第二章 聖女の息子の事情
晴天の日、何処か冷たい感じを受ける金髪碧眼の青年は、昼食のバゲットサンドを齧りながら生徒達の元気な声が聞けないのが残念に思った。
自主性を重んじる地方の学園で百年以上教職を勤めていたのだ、一番避けていた聖都トロザにいるのに強い違和感を覚える。変わり者の教師にも心を開いた人々がいた学園に戻りたいが、聖女の息子と正体をバラされた以上戻ることも出来なかった。
急に食欲を無くしてバゲットを包み直すと鞄に突っ込む。
「もう食べないの?元々痩せてるのに更に痩せちゃうよ」
明るい声がして小柄なマノンが珈琲を手にベンチの隣に腰掛ける。
「マノン…」
「はい、濃いの好きだったよね」
今の気分にピッタリの濃い芳香が快い。
「有難う丁度欲しかったとこなんだ」
マノンは人に忌まれる熊人と人間の混血だったから、近寄るのも疎んじられたりすることがあった、オディロンは普通に接してくれた。
「今日はナタンもニノンも連れてないの?」
教師時代フィールドワーク中に手に入れた魔法生物を、よく職場に連れて来ていた。何らかの事情で魔法生物の存在が必要な人もいるから、職場に連れて来ること自体は厳しく禁じられてはいない。
「ああ、午後は二つ企画会議を抱えてて、連れて行けないから置いて来た」
「残念、あたしはようやく聖都に戻れたから会いたかったのに」
どちらともマノンは仲良くしていた。
「長いこと行ってたよな。また連れ来るよ」
「ありがと。ホント脳筋連中を相手にすると疲れるわ~」
アレラーテで開かれる聖女の警護隊士選抜会の為に出張していたのだ。
「テメリテ(無謀)軍団の騎士連隊長つったら頭良さそうに聞こえるけどさ、筋肉で物を考えるのは上下の貴賤がないわね」
「ハハハ」
いつもの快活な物言いに笑ってしまう。彼女と話していると元気な女学生と話している様で嫌ではなかった。喋り過ぎるのが玉に瑕だが。
「ところで園遊会で着て行くものは決めた?」
咄嗟に逃げようとしたが流石に熊人の血が入っている。襟首を掴んで連れ戻されてしまった。
「決まったのかしら?」
にこーッと笑う。
「持ってるもので一番いいので…」
「教師時代の冴えない礼服なんて着てったら殺すわよ」
声の調子が変わった。
園遊会を主催するのは鬱金と露草の聖女の下で政務官を務めるアナイス・アルノーとジェルメーヌ・ドパルドン、ブランディーヌ・オルタンス・ジョアンヴィルの三名で、彼女らは皆次代の聖女候補なのだ。
アルトワ・ルカスを統べる聖女は色付きの聖女の中から選ばれるが、色付きの聖女もある日いきなり指名される訳ではない。聖女候補として神殿に登録され政務官となって政治の場で国の為に務め、能力を認められなければならない。そうして色付きの聖女が引退或いは死亡した際に更に数人にまで候補が絞られ聖女会議で決定される。
だから色んな場所や機会を捉えて自分をアプローチする必要がるのだ。
マノンは鬱金の聖女の下で事務官として働いているから、彼女達を応援していた。
園遊会は選抜会の前夜祭として開かれる夜会に、まだ出席する資格のない年頃の令嬢や令息方が中心である。社交界デビューする前の数少ない練習の機会なのだ。場に馴れていない令嬢達をダンスに誘うのは物馴れない令息達だけでは足りない。
それで見てくれの悪くないオディロンにも白羽の矢が立ったのだ。
華やかな場所を敬遠していたオディロンだが、子供の頃から世話になり、白磁から助けてもらった鬱金の聖女の為と説得されては、渋々承諾しない訳にもいかない。勿論説得にあたったのはマノンだ。
「あたしはね事務仕事が不得意な脳筋連中の為の尻拭いでとーーっても忙しいの。あんたは明日お休みでしょう?あたしもなの。しょうがないから礼服選びに付き合ってあげるわ。お直しの事も考えたらもう時間がないことだし」
恩着せがましいことこの上ない。
「僕を着せ替え人形に遊ぶつもりだろう!」
「はあ?親切な申し出でしょう。休日潰して服選びに付き合ってあげようっていうのよ」
「明日明後日と連休なんだ。僕はモン・トンブの方にフィールドワークしに…」
マノンのエルボーでベンチの背凭れが割れ、オディロンは絶句した。
「何であんたそんなに暇なのよ。他の政務官達は休日返上でたくさん仕事抱え走り回ってんのに」
理由は一つ、彼はとても有能なのだ。流石聖女を輩出した家系だと納得させられる。
「そういう働き方は…僕は良くないと…思うんだよね」
声が小さくなっていく、マノンが剣呑な目つきをしている。
「そうね。良く働く為にも休日は楽しんでストレス発散しとかないとね。判った?」
「はい」
というしかない。
翌日は紳士服の専門店をあちらこちらと引っ張り回され、昼食だけでなく、有名な紅茶専門店でのアフタヌーンティーまで奢らされた。
「あー、良いことした後の紅茶は美味しいわぁ」
「僕も疲労困憊してゲロ甘なお菓子が美味しく感じるよ」
スッキリした顔のマノンを恨みがましく見詰めるオディロンだった。
「そういえばもう聞いた?剣聖ダユーのお弟子さんの事」
「シェファルツの宰相の娘」
無能ではないオディロンの記憶力はかなり優れている。
「それだけじゃなくて彼女の連れてる魔法生物の事。星の卵から生まれたんだって」
途端にオディロンの背筋が伸びた。
「お、知らなかったなぁ~?じゃあ今日のご褒美に教えちゃおっかなぁ」
星から石が落ちて来る時、稀に石の卵が含まれていることがある。卵型をしているとは限らないので、最初は星の石の中でも特殊な石だと認識されていなかったが、強力な魔法で石を孵すことがあるのが分かり、稀少な中でも稀少な星の卵として認識されるようになった。
星の卵は数も少なくトンでもなく高価で手に入れること自体が難しいオディロンの羨望の的だった。なのに同時代にそれを孵した者がいるというのだ。
「彼女は17歳で剣聖候補のはずだよな」
そんな幼くして星の卵を孵したのだ。
「そう、凄い美少女で星の卵から孵した猿を四六時中連れてるらしいわよ。彼女吃音があってね、家族や心を許した人物じゃないと上手く話せないらしいの。その猿はそれを補って、彼女の声で彼女の考えを代弁するんだって」
「⁉」
出会った人間の声真似をする生物はいるし、心を読む魔物もいるが、心を読んで当人の声で代弁する魔法生物など聞いた事がなかった。
「会いたいでしょ~~」
魔法生物をずっと研究してきたのだ会いたくない訳がない。
「会いたい⁉」
会える術を教えるつもりなのだ。息を詰めて待った。
「うんうん、彼女ね、園遊会に出席するはずよ。デビュー前の令嬢だからね、露草の君が正式に招待してる」
一拍間を置き悪い目をした。
「俄然園遊会に出たくなったでしょ?」
コクコクと言葉もなく頷いてしまうオディロンは、悔しいが分かっていてもマノンの術中にはまってしまう。研究者魂がプライドに勝った瞬間だ。
そうと分かればじっとしていられなかった。
「こここれで足りるかな?」
怜悧な若者がおずおずと銀貨をテーブルに置く。
「はいはい、星の卵のことを調べに行きたいのよね。いってらっしゃい」
「マノン。君は僕の心をちゃんと解かってくれる得難い友人だよ」
見た事もないいい笑顔だった。そう言われればマノンも悪い気はしない。
(解ってるわよマノンさんは色々解っちゃうんだから)
紅茶のお代わりを注文すると席を立って近いが観葉植物で巧妙に隠された席に向かう。カップルが見詰め合って座っている。手付かずで乗ったままのタルトをフォークで一突きすると口に放り込む。乗せていた皿が割れている。物を良く壊すマノンなのである。モグモグタイムの間、二人を観察する。どちらも緊張して身構えて受けた無礼に一言も発しない。
ゴクンと大きく呑み下すとマノンは挑発的に口を開いた。
「これが人を動かすってことよ。白磁の君にちゃんと伝えておいてね。オディロンはマタタビを嗅ぎ付けた猫みたいに、令嬢にまっしぐらなんだから」
見ててご覧、と胸を反らし、返事も待たずに席に戻ってスィーツを堪能した。
意気込んで図書館に行ったものの、星の卵は大変稀少な存在だったから研究も進まず、ほとんど一読はしている物ばかりだった。
白磁の聖女によって聖都に連れて来られた際、自分で集めた本も一緒だったのだが、持って逃げる訳にはいかなかった。その中にもあった本もある。
きっと燃やしたり捨てたりはしていないだろう。コツコツ安月給を切詰めて本を集めたのだ。稀少な本もあったから気にはなってはいたが取りに戻れるものではない。もうしばらく様子を見て鬱金の聖女に本のことを聞いてもらうしかない。
溜息を吐くと借りる本を数冊選んだ。
住居には職員専用の官舎を選んだ。主に鬱金府と茜府の職員が住んでいる。護衛騎士や警護隊士も住んでいるので街中に部屋を借りるより安心出来る。
服と本で両手は一杯である。どうやって官舎の扉を開けようか悩んでいると中から扉が開いた。
(やった!)
出て来た人物はオディロンの両手が塞がっているのを目にすると、扉を開けていてくれた。辛うじて長身といった背丈の、騎士にしては落ち着いた理知的な感じのする青年は顔見知りである。恐らく友人を訪ねて来ていたのだろう、何度も見ている。露草の聖女の警護隊士ヴィアルドーだ。
「有難う助かったよ」
「どういたしまして凄い荷物だな」
「はは、礼服と靴を一揃い買った後に思い付いて図書館に行ったものだから」
「魔法生物の本かい?」
「…よく知ってるね」
「君はある意味有名人だからな」
ああ、そうか、と納得する。生母のことも鬱金の聖女の政務官になったくだりも尋常ではないのだ。
「それと早く帰った方がいい。君の部屋の前を通り掛かった時、中から怒声と破壊音が聞こえてたから、ニノンとナタンが喧嘩してるんじゃないかな」
「あいつら…」
急ごうとして段差で躓いてしまったのをヴィアルドーが支えてくれる。ベチバーの香りが鼻をつく。
「気を付けて」
抱留めた強い腕にオディロンの心がざわっとした。
「は…ハハ、本当に有難う、じゃあ」
叶う限りの速足でその場を後にした。
部屋の戸を開けると大惨事になっていてそこら中が焦げ臭い。静かだが本を読むどころではない状態だった。
「ナタン!ニノン!お前達また喧嘩したな⁉」
動く気配が二つ。
〔オディロンが置いてくのが悪いんだ!吾は悪くない⁉〕
何処からともなくナタンの声が聞こえた。
〔そこね性悪リス!今日こそ前菜にしてやるわ⁉〕
〔出来るもんならやってみろ業突くババア〕
ニノンはナタンを見付けると視線で焼き殺そうとしたが、小さなナタンは身軽に逃げる。
喧嘩が再燃する。
「止せ!二人共!」
慌てて制止する。
すったもんだの末に二匹を捕まえられたのは三十分以上経ってからだった。
「さあ、先ずは根本的な解決をしよう。何が喧嘩の原因なんだ?これだけ暴れたんだから、さぞ大きな原因があったんだろうな」
はあはあと息を切らしながら魔法の檻に閉じ込めた二匹に怖い顔を作る。魔法での修復には限度があるしオディロンの得意ではない。
別々の檻から互いに目を合わせた二匹は、声を揃えて、
〔忘れた〕
大抵仲裁に入ると忘れているのだが、今回は本当に力が抜けた。
〔絶対このババアが悪いんだ〕
〔絶対この性悪リスが悪いのよ〕
合わせる気もなくこれも同時になるのだから、一面気が合っていると言えなくもない。のか?
「だからって部屋を滅茶苦茶にするのは良くないだろ。何度もいうけどここは宿舎なんだ。騒音を立てたら近くの部屋に迷惑だし、僕らの後に住む人達の為にもなるべくキレイに住まないといけないんだぞ」
〔いつ前の家みたいな壊れていい家に引っ越すのさ〕
不服そうなナタンだがオディロンはもっと不服だ。
「前の家だって壊して良かった訳じゃない!お前達が大喧嘩して壊すから、古家を買って住んでただけだ」
本や研究資料だけは魔法を何重にも掛けて守っていた。
「あの頃だってこうやって叱られてたろう」
〔ブー〕
〔この部屋には庭がないから、気分転換に外の空気を吸えやしない〕
教師をしながら住んでいた庭付き一戸建てでは近隣の住民ともナタンとニノンは顔見知りだったから、家に閉じ込められることはなかった。
だが都会、特に聖都トロザでは魔法に対する様々の規制があって、特にコカドリーユのニノンには厳しい。本来大型魔法生物であるコカドリーユは、視線で焼いたり毒を吐いたりするものだからだ。
かれこれ百二、三十年前、ニノンの母は老齢で最後の産卵の最後に産まれた卵はとても小さく、孵化するとは思われなかったので放っておかれた。奇跡的に誕生したニノンだったが、コカドリーユとしては余りにも小さかった為、他の兄弟に掛かり切りな母に顧みられることはなかった。なので知人のコカドリーユが、フィールドワークに出ていたオディロンに厄介払いしたのである。
大喜びのオディロンは心が荒んだニノンに幾ら突かれてもへこたれなかった。栄養失調気味だった彼女は今や中年太りで大変ふっくらしている。
ナタンもまたはみ出しっこだった。世界樹に住むリス、ラタトスクの一族だったが外の世界を見たがって、どうにかして外に出ようとしていた。世界樹に住むことを誇りにしていた一族は、元気で小うるさいナタンを、彼の願い通りに外に放り出した。
外に出れたはいいが知らない世界で何の庇護もなく、追放者としての烙印も知れ渡っていたから早晩行倒れてしまった。
哀れに思ったフレースヴェルグは風を起こして、小さな体を庇護者となる者の掌に落とした。それがオディロンだ。
学園に就職が決まる前、無職のオディロンはニノンとフィールドワーク出て、急に風が木々を揺らすのに出くわした。ニノンはドングリも食べるから受け留め様とすると、風はドングリではなくナタンを落として来たのだ。ナタンも餓死寸前だったが、艶のある毛皮だけでなく身体自体もふっくらしていた。
「悪いとは思ってるけど、まだ白磁は僕を狙ってるからここを出ることは出来ないんだ」
〔白磁ってのはお前の母親の手下だろうがさ、ママンにお願いしてどうにか出来ないのかよ〕
腕を組んだナタンは片足を苛々と踏み鳴らした。
「白磁に命令してるのが母なんだよ」
〔だからどうしてだよ!親子だろうが〕
そう言われると何も返せなくなる。説明が長いし口にしたくない類のことだ。
〔人間世界は複雑なのよ。あんたの小さくて皺のない脳味噌じゃ考えられないでしょうけどね〕
庇ってくれるのは嬉しいが一言多いニノンなのだ。
〔なんだとぅ業突ババア⁉〕
〔性悪リス!〕
喧嘩が続く時はこうして延々と続いて切りがない。
「だぁまぁれ!二人共」
言い合いがピタリと止まった。
「分かったよ。今度僕がアレラーテに出張しないといけないのは話したな?」
〔ジラルドとかウラリーの仕事仲間を決めるんだよな〕
〔警護隊士、っていうのよおバカ〕
また両者の間に火花が散る。
「もういい、もういいから二人共。アレラーテは海に臨む大湿地帯があるんだ。大平原も広がってる」
〔え~、もしかして〕
ナタンの瞳が輝いた。
「うん、しばらくいることになるから、羽伸ばしておいで。暇を作って会いに行くよ」
〔やったぁ!〕
〔え~、嬉し~い。美味しいリスいるかなぁ?〕
〔雌鶏を食べる鷹や狼はきっといるねぇ〕
「仲良くしないと、またペットホテルに置いてくぞ」
オディロンは二匹によって惨状と化した部屋を片付け始める。
「ほら手伝え。お前達がしたんだ。出してやるからもう喧嘩するなよ」
窓を開け放して焦げ臭いを逃がし空気を入れ替えた。焦げ跡ばかりになった寝台以外はどうにか修復出来る。
「窓位開けてよかったのに。知ってるだろ?」
二匹は顔を見合わせた。
〔それが最近何処かから逃げたか、放し飼いにされてるグーロがうちを見付けちゃったのよ〕
「ええ、グーロが?こんな街中で?まさか!」
グーロは山猫に似た顔と大型犬の身体を持つ大喰らいの怪物だ。狂暴でもある為、聖都内での飼育は禁止されている。
〔窓を開けようとして気付いたんだよ。涎垂らして俺達見詰めてた〕
「魔法生物法違反だ。話してくれたら良かったのに。訴えに行かないと!もし僕がいる間に現れたら言うんだよ」
〔外のマロニエの枝から見詰めてるのよ〕
何の気なしに眼をやると、そのままの光景があった。
窓を閉めようとしたが間に合わず、派手な音を立ててグーロが飛び込んで来た。体当たりされてオディロンは後ろに飛ばされる。
〔オディロン!〕
二匹の叫びが重なる。
駆け寄ろうとしたが、グーロは間髪入れずにニノンを襲う。視線で焼きを入れようとしたがグーロもすばしっこく動いて躱し、反対にニノンの目を潰そうとして来る。鋭い爪の付いた前足にニノンの尻尾の蛇が噛みついた。
ぐああぁ。
毒が効くかどうか不明だが、激痛が走ったはずだ。
この時の為に用意しておいた大型パチンコを全身で弾いて、ナタンはニノンの毒矢を飛ばしたがグーロの身体には刺さらなかった。
〔畜生⁉〕
「逃げてくれ…ニノン…ナタン」
家具に頭をぶつけたオディロンは、頭がふらふらして二匹の様子は解るのに魔法で応援出来ない。
動きの速いグーロはパチンコごとナタンを前足で払った。小さな体が台所の窓ガラスを割って外に飛ばされる。
〔ナタァン⁉〕
ニノンの金切り声が上がる。ナタンは心配だが危機はニノンにも迫っていた。
外に出ればドラゴンの翼のあるニノンは空高く飛べる。グーロの跳躍力がどれ程優れていようと捕まえられない。グーロを躱して外の出ようとしたが、尻尾を噛まれて壁に叩き付けられる。衝撃で意識を失ったニノンは床に落ちた。
「ニノォン⁉」
グーロは前足でニノンの身体を押さえ翼を口に咥えた。翼を引き裂くつもりなのだ。
痛みを堪えてオディロンは立ち上がるが間に合いそうにない。
(ニノン、生きて…)
その時小さな破壊音と共に室内に飛び込んだ者がいた。
グーロの山猫の顔から《槍》が突き抜ける。飛び込みながら《槍》を作り、背後から突き刺したのだ。
「あ…」
ニノンが無事だと安心すると足から力が抜けた。オディロンの意思に反して崩れ折れてしまう。
(ナタンを……)
「大丈夫か!」
覚えのあるベチバーの香りがする。
「ヴィアルドー…なんで?」
「食い物を買いに出てたんだ。ガラスの割れる音で上を見たら大型の獣が部屋に飛び込んでくのが見えたから」
ヴィアルドーもまさかグーロだとは思わなかった。
「危険生物の情報は警護隊士に必ず来るようになってるんだ。短期滞在でグーロの申請はここ何年も受付けてない」
嫌な予感がしたが、オディロンはそれを頭を打ったせいだと思いたかった。
ややあってヴィアルドーが言葉を継いだ。
「遠話で近くの連中に通報したから誰か来てくれるはずだ。怪我を診て貰うといい。おっつけ魔法生物署も来るだろう」
血が出ているのは分かっていたがそれどころではない。グーロが退治されたのならナノンを探しに行きたかった。ガラスを割って飛んで行ったのだ、きっと酷い怪我をしているはずだった。
「ナノンを探しに行かないと…」
立ち上がろうとするのを抑えられる。
「俺が捜して来るからそこで休んでるんだぞ」
「頼む…有難う」
来た時同様ヴィアルドーは窓から身を躍らせた。
見送ってオディロンはニノンの方に行こうと立ち上がろうとするが、眩暈が酷くて四つん這いが精々だ。
「まあ、酷い」
駆け付けたロベルタ・ロアは室内の惨状を見て取るとオディロンに魔法を掛ける。
「寝てなさい。ニノンは私が診るわ」
うつ伏せでオディロンは眠りに落ちた。
「ああ、ホント酷いことになって」
翼は半ばまでもがれていて出血が酷い。止血すると呼掛ける。
「ニノン、ニノン、私よロベルタよ。返事をしてニノン」
静かに闇に落ちて行こうとしていたニノンは、自分の身体をロベルタが引き上げるのを感じた。
〔痛い…〕
全身が物凄く痛むのに苦しくて悲鳴も上げられない。
「良かった戻ったのね。直ぐに怪我を全部治してあげるからね。気を強く持って!」
言葉の通り瞬く間に外傷が跡形もなく塞がっていく。
〔先に怪我を治してくれたらよかったのに…〕
「先に意識を戻しておかないと治療中に死んでたわよ」
ソファーに横たえられる。
〔オディロンとナタンは?〕
「ナタンは…あれは露草の隊士のパトリスよね。彼が捜しに行ってる。オディロンは大丈夫。これから私が治療するから」
ヴィアルドーのフルネームはパトリス・ヴィアルドーだ。
怪我が治ったからと言って直ぐに動けるものではない。ロベルタはニノンを眠らすとオディロンの治療に移った。
ナタンは空に飛ばされた間に誰かが魔法で自分を受止めてくれるのを感じた。お陰でガラスを割った時に出来た打撲だけですんだ。その傷も受け止めてくれた人が治してくれる。
誰かは知ってるダンテ・ギッティだ。同じ官舎に住んでいる最近茜府に入った事務職員だ。垂れ耳兎の被り物をして蛇の使い魔を纏わり付かせているから一目で覚えられた。どう見たって捕食され中の兎だ。ただ蛇はいつもダンテの肩に頭を乗せて眠っているが。
東洋風のローブを着ていて、背が高い以外の身体的特徴は不明だ。目の部分に嵌め込まれた魔晶石のせいで瞳の色さえ分からないのだ。
〔有難う〕
蛇にはドキドキするが薬草の匂いが染み付いたダンテからは優しい波動が感じられて心地いい
「どういたしまして」
〔俺ナタンだよ〕
「知ってるよ、何度も見かけたから」
〔あのね、…うちに遊びに来ない?オディロンも歓迎すると思うよ〕
「有難うその内ね。それと、もし痛むようなら魔法生物用の薬を持ってるからいつでもお出で」
〔うん、行くよ〕
心地が良くてこのまま傍に居たい気がしたが、ナタンを探してヴィアルドーが現れた。
「ダンテ」
ダンテの掌の上のナタンを見付けて走り寄る。
「ナタンをすまない。怪我まで治してくれたのか」
ダンテは何も問わず全て承知しているかのようにナタンを差出した。手袋で覆われていて肌色も定かでない。
受取るとヴィアルドーはまた窓から部屋に戻った。
オディロンが襲わるの報は白磁の聖女にも伝わり、血相を変えて駆け付けたが鬱金の聖女に阻まれてしまった。鬱金は取り付く島もなく、白磁は憤懣やるかたもなかった。今や飛ぶ鳥を落とす勢いの白磁を真っ向から阻むのはいつも鬱金だ。
「この頃の貴女は怒ってばかりね」
私室で休んでいる聖女に報告に向かおうとして、アネモネの花壇の縁に腰掛けているのに出くわしてしまう。
仮面を外しているから、成人した息子がいるとは思えない若く美しい顔が夜風に晒されている。
「私的空間であっても外で仮面を外すのはお気を付け下さい」
聖女同志であるから仮面を外しても良いのだが、何処に目があるか知れたものではない。
「公式な場所でなければ多少素顔を晒しても大丈夫なのよ。それで…オディロンの様子はどうだった?」
「直接はお会い出来ませんでしたが怪我はロベルタ・ロアが治したそうです。しばらくは頭痛があると…」
「そう」
「ご心配でしょう?」
気遣う白磁に聖女は気のない素振りを見せた。
「貴女の為にそういうことにしておきましょうか」
「私がオディロンを保護したかったのですが」
聖女が苦笑する。
「貴女は私の補佐よ。白磁がオディロンを保護すれば肉親への干渉になるわ」
鬱金にも言われたことだ。
「そこは上手く細工します。それに鬱金にオディロンが守れると思えません」
「貴女が鬱金の君の警護隊士を次々引き抜いたからでしょう?」
「⁉……だからって白熊人を護衛騎士にするなんて」
2メートルを超す筋肉隆々とした男が鬱金を守る様に立っていた。思い出すだけでイラつく。
「私が許しました」
「聖女様⁉」
「どうしてそう貴女は鬱金の君を敵視するのかしら?あの方のすることに間違いはないのよ。何度も教えたでしょう?私とあの方の意見が対立する時、私はあの方の意見を優先するのよ」
だからこそ聖女と鬱金を会わせたくなかった。
「そんな!聖女様のお考えに間違いがあるはずがありません!」
「いいえ間違えるわ。その時に聖女を正すのが色付きの聖女の役目よ。彼女はそれに忠実に行動している」
「聖女様…」
「私はこの国を統べる聖女として間違いを犯している。貴女が好きよ白磁。個人的に好んでいるわ。だけど色付きの聖女達からの面会を遮断しないで、以前の様に会える様にして」
「それでは聖女様の威光が……」
「その程度で衰えるなら私は本物の聖女ではないのよ」
「そんなことありません!聖女様は歴代でも優れたお方だと評判を得ているではありませんか」
「そうであり続けたいものね」
聖女は突っ立ったままの白磁に隣に座るよう、隣を叩いて促す。
「貴女は私にどんな夢を見ているの?」
「私は聖女様の為に一命を尽くさせて頂きます」
「それはこの国の為になる?原点に立って考えて頂戴」
「勿論です聖女の御為になることが引いてはこの国の為になるのですから」
何故聖女が哀しい瞳をするのか、白磁は皆目見当もつかなかった。
「お疲れ様、今夜はもう休みましょう」
「はい、お休みなさいませ」
だが白磁はまだ休むことは出来ない。どうしても今夜中に会っておきたい者がいた。
執務室に戻ると事務官に訊いた。
「連絡は取れている?」
「はい、今夜訪ねる旨は伝えて返事も頂いております」
「じゃあ出かけましょうか」
そして話によっては長い夜になるだろう。
聖女の為には汚れ仕事も厭わない。白磁の思いに迷いはなかった。