23話 魔女部屋脱出
(う〜ん、どうして予定通りに行かないのか)
ブクブクと、あるいはボワボワと水のくぐもる音が聞こえる。
まるで海の中にでも沈んでいるようだ。
どこまでも自分の体が深く落ちていく感覚がある。
眼下には光が溢れ、逆に頭上にはどこまでも深い闇が広がっている。
自分は今、その闇に引きずり込まれている。
このまま下降していけば、水圧に肺が破裂する。
やがてこの水音も聞こえなくなり、どちらが上か下か。光か闇かもわからなくなるだろう。
このまま流れに身を任せ沈み込んでしまいたい気持ちと、足掻いてでも光のある方へと手を伸ばしたい気持ちが同居する。
どうすればいいのか、どうするのが正しいのかもわからない。
ただ、どちらかを選ばなくてはならないと。それだけはわかる。
それも、できる限り早く…………。
「────あらぁ、よぉやくお目覚めぇ?かわぁいいお人形さん?」
また、いつの間にか意識を失っていた。
その事実に気がつけば、ガンガンと真っ白な思考に痛みが走る。
周囲を見渡せば、俺はまた部屋の中央に立たされていた。
ファンシーな部屋は、その色合いからもまだ幼い少女を想起させる。
今もにこやかに俺を眺め微笑む彼女が、この部屋の主であることに半分以上は納得できる。しかし…………。
「あなたぁ、ほ〜んとぅにだぁいじに育てられてきたのねぇ♡」
ぷっくらと赤く腫れ上がるその唇が弧を描く様は、どうしてもこの部屋の主にしては浮いていた。
その身に妖艶な空気を纏うことも、この部屋に漂う雰囲気とは明らかに異なっている。
眼の前にいるこの女を『魔女』と評するなら、この部屋のすべてが幼稚に見えてくる。
「……………………わたしも、だぁいじにされてきたのよ。今のあなたの様に」
「………………?」
俺の肩にしなだれ掛かるようにその女は俺の腕に自身のそれを絡め、首筋に頭を乗せてくる。甘く香る香水が静かに鼻を刺激してくる。
「誰だって、そうなのよ。わたしもそう。あなたもそう」
まるで、これまでの態度が全て嘘であったかのように、女は静かな声でそう言った。
このときの彼女の表情は、角度的に見ることは叶わなかったが。
「………………だから、今度はわたしが、あなたで遊んであげるぅ♡♡」
「っ……………………?!」
突然、彼女のそれまで纏う空気が変貌し、一気な艶やかなそれを醸し出した。
先程までは本当にただの少女と言えるほど大人しかったはずが、それを一気に塗り替えられる。
「だあいじょうぶよぉ〜?わたし、お気に入りのお人形はだあいじにする主義なのぉ♡」
いつの間にか、それまでは気にならなかったその艶めいた豊満な肉付きが見え隠れする。
彼女が女性であると、そう強く感じさせられる。
視覚と嗅覚が同時に刺激され、また思考が歪む。
まるで耳を犯すようにその声もまた色気を含んでいるもんだから、完全に錯覚を起こす。
「わたしのお人形になぁってくれれば、ずぅっとずぅっ〜とあなたをたぁいせつにしてあげる♡おかしくなって、壊れちゃうぐらいだあいじにしてあげる♡もし壊れても何度だって直してあげる♡痛みも寂しさもなくしてあげる、絶対に感じさせない♡♡」
ねぇ、だからわたしのお人形になりましょう??
全身が侵されるように錯覚する。
五感の全てで誘惑されていると自覚する。
「………………っ。どうしてっ、そこまでして俺を誘い込むっ?」
不思議でたまらない。
何故そこまで俺を欲しがる?
この女は他にもそれを持っているはずだ。
別に、俺を欲しがる理由も、気に入る理由もない。
まるで必死に、俺をこの場に繋ぎ止めようとしているようだ。
………………いや、どうして俺の目には彼女が必死に見えるんだ?
彼女はただ、自身の欲望のままに俺を誘い込んでいるだけだ。
別に、そこに焦りも思い入れもない。
「あなたが、かわいそぅ……………………からよ」
「…………?」
「……いそう。かわ……う。…………────可哀想なっこの世の“玩具”だからっ♡♡」
一瞬の陰りを見せた彼女が次にその顔を上げれば、そこには上気した恍惚さを感じさせる表情があるだけだった。
興奮し、どこまでも夢を抱いているような、狂ったように歪んだその表情は、不気味とも表現しづらかった。
「あなたが欲しいっ。わたしもあなたで遊びたぁいっ♡」
艶やかさとは一変して、今はただ一人発情したような顔を浮かべるただの狂った女だった。
妖艶さは胡散し、ただ気持ち悪い。
怖気が走るような感覚が背筋を撫で、冷や汗を流す。
「このままじゃぁあなたは壊れちゃう♡誰が遊んであげたわけでもなく、一人で壊れちゃう。壊れちゃうっ壊れちゃう♡穢れちゃう汚れちゃうっ♡♡……ぁあぁ〜あわたしもあなたで遊びたぁいっっ♡♡♡♡」
唇が歪み、まるで壊れたように引き攣る。
弧を描いているはずのそれは、歪みそのまま裂けてしまいそうだった。
『魔女』と、そう強く実感した。
急いでこの場を離れなくては。彼女から逃げなくてはっ。
焦り、戸惑いながらも俺はそれまでなかったはずの背後の扉に手をかけた。
無意識ではあったものの、少し力を加えただけで扉が揺れ、奥へと開く。
爛々と輝く地獄色に染まる魔女の視線から逃れるために、俺は迷うことなくその扉の先に押し入った。
「────……バァイバイ、二度とわたしのお部屋に勝手に来ないでねぇお人形さぁん♡」
何故かこれまでで一番明るく、幼さを残した少女の声がこのとき初めて聞こえた気がした。
その時にはすでに、俺は先の見えない暗闇に見を投じていた。
あまりにアッサリとした彼女との別れが、一体何を意味していたのかもわからないまま。




