2.少年は感謝を伝える
西暦2025年に人類は新たな転機を得た。
新聞やテレビニュース、その他あらゆるメデイアで連日のように取り上げられた見出し……地球を回る衛星に発生した異常事態が世界中で話題になったのだ。
その出来事を端的に言えば実に単純。『月に隕石が落下した』。
たったそれだけの一文。普通ならそれがどうしたと言ったニュース。
月に隕石が落ちるのは極々自然な事、観測可能な物でも年間40コ近くの隕石が落ち、小さい物を含めれば幾つ落ちているのか把握が困難な程。
そんな自然界では有り触れた隕石落下。……だがそれは大規模なニュースとなって世間を騒がした。
その隕石は常識の埒外だった。
隕石に付けられた名称は【プロメテウス】。人類に火を与えた神の名。火が齎す恵みの象徴。
何故そのような大それた名を付けられたのか……それはこの隕石が既存の科学では説明出来ない未知に溢れていたから。
隕石を構成する元素はこれまで存在しなかった。有り得ない筈の物質。その遊色に輝く元素によって得られる純物質と化学物質は完成まで途方も無い年月を要すると言われていたある分野を一気に成長―――いや、成長という言葉では足りない。革新と云う言葉も言い表すには正確では無い。
これは正に、原初の火を手にした人類の文明が激変した時と同等かそれ以上。
とある分野。完成に50年近い時を要すると言われたそれは……『VR』。電子世界に人間の意識を同期させる技術。その中でも最も深い位置に存在する分野。
肉体から精神を解き放ち、その意識を完全にネットワークへ没入させる技術。
【電脳量子化】
とある科学者と量子物理学者によって雛形が創り上げられた超科学。
この電脳量子化によりこれまでは創作でしか存在しなかったVR・MMORPGと云う、大勢の人々が一つの世界に意識を転送して様々な役割に成りきって生きるゲームが完成した。
人は現実を超えた。物質世界とは違う新たな世界を手に入れたのだ。
その切掛となったプロメテウス……人類の火を手に入れた年を人類史では『第二創世記』と位置付けられた。
人と云う生命はこの技術を確立したその時から最盛へと駆け上がっていった。
◆◆◆
青い空の下、漂う雲はゆっくりと形を変えて泳ぎそうして吹き抜ける風は草原を撫でる。
雄大な自然が広がる場所。そこに1人の少年が居た。
「…………」
歳は17頃だが幼さの抜けない、黒い髪を短めに切揃えた少年は2本の足でしっかりと草原に立って目を閉じて瞑想している。
深く穏やかな呼吸を行う少年。一つ息をする度に彼の意識が根を生やすように大空と大地へ知覚を広げていく。それによって少年は頭の先から足の指先に至るまでの自身を正確に脳裏に描く。
少年の日課である己が神経を全身に行き渡らせる為の精神集中。これを行う事により彼は自分と云う存在が未だこの世界で生きていると感じられている。
―――リリリリ……と。無機質な電子音が何処からともなく響く。
ベルの音。決して大きく無い音量であるがそれは少年の意識を現実に引き戻すのには十分な物であり、彼自身が時間を設定して用意していたタイマーの音が主張するように頭の中に直接鳴り響く。
これもまた少年の日常では有り触れた物であり……しかし今日に限っては些か事情が違う、少年にこの時間が終わる事を告げる鈴の音であった。
「時間……」
少年は意識を切り替える。世界に根を伸ばしていた神経が彼の内側に回帰して収まる。
「『オーダー』」
―――世界が止まる。
太陽は光の揺らぎが無くなり、雲は固定され、風に揺れていた草は一切動かなくなる。
少年が発したコマンドワードによってプログラムが挙動を停止させる。
この世界は少年に用意された世界。だから時を止めるも動かすも少年の思いのまま。
そんな世界を停止させた理由、それは少年がここから立ち去る為。
「『ログアウト』」
その一言で世界から色が消えて白と黒の二色へ変質―――そしてブロック状に分解されていく。
世界を構成していたブロックが大量の0と1に移り変わり、その2つは更にそれぞれ多重に内包した【Xs】情報を瞬く間に変化させていく。
その0と1の重なりは膨大で常人の目には結局の所は表面の一情報だけにしか認識出来ない。生物の肉眼で『量子』の世界を観測する事など不可能なのだ。
そして……分解されたモノクロの世界はその内側に遊色を内包しながら違う世界へと再構成していく。
草原から変化した世界が構築するのは―――病院の待合室だった。
自然とは真逆の、不自然なる合理に満ちた建築物。
受付があり、壁沿いにクッションの利いたソファーが並び置かれ、白色とクリーム色が電灯により昼間のように照らし出される。
少年はソファーに腰を落ち着ける。少年以外の人は居ない。この病院は無人である。
考え事をする間もなく更に視界に変化が起こる。待合室に居た少年、彼が次に居たのは診察室。
この変化は少年が起こした物では無い。この病院を管理している者が呼び出す形で少年を診察室へと移動させたのだ。
少年をこの診察室へと移動させた者……二十代後半の若い男性が少年の向かいに正対するようにイスに腰掛けてそこに居た。白衣に袖を通し聴診器を首に掛けたその姿は誰の目から見ても医者だと判断される物で、それは彼自身も肯定する事だった。
男は穏やかな笑みを浮かべて少年に言葉を掛ける。
「やあ乱麻正義君。待たせて申し訳ない」
「いいえ先生。時間通りです」
正義と呼ばれた少年は目の前の白衣の男に頭を下げる。そして始まるのは医者と患者の間で行われる問診。この2人がこれまで何度も続けてきた会話。……それも最後になる会話。
「また何時もの日課かい?」
「はい」
「そうか。……それで、この診察が終わったら……今度はあれに参加するのかい?」
「最後になりますから」
「そうか……時間は大丈夫なのかい?」
「はい。まだまだ大丈夫です」
何でもないような質問も重ねていく。
昨日の天気の話し、曇り空であったが暑気が薄く過ごしやすい日だった。
口にした料理、もっぱらここで食べた珍しい料理。
そして体の調子など聞いていく。
どれだけの時間2人は質問と答えを交わしたのだろうか。いつまでも続けば良い。医者の語り口からはそんな思いが見え隠れして……だがこの時間にも終わりがくる。
医者の顔が曇る。正義に向けられる瞳には沈痛な色が濃く浮かんでいる。
「―――ねえ正義君。私を、私達を……恨んでいるかい?」
「…………」
正義は言葉に詰まった。だがそれは肯定する意味では無い。
「恨んでは、いません」
俯き、「ただ―――」と呟いてから言葉を続ける。
「現実でも、生きたかった……それだけです」
正義は周囲に在る物全てを視界に映す。今、五感で感じられる全て……作り物でありまやかし。
否定する訳では無い。しかし望むなら、正義は現実へ手を伸ばしたかった。
医者は正義の口から吐き出された複雑な感情を耳にして表情を陰らせる。
「……我々の力が及ばず、申し訳ありません」
その言葉に正義は首を横に振る。
「良いんです。仕方がなかったことだから。……それに俺は確かに救われました、この世界を知れて」
正義は再び周囲に在る物全てを視界に映す。
現実へと飛び出したかった気持ちは本物。虚構であるこの世界はある種の牢獄のようで……しかし、だからと云って彼はこの世界に対して恨みなど欠片も抱いていない。
救われたと言った正義の顔には確かに感謝の色が浮かんでいた。
「……もう最後になるかもしれないね。こうして正義君と話すのは」
互いの胸中には消しきれない深い悲しみがある。……だがそれ以上に、最期は笑顔で別れたいと云う心遣いが正義と医者の間には在った。
残り僅かな時間、少しでも悔いが残らないように。
「ありがとうございました」
「礼など。こちらが正義君に助けられた事も多いのですから」
診察室にあった扉が変化していく。それは現代的な扉から重々しい金属戸に変質する。まるで古代文明が遺した此方と彼方を隔てる門。
「俺はこの世界……VRのお陰で苦しみを忘れられました」
席を立つ。それと同時に机に備え付けられた光ディスプレイ機器、レントゲン写真を貼り付けるシャウカステンにも変化が起こる。
書き換えられたデータが景色を変化させる。分解と再構成された機器はテレビのような液晶画面へと姿を変えて正義の前に現れる。
そして電源が点けられ……画面が映る。ディスプレイに映し出されたのは……とある病室であった。
『――――――』
一人用の病室。そこに寝かされた一人の少年。
画面が映し出すこの光景はデータで作られた物では無く、現実に存在する本物。病室に備え付けられたカメラ映像をこのVR空間の液晶画面に出力したのだ。
映し出された光景、眠る少年……しかしその横たわるモノが少年だと理解るのは正義本人と医者を含む彼の関係者のみ。
それ程までに少年の姿は医療器機に覆い尽くされ……僅かに窺える部分は悍ましい程痛ましかった。
ベッドに寝かされた少年に取り付けられているのは心電図だけでなく、直接人体に埋め込んで生体活動を継続させる機器が複数。
自発的に呼吸も出来ず鼓動も打てない。指先はおろか瞼すら動かせない。生命維持装置によって繋ぎ止められている儚い仮初めの命。
その病衣と装置に雁字搦めになった肉体その状態は更に惨たらしい。
長年陽を浴びる事が無くなった肌は青白く。動かす事が出来ずに衰え続ける体には筋肉だけでなく脂肪も無い。骨に皮を張り付けたようで……しかし生々しさだけは目を覆いたくなる。
正義自身が嫌悪感を覚える肉体。その頭部には完全に覆い隠す機械……ヘッドマウントディスプレイが装着されている。その機械こそが彼の精神をこの惨憺たる肉体の檻から解き放ってくれる唯一の希望。
心電図やその他機器が示すバイタルサインは正義が今朝に見た物と変わりない。
それはあまりにか細く……いつ絶えてもおかしくない状態だった。
「先生。……本当に、ありがとうございました」
「……私は最後まで正義君を見守りましょう」
正義はこれまで幾度となく目を逸らしてきた自分自身の現状を、この時ばかりは瞳に焼き付けるように眺めながら感謝を口にした。
正義に残された時間は残り僅か。
どれだけ電脳量子の世界が発展しても、どれだけ生命維持装置を繋げても……抗えない物が在る。
病室を複数の人影が歩き回る。寝かされている少年以外にも、この場所には3人程の医療従事者が自らの責務を果たしている。その中の一人はヘッドホンのような機器を頭に付けて他の看護師同様に作業をし行っている。
正義と今ここで最期の問診を行っている医者こそ現実でこの瞬間も少年の命を延命させようと処置を続けている者の一人。頭に装着した機器によって両方の世界に意識を分けて医者は自分がやるべき事を果たしていた。
今少し、後少し、悔いが残らぬように。
「…………」
正義はその画面から視線を外して扉へ歩いて行く。その後ろ姿を医者は見送る。
「後の事は私が責任を持ちます。だから正義君は自分が思うままに」
「……はい」
「こんな事が唯一の出来る事だなんて、救えないなんて……私は貴方の先生失格ですね」
「いえ、先生には沢山のことをしてもらいました。……して、もらってます。今も」
正義は金属戸に手を掛ける。
押し開ければ向こうに光が溢れている。その向こうには草原とも病院とも現実世界とも違う場所へと続き……残り僅かな命に火を灯した少年を誘う。
「お世話になりました先生」
「はい。……頑張ってください」
「……行ってきます」
正義が発した言葉に医者は頭を下げた。それを見てから少年は扉の向こうへと足を踏み出す。そうすれば少年の肉体……電脳分身が分解されて吸い込まれていく。
分解された正義が再構成されるのはこちらとは趣の異なる空間。彼の姿はその場所に相応しい物へと成再構成される。
金属戸が重い音を立てて閉じられていく。
遮られる……そうして完全に別け隔てられる前に、少年は振り返る。
その姿はもう正義と云う少年の体を為していなかったが……それでも彼は変わらぬ声で最後の言葉を思いを乗せて伝える。
「俺は……幸せでした」
―――扉が閉まる。
「…………」
医者は何も返せなかった。ただ眼前に聳える鉄で作られた扉を見詰めるのみ。
一人きりとなった診察室、無人の病院。……その全てから色を失われていく。
正義が居た草原がそうであったように、この世界もデータに解けていく。
この世界が再構成されることは二度と無く、世界の終わりから暗黒が広がっていく。この世界も正義ただ一人の為に用意された物。その人が帰って来ないのであれば不要……不要なのだ。それ故の処置。
医者はこの世界が消えて無くなるまで動く事は無かった。
全てが失われ、強制的にこの場からログアウトされるまで医者は正義が潜った扉を見続けた。電脳の視覚が意味を成さなくなるその瞬間まで。
そんな医者が最後に漏らした言葉は―――
「お疲れ様でした……正義君」
短い。あまりにも短い少年の人生に対しての、万感の意を込めて絞り出された労いの言葉。
分解される医者のアバター。その切れ間に……青い鳥が一瞬だけ映し出された。
二度と帰って来ない家族を惜しむ、幸福の残骸のように。