17話 蠱惑的魔女の部屋
少し前回より文字量は減りましたが多分密度は増えてる。展開が急すぎて主人公が不憫、注意。
まるで深海の底にまで落ちきっていた思考は、どこかの波に揺られるように少しずつ浮上していく。
その際に、水の中のようにくぐもった音ばかりの世界で一つの声が脳に響いた。
「────あらあらぁ、とぉっつぜんのお客様ねぇ」
そのまるで大衆を操るような魅惑的な艶を含んだ声色が、耳から脳を侵し深く眠り込んでいた意識をゆっくりと目覚めへと導いていく。
「────あらぁ? お寝覚めねぇ、お客様ぁ?」
そして、それまで失っていたように思われていた五感を微かにも取り戻しながら、どうにかその声に誘われるままに俺は少しずつ重い瞼を持ち上げる。
すると、その今開かれた目線の先には一人の女性がいた。
「困っちゃうわぁ〜、可愛いらしぃお客さぁん? わたしのお庭に、何かご用ぅ?」
特徴的な語尾を撓らせて、女はそう静かに問いかけてくる。
だが、未だに意識が完全に起き上がらず、思考がグラグラと揺れる俺は、まともに返事ができる状態でもなかった。
彼女の声が少しずつこの身体を侵し、その言葉が脳をグズグズに引きずり出そうとする。
プックリとしたその唇に、無意識にも視線を引きつけられる。
しかし、次にその唇が紡ぐ言葉で俺の意識は完全な覚醒へと導かれた。
「────ぁあ〜、もぉしかしてぇ、新しぃお人形さぁん?」
「………………こ、こは? ……あんた、は、誰だ……?」
完全に目覚めた意識が自身を取り巻く環境を急速に処理しようと分析を始める。
そうして分かるのは、ここはどこかの室内で、窓からは明るい陽光が差し込み、部屋の中はなんともファンシーで清潔な空気が漂っていることだった。
いや、その中にもどこか甘ったるいお菓子のような匂いが混じっているのも感じる。
まるで脳を侵そうとするよう視界や嗅覚からその甘さを嫌にでも認識させられる。
改めて意識すれば、この部屋にはピンクやパープルといった甘やかな色合いしか見られない。
「おはよぅ〜、お客さぁん? 気分はどぉうー?」
布地の多いドレスを身にまとった眼前の女は、妖艶な微笑みを携えてこちらに問いかけてくる。
そして、俺は今にもその色香に虜にされそうだった。
「かわぁいぃかわぁいぃ坊やぁ?」
まるで、お気に入りの人形を眺めるような仕草で彼女はそう言った。
独特なその話し方からも、彼女が普通の人間ではないということがすぐにも感じ取れる。
だというのに、今にでも魅了されそうになる自分の神経を嫌に感じて俺は慌てて頭を振る。
俺はどこか焦りをもって、改めて周囲を見渡した。
しかし、どこにも出口といったものはなく、それこそ可愛らしい人形が並べられた棚しか目につかない。
この場所から、目の前の女から逃げられる道がない。
「あなたぁ、どぉしてわたしのお庭に来たのぉ?」
「……どうしてって」
気がついたらいた、と素直に言うことは憚れる。
少なくともそう思わせるだけの雰囲気を相手から感じた。
「ンフフ、かわぁいぃ子。あなたみたいな子ぉ初めてだわぁ」
「………………っ?」
「ねぇーえ、あなたぁ」
そこで、彼女は突然俺に近付いてきて、まるで内緒話をするように耳打ちしてきた。
その間合いに入られてもなお、俺は一切の抵抗も身動きも取れなかった。
けれども彼女の言葉で警戒はほんの一瞬だけ薄れる。
「わたしの、お人形にならなぁい?」
「は……ぁ?」
クスクスと笑う彼女の様はまさに妖艶で、蠱惑的だった。部屋の甘い空気も含めてまるで自分が酒にでも酔っているような感覚が生じる。
いや、事実視界が靄がかっているのを感じる。
ハッキリと意識を保っているはずなのに、どこか夢の中のような曖昧な感覚が身を纏う。
「わたしぃ、お人形がだぁいすきなの♡ だから、あなたがわたしのお人形になってくれるのならぁ、」
そこで、彼女は一度言葉を区切るとまるで蕩けるように、慈しむように、愛しむようにこれまた艶のある笑みを携えて言った。
「グゥズグズに溶かしてぇ、ドォロドロに甘やかしてぇ、グゥチャグチャになるまでぇ、遊んであげる♡」
「……っ!!?」
そんな狂気じみたことを言う彼女の目は、どこまでも狂うように輝いていた。
そのことに気がついた俺は、とんでもない場所に迷い込んだのだと、この時初めてはっきりした思考で考えに及んだ。
けれども、たとえ俺がそう確信したところで新たな場面が展開するわけでも、問題が解決するわけでも決してない。
「────よぅこそ、かわぁいぃお客さぁん。わたしのお庭へ。あなたを歓迎するわぁ♡」
楽しそうに、けれどどこか狂乱じみて微笑む彼女は、まるで無邪気な幼い少女のようで、且つ妖しげに大人びた色香を纏っていた。
ここは『天国』で、彼女はこの世界の住人なのだと、説明される間もなく俺は理解した。
この世界にまともな人間はいない。
その可能性にすら、辿り着いてしまいそうになるほど。
「わたしと一緒に、たぁくさん遊びましょうねぇ♡」
日を浴びれば赤毛に輝くであろうその髪は、この室内では毒々しい至極色に染まっている。
虎視眈々と輝くその瞳もまた、それと同じどこまでも深い狂気の色で、それがまっすぐこちらを見つめてくることに俺は酷く心を揺さぶられる。
魅惑、蠱惑。
その両方を身に纏う彼女は『魔女』と形容されたって納得できるだろう。
少なくとも、そう感じさせる雰囲気を身に纏っているのだから。
人を魅了する魔女には涙ボクロがあると、偏見の塊のような説を皮肉にも俺は今、思い出した。