その愛、お断りします。
愛する人と結婚して一年、幸せな毎日を送っていた。それが、一瞬で消え去った……
「どなたですか……?」
リビングで、見知らぬ女性と五歳位の男の子が、まるで自分の邸のように寛いでいた。
来客があるとは聞いていないのに、使用人は当たり前のように通したようだ。この状況が一体なんなのか分からないまま、親子であろう二人を呆然と見つめる。
「ああ、奥様ですか? あまりにみすぼらしいので、使用人かと思いました」
女性はソファーから立ち上がることもなくそう言うと、足を組みながらお茶を飲んだ。
初対面なのに、あまりにも無礼な態度や言葉。いったい彼女が誰なのか、全く分からない。
「ライラ、もう来ていたのか。約束は、午後からだったはずだが?」
ライラと呼ばれた女性は、嬉しそうに微笑んだ。
この人が私の旦那様、クリス・ダーウィン様。彼は五年前に、二十歳で侯爵になった。彼と知り合ったのは二年前の夜会だった。クリス様のことは、前から知ってはいたけれど、話したことはなかった。というのも、彼はいつも令嬢達に囲まれていて、話す機会がなかったからだ。
吸い込まれそうな青い瞳に、輝く金色の髪。まつ毛が長く、透き通るような白い肌で美しい容姿のクリス様を、令嬢達は放っておかなかった。もちろん、彼の魅力は容姿だけではない。私は、彼の優しさに惹かれた。
夜会が行われている会場で、挨拶回りに少し疲れてしまった私は、バルコニーのベンチに座り、休んでいた。
その時、面識のない男性にしつこく声をかけられた。
「彼女が困っているのが分からないのか?」
何度断っても諦めない男性にウンザリしていた時、クリス様が助けてくださった。
しつこく声をかけてきていた男性は、伯爵令息だと自分で言っていた。侯爵であるクリス様に逆らえるはずもなく……
「も、申し訳ありませんでした!」
そう言いながら、そそくさと逃げていった。
「ありがとうございました」
お礼を言うと、優しく微笑んでくれた。その時私は、クリス様に恋をした。
彼はそのまま、会場へと戻って行った。わざわざ私のことを助ける為に、バルコニーまで出て来てくれた。それが嬉しくて、彼の姿を目で追っていた。
次に会ったのは、その一ヶ月後のお茶会だった。クリス様は、いつものように令嬢達に囲まれていた。私には、その中に入って行く勇気なんてなかったけれど、姿を見ているだけで幸せな気持ちになった。そう思っていたのだけれど、彼の方から話しかけてくれた。
「また会えて、嬉しいです」
甘く優しい声で、目を細めながら微笑むクリス様。彼の周りに居た令嬢達の視線が痛いけれど、気にならないほど嬉しかった。
「この前は、ありがとうございました。覚えていてくださったのですね」
嬉しさからか、自然に笑顔になっていた。
「当たり前です、セシル嬢。何度かお見かけしていたのですが、話しかける勇気がありませんでした。情けない男ですよね」
周りの話し声が何も耳に入ってこない。まるで、ここに居るのは私達二人だけのような……そんな感覚。
名前まで知っていてくれたことに驚いた。彼の真っ直ぐな眼差しに見つめられて、ふわふわしてくる。
「情けなくなんてありません。あの時、クリス様が助けて下さらなかったらと思うと……」
あの男性は、お酒に薬を入れて女性を連れ帰るという噂を先日聞いた。あのまま、付きまとわれていたらと思うと恐ろしい。
「そんな顔をしないでください。あなたのことは、私が必ず守ります。だから、安心してください」
私の顔が曇ったことに気付き、一番欲しい言葉をくれた。
彼を愛するようになるまで、時間はかからなかった。クリス様は、ストレートに想いを伝えてくれる。それが照れくさくもあり、愛されているのだと実感が出来た。
そして私達は、結婚した。
結婚してからも、彼は優しくて私を想ってくれていた。子供はまだ出来てはいないけれど、焦りはなかった。それほど彼の愛を、信じることが出来ていたからだ。
それが今、何もかもが夢だったのではないかと思えていた。
女性と男の子を見た瞬間、本当は心のどこかで気付いていた。それを認めたくなかった。頭の中で、サイレンが鳴っている……今すぐ、ここから去れと。
話を聞かなければ、何も知らなければ、私は彼を愛し続けられる。だけど、足が動かない……
「クリス様に少しでも早くお会いしたくて……。カミルも、この日をずっと心待ちにしていました」
私への態度とは全く違っていていた。先程の女性とは別人のように思える。女性はソファーから立ち上がると、少し顔を赤らめながら、男の子と一緒にクリス様の元に駆け寄った。
「そうか! カミル、お前と暮らせる日を、私も心待ちにしていたんだ」
クリス様は嬉しそうに、男の子を抱き上げた。
私に気付いていないはずはないのに、まるで私は居ないみたいに振る舞うクリス様。
楽しそうに笑い合う三人を見ながら、私は呆然と立っていた。話しかけるのが、怖かった。私の想像が、外れて欲しいと願いながら、ただ見ていることしか出来なかった。
「セシル、紹介するよ。私の子のカミルと、愛人のライラだ。二人は、今日から離れに住むことになった」
胸が抉られているみたいに、酷く痛む。呼吸をするのも苦しい。突きつけられた現実に、あまりのショックで三人に視線を向けることすら出来ない。
どうして……?
そう聞いたら、彼はなんて答えるのだろうか。
愛されていると思っていたのに、全てが幻想だった。彼には、五年も前から付き合っていた人が居て、子供までいたのだから。そのことを今まで隠して来たのに、なぜ今になって……?
これは裏切り? 先に付き合い子供まで産んだのはライラさんの方だ。私の方が、邪魔者。二人が居るのに、なぜ私と結婚をしたの?
どんなに考えても、答えなんて出るはずがない。
「……私はいったい、何なのでしょうか?」
やっと口から出た言葉。
聞きたいのは、そんなことじゃない。
どうして私を裏切ったの? どうして私と結婚をしたの? どうして二人を連れて来たの?
……私を、愛していなかったの?
「何を言っているんだ? セシルは、私の愛する妻だよ」
出会った時と同じ、優しい微笑み。
彼が、何を考えているのか分からない。
愛人や子供が居たことを、私に悪いと思っている様子はない。それどころか、当たり前のようにここに住むと言った。それなのに、愛してる? わけが分からないのは、私の理解力が足りないのだろうか。
「妻を愛しているのに、愛人と子供を邸に住まわせるのですか?」
あまりに理解できなさ過ぎて、普通に疑問を口にしていた。辛い気持ちは、消えてはいない。それでも、聞かなければならないと思った。
「邸ではなく、離れに住む。ライラのことは、愛してはいないから安心しろ。ライラは平民だ。ただの遊びだったのだが、子供が出来てしまった。カミルの母親ではあるから、離れに住まわせるだけだ。ヤキモチを妬いたのか? セシルは、可愛いな」
そういうことを言っているのではない。
平民? 遊び? 子供が出来てしまったから仕方がない?
私の知っているクリス様だとは思えなかった。
「奥様、顔色が優れないようですが、具合がお悪いのですか? 私達のことは気にせず、お休みになってください」
わざとらしく心配したフリをする彼女の目は、明らかに私を見下していた。
顔色が悪いのは、あなたのせいだ……そう言ってしまいたかったけれど、子供の前で話す内容ではないと思い、何も言わなかった。
「体調が悪いのか!? 気付かなくてすまなかった。すぐに医者を……」
「大丈夫です。少し休めば、良くなります。失礼します」
彼の優しさが、今は辛いだけだ。
心底心配してくれているように感じるのに、彼が遠く感じた。これ以上、ここには居たくなかった私は、すぐに自室へと向かった。
部屋に入った瞬間、足に力が入らなくなった。ドアを背に座り込みながら、天井を見上げる。
いつからか、頬を涙がつたっていた。それに気付かないほど、私の心は打ちのめされていた。
どれくらいそうしていただろう……
いつの間にか、窓の外が暗くなっていた。
私はいったい、これからどうすればいいの?
あんなに酷いことをされたというのに、私はまだ……彼を愛している。嫌いになれたら、どんなに楽だろう。
結局、答えが出ないままフラフラと立ち上がり、ベッドに横たわる。泣き疲れたからか、そのまま眠りについていた。
翌朝、鳥の鳴き声と共に、楽しそうな声が庭から聞こえて来て目が覚めた。
ベッドから起き上がり、カーテンを開けると、クリス様とライラさん、そしてカミルが三人で遊んでいた。幸せそうな家族にしか見えない。朝早くから遊んでいるのは、クリス様には仕事があるからだろう。クリス様と遊ぶ為に早起きしたカミル、カミルが大切だから時間を作ったクリス様。それを見守るライラさん。
邪魔なのは、私だ。
私が身を引けばいい。ただそれだけのことだった。彼のことは愛しているけれど、カミルのことを考えたら私は居ない方がいい。私に子供が出来てしまったら、辛い思いをするのはカミルだ。あの子に、そんな思いをさせたくない。
出会う前から、彼にはライラさんとカミルが居た。気付けなかった自分を責める。
幸せだった日々が、少しずつ薄れて行く。
すぐに両親に手紙を書くことにした。
両親ではなく、私自身が決めた結婚だったけれど、お父様もお母様も祝福してくれた。それなのに、たった一年で離婚をしたいと伝えるのは胸が痛んだ。
机に向かって手紙を書く……一文字目で、視界が滲んだ。ポタポタと、紙の上に涙の雫が落ちて行く。
頭では何が起こったのか理解はしたけれど、昨日の今日で気持ちがついて行かない。
そんなに簡単に切り替えられるほど、気持ちは単純ではなかった。それでも、両親に伝えなければ……
外から聞こえていた、楽しそうな声が止んだ。
窓から噴水が見えるこの部屋は、水の音が好きな私の為に、クリス様が用意してくれたものだ。細かいことまで気遣ってくれていたはずのクリス様は、その私の部屋の前で楽しそうに愛人と子供と遊んでいた。
手紙を書き終え、ため息をつく。
昨日の朝までは、世界で一番幸せだと思っていたのに、それが一瞬で崩れ去った。
実家に帰ろう。そう思い、使用人に手紙を届けてもらうよう頼んだ後、荷造りを始めた。
荷物は、あまり多くなかった。クリス様からいただいた物や思い出がある物は、全て置いていくつもりだ。トランク一つを持って、部屋を出ようとドアを開けた。
「どこに行く気だ?」
いつから居たのか、ドアの前にはクリス様が立っていた。
「……実家に戻ります。離婚届は、署名して後日送らせていただきます」
顔を見ることが出来なかった。
もう二度と、彼に会うつもりはない。クリス様とは、これでお別れだ。
「それを、許すと思っているのか?」
「えっ……?」
その瞬間、腕を掴まれて部屋の中に戻された。
無理やりソファーに座らされ、上から見下ろされる。その視線は、失望したと言わんばかりに私を見つめている。
「どれほど君を愛しているのか、君はまるで分かっていない! まだ混乱しているのだな。ライラのことは愛していないと言っているのに、私を信じられないのか?」
彼の指先が、頬に触れる。
壊れ物を扱うように、優しく触れている彼の指先に、私は嫌悪感を抱いていた。
クリス様は、ズレている。愛していたら、何をしても許されると思っているのだろうか。
彼を、何があっても愛していると思っていた。だけどもう、純粋な気持ちで彼を想うことなど出来ない。
「申し訳ございません、私はもう、クリス様のおそばにいることは出来ません」
昨日は言えなかった言葉が、今はすんなり出て来た。彼への愛が、薄れている証拠だ。
それでもまだ、愛する人に変わりはない。
「私から離れることは、許さない。少し時間をやろう。君はまだ、混乱しているだけなのだから。私のそばを離れないと言うまでは、この部屋から出るな。朝食がまだだったな。メイドに用意させる」
彼の目は、真剣だった。
本気で、私を部屋から出さないつもりのようだ。
そのまま、部屋から出て行こうとするクリス様を急いで呼び止めた。
「お待ちください、クリス様! このようなことは、おやめ下さい!」
彼は振り返らないまま足を止め、
「これは、君のためだ」
それだけ言うと、部屋から出てドアに鍵をかけた。
私のため? 私のためを思うのなら、手放して欲しかった。クリス様はもう、私の知っている彼ではないのだと思い知った。
私の気持ちなんて、全く考えてくれていない。こんなことをされたら、気持ちが離れていくだけだと気付いていない。
彼が私を、本当に愛しているのかは分からない。
今の状況を考えると、父からの援助が目的ではないかと思えて来る。
私の父は、この国でもっとも力と財力を持つ公爵だ。父の力と、援助金が目的なのかもしれない。
部屋に朝食が運ばれて来た。
メイドは目を合わせることなく、食事をのせたトレイをテーブルの上に置くと、申し訳なさそうに部屋から出て行った。話しかけたけれど、聞こえないふりをしていた。会話してはならないと、クリス様が命じていたのだろう。
料理は、私が好きな物ばかり……
どうしてこんなふうに気配りが出来るのに、肝心なことは分からないのだろうか。
さて、これからどうしよう。
使用人に頼んだ手紙は、クリス様に阻止されたようだ。というより、私が実家に戻ろうとしていることをあの使用人がクリス様に話したのだろう。
この邸の使用人は全員、クリス様が幼い頃から仕えている。私に味方してくれるような人は、居ないということだ。
ドアには鍵をかけられ、窓の外には見張りが二人。逃げ出すのは難しそうだ。
手紙を届けることも出来ない。
この部屋から、出ることも出来ない。
こんな扱いを受けたことで、彼への想いがさらに薄れて行く。愛していたから、苦しかった。その苦しみさえ、薄れて行く。
私には、彼の考えを理解することは出来そうにない。彼の言いなりになるつもりも、全くない。
クリス様は、私を甘く見すぎている。
私は、あなたの思い通りになんかならない。
午後になると、ライラさんとカミルの声が庭から聞こえて来た。庭は広いはずなのに、なぜかその場所ばかり選ぶ。
カミルを見ていると、辛くなる。カミルが悪いわけではない。
クリス様と婚約した時、二人の子供を想像した。幸せな家族……それが、もう叶うことはない。
彼と離婚したとして、私はまた誰かを愛することが出来るのだろうか。
二人の楽しそうな姿を見ていたら、食事が部屋に運ばれて来た。
また、私が好きな物ばかりだ。
メイドは目を合わせることなく、食事を置いてすぐに出て行く。いつまで、こんなことが続くのだろうか。
このまま私を、閉じ込めて置くことは出来ない。侯爵の妻として、社交の集まりには顔を出さなければならないからだ。顔を出さなければ、誰かが異変に気付く。
クリス様に出会うまで、全ての縁談を断って来た。父が権力を持っているからか、幼い私にさえ媚びへつらう貴族達を見てきた。それがトラウマになり、男性に嫌悪感を抱いていたのだ。
そんな私が、あっさりクリス様に騙されてしまったのだから、見る目がなさすぎる。穴があったら……いいえ、穴を掘って閉じこもりたい気分だ。まあ、部屋に閉じ込められているのだけれど……
色々な意味で、クリス様は目立つ。
その隣に私が居なければ、変だと思われるはずだ。それまでは、大人しくしているしかなさそうね。
「……美味しい」
運ばれて来た食事を、一口食べる。
こんな時でも、お腹が空く。
次々に料理を頬張ると、何だか塩っぱい……いつの間にか、涙が溢れ出していた。
どんなに強がっていても、愛する人から裏切られて平気なはずがない。それでも、強くならなければいけない。カミルのために。
夕食の時間、メイドが食事を運んで来た。
毎回、違うメイドが食事を運んで来る。クリス様は、メイドを信用していないのだろう。
「セシル様……申し訳ありません」
今回のメイドは、食事をテーブルに置いたあと、深々と頭を下げて謝って来た。三人目でようやく口を聞いてくれたことに、嬉しさが込み上げてきた。
「頭を上げて。あなたが、謝る必要なんてないわ」
彼女の名前は、アンナ。歳は私とあまり変わらないけれど、幼い頃からダーウィン侯爵家に仕えている。彼女が頭を下げた理由は、ライラさんのことを知っていたのに、私に黙っていたことに対してだろう。
「セシル様は、誰よりも優しくしてくださいました。こんな私のことを、家族だと仰ってくださったのに、セシル様を騙すような真似をしてしまいました……」
私は、バカだ。
最愛の人に騙されていたことで、それを話せなかった使用人まで疑ってしまっていた。主人の言うことは絶対……話すことが出来ずに苦しんでいたアンナの気持ちを、分かってあげられなかった。
「アンナは、何も間違っていない。あなたはただ、メイドとしての仕事をしただけ。主人の命令に背いたら、メイド失格になってしまうもの」
こうして謝ってくれたことが、私にとっては救いだった。他のメイド達や使用人達は、私と目を合わそうともしない。
「私は、メイド失格です。これから、主である旦那様を裏切るのですから。私は、セシル様に忠誠を誓います!」
アンナの目は、本気だった。
そして、全てを話してくれた。
この邸で働く使用人は、ほとんどが孤児院から連れて来た子供達だったそうだ。アンナもその一人で、亡くなったクリス様のご両親も、クリス様も、人として扱って来なかった。そもそも上位貴族は、礼儀作法を学んだ貴族の子を使用人として雇うことが多い。だけど、ダーウィン侯爵邸には貴族の子は一人もいない。
アンナ達は使用人という名の道具として、僅かな賃金でこき使われて来た。使用人に払うお金がもったいないからと、孤児院から子供を引き取り、使用人にして来たということのようだ。
目を合わせなかったメイド達は、クリス様が主人だから従っているのではなく、恐れているのかもしれない。何も知らずに、幸せだと思っていたあの頃の自分を殴りたい。
孤児院の子供達は、養子として迎えるべきなのに、こんなこと許されない。
「何も知らずに、ごめんなさい……」
自分がいかに愚かだったのか、思い知らされた。
椅子から立ち上がり、アンナに頭を下げながら、誠心誠意謝ることしか出来ない。
「セシル様!? そのようなこと、おやめ下さい! セシル様は、私のような使用人に優しくしてくださいました! 家族の居ない私を、家族だと仰ってくださいました! そのように扱われたことは、生まれて初めてで……」
真っ直ぐ私の目を見つめながら、アンナの瞳から涙がこぼれ落ちる。
私は父や母から、使用人は家族だと教わった。主人の為に懸命に働く使用人を、大切に思うのは当然のことだと思って来た。
アンナは……この邸の使用人は、どれほど辛い思いをして来たのだろうか。
クリス様、あなたは……いったいどれほど私を失望させるおつもりなのですか?
離婚するだけでは終われない。
翌朝、珍しくクリス様が自ら食事を運んで来た……と思ったら、
「カミル、今日はセシルと遊びなさい」
そう来るとは思っていなかった……。
クリス様の後ろで、モジモジしているカミル。少し人見知りなのか、目が合うと恥ずかしそうに目を逸らす。
「カミルは美しい女性に弱いんだ。セシルがあまりにも美しいから、照れているようだな。私は仕事があるから、カミルと遊んでやってくれ」
そんな風には見えない。初めて会った時は、全く私に興味を示さなかったのだから。見れば見るほど、クリス様に良く似ている。クリス様の子なのだと、思い知らされる。
ライラさんは、承知しているのだろうか? 私のことが『大嫌い』だと、顔に書いてあった。それも、仕方がない。ライラさんは、少なくとも五年以上前からクリス様とお付き合いをしていた。二人……三人の邪魔をしているのは、私の方だ。どんな気持ちでカミルを育てて来たのか、どんな気持ちでこの邸に来たのか……。
「ライラさんは、ご存知なのですか?」
「ライラに許可をとる必要などないが、セシルと一日過ごさせることは話している」
当たり前のように、許可をとる必要はないと言ったクリス様に、また失望した。ライラさんは、母親だ。その母親に許可をとる必要はないなどと、この人はどんな思考をしているのか。
「……そうですか。では、お預かりしますので、お仕事にお戻りください」
拒否などしたところで、クリス様が諦めてカミルを連れて行くとは思えない。それならば、波風立てないように素直に受け入れた方が、今後動きやすい。
ごめんね、カミル。混乱させてしまうことになるけれど、許して。
私の返答に気を良くしたクリス様は、嬉しそうに部屋から出て行った後、しっかりと鍵を閉めた。部屋の前に見張りを付ければ済むのに、カミルまで閉じ込めるなんて……。不安そうに怯えるカミル。知らない人と二人きりで閉じ込められたのだから、無理もない。
「カミルくんは、お母さんが好き?」
『お母さん』と言ったら、初めて私の顔をまともに見た。
「うん! 大好き!」
ライラさんは、良い母親なのだと分かる。
「じゃあ、お父さんのことは?」
『お父さん』という言葉を出したら、急に顔が曇った。
「あ、えっと……」
嘘でも、大好きとは言えないようだ。
困らせるつもりなんかない。
「もういいよ。カミルくんは、何してる時が楽しい?」
先程クリス様は、『セシルと一日過ごさせる』と言っていた。つまり、夕方までは一緒に居ることになる。どうせなら、楽しく過ごしてもらいたい。
「うんとね、絵をかくのが楽しい!」
外で遊ぶのが楽しいと言われなくて良かった。今日は、ここから出してあげられないのだから。
嬉しそうに話すカミルを見ていると、自然に笑顔になっていた。
「確か、お父様にいただいた絵の具が……」
幼い頃に、お父様がくれた絵の具。残念ながら、私の絵は壊滅的に下手だった。それ以来、ずっとしまったままだったけれど、お父様からいただいた初めての贈り物だったから、使わなくても大切に持っていた。
「あった! カミルくん、座ってて」
「うん!」
カミルは素直に言うことを聞いて、ソファーに座った。
鍵のかかったドアから、廊下で見張りをしているであろう使用人に話しかける。
「誰かそこに居るの? 絵の具に使う水が欲しいのだけれど、持って来てくださる?」
「……はい」
ドアの反対側から、すぐに返事が返ってきた。やっぱり、見張りが居たようだ。
しばらくして、使用人が水を持って部屋へと入って来たけれど、すぐに出て行ってしまった。アンナに話を聞いたからか、怯えているように見えた。カミルの飲み物を頼もうと思ったけれど、声をかけられる雰囲気じゃなかった。
「道具も揃ったし、お絵描きしようか」
カミルは嬉しそうに頷き、渡した紙に絵を描きだした。
顔に絵の具を付けながら、楽しそうに描いているところを見ていると、絵を描くのが本当に好きなのだと分かる。久しぶりに、私も描いてみることにした。
「カミルくんは、上手いね! それは、お母さん……かな?」
描く手を止めてカミルの方を見ると、髪が長い優しそうな女の人の絵を描いていた。五歳なのに、私より上手く描けている。
「うん! お母さんは、せかいいちキレイなんだ!」
目を輝かせながらそう言うカミル。ライラさんの隣には、真っ黒な人影のような物が描かれている。もしかしてこれは……
「その黒いのは、クリス様?」
そう聞くと、急にカミルの顔が曇った。昨日はあんなに楽しそうに庭で遊んでいたのに、今はクリス様を嫌っているように見える。
真っ黒な人影のような物に、さらに黒の絵の具を重ねている。これがカミルにとっての、クリス様の印象なのだろう。
「お姉ちゃん……」
絵を描く手を止めて、私の顔をクリクリとした大きな目で見つめてくる。
「どうしたの?」
「それは、ぶたさん?」
何を言うのかと思ったら、私の絵のことだった。笑わないでいてくれる辺り、優しい子だ。
「これはね、ウサギさんよ。お耳が長いでしょ? 僕はウサギだぴょん」
手を頭の上にやり、両手でウサギの耳を作りながらそう言うと、笑顔を見せてくれた。
「ウサギさんかわいい! ぼくとお友達になってください!」
絵の方ではなく、ウサギになりきった私に言っているようだ。目をキラキラさせて、私のことを真っ直ぐ見つめている。そんな無邪気な顔でお願いされたら、断ることなんて出来ない!
「僕で良かったら、お友達になろうぴょん!」
カミルは、眩しいほどの笑顔を見せてくれた。
何で男の子キャラにしてしまったのか……
カミルと楽しい時間を過ごしていたら、あっという間に時間が過ぎていた。
夕食の時間になり、食事が運ばれて来た。食事を運んで来た使用人と一緒に、クリス様も姿を現した。
クリス様が部屋に入って来ると、カミルの顔から笑顔が消えた。二人の間に、いったい何があったのだろうか。
「カミル、離れに戻る時間だ。来なさい」
カミルはソファーから立ち上がり、ゆっくりクリス様の方へと歩き出す。その表情は、暗い。
「カミルくん、今日は楽しかった。ありがとうだひょん」
最後にウサギのキャラでお礼を言うと、にっこり笑って手を振ってくれた。
カミルを使用人に任せ、クリス様はそのまま残っていた。
お腹が空いたから、早く出て行って欲しい……。
「今日一日で、カミルと随分仲良くなったんだな。これで、次に進みやすくなったよ」
彼は、何を言っているの?
次って、何?
わけが分からなくて首を傾げた私に、
「カミルを、私とセシルの養子にしよう」
当たり前のようにそう言った。
クリス様は、最初からカミルを私達の養子にするつもりでこの邸に連れて来たということのようだ。彼は、どこまで失望させるつもりなのか……
ライラさんと初めて会った時の態度を見れば、彼女にはそんなつもりがないのだと分かる。子を思う母親から、子供をとりあげるつもりでいるクリス様は、女性の敵だ。
「ライラさんのことは、どうなさるおつもりですか?」
彼が何を考えているのか知る必要があった。私は今まで、彼のことを全く分かっていなかったのだから。離婚したいと言っても受け入れてもらえないのだから、受け入れざるをえない状況を作るしかない。
「ライラには、そのうち出て行ってもらう。カミルが混乱するから、母親は一人だけで十分だ。今日のように、君がカミルとの時間を過ごしていれば、カミルもライラのことを必要としなくなるだろう。言っただろう? 私はライラを愛してなどいない。君を愛しているのだと」
彼の言葉は、全てが薄っぺらい。
カミルのためを想っているフリ。私を愛しているフリ。自分が悪いなどとは、微塵も思っていない。
クリス様がライラさんを連れて来た時は、辛くて悲しくて、何も考えたくなかった。だけど、今は違う。彼に対しての愛は冷めていき、彼の行動や言動に怒りが込み上げてくる。
こんなにも、誰かに対して嫌悪感を抱いたのは初めてかもしれない。
「本当にカミルくんのことを想っているのならば、誰に何を言われようとライラさんと結婚するべきです。本当に私を愛していたのなら、結婚をする前に全てを話してくださるべきでした。クリス様が愛していらっしゃるのは、ご自分だけではないでしょうか」
彼に向ける目には、尊敬も愛情も信頼も何もなくなっていた。
こんなことを言ったら監視が厳しくなるだけなのだから、今は大人しくしておくべきだったのは分かっている。彼に何を言っても、思いは伝わらないのも気付いていた。それでも、我慢が出来なかった。
私に言い返された彼の顔が、怒りで真っ赤に染まって行く。
「君は何も分かっていない! 君を手に入れるために、私がどれほど苦労したか! 君を愛しているこの私の気持ちを、否定するのは許さない! 反省しろ!!」
ドアを開けて部屋を出ると、バンッと大きな音を立ててドアを閉めた。
彼の言葉が、少し引っかかった。私を手に入れるために苦労した……とは? 助けてくれたあの日から、私達の関係は順調だったはず。それなのに、彼は苦労したと言った。深く考え過ぎなのだろうか……私と出会った時の彼とは別人だったのだから、演技するのが苦労したと言いたかっただけなのかもしれない。
逆らってしまったから、部屋から出してもらえるのがいつになるか分からない。アンナが味方についてくれたけれど、下手に動いて彼女を危険な目に遭わせたくはない。
ダーウィン侯爵家の使用人は、少しでも気に入らないことをすれば、お仕置という名の体罰を受けるそうだ。それが怖いから、他の使用人は怯えて、私と話そうとはしない。ダーウィン侯爵家は、何もかもがおかしい。
それでも、アンナは私をここから出そうとしてくれている。アンナの提案で、三日に一度ワインを届けに来る男性に手紙を届けてもらおうということになり、男性は今日、ワインを届けに来る。手紙はすでに書いて、アンナに渡してある。
宛先は、父ではない。男性は王宮にもワインを届けていると聞き、兄の友人で騎士団長をしているアレクシス様に手紙を書いた。アレクシス様は、クリス様との結婚に反対していた。幼い頃から兄のように慕っていたのに、それ以来気まずくなってしまっていた。今更頼ろうとするなんて、虫がよすぎるのは分かっている。だけど、父に届けてもらうのはリスクが高いし、兄は留学中、友人にクリス様のことを話したところで、信じてくれるとは思えない。頼れるのは、アレクシス様しかいなかった。
翌朝、楽しそうな声が庭から聞こえて来て目が覚めた。また、クリス様とライラさん、そしてカミルがこの部屋のすぐ側で遊んでいた。
この前とは違い、カミルが無理をして笑っているように見える。私も、この前とは違う気持ちで三人を見ていた。
誰が見ても、ライラさんはクリス様を愛しているのだと分かる。クリス様の本性を知っても、愛し続けることが出来るのは、すごいことだと思う。それが、本当の愛なのだろう。私にはもう、彼を愛することは出来ない。
そんなことを考えながら、三人の様子を見ていると、カミルが私に気付いて手を振ってくれた。小さく手を振り返すと、明るい笑顔を見せてくれた。
クリス様と似ていると思っていたけれど、全く似ていない。カミルのことは、大好きになっていた。
笑顔で手を振ってくれるカミルの横で、不機嫌な顔になっていたライラさんに、この時私は、気付くことが出来なかった。
その日の午後、ライラさんが部屋を訪ねてきた。
「奥様は、いつまでこの邸にいるおつもりなのですか? いい加減、クリス様と別れていただけませんか?」
ノックもせずに、見張りの使用人に鍵を開けてもらって部屋に入り、開口一番そう言った。使用人は、ライラさんを主人だと認識しているみたい。
この状況で出て行けとは、無理な相談だ。やっぱり、ライラさんは私がクリス様と離婚することを望んでいる。
「私がクリス様と離婚したら、ライラさんと結婚すると本気で思っているの? クリス様のことは、私よりもライラさんの方が理解しているはず。よく考えて欲しい」
ライラさんにとって、カミルは何よりも大切なはずだ。クリス様はその大切なカミルを、ライラさんから奪おうとしている。
「別れたくなくて必死ですか? クリス様は、カミルと私を守ってくださると仰ってくれました! 子供のいない奥様には、分からないでしょうけど、私達の幸せはここにあるのです! 四の五の言わずに、とっとと出て行ってくれればいいのよ!」
私が何を言っても無駄なのかもしれない……そう思ったけれど、思い直した。ライラさんの手が、微かに震えていたからだ。虚勢を張っているだけで、彼女は悪い人ではないのだと思えた。
「カミルくんは、ここで暮らすことを望んでいるの? ライラさんにとって、カミルくんは何よりも大切なのでしょう?」
「あなたのような、温室育ちのお嬢様には分からないわ! お金がなくて、教育を受けさせることも出来ないのよ! クリス様と結婚することが、あの子のためなのよ!!」
確かに私は両親に愛され、何不自由のない暮らしをして来たけれど、自由になりたいと思ったことは何度もある。父の娘だから、優秀な兄の妹だから、完璧な母の娘だからと、何をするにも気を遣って生きてきた。それがワガママだと言われたら、それまでなのだけれど、必ずしも貴族の子になることが幸せではない。それに、ダーウィン侯爵家は特殊だ。ここで暮らすことが、カミルのためになるとは思えなかった。
「ライラさんと……母親と、離れ離れになっても?」
「それはっ……」
そう言いかけたまま、口を閉ざした。ライラさんの不安そうな表情を見る限り、クリス様が何をしようとしているのか気付いているようだ。だから私に、早く出て行って欲しいと言いに来たのだろう。
私には、彼女を憎めそうにない。むしろ、憎まれるのは私の方だ。
「私はもう、クリス様を愛してはいません。すぐにでも、離婚して出て行くつもりです。ライラさんは、カミルくんのことだけを考えてあげてください」
ライラさんは私の顔をじっと見た後、無言で部屋から出て行った。彼女の目には、私への敵意がなくなっていたように見えた。
翌朝、クリス様がまたカミルを部屋に連れて来た。
「カミルがセシルと遊びたいそうだ」
嬉しそうにそう言うクリス様の隣で、五歳のカミルがこの世の終わりのような顔をしている。カミルの様子が気になった私は、笑顔でカミルを迎えた。
「また来てくれて嬉しい! さあ、こちらへおいで。カミルくんのことは任せて、クリス様はお仕事に行ってください」
一刻も早く、クリス様を追い払いたかった。カミルを歓迎した私の態度に気を良くしたクリス様は、ご機嫌で部屋から出て行った。ドアが閉まり、彼の足音が遠ざかって行くのを確認してから、カミルを抱きしめた。
「……お姉ちゃん?」
いきなり抱きしめられて、戸惑っている。
「急にごめんね。なんだか、カミルくんが消えてしまいそうに思えて、抱きしめずにいられなかったの」
少し身体を離して、カミルくんの顔を見る。先程の暗い顔は、泣きそうな顔に変わっていた。
「何があったの?」
そう聞いた瞬間、カミルくんの大きな瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。こんなに幼い子が、泣きそうなのをずっと我慢していたのかと思うと、胸が張り裂けそうになった。
「お、お母さんが……ヒック……ッ……おか……ッグスッ……」
「ゆっくりで大丈夫だよ」
カミルが泣き止むまで、頭を撫で続けた。
一時間位、カミルの涙は止まらなかった。
それほど、辛いのを我慢して来たのだろう。
泣き止んだカミルを抱き上げ、ソファーに座らせて、その隣に腰を下ろす。すると、カミルが私の手を握って来た。
小さな手。
その手をそっと握り返すと、安心したように笑顔を見せてくれた。そして、ゆっくり口を開いた。
「あのおじさんがね、お母さんをいじめるの」
おじさんということは、父親という認識もないようだ。もしかしたら、昨日ライラさんが部屋に来たことが原因かもしれない。見張りの使用人が、報告したのだろう。
まさか、暴力を振るっては……いないと思いたい。手をあげるだけでも最低な行為なのに、それを子供の前でなんて考えたくない。
「おじさんは、いつもお母さんをいじめているの?」
カミルが描いた、クリス様の絵は真っ黒だった。あの絵が、全てを物語っているような気がした。
「お母さんとぼくのお部屋にくると、おじさんはいつもお母さんをいじめるの。お母さんはおじさんにごめんなさいって言ってるのに、おじさんはおっきな声で怒ってばっかりなの」
話しながら涙ぐむカミルの身体を、そっと抱き寄せた。この子にとって大切なのは、ライラさんだ。彼女は、そのことを分かっているのだろうか。
泣き疲れたのか、カミルの寝息が聞こえて来た。クリス様が迎えに来るまで、カミルはそのまま眠っていた。
数日後、クリス様は慌てて部屋に来ると、「セシル、お客様がお見えだ……」と、そう告げた。
お客様……その言葉を聞いて、アレクシス様だと直感した。来てくれたことに、心が温かくなる。
「分かっていると思うが、余計なことは言うな!」
ええ、もちろん分かっています。今逆らえば、アレクシス様に会わせてもらえないことを。
「クリス様を裏切るはずが、ないではありませんか」
そう言って、笑顔を見せた。
これが最後の嘘。あなたには、何も望んでいない。
応接室へと向かう足取りが軽い。少し前を歩くクリス様の後ろ姿を見ながら、彼への気持ちがなくなっていると確信する。部屋の外に出たのは、久しぶりだ。そんなに長い間閉じ込められていたわけではないのに、この邸で幸せに過ごした一年よりも長く感じた。そして、その幸せな記憶は悪夢に変わっていた。
応接室の前に来ると、クリス様が振り返った。
「セシル、愛している」
先程は命令して来たのに、今度は耳元で甘く囁いた。飴と鞭のつもりなのだろうか。
残念ながら、飴の方が鞭のように感じる。彼の『愛してる』という言葉を聞いて、全身に鳥肌が立ってしまった。少し前までは、あんなにも愛していたのに……
ゆっくりと、クリス様は応接室のドアを開け、部屋の中に入っていった。まさか、クリス様まで同席するとは思わなかった。気を取り直して、彼の後に続いて応接室へと足を踏み入れる。
そこで待っていたのは、思った通り、アレクシス様だった。
アレクシス様の姿を見た瞬間、沢山の感情が一気に押し寄せて来た。自分がどれほど愚かだったか、心配してくれた人の言葉を無視して遠ざけてしまった。それなのに、私を救い出しに来てくれた……
「久しぶりだな、セシル」
昔と変わらない、意地悪そうな笑顔。
兄のように慕ってはいたけれど、アレクシス様はいつも意地悪だった。
「その笑顔、お変わりありませんね。もう少し可愛く笑えないのですか?」
せっかく来てくださったのに、憎まれ口を叩いてしまう私も可愛げがない。
「言ってくれるね。俺は元々、こういう顔だ」
「私の妻と、イチャつくのはやめてもらいたい」
アレクシス様と話していると、不機嫌な顔をしたクリス様が間に入って来た。
「ああ、居たのかクリス。セシルと二人にしてくれないか?」
アレクシス様のバカにした物言いに、クリス様の顔が余計に不機嫌になり、ドカッと音を立ててソファーに腰を下ろした。
「二人きりにするつもりはない! 私はお前を、信用していないからな!」
少し心を落ち着けたかったけれど、そんな時間を与えてはくれなかった。すぐにでも出て行くつもりなのだから、それでも構わない。そう思い、口を開こうとすると、アレクシス様がソファーから立ち上がった。
「信用などしなくていい。ここに居るつもりなら、ちょうどいいか。セシルを連れて行くから、荷物を使用人にまとめさせてくれ」
アレクシス様はクリス様を上から見下ろしながら、少し怒りのこもった声でそう言った。
「なっ!?」
私が余計なことを言わないか見張るつもりだったクリス様は、まさかアレクシス様からそんなことを言われるとは思っていなかったようだ。正直、私も思っていなかった。私の為に、怒ってくれているのが分かる。アレクシス様の拳が震え、今にも殴りかかってしまいそうな勢いだ。
「お前っ!! 何を言っているんだ!? セシルは私の妻だ!! 連れて行く? 冗談じゃない!! セシル、部屋に戻れ」
ソファーから立ち上がったクリス様は、私の腕を掴もうと手を伸ばして来た……その時、ノックの音が聞こえ、応接室のドアが開いた。
入って来たのは、アンナだった。その後ろに、ライラさんとカミルの姿がある。
「お前達……なぜここに居る? 誰が入っていいと言った?」
ライラさんとカミルが来たことに、かなり動揺している。私の腕を掴もうとしていた手はそのまま下ろされ、何から対応すればいいのか分からなくなっていた。
応接室に来てから、私はクリス様に対して何も言っていないのだけれど、私の出番はいつ来るのだろう……。
「クリス様、もうおやめ下さい! 奥様……セシル様を、自由にさせてあげてください! 私とカミルが、おそばにいるではありませんか!」
ライラさんの言葉からは、私を追い出したいという思いではなく、私を自由にさせたいという気持ちが伝わって来た。
「黙れ!! お前など必要ないのが、分からないのか!? 少し優しくしたくらいで、平民が調子に乗るな!! ガキが居たから、仕方なく邸に呼んでやったというのに、恩を仇で返す気か!?」
どうして私は、こんな人に騙されてしまったのだろうか。あまりにも酷い言い方に、怒りが込み上げてきて爆発寸前だ……いや、我慢の限界だった。
「黙るのは、クリス様の方です。カミルくんが怯えているのが、分からないのですか? あなたには、親になる資格なんてありません! 愛してる? 冗談じゃない! あなたのその愛、お断りします!」
言い返されたクリス様は、目を見開いて驚いた顔のまま固まっていた。
私がまだ、愛してるのだと本気で思っていたのだろうか。
クリス様の表情を見たカミルが、おかしなものを見たかのようにじっと見つめていた。怖いと思っていたおじさんの間抜けな顔を見て、恐怖が少し薄れたようだ。
「お前がして来たことは、調べがついている。今日はこのまま、セシルと使用人のアンナを連れて帰るだけだが、後日お前を迎えに来るから、覚悟しておけ」
クリス様の顔色が、真っ青になっていく。
この国には、最低賃金が設定されている。孤児院から連れて来た子供達を、養子にしなかったことが自分の首をしめる形になった。しかも、虐待までして来た。使用人達の証言があれば、罪を立証するのは難しくないだろう。
「セシル……行かないでくれ。頼むから、私のそばに居てくれ」
消え入りそうな声で、懇願するクリス様。
そんなに失いたくないと思っていたなら、なぜ愛人と子を連れて来たのか……。今となっては、本性を見せてくれたことに感謝している。
「クリス様、私はもうあなたを愛してはいないのです。ですから、おそばに居ることは出来ません。この先、二度とお会いしたくもありません。私達は、終わったのです」
結婚した時は、こんな日が来るとは思っていなかった。全てを壊したのは、あなた自身です。
何を言っても、クリス様は反省しないのでしょうね。反省するような方ならば、こんな生き方はしていなかったはず。あなたは、決して変わらない。
「セシル……」
その場に崩れ落ち、泣きそうな顔で私を見るクリス様に、同情することもない。
「ライラさん、一緒に行きませんか? あなた達二人の幸せも、ここにはないと思います」
ライラさんはクリス様をちらりと見て考え、『今まで、申し訳ありませんでした』と私に謝った後、手を取ってくれた。彼女がクリス様を愛しているのは知っている。自分の気持ちよりも、カミルのことを考えて決断したようだ。
「クリス様、短い間でしたがお世話になりました。カミルのことは、私が責任を持って育てます。あなたに似ないように、立派な子に育てるつもりですので、安心してください」
最後の嫌味は、ライラさんらしいと思った。
一週間後、クリス様は王宮の取り調べ室で尋問されていると聞いた。私達が出て行った次の日に、王宮に連行されたようだ。
アレクシス様が言っていた、クリス様がして来たこととは、使用人の件だけではなかった。
友人と一緒に何人もの女性に薬を飲ませ、連れ帰っていたそうだ。そう……私が初めてクリス様と出会った時にしつこく声をかけてきた男性が、その友人だった。初めから私を騙すつもりで、友人に声をかけさせ、自分が助けたフリをしていた。
「どうしてクリス様は、私を助けたのでしょうか……」
庭園の真ん中にあるテーブルに座り、お茶を飲みながらアレクシス様から詳細を聞いていると、ふと疑問に思った。いつもは、その友人と共に女性を連れ帰っていたはず。それなのに、私を助けた理由はなんだったのだろうか。
「理由は簡単だ。セシルを愛していたからだよ。何年も前から、セシルに目をつけていたようだ」
前に言っていた、私を手に入れる為に苦労したという言葉は、そういうことだったのかと理解した。
私はまんまと、クリス様の作戦に引っかかってしまった。
「私がしっかりしていたら、騙されたりしなかったのですね。アレクシス様は、私のことを思って反対してくださったのに、その言葉を聞かなかった。反省しています」
アレクシス様はお茶を一口飲んで立ち上がり、私の頭の上に手を乗せた。そして……
「ちょっ!? アレクシス様、やめてください!!」
髪がクシャクシャになるまで、頭を撫でられた。
「好きな奴を信じてしまうのは、当たり前のことだ。それがたとえ間違いでも、そのことに気付けたなら失敗なんかじゃない。お前のおかげで、ダーウィン侯爵家の使用人達が自由になることが出来た。お前のおかげで、ライラは子供を失わずにすんだんだ。俺のことは、気にするな。何度だって助けてやる」
意地悪だと思っていたアレクシス様の、優しい言葉に救われた気がした。
「アレクシス様には、本当にご迷惑をおかけしました。父まで……」
父はクリス様に激怒し、捕らえられている彼に怒鳴り込みに行った。殺してしまいそうな勢いだった父を、アレクシス様がなんとかなだめてくれた。
「公爵は、セシルが大好きだからな。あれは本気で殺してしまいそうな勢いだった」
お兄様も、お父様にそっくりだ。留学中で良かったと心から思った。
お父様はクリス様への援助を打ち切り、今までの援助を全額回収するようだ。使用人達にも、今まで働いた分の正式な賃金を支払うことになった。そして、今まで薬を飲ませて連れ帰った女性達にも、慰謝料を払うことになった。邸を売ったとしても、全てを支払うことは出来ないだろう。一生、借金を返す為に働く人生を送ることになりそうだ。女性の敵だと令嬢達の中でも噂が広まり、二度と結婚も出来ないだろう。一緒に女性を騙していた友人は伯爵家を勘当され、慰謝料を払う為に隣国へ使用人として売られたそうだ。
アンナは、私の侍女として邸に来てもらった。彼女がいなければ、私はまだ自由になれていなかったかもしれないと思うと恐ろしくなる。
ライラさんは、食堂で住み込みで働くことになった。カミルは邸を出て、お母さんの笑顔が増えたと喜んでいた。
「セシルは、これからどうするんだ?」
「私……ですか?」
「その、なんだ、ほら、結婚……とか?」
なぜかはぎれの悪くなるアレクシス様に、首を傾げる。
「結婚は、当分ないですね」
私の返事に、明らかにガッカリした様子のアレクシス様。
「そうか……。まあ、急ぐこともないかもな。なんなら、俺がもらってやるぞ?」
「……え!?」
頭をガシガシかきながら、顔を真っ赤にして目を合わそうとしない。その瞬間、私の顔も真っ赤になっていくのを感じた。
アレクシス様のことを、そんな風に見たことはなかった。
「嫌なら、別に……」
拗ねたようにそういうアレクシス様を見ていたら、なんだか可愛く思えた。
「そうですね、落ち着いたら、アレクシス様にもらっていただこうと思います」
彼の顔が今まで見たことないくらいの笑顔になり、私も笑顔になっていた。
END