ゴールデンエッグ
うちに知らない男の人がいる。
最初の異変は玄関の靴だった。
キッチンからはおいしそうな味噌汁の匂いと目玉焼きが焼ける音、我が家の平凡な朝のはじまり。お父さん、もうテーブルに着いてるかな。
「着替えてこなきゃまた怒られる……」
面倒くさいけど仕方ない、母親っていうのは口うるさい生き物なのだ。思春期の娘がいると特に。
洗面所を出た足で上がり框を横切った時、玄関先に見慣れない靴がおいてあるのに気付いた。
男物の革靴だ。大分くたびれている。
玄関にちょこんとしゃがみこみ、まじまじと革靴を観察。
革靴の一方を摘まんでから、キッチンに向かって声を張る。
「おかーさーん、変な靴があるー」
「変な靴ってどんなー」
「えっとねー、お父さんのじゃないヤツー」
間延びした声で受け答えするお母さんに、こっちもふやけた声で返す。
うちのお父さんはとても几帳面だ。会社に履いていく靴は爪先から踵までワックスで磨き立てている。汚いままほっとくなんてありえない。
困惑を覚えながら靴を元に戻す。
なんだか気味が悪い。
朝起きたら見知らぬ靴が一対増えてた、言葉にすればただそれだけの事なのに胸騒ぎがする。
「ご飯冷めちゃうわよ」
お母さんの声に反応、慌てて居間へ行く。
「おはよ」
「おはよー」
お父さんはテーブルで新聞を広げていた。お母さんはエプロンを掛けて台所に立ち、お味噌汁をよそっている。私の席には目玉焼きとサラダ、炊き立てのご飯が並んでいた。
「いただきまーす」
私は朝ごはんを抜かない派だ。お母さんのごはんはおいしい。醤油をたらした目玉焼きをお箸で切り分けると、トロリと濃厚な黄身が流れ出す。
お母さんが席に着いて朝食が始まる。テレビでは朝のニュースが流れていた。
『次のニュースです、3日前から行方不明になっていた茨城県の佐々木晶さん(86)が無事保護されました。佐々木さんは重度の認知症を患っており徘徊癖が……』
「ねえ、チャンネル替えていい?」
答えを聞く前にリモコンをとり、民放の占いコーナーをチェックする。てんびん座の恋愛運は上々らしい、やった。
お父さんは平凡な会社員、お母さんは明るい専業主婦、その娘の私は何かと悩み多き中学生だ。
口と手を忙しく動かしながら、玄関の奇妙な靴に言及する。
「さっきも言ったけど、ホントにあの靴なに?昨日まではなかったじゃん」
「お父さんのじゃないの」
「疑うなら見てきてよ」
お箸の先で促せば、お母さんが腰を浮かせて玄関を見に行く。数十秒後エプロンの前で手を拭きながら戻ってきて、変な顔でこっちに向き直る。
「お父さんのじゃないみたいね……」
「でしょ?」
「あなた、昨日遅かったわよね」
「課長の送別会でな。ってことは、居酒屋で履き違えてきたのかな」
ニュースに気を取られたお父さんが上の空で呟く。
「酔っ払って気付かなかったのかしら」
「そんなのある?マヌケすぎ」
お父さんのドジにあきれる。うちの親、基本真面目だけど時々やらかすんだよね。どこの家もそうかな。
とりあえず、それ以上追及するのはやめておく。誰だって間違いは犯す。
「今日会社で聞いてみるよ、人のを履いてきたんなら謝らなきゃ」
「そうね、困ってるでしょうね」
おっとり会話する両親をよそに、ご飯にのっけた目玉焼きを頬張る。
「お母さん、今度目玉焼きの作り方教えて」
忘れないうちに切り出せば、お母さんが意外そうに目を丸くする。
「目玉焼きなら作れたでしょ」
「フライパンの上でたまごを割るだけならね。半熟にするのが難しいの」不満げに口を尖らす。たかが目玉焼きされど目玉焼き、侮ってはいけない。
「いいけど……急にどうしたの?」
「別に。ショウライテキに独り暮らしすんなら修行も大事じゃん」
本音は伏せて適当にとぼけておく。同じクラスの気になる男の子が友達を喋っているのを聞いちゃったからなんて、言えるわけがない。
彼の好みは目玉焼きを上手に半熟にできる子だそうだ。
まあ、全部が全部嘘でもない。高校を出たらなるべく早く自立したいし、その時に備えて料理を勉強しておくのはいい事だ。
「ごちそうさま。いってきます」
自分が食べた皿をシンクに浸け、元気に家を飛び出す。
次におかしな事が起きたのは数日後、お風呂に入ってる時だ。
「ふー……極楽」
浴槽に張ったお湯に肩まで沈み、ご機嫌に鼻歌を口ずさむ。お風呂場は声がよく響いて気持ちがいい。
タイルから滴った雫が、湯舟で弾けてちゃぽんと音をたてる。
我が家の入浴の順番は決まっていて、大抵私が最初だ。お母さんは家事で忙しいし、お父さんは仕事で遅くなることが多い。
一番風呂を貰えてラッキーだけど、たまに浮かれすぎてのぼせてしまうのが難点だ。
「半熟って案外むずかしいよね……」
お風呂で膝を抱え、ぶくぶく口まで沈む。
コップに半分の水を注いで蒸す、焼き加減は目玉を爪楊枝でチェックする……他になんかあったっけ?指折り数えて要点をおさらいしてたけど、忘れっぽいせいかすぐ詰まる。
脱衣所で音が鳴った。
反射的に顔を上げ、磨りガラスを嵌めた引き戸を仰ぐ。
「お母さん?」
誰何にも反応なし、磨りガラスの向こうじゃ怪しい人影が蠢いている。お母さんにしては背が高い。肩幅もある。男の人だ多分。
「お父さん、帰って来たの?娘がでるとこ待ち伏せしないでよ、悪趣味」
思春期の娘を脅かすなんてたちが悪い。っていうか、お父さんらしくない。
消去法でお父さんと推定したけれど、磨りガラスにチラ付く影を見ていると不吉な予感が疼く。
「誰?なんとか言って」
いっそドアを開けて確かめてみようか。
恐怖心に反発する好奇心に駆り立てられ、浴槽の中で立ち上がるものの決心が付かない。私は今全裸だ。もし脱衣所にいるのが赤の他人の、それも男の人だったら……
混乱する頭の中心に、玄関で見た靴が浮かぶ。
「ひょっとして、こないだの靴の持ち主?」
私が第一発見者になった靴の持ち主は結局見付からないまま、処分に困って下駄箱に保管してある。
あの靴は踵を家の中に向けてそろえてあった。ということは……
まだうちにいる?
「…………ッ」
背筋に強烈な悪寒が走った。
もし誰かが夜にこっそり忍び込み、玄関で靴を脱いだまま出ていってないとしたら。
まさか。ありえない。もしそうなら気付かないはずない。大体どこに隠れるっていうのよ。和室の押し入れ?台所の収納庫?
浴槽で固唾を呑む私の視線の先、曇りガラスの向こうの影はやがて遠ざかり、どこかへ行ってしまった。去り際は慌てているようにも見えた。
「嘘でしょ……」
半信半疑で独りごちる。
もしうちに知らない誰かがいるなら、お父さんとお母さんが今に至るまで気付かないのは変だ。異常だ。もし人じゃないのだとしたら……
温かいお湯に包まれていても鳥肌が広がるのを止められず、二の腕を強く抱く。
浴槽の壁にもたれてずり落ちれば、口から抜けた空気がぽこりと泡になって膨らむ。
うちで起きてる異常に誰も気付いてない。私以外は。
玄関の見知らぬ靴もお風呂場の人影も見間違いで片付けようと努力したけど、その後も怪現象は続いた。
夜、トイレに立った時。
廊下に人の気配を感じ、振り向いても誰もいない。
学校から帰宅時、1階の和室から音がする。襖を開けて覗き込めば、誰もいないのにテレビが付けっぱなしになっていた。
朝、3人家族の食卓。1脚余った席に、お母さんが自然な動作で箸をおく。
「お母さん。そこ、誰もいないよ」
「え?」
お母さんが目を見開き、なんとも複雑な表情を見せてから取り繕うように苦笑いする。
「ごめん、ぼんやりして」
「しっかりしてよね、うちは3人家族でしょ」
お父さんは新聞から顔を上げもしない。お母さんは困惑げに無人の席を見詰めている。
何かがおかしい。
狂っている。
うちに知らない人がいる。
「あ」
ぐしゃりと手の中のたまごが割れ、砕けた殻がフライパンに落ちる。
「また失敗……」
「どんまい、次があるわよ」
お母さんは優しい。
なかなか半熟の目玉焼きが成功せず、くり返し挑戦するダメな娘に根気強く付き合ってくれる。
もし本当にうちに何かがいて、両親に悪さを企ててるのなら……。
喉元にまで不安のかたまりがこみ上げ、ドロリとした黄身が絡み付く手を見下ろす。
うちに知らない男の人がいるなんて、誰にも言えるわけがない。
頭がおかしくなったと思われる。
寝苦しい夜だった。
私は何か、夢を見ていた。とても嫌な夢だ。夢の中の私は泣いて泣いて、何かから逃げて逃げて、苦しみもがいてやっと息を吹き返す。
電気が消えた暗い部屋のベッドの上、毛布は半ば床にずり落ちていた。パジャマは寝汗を吸ってびっしょり濡れている。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
怖かった、とっても。まだ心臓がドキドキしてる。なのに目が覚めた途端、キレイさっぱり夢の内容を忘れてしまった。
身体がべと付いて気持ち悪い。パジャマを取り替えたい。顔も洗ってこなきゃ。
ベッドの柵を掴み、いざ床に降り立とうとした瞬間、部屋の入口に佇む人影に気付いた。
ヒュッ、過呼吸の発作に似た短い悲鳴を漏らす。頼りなく床をさぐる爪先を引っ込め、ベッドの端まであとじさる。
「誰?」
背丈と肩幅からして男の人だ。猫背かと思ったらそうじゃない、腰が曲がったお爺さんだ。
深夜、知らないお爺さんが私の部屋に立っている。
「あ、あなた誰ですか。どうして私の部屋に?どっから忍び込んだの、戸締りちゃんとしてるのに……」
お爺さんは何も言わない。ただ黙って隅っこに突っ立っている。思わず足元を凝視、例の靴とほぼ同寸大だ。お爺さんが突然動き、ゆるやかに一歩を踏み出す。
「こっ、来ないで!」
圧倒的な恐怖に尖った声で制す。身体の芯から震えが沸き起こり歯の根が合わない。お爺さんは立ち竦み、虚ろな表情でこっちを見る。
「玄関に靴忘れたのも、お風呂覗いてたのも、全部あなたなの」
一体誰。なんでうちに上がりこんだの。目的は何。
疑問は殺到すれどもまともに質問できず、遂に恐怖が臨界点を突破し、叫ぶ。
「でてって!」
力一杯腕を振り抜き、たまたま手元にあった本をお爺さんめがけて投げ付ける。宙を飛んだ枕はお爺さんの頭にあたり、影がよろめいた。
精一杯の威嚇と反撃が利いたのか、何をするでもなくベッドの足元に佇んでいたお爺さんが漸く部屋から出ていく。
ノブに手をかけて振り返る目には、寂寥の色が滲んでいた。
ドアが開いてまた閉じる音を背中で聞き、毛布を被ってベッドに突っ伏す。
幽霊?妖怪?どうしてなんにも言わないの、一体あの人は誰なの、お父さんとお母さんはなんで赤の他人が潜り込んでも知らんぷりでほっとくの……
お母さんが空席に箸を配る光景を思い出し、心臓が止まる。
あのお爺さんは、ひょっとして「そういうもの」なの?家の人が知らない間にこっそり潜りこんで、ちゃっかり紛れ込んでしまうような……たとえるなら座敷童の親類みたいな、そんな存在なの?
「待って、確か……」
毛布を羽織ったまま本棚へ近付き、分厚い辞典をめくる。
あった。目的の項目を開くと、左側に版画の挿絵が掲載されていた。禿げ頭で着流しの老人が、日本家屋の縁側で茶を啜っている絵だ。
「ぬらりと手をすり抜けひょんと浮き、知らず知らずのうちに家宅に上がりこむ事からこれをぬらりひょんと称す……」
間違いない、うちにぬらりひょんがいる。
「本当にいたの、夜起きたら知らないおじいさんが立ってたの」
「夢でも見たのよ」
「なんで信じてくんないの」
「窓も玄関もちゃんと戸締りして寝たもの、誰かが上がりこんだら気付かないはずないでしょ」
「だから人間じゃないんだって」
「変なこと言ってないで、早くご飯食べちゃって」
両親は信じてくれない。信じてもらえるわけがない。私だってまだ半信半疑だ、ぬらりひょんが実在するなんて。
けれど見れば見るほど挿絵の妖怪と神出鬼没のお爺さんはそっくりで、確信が強まっていく。
ぬらりひょんに取り憑かれた一家なんて馬鹿げてる。どうにかして追い出したいけど、具体的な方法がわからない。
この家を出るまで一生謎の気配や人影に怯え続けなきゃいけないとしたら……
「ちょっと、何これ!」
買い物帰りのお母さんの悲鳴がキッチンに響き渡る。
「目玉焼きの練習してたの」
ふと見下ろせば台所のカウンターはたまごの黄身と殻だらけ、私の手はぐちゃぐちゃだ。考え事に夢中になって、一心不乱にたまごを割り続けてたらしい。
「私がいない時に火を使わないでって言ったでしょ」
「子ども扱いしないでよ、大丈夫だって」
心配性を無理して笑い飛ばす。
お母さんが私をどかしてコンロの火を消し、大袈裟に肩を窄めてため息。老け込んだ横顔に疲労の色がよどむ。
「手を洗って、自分の部屋に行ってて」
「……ごめん」
凄まじい剣幕に気圧され、台所で手を浄めてから部屋に戻る。
その夜。
ぬらりひょん対策に箒を携えトイレに立った私は、偶然両親の会話を聞いてしまった。
一階の和室、襖の隙間から細い明かりが漏れてくる。
「隠しておくのはもう無理よ。どんどん悪化してく」
「わかってる」
「近所の人に白い目で見られてるのよ」
「俺だってちゃんと考えてるさ」
「嘘」
「親戚とも相談して……」
「可哀想だって思わないの?」
「仕方ないだろ、本当の事言うとパニック起こすんだから。前だってそれで酷いことになったの忘れたのか」
お父さんがいらだち、お母さんが啜り泣く。
夫婦喧嘩の現場に居合わせた気まずさにも増して、やりとりされる内容の不可解さに箒を掴む手がじっとり汗ばみ、心臓が狂ったように早鐘を打ち始める。
「こんなのあんまりよ。耐えられない」
「俺だって気持ちは同じだよ」
襖の隙間の向こうでお父さんがお母さんに寄り添い、力強く肩を抱く。
私は階段下の窪みに隠れ、二人が和室を出るまでじっと待っていた。
和室の電気が消えたのを確認後、箒を持ったまま這い出して襖を開け、二人の間にあった分厚い本を手に取る。
アルバムだ。
息を殺してページをめくり、我が目を疑った。
ぬらりひょんのお爺さんが、知らないお婆さんと一緒に写っていた。
「いってきます」
翌朝、ご飯を食べずに家を出た。
お母さんの制止を振り切り、お父さんが何か言いかけるのを無視し、玄関を出る。
小鳥の囀りが響く爽やかな朝、家の前を掃いていたご近所さんに笑顔で挨拶する。
「おはようございます」
「おはよー」
丁寧に会釈をすれば、不自然なほどの愛想笑いと共に会釈が返ってくる。
うちにはぬらりひょんがいる。お父さんとお母さんは隠しごとをしている。何でアルバムにぬらりひょんの写真があったのか、あのお婆さんは誰なのか、聞きたいけど聞くのが怖い。
早く学校へ行きたい、少しでも家を離れたいと足が急く。学校に行けば彼に会える、大好きな彼が待っている、もう少しで最高においしい半熟の目玉焼きができるから……
すれ違いざま、犬を散歩させていたおじさんがぎょっとする。集団登校の小学生たちが、こっちを指さして笑いだす。
「ねー、あの人変ー」
「やだ、なんで制服着てるの気持ち悪い」
「頭おかしいんじゃねェの」
「孫の服借りパクしたの?」
中高生のグループが忍び笑い、あるいは気味悪そうに遠巻きにする。私が歩くだけでみんなが避けていく、白い目で見る、ざわめきとどよめきが広がっていく……。
「あっ」
かくんと膝がよろけ、その場に転ぶ。
咄嗟に手を付いたものの、右手首に激痛が走った。捻挫だ。
通学路の真ん中で転倒した私の背後で、大音量のクラクションが鳴り響く。
視界が暗転する。
玄関にあった男物の靴。お風呂場の磨りガラスの人影。空席におかれた箸。ベッドの足元で私を見守っていた人。
ゆっくり瞼を上げると、懐かしい天井が視界に広がっていく。
「ここは……」
私は自室のベッドに寝かされていた。階下からお母さんの声がする。受け答えしているのは男の人だ。
「……ということは、お宅のお母様で間違いないんですね」
「ええ、はい。本当にありがとうございます、ご丁寧に送ってくださって」
「大分進んでる感じですが、施設にお預けになる気はないでしょうか」
「夫と検討中ですけど、できるかぎりはうちで見てあげたくて」
「差し出がましいことを言いました。いえね、私の家内もそっちのケがありまして、なんだか他人事とは思えなくって」
「警察の方にまでご迷惑おかけして、申し訳ございません」
「あの服は?」
「娘のです。数年前に家を出た……」
変なの、私はまだ家を出てないのに。
ベッドに仰向けて殺風景な天井を眺めている。鎮静剤でも飲まされたのだろうか、気分は落ち着いている。右手には清潔な包帯が巻かれていた。
「目が覚めたかい」
枯れた声にゆるゆる視線を向ければ、隣にぬらりひょんが座っていた。膝に例のアルバムが開かれている。
皺ばんだ手がページを滑り、どこかの展望台で撮ったらしい、仲睦まじい老夫婦の2ショットを指さす。
「覚えてるかい。一昨年旅行した時の」
「……お爺さん、誰なの」
ぬらりひょんが静かに瞠目、感傷的な微笑を浮かべる。
「下駄箱に靴をしまい忘れたのがいけなかった。君を怖がらせてしまったね」
私は中学生だ。
こんな人知らない。結婚なんてしてない。してないんだから、いない。
存在を否定すれば、その人は見えなくなる。
「すまない」
お爺さんが湿った声で謝罪し、かさかさに乾いた私の手を包みこむ。
「どうして謝るの」
「君は悪くない。僕が見えないのは君のせいじゃない」
階下から切れ切れに会話が響く。お母さんが……あの子が泣いている。
「母はもうわからないんです。私の事も夫の事も……」
「付き添っている旦那さんの事も?」
「父が一番可哀想です、存在まるごと忘れられてしまうなんて」
「まるごと、ですか」
「……恥ずかしい話ですが、父は以前浮気したんです。何十年も前に1回きりですけど……自分を裏切った父のこと、母はまだ心のどこかで恨んでるんじゃないかって思うんです。父の浮気がバレるまでは本当に仲のいい夫婦だったんですよ、毎朝父の好物の目玉焼きを出して、きちんと半熟で」
ああ、そうだ。
半熟の目玉焼きをおいしく作れる子が好きだってあの人が言ったから、お料理頑張ったんだっけ。
どれ位前だろうか、頭の中に盲点ができて大切なものを見失った。忘れたくないことまで忘れてしまいことに飲み込まれて、私は迷子になった。
「食事は別にしてもらった。風呂の時間もずらした。なのにどうしても気になって、君を付け回した」
悪夢にうなされた夜に駆け付けてくれたのは、一番近くで見守ってくれたのは、私の記憶が取り零したこの人だった。
「お爺さん。私ね、本当は固焼きの方が好きなのよ」
この人のお嫁さんになりたくて、半熟の目玉焼きを一生懸命練習した日々を追憶する。
たった一度の裏切りで一生愛した人を消してしまうなんて、忘れっぽいにもほどがある。
「少しくたびれちゃった……」
「いいよ。眠るまでそばにいる」
眠りに落ちたら同じ事のくり返しだ。私は何度でも彼を忘れ、中学生に戻り、少女時代をやり直す。ただ無邪気に恋していられた、一番幸せだった頃に戻るのだ。
今そばにいる夫の事も、玄関先で啜り泣く娘の事も手放して。
うちに知らない男の人がいる。
だけど私は、何故かその人を知っている気がする。
「お母さんおはよー」
「おはよ。気分がよさそうね」
「うん。あのね、目玉焼き作っていい?」
「右手は大丈夫?」
「包帯とれたしもーすっかり」
フライパンから剥がした目玉焼きをお皿に移し、お父さんの隣の空席へ持っていく。
キッチンから出てきたお母さんが呆然とし、お父さんが読んでた新聞を取り落とすのをよそに、何食わぬ顔で椅子に掛けて手を合わせる。
「いただきます」
何故そうしなきゃいけないかわからないけど、そうしたいからするし、した。
目玉焼きは上手な半熟にできた。あの人も気に入ってくれるはずだ。