第七章 記録者は自覚する
陽が落ちる中地鳴りに揺れが加わった。看守達が非常用の魔法灯を宙に浮かせたから島だけは真昼の明るさだ。
時に大きな揺れが突き上げて来る。
「凄い力ね」
「力技で呪縛を解こうとしてるのよ」
タラセンコだけでない島に収監された極悪犯達を逃がさない為に、島には様々な魔法が施されている。それが解かれない様にチームも常駐していた。彼らは今やタラセンコの呪縛は放棄し、その他の魔法が解かれないことに力を集中させていた。
マノン、リゼットと合流するとチームの一部も来ていた。
「ここはあたし達に任せてもらうことになったわよ」
「奴が呪縛を破壊する前にこの一角を壊して。島全体で一つになってるから一部だけとか解けないし、奴にやらせたら被害をカバー出来ない」
リーダーはジャンヌ・デロンシャン、女性だ。
「最小の穴を開けて奴らを出せってことね」
猿が人語を話したので初見の者達は驚いた。
「わたくしの優秀さはこの際気にしないで頂戴」
「了解。やれる?私達でここの魔法を何とか引き伸ばすから、薄くなった部分を狙って。奴より先に開けてよ」
「はい」
可愛らしく頼りないエルゥから返事が返っても信じられず心許ない。
「気持ちは解かるけど信じて賭けるしかないよ」
リゼットが励ますとジャンヌは強引に迷いを切り捨てた。
「合図で手筈通りにね」
チームは手を繋いで輪になった。
重ねたエルゥの掌の上に魔法陣が浮かび上がる。
「3、2、1」
狙い違わず穴が空き、間髪入れずにディアンヌを連れたタラセンコが宙空から何かを広げようとしながら現れた。
「逃がしたのねオディロンを」
気配が無くなっているのを察してディアンヌは忌々し気だ。
「でもお前達を殺して直ぐに追ってやるわ。世界中何所に逃げようと殺すまで諦めない」
怒りのせいか周囲の空気がパチパチと爆ぜている。
(わあしつこい。絶対仕返しが済むまで和解しないタイプだわ)
関わり合いになりたくないのにアデリーネは戦闘の最前線に連れられてしまっている。こうなっては仕方ない。メモに家族に宛てて遺言を走書きした。
給料はこづかいを残して全て家族に渡していたから、わざわざ書き記す程の物は残っていない。本の処分は妹にしてもらわないと弟には見せられない。両親には絶対見て欲しくない。奮発して買ったイヤリングとネックレスのセットを思い出した。妹達は虎視眈々と狙っていたから遺言で指定しても一番に手にした者が手放さないだろう。
(どうか仲の好い姉妹の関係に、亀裂を入れるきっかけになりませんように)
「ディアンヌ・ルルーもう一度言うわ。お前は白磁の位を剥奪された。オディロンは国外に逃げたんだから大人しく捕まりなさい!」
答えとして迫り来る無数の《槍》をマノンは《盾》で防いだ。
「生意気に、半熊人の癖に魔法を使うなんてね!」
熊人は強くほとんど魔法が効かないがその代わり魔法が使えないものなのだが、マノンは母が魔法師であったから基本的な魔法なら使うことが出来た。
「さあタラセンコ、残らず殺しておしまい⁉」
だが巨体は動かなかった。
「何してるの!さっさとおし⁉」
「お前、白磁でなくなったのか」
声に嫌なものを感じた。何とか誤魔化す言葉を探している内にマノンが先んじる。
「そうよ。ディアンヌもお前と同じ犯罪者、お尋ね者になったのよ」
仮にも聖女を支える白磁であった自分を何と形容するのか、痛みをおしてディアンヌはマノンを倒そうとした。しかし行動を起こす前にタラセンコが捕まえる。
「放しなさい!お前は何も考えなくていい。私の命じた通りここにいる連中を始末すればいいのよ!」
「ヒヒヒ」
掠れた笑い声が洩れる。
「ヒヒヒ、アハハ!ハハハハハ、ハッハッハッハ」
喉が慣れるに従って声は大きくなって、そして唐突に終わった。
「外だ…」
両腕を開き深く息を吸い込んで外の大気を全身で味わった。
「自由だ…」
解放の悦びが全身を駆け巡った。何百年振りに死んでいた細胞が活性化する。
「俺は…自由だ!」
「ふ…ふざけたことを!お前は石牢からの解放と引き換えに私に従ってオディロンを抹殺するのよ。あっ、アアーッ」
悲鳴とゴキゴキッと腕の骨の折れる音が重なる。
「聖女ってのも存外バカじゃねぇか。俺に誰の命令を聞けって?解放されたくて適当に返事しただけだ」
痛みに蹲ったディアンヌの首を掴んだ。そのまま高々と翳す。
「何で俺がおめぇなんかの為に何かしなけりゃならねぇんだよ。どいつもこいつも俺を使い捨てする為に従わせようとしやがって」
「放せ」
痛みを堪えて抵抗するが、小さな体では鋼の様な腕はびくともしない。
グッと手に力が入る。
「止めろっ」
リゼットが剣を振るった。
タラセンコの腕を斬り落とそうとしたが、腕は魔法で皮膚が硬質化され刃を通さなかった。それどころか軽い腕の振りでリゼットは飛ばされ大地に激突する。
間髪入れずにエルゥも攻撃に入ったが、側頭部を蹴ろうとした足にディアンヌをぶつけられる。寸前で回避してディアンヌを横抱きにマノンの隣に降り立った。
「はい」
とディアンヌを渡し、
「逃げろ。ちっと本気だすからよ」
とジャンヌに告げた。
「絶対逃がさないでよ」
念押ししてリーダーとして退避を指示する。
その背に向かって放たれた攻撃魔法をエルゥは上品に蹴り返して防いだ。不発に終わった魔法が大地を抉った。
「ヴィヴィ」
「分かったわ。頑張ってね」
突如アデリーネの隣にヴィヴィが出現する。
「ヴィヴィ様!」
「一緒にエルゥの活躍を観戦しましょ」
ちょこんとアデリーネの膝に座る。
独りではなくなったが全然心強くなかった。
「ちょっとあんた何書いてんの。『蔵書は両親や弟達の目に触れさせることなく処分すること』ってまるで遺言じゃないのよ。不景気な事は止めて」
ヴィヴィがアデリーネを叱っている間に外では闘いが始まっていた。
「くっせぇなあ。風呂に入ってねぇのに人の風上に立つんじゃねぇよ」
言うが早いがエルゥは攻撃を仕掛けて風上を取った。吃音りが無くなっている。戦闘態勢になっているのだ。
「臭いには我慢して成敗してやっから有難く思いな」
すらりと剣を抜く。
「うるせぇよちんまいの。御託並べてねぇで命の遣り取りしようぜ。てめぇ強いだろうがよ」
向けられた手から攻撃魔法が繰り出される。
「二百年も動けなかったんだ。ちょいとウォーミングアップさせろや。お兄さんと遊ぼうお嬢ちゃん」
髪飾りの中でアデリーネは慌てた。
「あわわわ、あの人本当に目が怖い~」
「頑張ってエルゥ」
ここなら髪飾りが落ちてもマノンやリゼットが拾ってくれる。それを切に願うアデリーネだった。
立っていた場所が抉れ、エルゥが避けて飛んだ場所も次々と抉られた。
避けて間を開けたと思われた次の瞬間タラセンコの懐に少女が飛び込んで来る。
必殺の一撃を躱してタラセンコは後ろに回転して逃げる。
「閉じ込められてたにしてはいい動きいいじゃねぇか木偶の棒」
手先と頭部だけを出した状態で一ミリも動けず封じ込められていたら、普通なら血の巡りが滞り先端から壊死していく。自分がじわじわ腐っていくのを味わうのも刑に含まれているのだ。
それがこの男は二百年も封じられていながら肉体を温存している。力ある魔法師の証拠だ。
ディアンヌとリゼットを担いだマノンは一段高い棟に登った。安全な場所に二人を横たえるとリゼットを治療する。
「治癒魔法が使えるの?」
ディアンヌは驚いた。母が魔法師だとしても半分熊人だ。大した力は持っているまいと勝手に判断していた。
「母は優れた治癒魔法師だったのよ。でもあんたは治療しない。聖都に戻ってからよ」
聖女候補になれたのだからそれ相応の魔法師であるディアンヌをこの場で治療する訳にはいかなかった。痛みに弱いのならそれ幸い大人しくしておいてもらおう。
連続するエルゥの攻撃もタラセンコは躱しながら間を詰めていく。それが横に逸れた次の瞬間には大きな拳が肉薄していた。風圧だけでも小さなエルゥの身体は飛ばされそうだ。
だが拳は伸ばし切れなかった。小さな拳がピタリと止めている。しかも左だ。
「ハハハ、この国は女がつえぇんだな」
彼を捕えた茜の聖女のことだ。
「残念。あたしはシェファルツ人」
恐怖にアデリーネは卒倒していた。
「しっかりしなさい。闘いはこれからなんだから」
ヴィヴィにはたかれ覚醒させられるが、どうかこのまま卒倒したままにさせて欲しかった。刑期五千年の囚人と睨めっこなんて怖過ぎる。歯を剥き出してすっごく嬉しそうに笑っているではないか。
剣が一閃してタラセンコのど真ん中に縦に血の線が引かれた。
タラセンコの手に刃が広くて長い鉈が握られる。錬成したのだ。
「俺はこれだ。これで泣き喚く連中をバラバラにするのが好きなんだ」
にたりと笑う。並の神経なら震え上がって身体が麻痺してしまっていただろう。
「やだ、オジサン趣味悪い」
乙女の様に怖がる素振りをする。
「今日でその趣味終わりにしてやるよ」
剣と鉈が激突する。余波が水紋の如き模様を大地に描いた。
二合、三合と続く。
本気を出したタラセンコの力に競り負けてエルゥは四合目で下段の棟の屋上に叩き付けられた。
建物を壊せば囚人が逃げる、とヴィヴィは心配していたが、小島といえど島全体を覆った監獄を全て使う程に囚人は収監されていない。看守や封印チームを含めても上段の本丸部分で事足りている。
それだけに使用されず放棄されたままの建物は壊れ易かった。力が弱らぬままに階下の石畳に衝突する。大きく建物が崩れて朦々と煙が上がった。
「あらら、プチッと潰れちゃったかなお嬢ちゃん。血溜まりの中で潰れてるのが見たかったのに、この煙じゃ見えねぇじゃねぇか」
煙は直ぐに収まりそうになかった。
「ま、ちんまいから血もちょっぴりしかねぇか」
タラセンコは気配を探ってマノン達を見付けた。
狂暴性を解放された悦びで力の溢れた男の形相はマノンでさえ恐怖を覚えた。
「ヒイイィ」
悲鳴を上げてディアンヌはがくがく震えた。痛みも忘れて這いずって逃げようとする。
「おやおや、男も居た様に思ったのによぉ。この国は女と子供だけだったか?」
リゼットが二人を庇って前に出た。
「ディアンヌを連れて逃げてマノン!」
「いいぜぇ。見えなくなるまでは待ってやらぁ。なんせ俺を解放してくれた奴だからな。ちいとばかし鬼ごっこを愉しむのもおつだ」
「鬼さんこちら」
背後にエルゥの姿が現れた。
避けきれなかったタラセンコの左手が落ちる。硬化したが一閃で斬り落とされてしまった。
「うおおおおぉおおぉぉ。俺の手ぇー」
獣の咆哮が上がった。
彼には細胞を活性化させることは出来ても斬られた手を元通りに着けることは出来ない。これまで散々傷付いてきたが四肢を切断されたのは初めてだった。
「てめぇーーーっ⁉」
風切る音も凄まじく鉈が迫る。エルゥが躱したので屋上の煉瓦敷が破壊される。その余波で自分も階下に落ちた。
「《ゲイ・ボルグ》」
エルゥが魔法の槍を投げるとそれは三十本に分かれ、タラセンコの全身に突き立った。
「グオオ」
血と空気を一緒に吐き出す。それでも槍を引き抜こうとしたが、刺さった瞬間槍先は銛を出していたから肉が引っ掛かって動くだけで激痛が走った。
「クソがあぁ」
「淑女に下品な言葉使うんじゃねぇよ。お仕置きだ」
エルゥが放った高電流の《雷撃》は一瞬でタラセンコを真っ黒焦げにした。
長い刑期を残した、獣と化した男の最期だった。
言葉もなくマノンとリゼットも見守る。
埃がおさまって焦げた死体が見えても、まだ二人は信じられない思いがした。看守側も同じ思いで、バラバラにした死体を封印チームがクリスタルで固め、四つの塊を持ち帰ることになった。
国境沿いの森の中では今か今かとオディロンを待つニノンとナタンがいた。
〔ねぇ、オディロンはまだ?〕
心配で何も手に付かないナタンは何十回目かの質問を発した。
〔いい加減にしなさいよ。これで何百回目だと思ってるのよその質問〕
ニノンもまた何十回目かの同じ答えを発し、尻尾の蛇でナタンを襲うのもお約束だったからナタンは身軽に逃げる。
「まあまあ二人共落ち着いて」
蛇どんを巻いたダンテが被るのは仔羊の頭に変っていた。垂れ耳兎の被り物は不評だと聞いて変えたのだ。彼としては非暴力友好の印だったのだが。
放っておくと本気の喧嘩になるので、ダンテは飽きずに仲裁に入った。
〔だって、オディロン遅いんだもん〕
遅いも早いも約束の時間などない。
「じゃあ、オディロンが来たら何て言って迎えてあげるか考えた?」
〔え?ううん、何にも〕
〔そういえば、家じゃないから「お帰りなさい」は変よね〕
「きっと辛い思いをしたはずだから優しい言葉を考えてあげようよ。何て言う?」
〔えーと、ミルワーム食べて元気つけて〕
丸々と肥えた虫を差出す。彼にとってはご馳走だ。
〔何してんのよ、オディロンはミルワーム何て食べないでしょ!〕
「じゃあニノンは?」
〔あたしは…ご苦労様、は変よね〕
「この場合はね」
〔え、…とえ、えぇ…と、う~ん。「また会えて嬉しいわ」。ちょっと違うかな?〕
〔隣のお姉さんは「ご無事で何よりでした」って言ってたね〕
〔あんたがそんな口きいたらオディロンは別人じゃないかって疑うわよ〕
〔なんだよ。じゃあ何て言ったらいいんだよ?〕
〔それを考えてるんでしょ!〕
〔だっていいのが浮かばないんだよ。何て言おう、何て言ったらいい?ねぇダンテ。ダンテなら何て言う?〕
「俺かい?俺は決めてる。相手が喜ぶかどうか分からないけどね」
〔何て言うの?〕
バサバサッと飛んでニノンがダンテの膝に乗った。瞳が好奇心に輝いている。
「「信じて待ってた」って。俺はね」
心の深い場所から出た言葉だった。
〔ダンテは誰かを待ってたの?迎えに行かないの?〕
「理由があって迎えに行けないんだ。だから二人の苛々する気持ちも解かるんだ」
ニノンの質問にダンテは優しく答えてやった。
〔早く来るといいわね〕
「そうだね。ほら、お喋りしてたらオディロンが来たよ」
森の空き地でグラニを降りたオディロンとパトリスが思念を追って木々の間を抜ける姿が見えた。
〔オディロン、オディロン、オーディーローン〕
小さな身体でナタンはチョコチョコと駆け出した。
〔オディロン、オディロンだわ〕
負けず劣らずニノンも嬉しそうだ。
〔お帰りなさいオディロン。僕ら心配してたんだよ〕
ミーシャは折角の休日なのに妹に蹴り起こされた。兄に手加減はいらない。床の絨毯の上に寝ていたミーシャは壁に激突した。野育ちだから何所でも眠れるのだ。
半分でも熊人の血を引くマノンを忌む人は多いので官舎や集合住宅に住まず、ジオノが購入した一軒家を借りていた。家賃という形で購入費を返しているから壁が壊れても平気だ。
「お兄、これどういうこと?」
妹が突き出した書類には父に付いてアルトワ・ルカスに来ていた長男の名があった。ただしミーシャには読めなかったが。
『イリューシャ・コロコロフの当学園への入学を許可する』
「朝からキンキン声出すな、うっせぇな」
蹴られたことはどうでもいいらしい。
「もう昼!」
「細けぇな。…そりゃなんだ、ほら学校って奴に入れるようになったって報せだろうが」
「読めば分かるわよ。いつの間にこんなことになったのか、は一先ず置いといて、つまり、イリューシャだけがここに残るってことよね。そうよね!それならあたしも喜んで面倒見るよ」
父の社会からも母の社会からもはみ出さされたマノンの心は複雑だ。大好きな兄がいれば嬉しいが女癖が気になる。
こそっと事の成り行きをイリューシャの可愛い顔が覗いている。
極北育ちには温暖な気候も暑い。素っ裸で寝ていたミーシャは裸体で妹に向き直った。
「兄ちゃんもそのつもりで鬱金の君に話したんだよ。そしたら定職に就かないで出稼ぎばかりしてたら家族が恋しがるだろうって、本雇いしてやるから家族を呼寄せたらいい、ってよ。いや、優しいねぇあの人は」
「受けたの、その話⁉」
信じられなかった。絶対人の多い場所なんて嫌がると思っていたのに。
「兄ちゃんも悩んだよ。人間が蜜蜂みたいに群がりやがってよぉ。蜜蜂はいいよ上手い蜂蜜作るから、けど人間はなぁ……」
「蜂蜜なんてどうでもいい!なのに受けた訳かお兄は」
「うん、田舎じゃ仕事ねぇし」
仕送りしてやる、と言いたかったが兄は受取らないだろう。借りた金もきっちり返す兄だ。
「もう直ぐ七人目産まれんだよ。今のままじゃ出稼ぎばっかでガキの傍に居てやれねぇし、ナターシャも産ませて子育て押し付けてばっかじゃ悪ぃだろ」
「ナターシャには愛想尽かされて捨てられたんじゃなかったっけ?」
なのに子供が出来てる、どういうことだ。
「鬱金の君が家を用意してくれるってよ。稼ぎも悪くないし毎月金は入ってくるしそれで説得出来っだろ。イリューシャはお頭がいいから学校行かせてやりてぇじゃねぇか。本人もその気なんだよ」
絶対俺の血じゃねぇ、嫁のだ、と続けた。
それには賛成だし兄の言い分も解かる。急速にマノンの気勢は殺がれた。
「納得しろよ」
「……ナターシャは絶対に説得してよ」
ならば浮気も出来まい。
「わあった」
「冬は?エルゥの稽古相手に雇われてんでしょ?」
「そっちは絶対断れねぇ。なんせ払いがいいからな。本雇いは来春からだ」
一難去ってまた一難だ。ミーシャは顔が良くてモテるから女の方が積極的に誘ってきたりする。仕事と酒で囲い込んでナターシャと組んで当たれば何とか…。
何事もないと祈りたいマノンだった。
大きな拳程もある蜘蛛は所定の位置に着くと尻から糸を出した。それを糸車に繋ぐと糸車を回す。艶々と輝く糸が巻き取られていく。一定の早さで巻き取らなければ糸は均一にならないから慎重にする。根気良さのいる仕事だ。
「それでね、先生。ダユーお師匠様は凄く怒ったんですよ」
糸車を回しながらエルゥは中断していた話を再会した。いつも一緒のヴィヴィは蜘蛛に手を出してしまいかねないからと一時離れて虫を探しに行っている。ダユーはフッと出掛けてその内帰って来る。冬までは剣術修行がないので、それまでは気ままにしていて、誰も彼女の行方を気にしていなかった。何しろ剣聖だ。
「何で三合までで倒さなかった、って。酷くないですか?」
(ええお嬢様、酷いですとも、凄く同感です!)
あの迫力に凄まじい形相、気絶もせず真正面で対決しただけでアデリーネは偉いと断言出来る。白磁なんて戦闘が終わっても立ち直るのに時間が掛かった。
両性具有
アンドロギュヌス
白磁を思い出す時その言葉も同時に想い起こされた。心は全くの女性だったのに、女性でもあったのに聖女となる資格が喪失した彼女。
瀟洒な青年は微苦笑した。
「いつもながらダユーは容赦がないね」
柔らかく人の心にすんなり入る声だ。
ツィターを掻き鳴らしながら生徒の話に耳を傾けている。蜘蛛がアドリアンの演奏を好むので糸を取る時は必ずアドリアンの演奏付きなのだ。アドリアンが弾けない楽器はなく、優れた演奏家でもあったからエルゥも彼から楽器を習っていて、ブルー・ナ・ノウスでは様々な楽器が演奏されていた。
同じ部屋では長い黒髪のビスクドールのクラリッサが糸をもらった蜘蛛に特別な餌を与えていた。薬草で染色した蜘蛛の糸を小さな織り機で簡単な模様に織っているのはアデリーネだ。
広い屋敷で召喚逃れを目論んで居候を決め込む魔物達と、友達になるべくオディロンはパトリスと共に日々励んでいた。
オディロンは名前をエルキュール・キュヴィエと変えた。家を出てからずっと使っていた名前だから、彼にはこの名の方がしっくりくるようだ。
彼らが恋人同士でキャッキャウフフしているのをアデリーネはキラキラした瞳で食い入るように見詰めていて、それはまだいいのだが、時に期待に満ちた「ふふふふふ」という不気味な笑いを洩らすことがあり、アドリアンの心胆を寒からしめている。
「剣聖位に興味はないですけど、この冬が最後の年だと思うと嬉しいです。ダユーお師匠様のしごきから早く卒業したい」
「そうだね。君はよく頑張ってるよエルゥ」
心に染入るような優しい笑顔を作った。エルゥも釣られて笑顔になる。
「そういえばその後どうなったのでしょうアルトワ・ルカスは?」
問うたのはアデリーネだ。辺境の地まではアルトワ・ルカスの噂が伝わるまで時間が掛かる。情報を拾おうと思えば拾えるエルゥやアドリアンからも何の言及もなかった。
「鬱金の君がどうにかなさったのではないかしら?」
「お嬢様は気になりませんか?」
「私が気になるのは、トロザで不意にプウちゃんを近くに感じたのに見付けられなかったことだけね」
それはアデリーネも聞いていた。エルゥは割り切りがいいから関心のあることとないことがハッキリしていていて時に薄情な程だ。
「気になるならあの後の様子を聞いてみるわ」
「どなたにです?」
てっきり父か母に連絡する時に訊いてみるのかと思ったが答えは違った。
「鬱金の君に」
「もしかして園遊会でお会いしてから個人的な遣り取りが続いてらっしゃったのですか?」
それならアデリーネに話さない訳がないと思うのだが。
「いいえ全然。でも聞きたいなら鬱金の君が一番よくご存知なのじゃないかしら」
(それはそうなのですけど、個人的な遣り取りがないのにいきなり訊くんですか?)
お嬢様なら何の拘りもなくするだろうな、そういう気はする。
「僕が調べておくよ。アルトワ・ルカスには友達も多いからね」
穏やかにアドリアンが申し出てくれたのでアデリーネはホッとした。
公式にはシードル・タラセンコは石に封じられたまま病死したと公表された。四つに分けられクリスタルに封じられた遺体はケルク・ジュールの牢に戻され、周りを石で埋められて扉もなくなって壁になった。五千年後も解放しよとする者はおるまい。
国軍も聖女を護る高名な騎士達も動かなかったから、タラセンコが白磁によって解放されエルゥに倒されたことは極秘に出来た。
白磁の聖女はタラセンコの死を確認した後、体調不良で静かな場所で療養に入ったとされたが、関係者は事実上の幽閉であることを知っている。頃合いを計って本格的療養の為退任したことが発表されるだろう。
国民の知らない場所で政争が起こっていた。
白磁は聖女を崇拝するあまり先細りする貴族の家門と組んで聖女を女王とする王政を画策していたのだ。
アルトワ・ルカスは聖ルカスから独立し、聖女統治の体制を取ってから聖女の下の平等を目指していた。よって建国以前の貴族はそのままに以降は貴族を増やしていない。年々貴族家は数を減らし日陰の存在に追いやられていた焦燥から多くの貴族家が参画していた。
聖女の失点を隠して事にあたったから大きく糾弾することは出来ず、小者だけが処分された。
「夢の王政か……」
報告を聞きながら鬱金は独り言ちた。
「夢の王政」とはアルトワ・ルカスを独立させたカイキリアを初代とする王朝が起こされなかった時、どこの誰かが言って伝わった言葉だ。
聖女が女王になろうとしている、という信憑性のある噂も国民の信頼には敵わなかった。それだけの統治をファタは行っていたのだ。噂は噂として顧みられず、鬱金が案じた程広がらなかった。
「女王への野望がおありですか?」
隣で共に報告を聞きながらモーリス・ジオノは聞き逃さなかった。
「そうね。ハーレムを作って男を侍らすのは楽しいかも」
東の皇帝は千人の美女を後宮に入れたんですって、そこまで強欲じゃないわね私は。事件からこっち笑いのめっきり減った鬱金は、つまらなそうに呟いた。
「その時は是非わたくしめを真っ先にご指名下さい」
冗談めかしもしなければ、面白くもなさそうにただ通常の如く平坦な声だ。
「美男子が条件よ」
「心得ております。軽くクリアしておりますな」
聞き耳を立てていた一同は誰もが思った。
確かに顔は悪くない、顔は。
鬱金は笑った。
「フフ、貴方って時々酷く面白いことを言ってくれるわね」
ジオノが珍しく笑顔を作ったので、誰もが驚き我が目を疑った。
約束を違えることなくアドリアンはアルトワ・ルカスのことを調べてそっと教えてくれた。それが結構機密情報だったりするから驚く。
(やっぱり彼女のことを聞くのは悲しいな)
魂が抜けて操り人形の様になった白磁は、しかし自分の変身を解く事だけは無意識に拒否して、本当の姿を取ろうとはしないという。
「聖女候補の条件に魔力を省いても凡人は決してなれないんだよ。いっそ自分の性を受け入れられていたら、聖女を支える政務官として歴史に名を遺していたかもしれないのにね」
同感だった。
誰にでも受け入れられない自分があって白磁は悔しかったろう。美しく成長し、スカートの裾を颯爽と翻して国事に奔走する自分を見せられなくて。
記しておこうと思った。例え死後に知らずに日記として燃やされてしまうかもしれないとしても。
身体が弱くて成人しないと思われていたエルゥお嬢様は、今や剣聖候補として剣聖ダユーにしごかれ、アデリーネの視線の先でゴーレムに混じって虫の世話をしている。
後に彼女が何者と謂れるのかはしれないが、何者でもない彼女を記しておこう。彼女にまつわる人々も余すことなく。
アデリーネはその想いを強くした。