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天国の扉  作者: 藤井 紫
第四章 天使の子 悪魔の子
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38-3

 ハリーファは一人長椅子にすわり、ソルのことを思案していた。

 ソルはオス・ローへ行くと約束して帰っていったが、本当に短剣を見つけてこれるのか半信半疑だ。

 ソルと入れ替わるように、ジェードが【王の間】に戻ってきたのは、真昼を少し過ぎたころだった。

「ただいま」

 そう言って戻ってくるなり、ジェードはテーブルの上を片づけ始めた。朝食の食器を盆にまとめ、テーブルの上に置いてあった布包みをそっと横にずらしながら、濡れ布巾で天板をていねいに()く。 

 ジェードがハリーファのそばに来た時、かすかに潮の香りがした。後頭部でふわりとまとめられた髪は、先日贈った櫛でまとめられている。

 ハリーファは、つい今ジェードがよけた布包みを取って手渡した。

「ジェード、お前が欲しがっていた鏡だ。部屋に持って行け」

(えっ? 鏡?)

 驚いた表情と一緒に、心の声も聞こえてきた。

「あ、ありがとう。でも、どうしたの? 宮廷には鏡はないんじゃなかったの?」

 ジェードは贈り物に対しての喜びよりも驚きの方が上回り、不思議そうな顔をしていた。

「この国の者は大半が鏡を厭うからな。絶対に部屋から持ち出すんじゃないぞ」

 脅迫めいた言い方をされ、手に持たされている物が、とても悪い物のような気がしてくる。

「本当に……鏡を見ないの?」

「ああ」

 先日の話をいまいち信用していなかったのか、ジェードは不可解な顔をする。

「信じられないわ。この国の人は皆そうなの?」

「ああ、モリス信仰者は、鏡を嫌うし、酒も飲まないし、《《黒ヤギを恐れない》》」

「……わ、わかったわ、そういうことね」

 ばつの悪そうな顔のジェードを見て、ハリーファはくすっと笑った。

「でも、鏡がないと顔が見えなくて不便じゃない」

「何が不便なんだ。必要なら水瓶を覗けば良いだろ?」

 それを聞いてジェードは合点がいったようだ。この熱い国では水瓶のない家はないだろう。

 ジェードは片づける手を休めて、手渡された布を解いた。中には両手ほどの四角い鏡が包まれていた。濃茶色の木枠に薄く磨かれた金属板がはめ込まれている。裏に施された装飾はファールークのものともヴァロニアのものとも違った。赤い塗料で描かれた、太陽と十字を組み合わせたような模様にジェードはしばらく見入った。

(変わった模様ね……。これはどこのものなのかしら?)

 ジェードは装飾の面を裏返し鏡面を覗いた。そこには一年以上見ていない自分の顔と、漆黒の瞳と髪が映る。鏡を見つめ、波打つ前髪をいじった。

(【黒】……)

 ジェードの心のつぶやきが聞こえてくる。

「ねぇ、ハリ。水面で見るだけじゃ目や髪の色までわからないんじゃない?」

「他人の目が鏡になるって言っただろ? 前に言わなかったか? 姿見だ」

「姿見?」

 鏡面を胸に押し当てて、ジェードは首をかしげた。

「そうだな。お前なら、髪は『月光を映した夜の海のうねり』、瞳は『星を湛えた小夜の空』……」

 姿見を知らないジェードには、ハリーファの姿見がまるで口説き文句のように聞こえたようだ。ジェードの頬が少し赤く染まった。

「……俺は、姿見は巧くないんだ」

 ハリーファは弱ったように頭をかいたが、ジェードは嬉しそうにほほ笑んだ。

「そんなことないわ! とても素敵よ。【黒】なんて言い方よりずっといいわ。もし字が書けたら、書きとめておいたわ」

 改めてそう言うと、ジェードは少し恥ずかしそうにはにかんだ。

「ハリは鏡を見たことないんでしょ。ハリの髪は『頭を垂れる黄金の稲穂』、瞳の色は……そうね、『木漏れ日が映る泉』ね。どう?」

 ハリーファはジェードらしい表現に思わず笑った。

「ああ、韻律も悪くない。姿見が初めてとは思えないな」

 褒められたようで、ジェードもふふっと笑う。

 ヴァロニアとファールークでは、情景が全く違う。木漏れ日や泉といった言葉は、ファールーク人の姿見にはほとんど使われることはないだろう。

「いや、でも。普通、姿見は男から女にするものなんだ。それと、木漏れ日も、泉も、ファールーク人には通じないぞ」

 ハリーファに言われて、ジェードはハッとした。

「そうね。ナツメヤシじゃ、星みたいな木漏れ日は見られないわね。ナツメヤシから漏れるのは光の雨だもの」

「雨か……。俺でも、雨は見たことがない」

 ファールーク皇国には木々が重なるほどの深い森などなければ、やはり雨が降ることもなかった。

 ユースフが過去に何度かヴァロニアに行ったことがなければ、ジェードの姿見はハリーファにもさっぱり想像がつかなかった。

「雨を知らないの? もしかして、木漏れ日も見たことない?」

「俺は昔、ヴァロニアのラドム辺りまでは何度か行ったことがある」

「ラドム?」

「聖地から一番近い礼拝所の辺りだ。祈りの泉の近くの」

 ジェードは地名を知らないようだ。

「聖地に行く途中、森の中の木漏れ日がとても美しかったわ。祈りの泉のことはちょっとわからないけど……」

 先程のジェードの姿見に、ハリーファはまさしくその祈りの泉の情景を思い描いた。

 泉を取り囲む木々が、虹彩の様に水面に映る様をユースフは目にしたことがあった。森の中にある『祈りの泉』に映るのは深い緑色だ。

 ふと、ハリーファの心に引っかかるものが生じた。

「……俺の瞳の色は、『ホールの丸天井の色硝子の翠』じゃないのか?」

「ホールの色硝子?」

 いいえ、とジェード首を振った。

「あの硝子窓も綺麗な黄緑色だけど、ハリの瞳はもっと深い翠よ。深い森の樹々の緑よ」

「森の中の樹々……?」

 ハリーファは急に神妙な顔つきで押し黙った。その色の瞳を見た覚えがある。ユースフが二度見た、【悪魔】の瞳の色だ。

(わたしの姿見はやっぱりへただったのかしら?)

 ジェードは心で少し残念そうにつぶやくと、鏡をハリーファに差し出した。

「せっかくだから、少しだけ、確かめてみたら?」

 ジェードはハリーファにそっと鏡に手渡そうとさし出す。

「……やめろ! 神魔(ジン)が映る!」

 鏡を向けられたハリーファは、ジェードの手をはたくと顔をそむけた。鏡は勢いよく床に落ちてバシャーンと大きな音を立てた。

 最近はハリーファの大きい声を聞くこともなかったので、ジェードはひどく驚いたようだった。

「ご、ごめんなさい」

「……」

 尋常でないハリーファの表情を見て、ジェードは慌てて鏡を拾うと、自分の胸に押し当てた。


 鏡を見たハリーファの表情は凍りついた。乱れる呼吸をジェードに悟られないように必死で隠す。

 背筋に悪寒が走り、心臓は早鐘を突くように鳴り続けている。

 鏡の中に見た自分の姿に血の気が引いた。


 ジェードに見せられた鏡に映った自分の顔は、ジェードの言う通り、明るい金色の髪に樹々の深翠の瞳だった。

 端正な顔立ちにはまだ少年らしさが残っていたが、鏡に映っていたのは神魔(ジン)ではなく、【悪魔】(ラース)の顔だった。


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