まれている。裏に施された装飾はファールークのものともヴァロニアのものとも違った。赤い塗料で描かれた、太陽と十字を組み合わせたような模様にジェードはしばらく見入った。
(変わった模様ね……。これはどこのものなのかしら?)
ジェードは装飾の面を裏返し鏡面を覗いた。そこには一年以上見ていない自分の顔と、漆黒の瞳と髪が映る。鏡を見つめ、波打つ前髪をいじった。
(【黒】……)
ジェードの心のつぶやきが聞こえてくる。
「ねぇ、ハリ。水面で見るだけじゃ目や髪の色までわからないんじゃない?」
「他人の目が鏡になるって言っただろ? 前に言わなかったか? 姿見だ」
「姿見?」
鏡面を胸に押し当てて、ジェードは首をかしげた。
「そうだな。お前なら、髪は『月光を映した夜の海のうねり』、瞳は『星を湛えた小夜の空』……」
姿見を知らないジェードには、ハリーファの姿見がまるで口説き文句のように聞こえたようだ。ジェードの頬が少し赤く染まった。
「……俺は、姿見は巧くないんだ」
ハリーファは弱ったように頭をかいたが、ジェードは嬉しそうにほほ笑んだ。
「そんなことないわ! とても素敵よ。【黒】なんて言い方よりずっといいわ。もし字が書けたら、書きとめておいたわ」
改めてそう言うと、ジェードは少し恥ずかしそうにはにかんだ。
「ハリは鏡を見たことないんでしょ。ハリの髪は『頭を垂れる黄金の稲穂』、瞳の色は……そうね、『木漏れ日が映る泉』ね。どう?」
ハリーファはジェードらしい表現に思わず笑った。
「ああ、韻律も悪くない。姿見が初めてとは思えないな」
褒められたようで、ジェードもふふっと笑う。
ヴァロニアとファールークでは、情景が全く違う。木漏れ日や泉といった言葉は、ファールーク人の姿見にはほとんど使われることはないだろう。
「いや、でも。普通、姿見は男から女にするものなんだ。それと、木漏れ日も、泉も、ファールーク人には通じないぞ」
ハリーファに言われて、ジェードはハッとした。
「そうね。ナツメヤシじゃ、星みたいな木漏れ日は見られないわね。ナツメヤシから漏れるのは光の雨だもの」
「雨か……。俺でも、雨は見たことがない」
ファールーク皇国には木々が重なるほどの深い森などなければ、やはり雨が降ることもなかった。
ユースフが過去に何度かヴァロニアに行ったことがなければ、ジェードの姿見はハリーファにもさっぱり想像がつかなかった。
「雨を知らないの? もしかして、木漏れ日も見たことない?」
「俺は昔、ヴァロニアのラドム辺りまでは何度か行ったことがある」
「ラドム?」
「聖地から一番近い礼拝所の辺りだ。祈りの泉の近くの」
ジェードは地名を知らないようだ。
「聖地に行く途中、森の中の木漏れ日がとても美しかったわ。祈りの泉のことはちょっとわからないけど……」
先程のジェードの姿見に、ハリーファはまさしくその祈りの泉の情景を思い描いた。
泉を取り囲む木々が、虹彩の様に水面に映る様をユースフは目にしたことがあった。森の中にある『祈りの泉』に映るのは深い緑色だ。
ふと、ハリーファの心に引っかかるものが生じた。
「……俺の瞳の色は、『ホールの丸天井の色硝子の翠』じゃないのか?」
「ホールの色硝子?」
いいえ、とジェード首を振った。
「あの硝子窓も綺麗な黄緑色だけど、ハリの瞳はもっと深い翠よ。深い森の樹々の緑よ」
「森の中の樹々……?」
ハリーファは急に神妙な顔つきで押し黙った。その色の瞳を見た覚えがある。ユースフが二度見た、【悪魔】の瞳の色だ。
(わたしの姿見はやっぱりへただったのかしら?)
ジェードは心で少し残念そうにつぶやくと、鏡をハリーファに差し出した。
「せっかくだから、少しだけ、確かめてみたら?」
ジェードはハリーファにそっと鏡に手渡そうとさし出す。
「……やめろ! 神魔が映る!」
鏡を向けられたハリーファは、ジェードの手をはたくと顔をそむけた。鏡は勢いよく床に落ちてバシャーンと大きな音を立てた。
最近はハリーファの大きい声を聞くこともなかったので、ジェードはひどく驚いたようだった。
「ご、ごめんなさい」
「……」
尋常でないハリーファの表情を見て、ジェードは慌てて鏡を拾うと、自分の胸に押し当てた。
鏡を見たハリーファの表情は凍りついた。乱れる呼吸をジェードに悟られないように必死で隠す。
背筋に悪寒が走り、心臓は早鐘を突くように鳴り続けている。
鏡の中に見た自分の姿に血の気が引いた。
ジェードに見せられた鏡に映った自分の顔は、ジェードの言う通り、明るい金色の髪に樹々の深翠の瞳だった。
端正な顔立ちにはまだ少年らしさが残っていたが、鏡に映っていたのは神魔ではなく、【悪魔】の顔だった。