19話 魔女の慰み
(ホントは2話分だったけどくっつけた)
「おはぁよぉ〜♡急ぅに気を失っちゃってぇ、驚いたぁけどぉ、だぁ~いじょおぶ?」
気がつけば俺はどこかの寝台に横たわっていて、瞼を開いた瞬間に視界いっぱいに広がる花の群れに慌てて仰け反った。
「ンフフ♡あーんまりにもあなたがのぉんびり眠ぅっているかぁら。イタズラしたぁの♡」
良い夢は見ぃれたぁー?と鼻孔を擽る甘い匂いと共に尋ねられれば、俺は眩む思考を振り払うために慌てて頭を振るう。
そんな俺の様子を見ても、相手は驚くこともなくまるで自愛の女神のように微笑みを向けてくる。
「…………ぁあ〜♡こんっなぁにもかわぁいいお人形さん。初めて見たぁわぁ〜♡♡」
しかし、ぷっくりと膨らむ唇から紡がれるのは想像を絶する蠱惑的発言だった。
おかしいほどに、この女の声を耳にするたび胸が熱く打ち、背筋が凍る。
毒々しいその髪色も、真っ赤に映えるその唇も。すべてを視界に収めていないと落ち着けなくなる。
髪色と同じく妖しい色に輝くその瞳も、そのすぐ下にまるでその容姿の美をそれ以上に映えさせるためだけに添えられた黒子も。
目を逸らせない。反らしてはいけないと脳が信号を送る。
彼女の全てに惹きつけられ、しかしこれ以上に近づきたくないと心から思う。
まるで本能から拒絶と懐柔を繰り返すような。赤や青の信号が互いに点滅しあい、領土を競うような。
危うさを示す危険視号が強く、しかし引き返すのは許さないと同時に強く訴えてくる。
「…………あ〜ぁあ♡わたしの、お人形にしたぁいなぁ〜♡♡」
…………………………っ!
「欲しぃなぁ〜欲しいなぁ〜♡……いぃなぁ〜♡♡?」
まるで疼くように体全体で身動ぎ、上目遣いだった視線が自然とコチラを見下げるように少しずつそれを歪ませる。
恍惚。そんな言葉が当てはまるように上気したその頬は、どうしようもないほどに赤く染まっていた。
欲しいな、と。魔女がそう繰り返すたびに俺の背中には怖気が走る。なのにまるで女の身に纏う妖艶な空気にあてられたかのように、俺の体温は凍りつくこともなく、却って高まる一方だった。
マズい。
嫌でもそれがわかる。
早くこの場から逃げたい。
嫌でも強くそう思う。
眼の前の女から。この空気から。この部屋から。この場所から。
「こーんなに可愛ぁくて面白い玩具、きっとそぅ簡単には見つけられないわぁ♡」
魔女の言葉に、吐き気よりも先に頭痛が走る。凍りついた体は硬直したまま、逃げ出すこともできない。
いっそ、気を失うほうが早いとさえ思える。
「ねぇ〜え?」
ついに女のしなやかな手が俺の肩から腕にかけて触れ、撫で下ろしてくる。
「あなた、わたしのお人形になりましょぅよ?」
まるで囁くように、耳元で吐かれた言葉に俺は目を見開いたまま固まる。
「もぅ、それしかないじゃなぁい?だぁって、もったいないものぉ」
「…………………………っ」
「わたしはあなたをわたしのものにしたい。だぁいじょうぶよぉ?わたし、自分のものはちゃあんとだ〜いじにするものぉ」
俺の肩に寄り掛かり、恍惚した表情で女は更に俺に誘いをかけてくる。
「わたしのお人形になったらぁたぁいせつに遊んであげる♡」
「壊してほしくないなぁら壊れないように愛でてあげる♡」
「もぉし壊れちゃあっても、痛みを感じる前に直してあげる♡」
「ずぅっとずぅっと、たぁいせつにだぁいじにしてあげる♡」
ねぇ、わたしのお人形になってくれたら
グゥッズグズに溶かしてドォッロドロに甘やかして
グッチャグチャになるまで遊んであげる♡
わたしのお人形にならなぁい?
これ以上ないほどのとてつもなく甘い囁きが耳から脳を侵し、体中の神経を麻痺させてくる。
血管を巡る血液がまるでカラメルソースのように甘ったるくて重くなる。
呼吸がままならなくて、一種の酸欠状態にまで陥るのを自覚する。
すると、俺の様子をただ憧憬の念を抱くように見つめていた女が「焦らなくていいの」と優しく語りかけてくる。
「今すぐの答えは求めてなぁいわぁ。……いつか、あなたがわたしのものになってもいいってぇ、そう思えたときに教えてくれたらぁいぃのよぉ♡」
その言葉を聞いた瞬間、それまで狭まっていた視界が急に開けるように感じた。
その瞬間だけは、彼女の浮かべる微笑みが本当に慈愛の女神そのものに思えた。
毒々しいその至極色の髪も、ぷっくら腫れた赤い唇も。今このときだけはその全てに愛しささえ感じた。
「かぁわいいかわいいこの世の“玩具”っ〜♡」
「っ………………?!」
そうして魔女が続けた言葉に、俺はようやく現状の自分の立場を思い出した。
魔女が俺の頬に手を寄せ、スリ付くように衣類越しにその肌を密着させてくる。
胸焼けを起こしそうなほど甘ったるい匂いをどうにかこれ以上吸い込まないように顔を背けながら、ふと俺は改めて疑問を起こす。
あの少女たちは、どこに消えた?
そして俺は今この場で、あえてその疑問を音にした。
「あの女の子たちは、どこに行ったっ……?」
一時凌ぎのため、噎せ返る魔女の芳香から少しでも逃げる隙を窺うために。
すると、目の前の魔女はたった一度、呆気にとられたような表情を見せた。見間違いかと思えるほど一瞬の出来事に俺が反応できずにいれば、魔女は次の瞬間にはニッコリと先程まで見せていたものと同じ顔をした。
「あぁ〜、あの子達?知らないわぁ♡勝手に自分の好きなところに行ったのでしょう?」
まるでそこに少女たちの意志があるかのように答える女に、俺は皮肉にも鼻で笑いたくなった。
「勝手にって、お前がそうしたんだろ?」
顔を向けず、吐き捨てるように俺がそう言えば身勝手な魔女はクスクスと一人笑い始めた。
…………何がおかしい?
「やぁ〜だ、確かにお茶会に招いたのはわたしよぉ?……でも、“帰る”と決めたのはあの子達よ」
俺は眼の前の魔女が、何を言っているのか理解できなかった。
『異端者に個人の人格はない』
コレは、この世界での常識だ。変わらない事実だ。
なぜあの少女たちに、それぞれの“意志”があるかのようにこの女は語れる?!
「だぁってそうでしょぉ〜う?あの子達は自分で帰ると決めたのよぉ?わたしがあの子達を招きたいと思ったよぅに、あのお人形たちだって自分のお部屋に
帰りたいって思うものぉ〜♡」
だあってと、そう続けた魔女の言葉に俺は完全に息が止まった。
「あのお人形さんたちだぁって、わたしたちとお〜んなじだもの♡」
その言葉の意味に、嫌でも気付かされる。
この女の望み通りであったはずのあの茶会が、それだけじゃない事実を含んでいたということを。
ここは『天国』。誰でも何でも、思い通りになる世界。
俺の知らない、未知の世界。
彼女のその言葉がどんな意味を持つか、俺は理解してしまった。
あの少女たちが、俺たちと“同じ”ということはつまり。
…………俺たちと同じ、この世界を謳歌する立場。
この世の住人、ということだ。
住人同士の交流があることにも驚いたが、何よりの衝撃はあの茶会が今目の前にいる女の理想図そのものではなかったという事実だ。
あの茶会での雰囲気というか空気というか。その全てが魔女自身の望む思い通り展開された状況なのだと思っていたのがひっくり返された。
俺が戸惑うのも当然だと言い切れる。
「…………だあ〜かぁらあ〜」
思考に意識を割く間に目の前の魔女はまたもや俺にしなだれかかる。両腕を俺の肩から後ろに回し、鼻と鼻がくっつきそうになるほど距離が縮まる。
そこに爛々と輝く瞳が俺の両目を見つめ、狂気に歪んでいる。
次にこの女がなんと口を開くのか、最悪にも俺は予想がついてしまった。
「あなたも、あの子達たちの仲間にしてあげる♡♡」
「………………っ」
「だあいじょ〜うぶ♡たとえ壊れちゃあってもたぁいせつにあそんであげる。どぉんなに姿形が変わったぁって、だぁいすきにはかわりなぁいものぉ〜♡」
あと何度、俺はこの言葉を聞かされ続ける。
頭が回らなくなって、体が甘ったるい何かに巻き付かれ怠くて仕方ない。
頭の重みで、今にも頷いてしまいそうだ。
考えるのも面倒で、促されるまま今も密着するその肌に吸い付いてしまいそうだ。
…………………………なんだか、眠い……な。
目を開いているのが辛い。今にも思考を放棄して、安らかな眠りにつきたい。
このまま目を閉じれば、永遠に微睡んでしまいそうだ。起きる気力が湧く気がしない。
もういっそ、眠ってしまいたい。
そうすれば、この女の相手などしなくて済むし、考える必要もない。
魔女の言葉に頷かなくて済むし、その声も聞かずに済む。
…………そうだ。何も躊躇うことは……ない。
今にも尽きてしまいそうな思考のまま、俺はその瞼を閉じる。
何もおかしな選択ではないし、間違ってはいない。
眠ったまま、起きなければ魔女の問いかけに応える必要はなくなるのだ。
そう考えて、俺は思考を放棄した。
微睡みの中で、自分は正しいのだと確かな確信を持ちながら。
そして…………………………。
「…………っ勝手なことをされては困ります」
僅かな焦りを含むその声が、かすかに聞こえた。