第一章 お嬢様の事情
それまでも朧気に思い出してはいたが、前世というか転生前の記憶をハッキリ思い出したのは思春期の頃だった。
父の収入は悪くないが、子沢山でやっぱり貧乏になっちゃった家庭の長女として育った。両親の愛情は深かったが家庭環境からアデリーネの学歴は読み書き算数が出来る程度しかない。そういう家庭の長女の宿命として十代になると直ぐに親を手伝うだけでなく、収入のある細々とした近所の仕事をこなし、十四の歳に気働きの出来るしっかり者として領主館にメイドとして推薦された。
眼光鋭いメイド長にはビビらされたが、無事採用され掃除係から始めた。
そして覚醒を促す物に出会った。
乙女小説だ。
転生前の感覚でいうところのTLである。
図書室には使用人も入れる一画があり、本を借りることが出来た。使用人が読む本なので難しい本は多くない。大半がその時々の流行小説だったりするのだが、やはり需要があるのだ、本棚の一画には恋愛小説のコーナーが作られていた。
読書は好きだったが少ないお小遣いでは頻繁に買うことも出来ずにいたから本を見ただけで嬉しかったが、乙女小説はアデリーネの内の陽菜乃の覚醒を一気に促した。
当初は頭がおかしくなったのかと疑ったが、前世の記憶を思い出したといってもアデリーネの意識が陽菜乃に乗っ取られることはなかった。近くて遠い、遠くて近い記憶として陽菜乃はいた。
誰にも打ち明けられなかったが、辛いこともあるメイド生活でも、陽菜乃視線で見れば面白かったり慰められたりして何とか乗り越えてこられもした。
転生した世界では誰もが魔力を持って生まれてきて、魔力の大きさによって寿命が決まる。アデリーネには自明の理だったが、陽菜乃の目で見た時とても驚いた。だが千年の魔力を持っていても生きられるとは限らないらしく、千年を超す人物は本当に稀なのだという。
誰もが魔力を持つ世界だといっても、極々一般的には持っていてもしょうがない様な魔力の人が最多数だったから、寿命はやはり百年から百五十年前後が圧倒的多数を占めていた。アデリーネの家族も取り立てて有用な魔力を持っておらず、神殿の取調官はアデリーネの魔力を計って失望の溜息を吐いた。
だから何かしら取柄となる魔力を持つ人は取り立てられることになり、魔法は一般市民からは離れたモノのような感覚になっていた。
「どうですか?新しいドレスは?」
着付けを終えてアデリーネは訊いた。
転生した陽菜乃は、22歳の現在、誰もが魔力を持つ世界でエルメンガルド、愛称エルゥお嬢様の専属メイドをしていた。
新品のドレスを身にまとって鏡に映った自分を矯めつ眇めつしていた白とピンクの猿は上機嫌で振返った。
「有難うアデリーネ!貴女が作るドレスは最高ね」
礼を述べる声は高いがハッキリとした男声だ。
因みにお嬢様は目の前の猿ではない。
星の卵から産まれたヴィヴィはお嬢様が孵した魔法生物だ。いい気分になった時の癖で体長の二倍はある尻尾を抱き寄せて撫でている。
曲鼻亜目のヴィヴィは目の周りと口元に生えた長い飾り毛に首周りの襟巻の様な毛がピンク色をしている以外は真っ白な毛皮だ。
お嬢様の『分身であり、友であり、言葉である』とは、お嬢様の病気を治療した大魔法師ウィクトルの言葉で星の卵も彼がお嬢様に与えた。
産まれたのが可愛らしいがお姉の猿であったことにお館様―お嬢様のお父様で領主―は全く納得しなかったが。
「エルゥどう?」
軽やかな動きで積まれた本の谷間で書き物をしている少女の下に、あっという間に移動した。ドレスアップした姿を見せようと、背丈程もある本の山を押した。
それに気付いたエルゥは全身が見えるように本をどけてやる。
「凄く似合ってるわヴィヴィ」
そうでしょうとも、といった様子で本に寄りかかってポーズをとった。
「まあ、あたくしは何でも似合うんだけどね」
「そうよね。ヴィヴィは何でも似合うから羨ましいわ」
「ああ、エルゥはお子様顔だから大人っぽい物はちょっとねぇ」
これでも気を遣って言葉を濁したつもりなのだ。
確かにアデリーネが専属で付いているエルゥお嬢様は長年の病気のせいで背は低いし、十七歳にしては女性としての見た目の成熟度が低い。甘く優しい美貌も相俟って年齢より年下に見えてしまう。自前のストロベリーブロンドは持ち前の魔力の強さを表すそうだが、それもまた幼さを演出してしまっていた。紫の大きな瞳に邪気がない。
「露草の聖女に合わせて青で作ったのね」
気を悪くした風もなくニコニコしている。
「ええ、折角のご招待ですもの恥をかかせる訳にはいかなわ」
招待されたのはヴィヴィではないのだが。
幼少の頃からの病気が治るとエルゥは、強い魔力に振り回されないように家を離れて魔法師修行に入った。ブルー・ナ・ノウスというシェファルツ王国の北の辺境にある学び舎だ。ところがそこで剣士としての才能まで見出されたエルゥは、冬の間だけ剣聖ダユー自らに剣術を学んでいた。
今回の招待は剣聖ダユーに対してのものだ。
露草の聖女はアルトワ・ルカスを統べる色付きの聖女の一人だ。
最高位は聖女とだけ呼ばれる女性で、その下には色付きの聖女が九人。その内白の白磁と白百合、黒の烏羽と濡羽は聖女の補佐をし、鬱金、すみれ、露草、常盤、茜が聖女を助けて国政を支えていた。
聖女として選ばれた瞬間から俗世俗縁とは切れなければならず、以後個人名は呼ばれないし、顔も上半分は隠さなければならなかった。
鬱金と露草の聖女が共同で主催する聖女の警護隊士選抜会に、ダユーは審査員として招かれ、エルゥは弟子として付いて行く。
正直剣術よりは魔法師としての修行を優先したいエルゥには有難迷惑な話であった。
「ねぇ、エルゥが作ってもらった青の服に似てるでしょう?」
「お揃いにしてくれたのね、有難う嬉しいわ」
「んふ」
おしゃまに肩を竦める。
冬前にはアルトワ・ルカス行きが決まっていたから、実家のアーベントロート辺境伯家の方で必要そうな服を誂えてくれていた。父は先の政変があってから宰相をしていて忙しが、娘が一時帰省すると聞いて無理に時間を作り、家族総出でエルゥを迎えてくれた。昨年生まれたラヘル・マルガレーテもしっかり母の胸に抱かれている。
家族が増え姉となれたことは嬉しいが、これまでの末っ子待遇が変わったのには胸中複雑だった。
他国の国家的行事に参加するのだから、世馴れぬ次女の為に母の夫人はメイドや使用人を増やしたがったが、師匠のダユーは嫌な顔をした。身軽さを好んでいたから、仰々しく大人数で動くなど考えたくもないのだ。
その気性を心得ている露草の聖女は、ダユーの部屋には使用人ゴーレムを一式用意していてくれるという。夫人も引き下がるしかなかった。
アデリーネもこの帰省で一週間お休みをもらい、懐かしい家族と久し振りに過ごせた。
「アデリーネはしっかり者で身の周りの世話は大丈夫だけど、晩餐会だの華やかな場所への付き添いの経験がないから心配だわ」
言いつつちゃんとアデリーネのドレスも用意していてくれている。勿論ダユーの服もだ。
「お母様、ズージは辺境伯の娘ではなく、弟子のエルメンガルトとして行くんですのよ」
ズージもエルゥの名だ。ズージ・エルメンガルト・ベルゲマン。修行に出るまではズージと呼ばれていた。
「貴女はそのつもりでも周囲は貴女ではなく肩書を見るものなのですよ」
その通りだ。そしてお嬢様付きメイドとしてアデリーネはメイド長に短期特訓を受けさせられていた。
アーベントロート辺境伯はやり手の富豪貴族として有名だし、その上近年宰相にもなったから、メイドのドレスといえど布地も仕立てもデザインも手抜きがなくて、逆にどちらの世界でもパンピーなアデリーネが気後れする程だ。しかも彼女に似合う。
(心遣いと厳しさの配合がいつもながら絶妙ですお二方)
お陰で何処ででもやっていける自信は二年も働けば出る、と評判なのだ。
「気持ちは嬉しいけど、たくさん作ってもダユーお師匠様は華々しい席にはお出にならないと思うけどな」
アデリーネにぼやく。
「私も同感ですけど、荷物の多さも一種のステータスですからお嬢様」
「そうなの?」
病弱で一般社会から隔離されて育ち、病気が治っても修行で人里離れた辺境で過ごしていたから、エルゥは一般常識が乏しい。
「こんなに荷物があったら馬車を使うしかなくて、ダユーお師匠様が嫌がられるんじゃないかしら」
「開催地はアルトワ・ルカスのアレラーテですから、クルト様が船を用意して下さるそうですよ」
クルトとは領主の弟で貿易部門を担っているエルゥの叔父だ。
話していると訪いの問い掛けがあってエルゥの父が現れた。
「愛しい娘やキスしておくれ。父は急ぎの用で王都に戻らねばならなくなった」
父のディートヘルムは子煩悩で特に病弱だったエルゥを大切にしていた。常には厳しい顔しているのに、娘に対しては相好を崩しっ放しである。
「お父様、忙しくても身体には気を付けて下さいね」
父の腕に飛び込む娘という親子の姿は美しいが、エルゥの力加減が失敗して、後ろの壁に激突してしまう。
「ぐおッ…」
圧迫された肺から一気に息を吐き出さされる。
「ごめんなさいお父様!」
「つ………――――――――強く…な、なったなズージ。父は嬉しいが…複雑な気分だ」
必死に痛みを堪えて笑顔を作っている。
その複雑さはアデリーネにも理解出来た。病弱で髪も疎らな骨と皮だけの少女だったのに、病気が治ると同時に白鳥と化し、と思ったら馬鹿力の剣聖候補の剣士になってしまったのだ。
(お気持ちわかります。お嬢様の落差が激しいですよね)
古参の使用人も落差に戸惑っている。
「次は秋の予定だがこちらに帰れるかどうか分からん。出来たらアドリアン先生に話して王都にも来る許しをもらっておくれ、母も一緒だから」
「アドリアン先生はクソ婆と違ってお優しいから許して下さるわ」
「クソ婆ぁ?」
娘の口から出たと思えない言葉に父は驚いた。
「あ、ごめんなさい。剣のお稽古の時は、気分を変える為に汚い言葉を使ったりするから…つい、その…」
「だとしても良家の子女が使う言葉ではないな。お願いだから心まで乱暴にならないでおくれ」
「はい、お父様」
それはアデリーネが一番腐心していることだ。
剣聖ダユーの稽古は非人間的にきつい。アデリーネがチラッと見ただけでもそう思う。だからダユーには遠慮なく酷い言葉も使うのだが、辛い修行だろうにお嬢様は終わると朗らかなお嬢様に戻っている。
(器量が大きいのか外に出ない何処かに溜まってるのか)
考えるだに恐ろしいが今は見守るしかなかった。ただしお嬢様が剣術修行にギブアップしたら、命を掛けてもダユーから守ろうと覚悟していた。例えダユーの前では羽毛の様な儚い存在でしかなくとも。
それ位にはお嬢様が大好きになっていた。
このところ仲違いを取り沙汰されている鬱金の聖女と白磁の聖女が会見を持ったのは、聖都トロザのアエグレ宮の春の庭でであった。ミモザに木蓮や水仙が春の香りを漂わせ目を楽しませる。
聖女となれば顔も上半分は隠さなければならない。その場合、頭を覆って髪も隠してしまう場合と、顔だけ隠す場合がある。
白磁の聖女は上半分をレースの繊細な装飾のある布で隠していて、そこから冷たい蒼い瞳が覗いている。髪はプラチナブロンドだ。
背丈は低く華奢で女性としての丸みを帯びた曲線もない。十代前半の少年のようにも見えた。なのに唇が血のように赤い。魔法で性的に未分化な時代に成長を止めているのだが、不思議に怪しく抗いがたい雰囲気を持っていた。
反対に鬱金の聖女は身体の線を隠す重厚な服を着ていても、完全に成熟した女性の匂いを振りまいている。彼女が鬱金の聖女に選ばれた時、顔を隠すことが多くの男を落胆させたと噂されている。ボリュームのある金髪もろとも仮面とココシニクで隠していた。
先に沈黙に耐えられなくなった白磁が先に口を開いた。互いの側近が緊張する。
「この庭だけでなく街が色に溢れる季節になりましたね」
誰かが大きく息を吐き出している。
「私の心も明るいわ。厳寒を乗り切った孤児達が今年は多かったから」
華やかで軽やかな声が答える。
「慈愛の聖女と綽名される鬱金の君だ。私とは選ぶ言葉が違う」
「当然よ。一人一人違うのだから」
褒めたつもりが軽く躱されてしまう。
「貴女に見えて私に見えない物。私に見えて貴女に見えない物。私達は互いに補い合うものなの」
「鬱金の君に補って頂けるなど畏れ多い…」
「どうして?私達は共に聖女を支える同胞でしょう?畏れ多く思う必要はないのよ。どうせ振りだけでしょうに、卑屈に出たからって譲歩はしないわよ」
怒っている様子はないが完全にペースを取られてしまっている。
「……では率直に言わせて頂きます」
「そうして、私達は何でも言い合える関係を築かないといけないの」
「伏してお願いがあるのです」
「ん~、ん~」
ダメダメと鬱金は指を振った。
「露草さんだったら「ブルディガラ産の良いのがあるのよ。だからお願い」ってくるところね」
同じく同僚の色付きの聖女を持ち出してくる。白磁は心の中で舌打ちしたが口調は和やかであった。
「そうなのですか、良いことを教えて頂きました。ではカチュマゴス産のリンゴの蒸留酒を届けさせましょう」
「受取るかどうかはお願いの内容を聞いてから考えるわ」
冷めかけたお茶を代えるように指示する。
「オディロンに会わせたい女性がいるのです」
現聖女が聖女候補の頃に産んだ一粒種である。
「フフッ素敵ね、お見合い話?だけど私達聖女が自分の家族と関係を持つのはご法度よ。特に聖女は」
実際はある程度お目こぼしはあるものではある。実家の力を期待される場合もあるのだ。
「それにオディロンも自分の人生に関わられるのを嫌がっているわ」
「だからこそ鬱金の君にお願いしているのです」
聖女候補のファタが先ず色付きの、常盤の聖女に選ばれた時点で親子の縁は切れたはずだった。そして聖女となったからには息子への接触は禁じられているから、聖女と息子の不和を知る者は少ない。
偽名を使いオディロンは地方の学校で魔法生物を研究しながら教鞭をとっていたが、ある日突然白磁の聖女が現れ、学校に手を回して解雇させられた。逃げようとしたが白磁の魔力には敵わず、聖都トロザに連れ戻され評議会員にしようされた。拒絶されても白磁はあの手この手で懐柔しようとしたが、態度を軟化させたと見せかけたオディロンは、隙を見て鬱金の下に駆け込んだのだ。
その日の内にオディロン・テミスが鬱金の聖女の政務官の一員となったことが公にされた。
白磁のとっては自分の失態に臍を噛む思いだったろう。
「本人達には秘密にして顔合わせさせたいのです。無理強いはしません。互いに興味を持てば話を進めることになっています」
「ズージ・エルメンガルト・ベルゲマンは美しい娘よね」
ギリッと白磁が歯軋りするのがわかった。
(どうやって情報を手に入れた!内通者がいるのか?)
「ご存知でしたか…」
「チッチッチ」
鬱金は舌を鳴らした。
「見くびってはダメよ。私はもう鬱金の聖女を三百年以上続けてる海千山千のおばあちゃんなんだから」
軽く明るく言う。
「鬱金の君を見くびるなど、在り得ません」
「そうであって欲しいわね。好いわよ。オディロンを穴倉から引っ張り出して上げる」
母が母だけに公に出たくないと、引き籠って政策企画や資料作成ばかりして、お気に入りの魔法生物コカドリーユのニノンとラタトクスのナタンを頻繁に職場に連れて来たりしている。
「籠ってばかりも身体に悪いし、出来れば研究だけの人生にはして欲しくないの」
「お願い出来ますか?有難うございます。感謝します」
「どういたしまして。感謝の形はお酒じゃなくてパティスリー・ポンムドワのカヌレとマカロンがいいわ」
「了解しました。それとこの事はご内密に」
唇に指を一本あてる。
「勿論よ。皆さんこれは秘密にしていてね」
側近達が頷く。
「ということは、聖女は聖ルカスの件に更に深入りされるつもりなのね」
白磁は茶を飲む振りをして答えなかった。
「だってそうでしょう?今この時期にそんな縁組を目論むということは、シェファルツ王国の強兵を当てにしたいということだわ。違う?」
「皇位争いに関わったからには、決着が着くまで付き合わなければなりませんでしょうね。兵を出した瞬間からグアルテルス帝の恨みを買っているのですから」
「相談して欲しかったわ。あの男の戦上手はご存知でしょうに」
「確かに、もう少し形勢を見てから決めるべきだった、という意味では同意見です。簒奪者とはいえ良い政治を行っていますからね。聖ルカスの市民の反感を招きかねない」
「それは誰の意見かしら、白磁さんの意見でないことは先刻承知よ」
「おや、では私が聖女を焚きつけたと?」
ピンと空気が張り詰めた。
「手古摺ったのではない?聖女は軍事に明るくないから小規模な出兵でも嫌がるの。それが人選まで聖女がなさるなんて、驚きを通り越して後ろに誰がいるのかしらって、貴女しかいないじゃない?」
「私を…買い被り過ぎです」
声が上擦っている。
「…もう一度だけ言っておくわね。私を見くびらないで頂戴。この国の為に何もかも捧げて、様々な事を乗り越えてきたの」
「胸に、刻んでおきます」
鬱金が席を立った。
「オディロンのことは了承したわ。私も是非話してみたいしね」
顔を隠し体形を隠しても色香の漂う鬱金を、白磁は羨望と憎しみの籠った眼差しで見送った。
視線を感じながら鬱金は溜息を吐いていた。
白磁はまだしも、聖女の心が解らない。最近は以前の様に気さくに会えなくなった。長年顔パスで通れたのに、必ず取次が入る様になったのだ。聞けば他の色付き聖女も同じだという。
ただ、直下の白磁や白百合、濡羽に烏羽はそうでないのが救いだ。
「鬱金の君」
鬱金付き政務官のモーリス・ジオノがいつもの様に平坦な声で呼びかけて来る。
「何?」
ついさっき歩きながら素知らぬ顔でさり気なく渡された紙面をモーリスは丸めてポケットに突っ込む。
「白磁の君の動きが、貴女が懸念された通りになりつつあります」
「嫌な報告には馴れてるけど、これまでとは全く違う危険が含まれているわね」
「どうなさいます?」
「諜報活動の出来る人物を集めて、本格的に対策を立てるわ」
「直ぐにご用意致します」
モーリスの指図を受けてオリヴィエ・ニコラが動いた。
庭園を出る頃には護衛騎士達が距離を詰めて背後に付く。
聖女は仮面を着けるのが義務で良かったと思う。今の顔を誰にも見られたくはなかった。
アーベントロート辺境伯家が魔力の薄い家系であることは広く知れ渡っていた。それだけに魔力こそ貴族の証明、と魔力のない貴族を蔑む風潮のあるシェファルツ王国ではベルゲマン家の立場は良くない。
だが代々負けん気の強い家系であったから、先々代の時代に辺境の田舎者と嘲られない為に領地の都市の都市計画を抜本的に見直した。特にアーベントロート辺境伯領の中心都市コロン=ダーフィトは最先端の機能的な都市として生まれ変わり、街並みも美しいものになっていた。
鳥の形の半島をも含む海沿いに領地が広がっていたから、港から領主館まで運河を作り、ロングシップで荷物を運べるようにもなっている。河口には魔法で特殊加工された杭が河底に仕掛けられ、易々と侵入されないようになっている。
その日ロングシップが運んで来たのは姉レナーテの婚礼用品であった。
レナーテは婚期になっても病弱な妹の世話をして結婚話を避けていたのだが、エルゥが家を出て程なく結婚相手を見付けていた。
ラヘルはまだ這い這いし出したばかりで婚礼用品など分かり様がないが、母と娘三人で届いた婚礼用品をチェックした。そこにレナーテの封印師としての師匠ワヒーダ女史も見物に来る。
封印師は魔力より素質に左右される為、ワヒーダ女史は103歳の老婦人だ。
結婚相手は辛うじて貴族の称号を持つ家の三男だったので、所謂逆玉である。小さな屋敷も使用人も何もかもベルゲマン家が用意していた。勿論ベルゲマン家の家格に相応しい職も用意して婿に与えている。
広い室内に所狭しと置かれた家具は全体的に煌びやかさよりも品の良さを優先されていた。花嫁の部屋の調度はクリーム色と薄緑と金で統一された繊細なデザインになっている。
「やっだすてきぃ、どれもこれも超素敵じゃな~い」
目にするが早いかヴィヴィが身を捩って黄色い声を上げた。
「あらやだこの化粧台なんか乙女心にキュンキュンくるぅ」
オスだろうお前、というツッコミを誰もが心の中でしていた。
「ああ、何てこと……」
シックな書き物机を前に眩暈を起こしている。
「これこそ女主人の机だわ。見てエルゥ、この繊細な彫刻、細い脚。なのにこの気品!レナーテお姉様は女主人としてこの机に向かうのよ。羨ましい、わたくしも女主人としてこんな机に向かってみたいわ」
と一つ一つに乙女心のうんちく垂れずにいられない様子だ。
ヴィヴィには好きに騒がせておいてエルゥは姉に訊いた。確認といってもいい。
「お姉様幸せ?」
「何度訊くの?それ。まあ、訊かれる度に幸せよ、って答えるのが幸せなんだけど」
レナーテはバラ色の微笑みを浮かべて見せる。
「私の大切なお姉様には世界一幸せになって欲しいの」
「幸せよ。お父様が宰相にまでなってしまわれたから、この話は絶対反対されると思った。そうなったら諦めるしかない、それがベルゲマン家の娘の務めだ、ってね。」
瀟洒な三段の宝石箱に結婚祝いに贈られたアクセサリーを詰めていく。
「ところがね、お父様ったら第一声が「もういくの?」だったのよ」
行き遅れを周囲に心配されていた娘だというのに。何処か娘の嫁がせ先を考えていたのではないか、と恐る恐る訪ねると、
「息子は嫁を貰うが、娘はくれてやらんとならんのだぞ。そんな勿体無いこと考えられん」
そろそろ考えてやらねばならないと思ってはいたらしいのだが、娘を失うとなるとその先が考えられなかったらしい、とは家令のリンケの談である。
「あら、その意味ではこの結婚、お姉様を手元に置いておけるからお父様には願ったり叶ったりじゃない?」
いつの間にか近くで話を聞いていたヴィヴィが皆の気持ちを代弁した。
「ホントよ。秋にはルーツィエだって孫を産むっていうのにね」
ルーツィエはレナーテには弟、エルゥには長兄に当たる、ベルゲマン家の跡取りアレクサンダーの新妻だ。結婚は昨年の秋だった。
「孫は孫、娘は娘よ。それはお父様も私も同じ気持ちだわ」
「お母様…」
「婿殿には厳しい環境かもしれないわね」
しれないどころか確定である。
「フォルカーも言ってたわ。だけどどうせ身分違いで断られるだろうから、さっさと求婚したんですって」
「やだ、お惚気~~お姉様ったらぁ」
パンパンとヴィヴィは小さな手でレナーテの肩を叩いた。
「飲まず食わずで指輪代を貯めたんですって、久し振りに会ったらげっそり痩せていたから、病気にでも掛かったのかしらって」
彼女の身分からすれば地味な指輪を誇らしげに見せる。
「やだ、わたくしもわたくしも⁉そんな殿方に出会いたいわ」
出会ったところでどうしようというのか、それ以前にそんな殿方の人となりに疑問を呈したい、という台詞を、黙って聞いていたワーヒダは胸の内にしまった。
「ワヒーダ先生」
呼ばれて物思いから覚める。
「お待たせしました。先生の家具もようやく出来上がって来ましたよ」
レナーテの美しい指が差した先には、異色の家具調度類が置かれていた。
現役を引退していたワヒーダ・アル・ハーリド女史を、鏡の魔法でこの地に運んだのは大魔法師ウィクトルだった。
鏡の魔法では手に持てる位の荷物しか通せない。ワヒーダはほぼ着の身着のままでこの地に足を踏み入れたのだが、彼女はそれに対して一切の不満や苦情を口にしなかった。異国で暮らすのは慣れるまでは辛いものだ、そこに彼女の我慢強さが現れていた。
ベルゲマン家は代々海上貿易を家業にしていたから、彼女の故郷近辺から家具を集められはしたが、如何せん数も良品も少なかった。ベルゲマン家では人を派遣して家具調度を作らせることにしたのだ。
「人任せにするしかなかったので、先生のお好みに合えばいいのですけど…」
クッションにはワーヒダの故郷特有の意匠が刺繍されていた。毛足の長いクッションに水煙草のシーシャ、モザイクガラスのランタン、ローテーブルに茶器。どれも一流品だ。
「故郷でだってこんな高価な物を使う生活はしていなかったのよ」
戸惑いながらも嬉しさで涙が溢れて、言葉に出来ない喜びで胸がつかえた。
自分も家族も自分を大事にしてくれる人達も、同じ位幸せになって欲しい。レナーテの思いの籠った配慮だった。
「先生はご家族にほとんど告げることなくこちらにお越し下さったのですね」
「ウィクトルには恩がありましたし、急いでいるようでしたから」
何でも引退後の生活を見ていてくれた姪の娘に、
「人生の終わる前にもう一仕事、私に使命が与えられました。もう帰ることはないでしょう。生死を気にしないでとお母さんに伝えてね」
とだけ言い残して鏡に消えたそうなのだ。
思い切りが良いというか腰が軽いというのか、レナーテはそこに潔さを感じた。
チラッと横目で妹の様子を窺う。
天使のように甘く優しい美しさの妹は、興奮してはしゃぐヴィヴィや母の話の聞き手になっている。妹に「次は貴女の番よ」っと言ってやりたくても、レナーテにも父と妹がしていた会話のことは耳に入っていた。
アーベントロート辺境伯家の娘としての自覚も充分あったエルゥは、自分も親戚の娘達の様に家の為に結婚するのだと思い込んでいたから、ラヘルの部屋で一緒になった時、父に自分の縁談話を訊いたのだ。
「私にも縁談話が入っているのではありませんか?どれかお眼鏡に適ったものがありました?」
「あるにはあるが全部断っている」
彼女にはとても意外な返答だった。
「あら、もしかして修行中だからですか?剣術の修行はこの冬の修行で終わらせるおつもりですよ、ダユーお師匠様は」
「剣術が終わっても魔法師の修行があるだろう?」
「そちらは長い時間が掛かりますし、お姉様の様に修行と結婚の両立も…」
「ズージ」
叫んだり怒鳴ったりするのではないが力の籠った声だった。
「お前は剣術修行を終えたら何を得るのだった?」
まだ父の言わんとしていることが理解出来ないエルゥは不満そうに言う。
「お師匠様は剣聖位を下さるお考えだそうです。私は剣聖位なんていらないのですけど…」
病弱だった美しい娘が剣聖位をとる、父には想像出来ない事態だった。
「そうだろう。剣聖位を貰うのだ。漆黒の剣聖イシアガと同位になる」
「ええ」
「ズージ」
父はもう一度娘の名を呼んだ。真正面から娘を見る。
「父はな、剣聖位を持つ娘の嫁がせ方なんて知らん」
強い口調ではなかったがズーンとエルゥの中に落ちる重い物があった。父の言葉が脳内でリフレインする。
「それにお前は魔力が強くて家族より遥か長い時を生きる宿命なんだ。父が生きている間は何くれとしてはやれるが、お前はアーベントロート辺境伯家のことは考えなくていい。自分の人生だけを考えなさい」
「お父様」
感激したのはヴィヴィでうるうるした瞳でディートヘルムを見詰めたが、彼はさり気なく瞳を逸らした。そして娘は後半を聞いてはいたが、余程先の短い言葉が衝撃だったようで、言葉の意味が頭に入って来なかった。
そういえば騎士や兵士になった女性の結婚率が低いことは何処かで聞いた気がする。だがそれは主君に仕える騎士や兵士のことで剣士となる自分は違うと何処かで思っていた。ところがどっこいそれは同じなのだとその時初めて自覚したのだ。
「私は…もしかして行き遅れになる?」
呆然として言った。
「お前の場合は行き遅れだのそういうのとは埒外にいるから気にするな。きっと誰も気にしない」
「私こんなに綺麗で可愛いのに?」
「エルゥったらそんなことどうでもいいのよ。わたくし達は楽しく自由に生きましょうよ。綺麗で可愛いんだから男なんて選り取り見取りよ」
ようやくエルゥの気持ちを察したヴィヴィが励ましたがエルゥは衝撃から回復出来ない。
「人生は辛くて苦しいことを夫婦で乗り越えて行くものだって誰かが」
「辛く苦しいことは人それぞれよ。それに夫婦でって決まってる訳じゃないし、夫を持てない訳じゃないわ。自分に合う人を見付けれる時間がたっぷりあるってだけよ」
お姉の猿は気に食わないが言っていることには同意出来たディートヘルムは頷いた。
「ウィクトル様だって仰ってたじゃない。長い人生の間に君を残して幼い頃を共有した家族は死に絶える。だから同じく長い時を生きる宿命を背負った心の友を持ちなさい、プロスペロと仲良くしなさいって」
プロスペロとはウィクトルの弟子で、エルゥと同等の魔力を持つ少年だ。年下なのに何だかんだと助けてもらってばかりいた。
「だけど私はプウちゃんとは結婚しないわ。そんな気がするの」
「?どうしたズージ?父は自分で相手を探していいと言ってるだけだぞ。家の為ではなく自分の好きな相手と結婚すればいいんだ」
「だってお父様、私ずっと家の為に結婚するのだと思っていたのよ」
貴族の娘はそういうものだと思っていた。
ディートヘルムは苦笑する。
「ズージ。お前には考え方の転換が必要だな。この家を出て魔法師の修行を始めた時から理解していると思っていた。誰かに選んでもらうのでも押し付けられるのでもない、自分で選択して決断する人生を生きるんだお前は」
「自分で選択し決断する」
ああそうだ、ウィクトル師匠もアドリアン先生も同じことを言ってたじゃないか。その時はいつも「はい」と返事していたのに、実はこういうことだったと、今になって肌に感じている。
「お前が私の娘であることは未来永劫変らないが、アーベントロート辺境伯の娘であることは捨てなさい。これは一族の長としてではないお前の父として言うのだ」
解ったなと念押しされても、今この瞬間に目の前に開かれた世界に圧倒されて何も答えられなかった。
幼い頃はお父様とお母様に、長じて結婚したら旦那様に従っていればいいと思っていた。そんな簡単な人生は何処かに飛んで行ってしまった。
選択し決断し自分で人生を設計する。道のない大海原にでも放り出された気分だった。
「エルゥどうしたの?エルゥ!あなたにはわたくしだっているのよ。わたくしはいつだって共にいるわ」
エルゥの瞳にジワリと涙が溜まった。
「そうよね、ヴィヴィが一緒だわ」
「ええ一緒に楽しい人生にしましょうね」
(ウィクトルお師匠様、感謝します。私にヴィヴィを与えてくれて)
力一杯抱きしめたくなるのを、ヴィヴィの為にも思い止まった。
――――
という話が速攻で母や姉に伝わっていた。
妹に何の自覚もなかったのは驚きだが、強い魔力を持って家族で一人だけ圧倒的長い時を生きる妹には同情を覚えた。一人取り残される孤独を考えれば、子や孫の未来を夢見ながら死出に旅立てる方がいい。
過酷な人生を強いられるとしか思えない妹だが、当人はホワホワとして全く悲愴感なく笑っている。それが続けばいいと強く願った。