83.Brahmastra
ラーヴァナは気付いた。何かがこの都市へ接近してくることを。
周囲を見ても誰も気付いていない。しかしそれも仕方が無い。
『それ』はまだここからかなり離れた、距離にして数十㎞は離れた位置に居る。
何故ラーヴァナはそれに気付けたのか?
『……悪魔か。本当に来るとは』
胸の奥が燃えるように熱い。心臓の鼓動はまるで内側から突き破らんばかりに強く叩いている。その反応は以前にも邪竜やオークの王を前にした時と同質……しかし嫌悪感に似た反応は比べるのも馬鹿らしいほど強い。
「ラーヴァナ殿? 如何した? 何かあったのか?」
手を取り合っていた国王シャドルは突然様子が変わったラーヴァナに難しい表情で問い掛ける。
現在式典は終盤。そこに至り、魔王ラーヴァナ、国王シャドル、司教ジャナカの3名が手を繋いで舞台で立っている。彼らの確かな友好を民衆に改めて見せているのだ。そんな時、ラーヴァナの雰囲気が硬く張り詰めたのである。シャドルだけではなくジャナカも心配そうにラーヴァナのことを見ている。
舞台上の空気が変わったのを感じたのか民衆も俄にざわめき出す。
「ラーヴァナ様!」
舞台上の後方に居たセレネが駆け寄ってくる。彼女からは緊張が感じ取れる。セレネの腕に抱えられているマリーは何が起こっているのかわからず首を傾げている。
ラーヴァナは一声掛けてシャドルとジャナカから手を離し、北の空へ顔を向ける。
『……セレネ王女。貴様の言う通りになったようだ』
ラーヴァナは空の遙か先に顔を向け、傍まで来たセレネに声を掛ける。彼女の表情の硬さは自分の予想通りになったことだけが原因ではない。
セレネはたった今“天啓”によって視えた物をラーヴァナに伝える。
「『赤き蜂』の群れが視えました。それはこのまま一直線にこちらへ向かって来ます」
『他には?』
「……群れを率いる人型の蜂が1体、それの脅威度は不明。小さな蜂は1匹で脅威度6相当、……それが無数に居ます。あの時のオークなど比べ物にならない数です。……おそらく10は下らないかと……」
異形の蜂、その悪魔。それと共に来るのは10万以上、正確には15万の赤き蜂の群れ。単体で見た場合異界の魔王に強化されたオークの方が驚異的ではあるが、如何せん数が多すぎる。
前回よりも遙かに強大となった脅威が都市へと向かってくる。
『……成る程。だが―――』
ラーヴァナの銅色の瞳が輝く。そして油断無く飛来してくる脅威へ意識を向けながら、ラーヴァナはセレネが自身に語った『聖女達を放置してでもラーヴァナが都市に待機しなければならない理由』を思い出す。
◆◆◆
「―――結論から言って聖女様達の身に降り掛かった脅威は彼女達の能力で解決出来る範囲であるかと。何故その結論が出たかと言いますと、まず考えるべきは『仮想敵』がどういった理由で彼女達を『拘束』しているかです」
『……仮想敵……この事態が何者かによる攻撃であるのは確定か?』
「はい。直接ではなく間接的な攻撃だと考えますが、その為の拘束かと」
セレネとラーヴァナは中庭で2人きりになれる状況を確保して語り始める。1度だけセレネは父であるシャドルに声を掛けて中庭に他の者が入ってこないようにして貰ったのだ。
未婚の女性……少女ではあるがそれでも該当するセレネがラーヴァナと2人きりというのは問題があるが、シャドルにとってもその状況は悪い話しではなかったらしく快諾する。2人が中庭に出るとシャドルは他の貴族や重鎮達に対して自分は大事な娘をああして任せられるほど魔王のことを信頼し、親しくしていると彼らに強くアピールする。
どんな状況でも利へと結びつけながら、本当に仲を深める為の手を打つ強かさを見せるシャドルであった。
そんな政治的駆け引きがホールで繰り広げられている外でセレネはラーヴァナに話しを続ける。
「幾つか理由は考えられましたが……最も可能性の高い理由が、仮想敵の目的がこの〈城塞都市クルルス〉であるという事です」
『……確かここは封印に関わる“要地”だったな。……それで? 何故それが可能性が高いのだ? 聖女の命が目的ということはないのか?』
「その目的が無いとは言えません。ただそちらはあくまで、機会が有れば、という物の序ででしょう。何故なら聖女殺害が目的なら都市で戦う方が都合が良いからです。守るべき人々が多いこの場では彼女達はきっと満足に戦えませんから」
『行方不明にするよりも、その場で戦闘を開始した方が向こうとしてはやりやすい……か』
「はい。仮想敵が想定通りの相手……『悪魔』なら犠牲者が出ることなど気にする理由なんて無いです。寧ろ嬉々として民衆も殺します。……だからこそ殺害が目的なら拘束或いは幽閉は無駄というしかありません。有利な場所や状況に持ち込むというのは確かに有効な手ではありますが……聖女様達に限っては都市部を戦場にした方が敵方として有利です」
状況が見えてきた。
『つまり聖女達が不在なのは……打倒が主目的ではなく『無力化』が本命だからか?』
「その通りです。加えて申し上げるのなら仮想敵は聖女様達に『この都市に居てほしくなかった』というのがもう一つの本音でしょう。相手はそれだけ恐ろしいのです、歴代“勇者”、その誰よりも強い聖女様達の存在がこの地に集結している、その事実が」
都市から最大戦力を不在にさせる。そこを狙って滅ぼす。
それでも幾らかの強者が残るが、それは敵の想定内ということになる。
『ガラ空きになったクルルスを討つ。それが奴らの目的か』
それを肯定するようにセレネは頭を下げる。
「私はそのように予想しています」
『……ならあの2人も行方不明になっている可能性があるな』
「ロベリア様、そしてディアンサス様ですね。私もそう考えています」
『…………』
そこまで考えてラーヴァナに新たな疑問が湧く。
『セレネ王女。敵がこの都市に強者を排除しておきたい理由はわかった。……だからこそわからないことがある』
「何でしょうか?」
ラーヴァナは自身の胸を指で叩く。
『何故我は見逃された? 彼女達を排除しておくのなら当然我も排除しておく筈だと考えるが?』
都市攻めにおいてラーヴァナこそが一番危険な存在である。邪竜を殺し、そして悪魔の軍勢を退けた。その疑問に対してセレネは答えを返す。
「それは単純に知らなかったからかと」
『知らない? 自分で言うのも何だが派手に動いた方だと思うが?』
はっきり言って地味とは無縁な活躍である。見せ付けるように派手に戦ったのだ。知らない方が難しい。
「確かに。ラーヴァナ様の名はこの国ではもう広く知られ、他国にさえも広まりつつあります。……しかしそれはあくまで『人の世』のことです」
『……悪魔共はまだ我のことを知らない。……もしくは知っていてもどれだけの強さか把握出来ていない。そういうことか?』
「でなければラーヴァナ様に対して何も行動を取っていないことの説明が出来ません。その考えを補強するのは、邪竜討伐の功績はシータ様とルクミニー様、悪魔の軍勢討伐の功績はラーヴァナ様及び2人の聖女様と2人の強者になっていることです。それによってラーヴァナ様の名前は知っていても正確な強さは不明になっている筈です」
自らの目で確認していない、伝聞でしか知らない者は聖女の功績の方が大きいと考える。それだけ聖女、とりわけ“聖天戦乙女”が築いた栄光は眩しいということだ。
「……それに悪魔の軍勢に関しては殲滅されましたので敵方に情報を持ち帰る者がいなかったでしょうし。敵方はラーヴァナ様のことは殆ど知らないと考えるのが妥当かと」
『……成る程、そういうことか』
ここまで聞けばラーヴァナはこの都市で自分がどう動くべきか理解する。
『セレネ。なら我がするべきことは……』
「はい。ラーヴァナ様にはこの都市で待機し……来る敵を迎え討ってほしいのです」
『……わかった。そういうことなら我は貴様の言葉に従おう』
ラーヴァナは歩き出す。その行き先には広間に入る為の出入り口がある。
『その時が来るまで式典を進める。そして―――』
――相手が何だろうと、それが敵であるのなら、我が全てを滅ぼす――
◆◆◆
上空。大地よりも雲に近い高度。
そんな遙か高い空に、まるで空間を切り裂くような亀裂が入る。それは化け物が口を開くように大きく裂けていく。
そうして開いたのは暗く澱んだ穴。その穴の向こうからは瘴気混じりの空気と禍々しい力が噴き出してくる。
〈魔界門〉。それは魔界へと通ずる門。
【悪神】に施された封印によって『大きな力を持つ存在』が通るのが難しくなった門。魔界と通じるそれを開けるには多大な犠牲、絶望、怨嗟が必要になる。今回これを開けた存在はそれを十分に満たしたのだ。
この門を開くのに用立てたのは“500の新鮮な命”。
そして生きたまま『中身』が食い散らかされる恐怖、死ぬに死ねない苦痛、自分よりも先に死んでいく者が出た時に抱く羨望と強い怨嗟、それがおよそ500年間で“50万人分”。
強大な悪魔が1体とそれが率いる怪物の群れが通るには十分な門が開く。
【醜穢なる邪霊】の1体『熱のタルウィ』が骸赤蜂15万の群れを引き連れながら出現する。
馬よりも速い速度で飛翔しながら悪魔と残虐なる蜂は目的地を目指す。タルウィだけならこれよりも遙かに速く飛べるが、今回は骸赤蜂を最大限活用して都市を蹂躙することが目的である。だからタルウィは骸赤蜂と速度を合わせて飛行している。
――キチキチキチキチキチ――
愉悦の嗤いを上げながらタルウィは空を飛ぶ。
(この速度ならそう遠くない内に都市へ辿り着く。……計画通りならあの目障りで気持ちの悪い双子が聖女共を無力化している筈だ。……突然手を貸すと言ってきたのは怪しいが……だが奴らは我らに対して『反逆出来ない』。なら聖女を今この瞬間から無力化しているのは本当だろう)
タルウィの優れた視力は数十㎞は離れた位置にある〈城塞都市クルルス〉を視界に収めている。そして事前に取り決めていた作戦を振り返りつつ、目的達成が直ぐそこに見ている状況に嗤いが込み上げるのを止められない。
(忌まわしき聖女共め……っ。お前達が無力化されている間、あの都市を絶望と怨嗟が満ちる我らが楽園へと変えてやる。“要地”を破壊し、穢し、そして【悪神】様復活の贄とする。――キチキチキチ――、彼奴らが戻って来た時の顔が愉しみだ。【悪神】様の力が高まれば、我らは今よりも強くなる。そして行動出来る『同胞』の数も増える。なら今日がこれまで辛酸を舐めさせられ続けた相手に報復できる絶好の機会となろう! 本当に愉しみで仕方が無い!)
創造主であるタルウィの喜びが伝わっているのか骸赤蜂の飛翔速度が上昇する。その力強い翅の羽搏きにタルウィは満足げな様子を見せる。
「――キチキチキチキチ――。さあ、あの地を阿鼻叫喚の渦に―――」
有頂天だった。己の残虐性を存分に発揮できる機会。これを心ゆくまで愉しもうと考えていた。全ての狙いが思い通りに進んでいると確信していた。
―――この時までは――――
「―――っ!!?」
寒気が走る。
それはまるで背骨を素手で掴まれたような不快感だった。外骨格故に脊髄など存在しないタルウィであるが、彼が感じたのはまさにそのような感覚であった。
「止まれっ!!?」
タルウィが急停止するのに合わせ骸赤蜂の大群も止まる。
「何だっ? これは何が起こっているっ?」
警鐘が鳴る。タルウィの内にある生存本能が激しい警戒を訴えている。
危険であると。このままこの場所に居れば命の保証は無いと。
それはまごうこと無き『恐怖』だった。
長き時を生きていたタルウィ。そんな彼がこれまで味わったことが無い圧倒的恐怖。しかしその恐怖の原因がわからない。この警鐘が『何に』対して危険を訴えているのかわからない。……だからそんな状況で退くという選択肢はタルウィには存在しなかった。
「……何かは知らんが……我が恐れるだと? ……はっ! 馬鹿な。そんな物が存在するわけが無いっ!」
強い言葉を吠えてタルウィは己を鼓舞する。それが功を奏したのか、先程まであった『この場から今すぐにでも逃げ出したい』という感情は消え去っていた。
「キ……キチキチ、キチキチ。そ、そうだ、今のは何かの間違いだったのだ。【醜穢なる邪霊】の位を持つ我が恐れる物など。今の不愉快な間隔は何かの間違いだったのだっ!! 」
タルウィは再び飛翔を再開する。既に都市まで50㎞もない。この悪魔共が高速で飛べばこれは大した距離ではない。
「さあ付いてこい骸赤蜂よ!! あの都市を我と共に蹂躙せよ!!」
さっきまでの恐怖を覚えた記憶を振り切るようにタルウィは飛ぶ。この原因もわからず受けた辱めはあの都市を思うままに蹂躙して解消すると言わんばかりに。
外骨格から激しい熱気が発生する。攻撃的に尖っていた赤黒い装甲がより凶悪に鋭さを増す。4本ある腕、その手の甲から生える巨大な毒針から濃度が増した毒液がまるで粘液のように滲み出す。そして頭部にある強靱な顎は口に入れた物全て噛み砕くと激しい軋りを上げ、側頭部から生えた漆黒の巻角2本がより突き出していく。
能力【死鬼赤蜂皇帝】によってタルウィは己を最大限まで強化する。その戦闘力はあの羊頭の魔王に極限まで強化されたオークの王さえ一方的に蹂躙して屠ることが可能である。
これで万が一にでも自身が遅れをとることが無い。そんな状態にまでタルウィは持ってきた。
今のタルウィは完全無欠である―――
「さあ行くぞ!! ―――っ!!?」
―――その相手があの“彼”でさえ無ければ、だが。
「あ、あれは……何だ?」
遙か先にある都市。タルウィはその都市の中で輝く一点の『光』があることに気付いた。―――そしてそれは気付いた時にはもう手遅れ、……悪魔に対し一片の慈悲すら与えぬ『破邪の光』であった。
◆◆◆
タルウィが最初に感じた『恐怖』の正体。それはラーヴァナが能力【十天慧眼】でステータスを閲覧し、その中にあった称号の内容の醜悪さに激しい怒りを抱き、そして殺気を放ったからだ。
『……奴と言葉を交わすのは……時間の無駄だな』
――――――
名:タルウィ
種族:甲炎蜂・悪魔公
性別:雄
年齢:―――
レベル:890
スキル:【死鬼赤蜂皇帝】、眷属召喚・死蜂
称号:【醜穢なる邪霊】、【Taurvi】
――――――
【死鬼赤蜂皇帝】:悪神の加護を昇華し、己が血肉とした甲炎蜂が手にした唯一無二の能力。その身に宿る悪魔の力は絶大なり。
【醜穢なる邪霊】:悪魔の中で【悪神の眷属】と成れた6体の大悪魔の総称。残虐性・悪辣さ、その悪性の全てがどの悪魔よりも巨大であり、まさに悪魔と呼ぶしか出来ない醜穢なる存在である。
【Taurvi】:悪神に与えられた『熱のタルウィ』の証。逃れ得ない熱の如く苦しみを人々へ与え続けた悪魔。その身に纏わり付く怨念と瘴気は幾万幾億の熱度となる。これは称号であり勲章。この悪魔は誇りを持ってこの名を名乗る。
――――――
『貴様はあの竜よりも邪悪が過ぎるな』
ラーヴァナの脳裏には何時かのように、相手が持つ称号の情報が流れ込んできた。あのタルウィという悪魔が邪竜よりもさらに残酷で残虐なことをした映像が見えた。そこにはあの『養蜂場』の風景もあった。
今すぐにでもあの悪魔を殺したやりたい。ラーヴァナはそう考えた。あれ自身もそうだが引き連れてくる醜い蜂も都市に辿り着かせては危険な存在である。
だからあれは都市に近付かせる前に殺す必要がある。
しかしそれは不可能である。
何故なら、ラーヴァナにまともな『遠距離攻撃』が存在しないからだ。剣による衝撃波はあるが、あれは範囲がかなり限定的であり、あの大群を討つのには適していない。
『魔王』としてこの場に立つラーヴァナにはあれを討つ手段が無い。
「ラーヴァナ殿? まさか敵が……悪魔が来ているのか?」
『―――……そうだ。だから少し、我から離れていろ。他の者もだ』
国王シャドルが聞いてきた言葉に返答したラーヴァナは手を出して後ろへ下げる。前後に広さのあるこの舞台兼竜車ならかなり距離を取ることが出来る。
「お父様。ここはラーヴァナ様の言う通りに」
「セ、セレネ? しかし敵が来ているなら民の避難を」
民衆の避難を第一に行動しようとするシャドル。そんな彼を娘であるセレネが手を引いて後方へ連れて行く。シャドルのその考えは正しいが、……その必要は無くなる。
ラーヴァナは上空で突然急停止した悪魔に訝しげな様子を見せる。
『止まっている? ……まあいい、好都合だ』
ラーヴァナは舞台上の最前に立つ。魔王の姿だけが民衆の目に映る。
その視線を更に自分へ向けるようにラーヴァナは手を振り上げる。
『聞けっ!! 民衆よっ!!』
地を震わせるような声。これにより完全にこの場に居る全ての人々が魔王ラーヴァナから目を離せなくなる。それを確認したラーヴァナは話し出す。
『……たった今、この都市を目指して来る悪魔と、それが率いるモンスターの集団を確認した。……落ち着くが良い。何故なら我がここに居る。そして我は今かあの軍勢を討ち滅ぼす』
現状を簡潔に説明し、その悪魔共がやって来る方角へ指を向けて宣告する。その言葉は頼もしく、一瞬だけ動揺により狼狽えていた民衆は落ち着きを取り戻す。
しかし魔王にはあの悪魔の軍勢を討ち滅ぼす手段は無い。それが変わることはない。
ならどうするか?
(……問題無い、な)
だから彼は決断する。それは喉が渇いたから何か飲み物を飲む、そういった具合に簡単に選択して決断したことだった。
魔王は今の自分では出来ないことが出来る存在へその身を変える。
それは魔王にもう一つの姿があることをこの場に居る全ての人々に晒すことだが、……何も問題は無いとラーヴァナは『変身』する。
その光景に大勢の人々が驚愕する。それはラーヴァナにもう一つの姿があると知っている一部の者さえ例外では無く驚愕する。まさかこの場で変身するとは思ってもいなかったからだ。
―――異形の鬼が1人の“青年”へと姿を変えた。
赤い大翼の金鷲が刺繍された立ち襟長袖の青いロングコートを着込み、ゆったりした黒いズボンを履いた黒髪の青年。
突然現れた青年。当然人々は彼の顔を見ようと目を向ける。……しかしそれは叶わなかった。
青年は顔の下半分を完全に覆い隠すマスクが付いたフード付きの外套を身に纏っていたからだ。その外套はラーヴァナの時に身に付けていた“マント”が変身と同時に『変化した物』だった。黒い外套がはためき裏地の青が鮮やかにその色を見せる。
フードとマスクの間から薔薇色に輝く瞳が覗く。
「……熱のタルウィ、だったな。……お前は俺の手で滅ぼす」
謎の青年は腰に手を掛ける。そこにはラーヴァナの時に持っていた曲剣は無い。しかし彼が欲したのは剣ではない。
左手が掴んだのは『白銀の大角』だった。
腰に下げてなお床に付くほど長く巨大な白銀の角。青年はそれを掴んで掲げる。それはラーヴァナが式典の最中にしたような、篝火を掲げたような姿だった。
角を天に掲げた青年。彼はこれまで一度として使用したことが無かった能力を一切の迷い無く発動する。
【破邪の火】
光。―――眩い光がこの広場一帯を照らし出す。
その光の原因は白銀の大角が燃えたことによる炎光。その炎は白銀の大角を燃やし尽くすかのように激しく火を上げる。
このままではこの角が燃えて消える。誰もがそう考えた。―――しかし青年は違った。この大角は燃え尽きないと知っていた。何故ならこれは純粋な炎ではない。これは炎であって炎では無い現象。
この炎の正体は“世界の根源に由来する力”。
その力を浴びて大角に変化が起こる。……大角が、『聖骸』が徐々にその形を変えていく。そしてそれは誰もが知る形状へと変化していく。
青年の膨大な力の奔流を受け、白銀の大角は彼の力に適した存在へと生まれ変わる。
光が一際強く輝く。
それを切掛に光が収束していく。―――青年が掲げる『それ』が姿を現わす。
白銀に輝く長弓。
「“不滅の神弓”」
身の丈ほどもある長弓。左手でその弓柄を強く握り北の空へ構える。
弓を構えたその時弓筈から弦が伸びる。一瞬で長弓は弦が張った状態になる。
青年に迷いは無い。【破邪の火】も不滅の神弓もまるで、生まれつき備わった肉体の一部のように手に良く馴染む。
その弓弦を引く。強く、強く、引いていく。
弦の張力はおよそ人間が引ける重さではない。指1本分の長さが引かれるたびにまるで落雷による空震が発生したように都市の建築物や民衆の臓腑を震わせる。
矢を番えず引き絞られた長弓。そのままでは何も射ることは出来ない。
しかしその心配も無用であった。
再び長弓に光が宿る。
その光は【破邪の火】が噴き出した物。もしもこの弓が存在しなければこの場で炸裂していたであろう『光』。それがセーギが手に持つ長弓に収束し、そして弓弦を摘まむ右手の指まで一直線に伸びる光線となる。
左手の指が摘まむ部分が矢羽根へと形を変える。
光線は長弓本体から前へも伸びる。その飛び出た先端が鏃へと形を変える。
こうして不滅の神弓に矢が番えられた。
「……非業の最期を遂げた数多の命よ。この一矢が貴方達が受けた悲痛、それを邪悪に対し報いさせる一撃と成らんことを」
矢が長大化する。矢がまるで突撃槍のような形状に変化する。……そして変化はそれだけに留まらない。
鏃の差し込み口になる篦口から『翼』が生える。一枚、二枚、……三枚の翼はまるで矢が放たれ飛翔する時を待つかのように翼を畳み力を蓄える。
その翼はそれぞれ“万物の根源”を宿し、矢に『光』『地』『火』の力を与える。―――もう1つ小さな翼が存在するが、それは矢に力を与えるほどの“絆”に至っていない。
愛に殉じた者の聖骸。それに精霊の加護が込められ、そして【破邪の火】によって完成する。
狙い定める。薔薇色の瞳に宿る能力【浄泪眼《|ディヴァマツヤ》】によりあの醜い悪魔の姿をはっきり視認出来ている。先程まで空中で静止していた悪魔は再び蜂の大群と共に進軍を始める。
1匹たりとも逃しはしない。
青年は力ある言葉と共に力を解放する。
「【根源に還せ、梵天の光よ】」
矢が放たれた。
――――――
世界が震えた。
山2つさえ及ばない重量が空間を貫く。
三枚の翼が開き飛翔する。
万物の根源が螺旋回転と共に世界を巻き取るように矢へ絡み付く。
1つ。
時間を1つ数える間も無く矢が標的であるタルウィへ着弾。
星の公転よりも速き矢がその力を解き放つ。
◆◆◆
誰もが声を失う。その光景から目を離せない。
都市に住む民衆。彼らを纏める貴族や王族。神に仕える教会の信徒。近隣の村々。旅人。国境を越えた先に在る国々の人民。帝国に存在する学園の生徒。憐れな女性達を救った女主人。意志を持つ高位の精霊。宇宙から〈ニルヴァーナ〉を見る天使。未来視を失った王女。玉錦の聖獣その子供。鬼人の少年。盲目の少女。
そして『“それ”が放たれた時』に【天外領域】から帰還し壁外に出された聖女達もその光景に目を奪われていた。
その光はこの世に存在するどんな物より、恐ろしく、無慈悲で、破壊的で、甚大で、……そして何より―――
◆◆◆
解放された光が広がる。
光に呑み込まれたタルウィは表面から塵と化していく。
骸赤蜂は一瞬さえも抵抗できず、光に触れた瞬間に消滅する。
直径五㎞にもなる光の球体が何もかもを呑み込む。
光に内側で巻き起こる空間崩壊による破壊と消滅の奔流。物質や力能さえも自らの存在を破壊され消滅する。それは空間さえも例外ではなく光に触れた場所は全てを削り取られながら……根源へと還される。
タルウィは肉体を崩壊させる光から逃げだそうと足掻く。
動かした翅が砕け散る。振り回した腕が千切れ飛ぶ。足が崩壊する。そうして崩れ落ちた体の一部は一瞬で目視不可能な塵と化す。それは己が眷属である骸赤蜂と同じ末路であった。
痛い。痛みが消えない。
失った手脚、体表、そして翅から激しい痛みが発生している。既に存在しなくなった部位が今も焼かれ続ける痛みを味わう。それは肉体ではなく精神が焼かれ続けている為に起こる痛み。肉体が消えようと精神があるなら何時までも焼かれ続ける。
外骨格が完全に弾け飛ぶ。失ったそれから感じる痛みもタルウィを苛む。
狂いそうになる苦痛にタルウィは泣き叫ぶ。しかしその声も光に触れたことで消滅する。……その感情が乗った声が焼かれたことで更に苦痛が発生する。言霊には精神が宿る。それが焼かれて激痛が走る。
痛みが痛みを呼ぶ。
光に呑まれた瞬間からタルウィの体感時間は異常をきたしている。
現実では未だ1秒の1億万分の1も経過していない。それは拡張される死の一瞬さえ及び付かない時間の遅延。
翅が砕けるのに数十年。腕が千切れ飛ぶのに数十倍。足が崩壊するのに更に数十倍。外骨格が弾け飛ぶのに更に数十倍。苦痛と時間が指数関数的に増加の一途を辿る。
思考さえも焼き尽かされる。何も考えられない。考えたくない。いっそのこと精神を壊して楽になろうとするが、それは“修復される”。
何度憤怒しようと、何度恨もうと、何度呪おうと、何度何度狂おうと、何度壊れようと、何度許しを請おうと、何度命乞いしようと、何度後悔しようと、何度殺してくれと願っても。
―――その全ては許されない。
タルウィに許されたことは永遠に続くかのような苦痛を感じることだけ。
それはこの悪魔の手により苦しみ、嘆き、絶望した全ての生命。それらの『痛み』がこの瞬間に集約されタルウィに叩き付けられたかの如く。
悪因悪果。償いを。報いを。贖いを。
全てを消滅させ根源へと還す力。それとは別にこの光は業に応じて天文学的に増大する“苦痛の刑戮”と体感する“禁獄の刻限”を対象へ処す。
その光はこの世に存在するどんな物より、恐ろしく、無慈悲で、破壊的で、甚大で、……そして何より―――
◆◆◆
―――その光は美しかった。
光の球体は内側で発生する消滅の奔流からは想像も出来ないほどに美しく輝く。
万物の根源が発する七色が周囲を照らす。
極光が〈円天世界ニルヴァーナ〉を照らした。
そして光が収斂しながら消えていく。
内部に存在した『全て』は消滅した。
つまり消滅した空間は“虚無”と化していた。もしこれがそのまま世界に放り出されればその“虚無”を中心にして世界に歪みが生じ、崩壊していたかもしれない。
しかし“梵天の光”は万物の根源によって消滅した世界を再構成する。
光が消え……世界が元の姿を取り戻す。
元に戻らなかったのはタルウィと骸赤蜂のみ。その2種類の存在は万物の根源まで分解され、元の存在など欠片も残さず世界の流れの一部と化した。
ここに【醜穢なる邪霊】との戦いが終わりを告げた。
――――――
5つ数える間も無い僅かな時間で消えた光。
しかしその光を見た彼らは決して忘れることは無い。
消えることの無い記憶として心に刻み込まれる。
“破邪の勇者”は表舞台に上がる。“羅刹の覇王”と表裏一体の存在として。
魔王は顕現した。勇者は照覧した。
これは〈円天世界ニルヴァーナ〉で紡がれる伝説。……そしてこの時代が最も新しき神話の舞台となる。




