7.邪竜より恐ろしき―――
少女は単身草原を駆ける。
黒く艶めく長髪をなびかせて、聖光教会所属を表わす白い修道服を身に纏い、白銀に金の装飾を施した鎧を装着した聖騎士。腰に差した長剣が抜き放たれる時を待ちながら鞘の内に繊なる鋭さを蓄える。
美しい容に必死な思いを乗せて少女は疾る。白銀の脚甲に踏み抜かれた草地が抉られながら後方へ吹き飛ばされていく。荒々しくも洗練された破壊の轍が刻まれる。
少女の速度は既に常人の目では人である事すら視認出来ない領域に達していた。
「―――間に合って……ッ!」
全力で駆ける。それは己が使命の為。
剣を振るって邪悪を断つ。神から授かった力で大切な仲間を救う。それこそが自身に心と信念に架した誓い。
少女が目指すは〈魔の森〉、王都から北へ進み平原を越えた先に広がる深き樹海……その森によって遮られ存在する滅びた国の残滓〈廃都〉こそが彼女の目指す場所。
邪竜によって遙か昔に滅ぼされた悲劇の舞台。
……少女は任務を受けて国外へ、帝国領で悪魔と戦っていた。そこで王国で発令された『邪竜の討伐隊』が編成されて出発しようとしている事を知った。よって悪魔を打ち倒して早々に彼女は帝国領から単身で海を駆け抜け王都へ帰還。……しかしその時点で半日前に軍が出立していた。
その軍と随行している大切な仲間が既に〈廃都〉へ行ってしまった事を知った少女は周りの制止を振り切り王都を飛び出した。
軍の目的は『人類を脅かす邪龍の討伐』であり、少女の仲間の随行はその成功率を高める為の物だったが―――その仲間にこの任は重いと彼女は思っていた。
力量の問題では無い。それは心根の問題であった。
「お願いッ!!」
閃光の如く疾走する。森はもう目と鼻の先……〈廃都〉へ辿り着くのは時間の問題となった。そして少女の超人的な感覚は既に戦いが始まっているのを感じ取っている。
人類の中で最上位に在るこの少女が軍隊と同行した彼女と共に居たならば、運命はもう少し違っていたであろう。
少女は森に突入する。邂逅の時は直ぐそこまで―――
◆◆◆
結界が砕け散る。破片が光の粒子となって空へと消えていく。
守護が失われ二万の命が無防備となる。神秘が終わる。
術者が地へ倒れ伏す。全身全霊で結界を張っていた彼女はそれを破壊された際に生じた負荷を一身に受け、力尽きた。
それは兵達の命運が決したことの証明。自分達の身を守る術すら碌に持たない彼等はそれにとっては皿に盛られた料理に等しく……赤き邪竜は口元を笑みの形に歪ませる。
竜の強力無比な黒い爪牙も、全てを薙ぎ倒す凶悪な尾も、吐き出される無慈悲な炎も……その全てが彼等の命を容易く摘み取る一撃となる。そんな惨たらしい光景を思い浮かべたのか邪竜はわらう。竜という人とは違う種であるが、その面には紛れもない嘲り嗤う表情が浮かんでいた。
笑うわらう嗤う。これから始まる蹂躙に獣欲を昂らせている。生意気で矮小な生き物を苛め殺そうとする邪なる欲望が妖気となってにおい立つ。
無力な兵達に絶望が広がる。結界によって安寧としていられた時間は終わった。剥き出しの彼等に晒されるのは彼我の圧倒的な格の差。その顔が面白かったのか竜は更に笑みを深めて愉悦に浸る。
『――――――』
邪竜の口内に禍々しい光りが集まる。それは竜の息吹の予兆。それが放たれればこの場に存在する大勢の命が呑み込まれる。荒ぶる炎によって生きたまま焼き焦がされて苦しみ藻掻き、そして死ぬ。それは地獄の始まりを告げる篝火。
そして放たれる―――
『我も混ぜてもらおうか』
『―――ッ!!?』
その前に、青の一閃が邪竜の頭部を強かに打ち抜いた。
『―――ァアアガッアアアアアッ!!?』
轟音が鳴り響き、全長30mはあった邪竜の巨体が吹き飛ばされた。吐き出す直前だった竜の息吹は掻き消え、そして邪竜は食らった一撃のあまりの重さに飛行を維持出来ず墜落。廃都を押し潰して砕きながら邪竜は無様に転がっていった。
砂埃が舞い上がる。落下の衝撃は爆風のように周囲一帯へ地鳴りと突風を発生させた。兵達は嵐をやり過ごす憐れな羊のように身を寄せ合い縮こまる。突然の事態に身動きが取れない。
そんな彼等を置き去りに、事態は進んでいく。
『さて』
魔王ラーヴァナは軽々と着地する。あの城から疾走、そのまま竜の頭目掛けて一直線に跳び上がり、そして一撃を与えたのだ。
竜の頭部を刃で斬らずに剣の腹で打ち据えたのには理由が在る。もしあの場で斬り裂いたら、その巨体はそのまま超重量の落下物と化して兵達に被害をもたらしただろう。だからこそ魔王は邪竜に手加減したのだ。
『……言葉は通じるか? 赤い竜よ』
重く低い声で問い掛ける。ラーヴァナには確信が在った。この竜は高い知性と明確な意志を有していると云う確信が。だから竜が身を起こして言葉を発した事に何一つ驚きは無かった。
『―――何ノつもりダ、名モ知ラヌ“鬼”ヨ……何ノ理由ガ在ッテ俺ニ楯突クッ!?』
邪竜は怒りを露わにラーヴァナを睥睨する。それに対してラーヴァナはひどく無関心な様子で淡々と応える。
『目障り』
『……何……ダト……ッ!?』
『鬱陶しかったから叩いた。それだけだが?』
『コノ……ッ! 舐メテイルノカ、コノ俺ヲ!?』
『舐めるもなにも……現に手加減してやったろう? 何故なら―――』
魔王は剣を肩に担ぎ、左手で自分の首を軽く叩きながら言い放つ。
『お前の首は、未だ繋がっている』
それは分かり易い挑発であった。
『ッ!!? コノ身ノ程知ラズガッ!! ソノ思イ上ガリ、アノ世デ後悔スルガイイ!!』
『よく喋る』
『~~ッッ!!』
邪竜はその身から魔力と氣力を炎のように溢れさせる。濃密な殺意と混じるそれらは物理的な圧力となって廃墟を震わせ砕く。ラーヴァナは担いでいた曲剣を肩から下ろして刃を竜へと向ける。月光を纏う剣を構えながら羅刹の眼には確りと映っていた。
この邪竜は、今ここで滅ぼすべき存在であると。銅色の目に宿るスキル【十天慧眼】が詳らかに明かす。
――――――
名:バルリュース
種族:レッドドラゴン・ロード
性別:雄
年齢:1008
レベル:530
スキル:頑強なる竜王鱗、竜王の強靱なる肉体、竜王の強大なる生命、幾万の血で濡れし爪牙、竜眼、獄炎、竜魔法、竜王の威圧、悪神の加護
称号:邪悪なる赤き竜王、無辜の血で狂喜する竜、支配者、千年を生きる竜、悪神の寵愛を授かりし竜
――――――
ラーヴァナは自身のスキルが何かを訴えかけている気がした。その感覚に導かれるまま邪竜の持つ称号に目を通し……反吐が出そうになった。
――――――
邪悪なる赤き竜王:邪悪の限りを尽くした竜王。他者の苦痛と絶望、血と涙こそが心を満たす唯一の物。
無辜の血で狂喜する竜:国一つ滅ぼした。そこに因縁など無く、ただ己の愉悦を満たす為だけに全てを壊し、殺し尽くした竜。あの日を振り返り、今でも快楽を覚える。
支配者:自身の支配する領域を手にした証。己が血に染めた都で今日も竜王は嗤う。
――――――
それはただの文字情報では無く、相手の精神……魂の在り様とも云うべき物さえ感じられた。
ラーヴァナは邪竜の称号に意識を触れさせた途端、脳裏に知る筈のない光景が流れた。
―――禍々しい炎に巻かれる都市。焼け崩れていく。男も女も老いも若きも関係無く、そこで暮らしていた無辜の人々が虐殺されていく。
赤い竜が嗤う。悲痛な叫び声が飛び交う中で、邪竜は己が愉悦を満たしていく。
虐殺の宴……生きたまま皮を剥ぐ。股座から口まで串刺しにする。四肢を潰して捨てる。親の眼前で子供の胴を生きたまま捻り切る。骨の髄まで燃やしながら殺さず苦痛に喘ぐ様を愉しむ。死体の山を築きこれを食い尽くせば見逃すと唆し、反故にする―――
ただただ悪趣味。邪竜の愉悦に満ちた記憶がラーヴァナの脳裏にスライドショーでも見るかの如く流れ込んだ。とびきり最低な見世物。
『――――――』
ラーヴァナは目の前の邪竜の姿が急速に色褪せて見えた。
『多少強イ程度デ逆上セ上ガッタ愚カナ鬼ヨ!! 絶望ニ沈メッ!』
邪竜はラーヴァナの僅かな変化に気付く事も無く襲い掛かろうと翼を広げる。邪竜のその目には蔑みと侮りが色濃く、ただ生意気な玩具が一つ増えただけに感じている。故に情けや容赦などは一切無い。
―――ラーヴァナからすれば邪竜こそが玩具以下。比較する事すら他の何かに対して不敬であり不愉快極まりなかった。
『……くだらない』
ラーヴァナのその呟きは呆れさえ通り越す感情が吐露させた物。手に握る曲剣の柄が強く握り締められる。
この竜は知らない。だからこうも余裕が……己が上位者であると信じて疑っていない。それがとんでもない勘違いなのだと。いったいどちら本当に愚かなのか。
魔王のステータスには【隠蔽】が、偽装が掛かっている。それを邪竜は見たまま信じてしまっていた。
―――隠蔽―――
名:ラーヴァナ
種族:ラセツ
性別:男
年齢:17
レベル:350
スキル:鬼の剛体、鬼の剛力、天眼、月光強化、威圧、自己治癒強化
称号:鬼の戦士、求道者、百戦錬磨
――――――
自身を弱く見せる。劣っていると、大した脅威にならないと……ラーヴァナは偽装していた。
その全ては、この不愉快なトカゲを逃がさない為に。
(弱い者イジメが好きなんだろう? ……クズが)
魔王の怒りは既に頂点へ達している。その竜の吐息よりも熱く燃え滾る憤怒が、抑え込んでいたスキルを半ば無意識に発動させる。
『―――ヒィッ!?』
発動したのは【羅刹王ノ覇気】。狙った訳では無く発動してしまったスキル。暴発とも云えるこの現象はラーヴァナがこの世界でのスキルが機械的システムプログラムに由る物で無く、心身に宿る性質や培われし“能力”だという理解が足りなかった為に起きた事。
だがそんなスキルの暴発も……邪竜を殺すと云うラーヴァナの目的に沿っていたので何の問題も無かった。むしろ好都合。
『……アッ……アア……ッ!』
呑まれていた。仮にも支配者の名を冠する邪竜が……鬼の威に呑み込まれた。
廃都に静寂が戻る。邪竜が暴れ始めてから止む事の無かった廃都の震えが、水を打ったように止まった。これは邪竜の威圧が止んだから起きた事か? ……いいや違う。この現象で邪竜の要素が介在する隙間は一つも無い。
真相は……もはや震える余地すら失われたのだ。
世界に重く重く圧し掛かる。身動ぎと死が魔王の存在で同義と化す。
この廃都に存在する全てがラーヴァナの掌の上に収まる。竜も、人も、何もかもが……その生殺与奪の権利をこの魔王に取り上げられたのだ。
邪竜はようやく知る。知ってしまう。眼前に立つ矮小だと思い込んでいた鬼が、己が想像の及ばない遙か高みに在るバケモノであると。邪竜自身が世界に名だたる強者だったが為に、与えられる威圧からラーヴァナの強さを感じ取れてしまった。
地を這う小さな蜥蜴と、それを指先で弄ぶ巨大な鬼……邪竜はそんな喜劇的で無邪気で、残酷な光景を幻視した。そして何よりも怖ろしいのが―――
『来ないなら……我が行こう』
鬼は蜥蜴を弄んで時間を弄する気は欠片も無いことか。
一歩。邪竜の寿命が迫る。
『ッッ!! マ、待テ!? オ、オ前モ悪魔! ナラ仲間ノ筈!?』
必至に翼を動かすが飛べない。恐怖で身を竦ませた邪竜は肉体が言う事を聞かない現実に気付くと情に訴えかけようとする。無様な。
『知らん』
鬼は氷よりも凍て付いた心でもう一歩踏み出す。どんどんと近づく“終わり”から逃げようと邪竜は何とか時間を稼ごうと画策する。
『鬼ナラ人ノ肉ガ好キダロ!? 見ロッ、アソコニ大量ニ在ルゾ!』
『興味が無い』
『コノ地ガ欲シイノカ!? ソレナラ譲ロウ!』
『要らん』
『ナラアノ群レ中ニ居ル聖女カ!? 俺モ欲シイガ、オ前ニナラ―――』
『…………』
鬼は立ち止まり―――跳び上がる。竜の目線と鬼の目線が並ぶ。
『御託はもう……要らないな』
月光が差した。
『―――カペ?』
何が起きたのか、邪竜は初め理解出来ていなかった。
輝きが瞬いたと思った直後、その月光は首を通り過ぎ……涼やかな金属音を立てて消え去った。
曲剣を振り抜いた体勢でゆっくりと下降していくラーヴァナの姿を邪竜は視界に映す。ゆっくりと、ゆっくりと。どうしてこんなにも視界に映る世界が遅く感じるのか……時間の流れが遅延する世界の中で邪竜は自らの肉体から五感が失われていく事に気付く。
翼も。腕も、脚も、尾も……何もかも動かない。それなのに視界だけはゆっくりと滑るように動いていく。
『……〈NSO〉より火力が出た……おいそれと振るうには危険過ぎるな』
地に降り立った魔王は、そんな混乱しているトカゲを尻目に剣を握った自分の腕を観察している。
『……カ……カ……っ……!?』
動かせない長い首、それが後方へ傾げたように視界がぐるりと反転する。しかもそれは筋骨や関節を考えれば不可能な可動域まで。邪竜は顔の直ぐ下から止めどなく熱い何かが溢れ出すのを感じる。それはまるで無理矢理蓋をしていた噴水の口を急に開放したような熱の溢れ方。
脳天を地に向けて自らの背後へ回る邪竜の視界に、背後にある城が映る。
―――城には上下を分断するような線が横一直線に走っていた。
(俺ノ首ノ高サト……同ジ……?)
断ち斬られた。
邪竜の遠く背後にあった城。そこまで到達した斬撃はこれを断ち斬った。……断たれた城の上部が横に滑りながらズレていく。
落ちる邪竜の首。首無しとなった胴から首を伝って真っ赤な噴水が上がる。鉄錆臭い雨と共に地面へと落下する邪竜の頭。下へ下へ―――
そこにはいつの間にか、鬼が立っていた。
『さらばだ。愚かな竜よ』
『――――――』
邪竜が今際の際に見た最期の物、それは青き剛拳。
その拳の迫り来る圧力に反し衝突の衝撃はひどく柔らかで、だが直後に邪竜は頭蓋の中身のみを弾け潰され……絶命。その悪辣なる生涯に幕を下ろした。