38.水鏡
初夏の陽射しは日ごときつくなり、庭園のナツメヤシはくっきりと影を落とす。
本宮裏の石畳の小道を、長靴の靴音がカツカツと響いていた。
全身黒い衣服に身を包んだソルは、ハリーファの住む離れへと向かっていた。
表の回廊を通っても良いが、第四夫人が療養している離宮から赤煉瓦の離れまでは、奴隷たちだけが使う裏の通路を通る方が近いのを知っている。
しばらく歩くと、石畳は途中で途切れた。今度は砂をザッザッとけりながら歩み続ける。しばらくすると、鉄柵に囲われた朱鷺色の建物が見えてきた。
ちょうどその時、入り口から黒髪の女奴隷が出てくるのが見えた。布の入ったカゴを両手で抱えている。奴隷の少女はソルには気づかず、反対の方向へ向かっていった。柔らかそうな少女の黒髪は、ふわりとまとめられている。
年頃の女が布を巻かずに髪を晒しているのは珍しい光景だ。ソルがその後ろ姿を眺めていると、黒い髪に留められた銀色の櫛が目にとまった。
ソルは思わず言葉をもらした。
「あれは……」
ハリーファに頼まれて、メンフィスの職人に作らせた異国風の櫛だ。自分が作らせたのだから、見間違うはずがない。
(なんだ、ハリーファのやつ。奴隷もいないのかと思ってたけど、ちがったか……)
一見奴隷のような服装をし、隠れた離れに住まわされた異例の第二皇子は冷遇されているのだと思っていたので、女奴隷がいたのは意外だった。
女奴隷の後ろ姿を見送ると、ソルはハリーファの元へと足を速めた。
ソルが【王の間】に来たのは、今日が三度目だ。海側の城壁で初めて会った日から七日毎、第四夫人を見舞った後にハリーファのもとにやってくる。
「鏡だ。確認してくれ」
と、ソルは先週頼まれた品をハリーファに直接手渡した。そして、長椅子に腰を下ろす。
ハリーファは、受け取った布包みをそっと開いて中の鏡を確認すると、すぐさま元のように包んだ。
「よく鏡を見つけられたな」
ハリーファは感嘆の声をあげた。ソルは依頼主の反応に、満足そうにうなずいた。
「オレに頼んで手に入らないものはないぜ。オレ以外はな」
最後にわざわざ付け足して言うのは、この美しい黒人少年を、奴隷として買い取りたいという者少なくないのだろう。
「前に、阿片は手に入らないと言ってなかったか?」
ハリーファが揚げ足を取るように言うと、
「手に入らない、なんて一言も言ってないぜ。それに、もう良い伝手もあるしな」
そう言いながら、ハリーファに笑いかけてくる。なるほど、良い伝手とは自分のことを言われているのかと気づき、ハリーファは腕を組んだ。
「あんたはお得意様だ。ハリーファ皇子。仕事があるなら何でも聞くぜ?」
ハリーファを上目に見やって、ソルはにやりと笑った。
実際、ファールーク皇国内で鏡を探すのは至難の業だっただろう。ハリーファも急な二度目の依頼は無理かもしれないし、できたとしても時間がかかるのではと思っていた。ソルが思いのほかよく動いてくれるのが頼もしく思えてくる。
大半がモリス信仰のファールーク皇国では、忌まれる鏡は手に入らないはずだ。それをソルは七日の間に成しとげた。七日の間に国外まで行って手に入れたのだろうか。
「この鏡は、東大陸のものなのか?」
「いや。東大陸には入れねぇ」
「なら、この鏡は何処で手に入れたんだ?」
「南だよ」
南とは、南方の国、アルザグエのことだ。アルザグエの民はみな肌が黒く、そのほとんどが遊牧民だ。部族ごとに国内を移動し、勢力圏を争って抗争が絶えないと聞く。
王宮に訪れる南方からの行商隊は、アルザグエと商取引をしているだけのファールーク人なのである。その古老に聞いた話では、行商隊でさえも仲介人を通してしか彼らとは取引が出来ないようだ。
ハリーファ自身、ユースフの記憶に頼っても、アルザグエの部族や信仰について明るくない。
「アルザグエの信仰は何なんだ? 鏡を厭わないのか?」
「いや、あそこも今は大抵の部族はモリス信仰だ。少数だけど、ハナス信仰の部族がいる。ハナス信仰は祈祷に鏡を使うんだ。その鏡はフドゥル族の工藝品だ」
「フドゥル族……」
今までに聞いたこともない部族の名前を耳にして、ハリーファの食指が動いた。
「お前はアルザグエのことに詳しいのか?」
「まあ、一応オレはアルザグエの生まれだからな」
「アルザグエ生まれなのか。お前はどこの部族の生まれだ?」
ハリーファに素性を聞かれ、ソルは眉をひそめた。
「あそこにオレの部族はねぇよ。オレはアスワドとズルクの混血だ」
「混血?」
「オレの生まれる前に、一度紛争が治まったことがあったらしいんだけどな、」
ソルはそこで語るのをやめたが、ハリーファにはソルの言いたいことが想像できた。
紛争が収まったと言う時期に、どういう経緯があったかはわからないが、異部族間の混血児としてソルは生まれたのだろう。しかし、アルザグエの現状から、混血児のソルの存在はどちらの部族にとっても疎ましいものでしかないのだろう。
「それで、お前はファールークに来たのか」
「まぁ、そういうことだ」
ソルの出生を聞いて、ハリーファはユースフの記憶の中で一番思い出したくなかったことを思い出さずにいられなかった。