13.鎧袖一触
悪魔と化していたオークを叩き潰したラーヴァナ。彼はその腕に子鹿を抱えて森の中を疾走する。
木々が立ち並び落ち葉が地面を埋め尽くす鬱蒼とした森。泥濘や盛り上がる木の根で足下が不安定な場所……その何もかもを踏み越えてラーヴァナは駆ける。巨躯であるにも関わらず、凄まじい速度で森の中を縫って進んでいく。
『見えた』
『あわわわわ……っ』
目的地を視界に収めたラーヴァナは更に速度を上げる。子鹿にとっては辛い筈の速度。しかしラーヴァナが高速移動によって発生する衝撃や風圧を出現させた多腕、その一部によって全て弾いて霧散される事によって防ぎ環境を整えてやっている……だがそれでも子鹿は経験した事のない速さに目を回している。
それでも彼等は急行する。時間は待ってくれない。
ラーヴァナは走る。願いを叶えてやる為に……腕の中に収まる小さな子供の家族を守る為に。
そうして辿り着く―――
◆◆◆
“フォーチュンムース”は動物であれば大型獣に分類される聖獣。
足下から肩までの体高だけで2mを優に超え、頭の上まで含めれば3mにもなる巨体。そんな逞しき巨体を彩るのが銀の斑紋を持つ黄金の毛皮。その輝きは体毛だけに留まらず脚や首回りに生える鱗もまた黄金に輝き、鬣は白銀、頭部から伸びる空を支えるように枝分かれした双角も白銀に輝いている。
このフォーチュンムースが聖獣と呼ばれるのはなにも美しい見目からだけでは無い。
雷火を自在に操り、そして聖なる力の神髄たる“破邪の力”を宿すからこその聖獣。
森を駆けるその白銀と黄金は霊獣の中でも【玉錦の霊獣】と呼ばれ、〈円天世界ニルヴァーナ〉に於いて最も美麗な生命であると讃えられる生き物の一つである。
『―――滅びろッッ!! この悪魔めがァアアアアッ!!!』
聖獣が“言霊”に破邪と雷火を重ねて発動させる。
渦を巻き帯電する聖炎の奔流が悪辣な笑みを浮かべる黒いオークへと殺到する……だがそれは四体居るオーク・デーモンが同胞である筈の通常種のオークを肉壁にして防ぐ。『ゲィイイッ!?』『グェエエッ!?』などと断末魔を上げたオークが燃え滓となり、その無惨な最期を眺めていたオーク・デーモンは綽々とした態度を崩さない。
悪魔にまともな仲間意識を期待する方が間違い。この悪性に満ちた生き物の本願は悪神を賛美し、それ以外の全てを害する事に在る。現に……この場に居た全てのオークを使い潰した後であっても彼等悪魔の心に罪悪感や後悔の念は一欠片も無いのだから―――
『……ハッ、ハァ……ゼェ……ッ!』
美しき聖獣。しかしその体は傷付き至る所から血が流れている。立つのが精一杯な足下は震え、とうに体力が底を着いてのは誰の目からも明らかであった。
だから悪魔は嗤う。その醜悪な顔をより酷薄に歪めて。
崖を背後に追い詰められた聖獣にもはや逃げ場は無い……
『思ったよりも手こずった』『やはり聖獣』『だがもう動けない』『弱っていたのは本当だった』
悪魔は同胞だった物の炭塊を踏み潰しながらゆっくりと、じわじわと追い詰めるように聖獣へ迫る。棍棒を持った者、大剣を持った者、槍を持った者と出てくる。そしてその背後には集団のリーダー格である悪魔が、隆起する筋肉によって他の者より大きな肉体に手甲のみを装備して立つ。
自身の肉体に絶対の自信を持つ手甲オークが嘲笑混じりに哀れな聖獣へ言葉を投げ掛ける。
『諦めろ。もう戦いは決した』
『……ゼェ、ゼェ……くそっ』
『ああ楽しみだ。これからその綺麗な体を好きに甚振れるんだから』
『下衆がっ!』
絶体絶命―――しかし聖獣は退かない。何故ならこの聖獣には希望が残っているから。その希望が在る限りどれだけ痛め付けられようが屈する事は無い。
己が囮になる事でこの場から逃がした我が子の為に、聖獣は退く訳にはいかない。
(例え私が死んでも、我が子の為に少しでも時間を―――)
そんな子を想う親の愛を……悪魔達は踏み躙る。
『そういえば言ってなかったなぁ、あのことを』『これはうっかりだ』『冥土の土産にしてやろうか?』『楽しみだぁああ』
『――――――』
聖獣の背筋にゾッとした冷たい物が走る。疲労以外で呼吸の乱れが酷くなる。黒々とした不安と焦燥が視界を塗り潰される。悪魔の言葉に否が応でも耳を傾けざるを得なくなる。
残酷な真実を告げる言葉を聞かされる。
『俺達は、悪神様の恩寵を賜った仲間は……実は5人居てなぁ』
『……っ!?』
『気付かれない場所で控えさせてたんだよ……面白い事になるかもと期待してな』
『……ぁ……ぁぁ』
『結果はどうだ? ……ヒッヒッヒ』
聖獣は我が子を逃がした。自身が死んでも生き残ってくれるようにと、愛する我が子が無事なら思い残す事は無かった。
―――しかしそんな僅かな希望も砕かれた。
未だ幼い子に悪魔から逃げ切られる力は無い。定められた末路が待つのみ。
『……そん、な……』
聖獣は遂に膝を屈した。酷薄な現実を突き付けられた肉体は芯を折られて動かす事が出来なくなった。
(……助けられなかった)
白銀と黄金が輝き失ったように色褪せる。命を燃やして汲み上げていた氣力と魔力が消えた事により光を失った。気力と云う心の火が消えてしまった。
『ブハッ! ゲヒャヒャヒャハハハハッ!!』
そんな哀れな聖獣の姿に悪魔達の興奮は最高潮に達っする。これから始める血と暴虐、そして陵辱の宴に下衆な性質を勃たせて昂らせる。
(……あの子は不甲斐ない私を……どう思うでしょう)
どれだけ偶然が重なろうと子供が悪魔から無事に逃げ果せる事など不可能。今頃あの幼い体に凄惨極まる仕打ちを与えられているのは想像に難くない。悪魔が狙った獲物を楽に殺す事は無いのだから。
心が折れてしまった聖獣の目にはもう近付いてくる悪魔すら映らない。ただ我が子が可能な限り苦しむ事無く旅立ってくれる事を願い……そしてそれとは別に、奇蹟に縋る。
どれだけ無様な他力本願であろうと、親は子の為に奇蹟に縋り付く。
(……誰か。誰でも良い……どうかあの子だけでも)
愛しい我が子。掛け替えのない子を悪魔から救ってくれる……そんな都合の良い存在を願う。それがどれ程無理な願いでも、祈らずにはいられない。
―――だから目の前で起こった事が信じられなかった。
『ディアァーッ!!』
『―――え? ……坊?』
『ディア! ディアぁっ!』
『な、何で?』
膝を着いた聖獣の前に、愛しい我が子が居た。ふわふわの愛らしい姿を跳ねさせて擦り寄ってくる。混乱する聖獣……そこでようやく気付く。
迫り来る悪魔、その歩みを遮るように立つ大きな影
その後ろ姿は大きく見えた。聖獣の方が遙かに大きい筈なのに、仰ぎ見るその青い背中は途方もなく巨大に見えた。
天を衝く金の双角が絶望の黒を照らし祓うように輝いた。
異形の青き鬼。突如として現れたその存在に驚いたのは聖獣だけではない。悪魔も前触れ無く自分達の前に出現した鬼に驚き露わにし、警戒する。自分達の意識を掻い潜って現れたこいつは何者なのだと……そして悪魔は視界に聖獣の幼体が映った事で更に疑問を抱く。この子鹿を追い掛けていた筈の仲間はどうしたのかと。
『……鬼? 悪魔か?』『異形の鬼! こいつも悪魔だ!』『俺達の仲間はどうした!? 何故あれの子供がここに居る!?』
『…………』
口々にわめき立てるオークの悪魔共……しかし青き鬼、ラーヴァナは取り合わない。視線だけを後ろに向け、我が子の無事に安堵する聖獣を見る。美しいその姿が傷付き汚れている事に胸が締め付けられるような気持ちになる。同時に我が子を救う為に身を挺して戦ったその姿に畏敬の念を抱く。
―――そしてより一層強く、ラーヴァナは目の前の下衆に対して心が煮え滾る怒りを覚える。
『……お前達の仲間?』
『そうだ!! 何処にいった!?』
がなり立てる悪魔に理解しやすいように、魔王は自身の頭を指で指し示す。
『中身が腐ってたようでな。―――砕いてぶち撒けてやったよ』
『――――――』
『肥料程度には役に立って欲しいものだ』
静かになる。悪魔達は言われた事を理解していく。目の前の鬼によって仲間が殺されたのだと理解する……つまり、この不届き者は自分達の敵なのだと理解したのだ。
集団の頭である手甲オークが叫ぶ。
『―――この身の程知らずを殺せッ!!』
『ブォオオオ!!』『血祭りだぁあッ!!』『ひねり潰す!!』
頭の雄叫びに呼応して駆け出すオーク・デーモン。その力強さはやはり通常種のオークを遙かに凌駕している。そんな3体の悪魔が眼前に佇む鬼を轢き殺さんばかりの圧力でもって迫る。
ただの人間であれば生きる目は無い脅威……だが魔王は相手の力量を看破した上で泰然と構える。
(320。332。325。……頭が350)
魔王は自身に偽装を掛けたままにしている。レベルを低く抑えて200代になるようにしている。覇気も抑えている。
『―――お前達も腐っているようだ』
ラーヴァナのスキル【百死羅刹ノ荒神】が精神を燃え上がらせる。
青き剛腕、その両腕に凄まじき力が宿る。
跳び掛かっていた3体のオーク・デーモン。
一瞬で絶命した。
『―――は?』
手甲オークが気付いた時、そこに有ったのは地面に転がる3体の死体。
3体のどれもが生存の余地を完全に失うよう、頭部を消し飛ばされ心臓が収まる胸部に風穴を空けられていた。
少し遅れ……手甲オークの頭上へ粉々になった肉片と血飛沫が降り掛かった。仲間だった物の血肉でその身を汚しながら手甲オークは呆然とする。
悪魔には何も見えなかった。ラーヴァナが何をしたのか。
その周囲に浮遊する二対の剛腕が瞬く間に3体の悪魔を屠った事を、一切知覚する事が出来なかった。
『お前が最後だ』
『っ!?』
瞬殺した悪魔の死体を踏み潰しながら進むラーヴァナ。瞳の中で輝く二十の光源の全てがオーク・デーモンへ向けられる。
相対する。背丈は同等……だが目の前に立たれた悪魔はそう思えない。
これまで己が力に自信があった悪魔はそれが木っ端微塵に消し飛ぶ気持ちを味わう。この青き鬼と比べれば自分など矮小に過ぎると本能から刷り込まれる。
だから悪魔が次に取る行動は決まっていた。その顔に卑屈さと下劣さを混ぜ合わせた笑みを浮かべ、ラーヴァナに対して膝を着こうとする。
『な、なあ! 見逃―――』
『さて』
『―――してゲブェルルルル……ア……ッ?』
膝を折っての命乞い……芸の無い悪魔の振る舞いに飽き飽きしていたラーヴァナは力尽くで切り上げさせた。
頭を掴み、首を高速で回転させて頸骨と肉を捻り切ったのだ。
『ッ!? ―――ッ!?』
怖ろしい力業によって胴体から切り離された頭部は未だに脳の生存を許す。混乱の極地に居る悪魔は自身の角を掴んで視線を合わせてくるラーヴァナから目を離せなくなる。
『前言を撤回する。肥料に失礼だ、お前らの存在は……糞以下だ』
『―――っ!? ―――っ!?』
ラーヴァナは頭を失っても立ち続けている悪魔の死体を手で押して倒す。そうしてオークの巨体は仰向けに倒れ地鳴りを立てる。
悪魔はやけに遠く聞こえる自らの体が頽れた音を聞きながら―――魔王の宣告を浴びる。
『精々苦しんで……“死ね”』
『――――――』
覇気が。これまで抑え込んでいた覇気が怒濤の如く発せられる。それが意味する所は……この悪魔もまた、意識のみが長く生かされ永劫の苦しみを味わった最初の犠牲者と同じ末路を辿ったと云う事だった。
そうして、ラーヴァナが現れてから一分も経たぬ間にオークの悪魔共はその命脈を絶った。
一方的な蹂躙劇。悪魔であると云う一点だけで通常の生物から一線画するようになる筈。それをラーヴァナは歯牙にも掛けず撫でるような気安さで命を摘み取った。
現実離れした光景。白昼夢に迷い込んだ感覚。
『―――貴方は……いったい……』
眩暈がしそうな光景に、聖獣は言霊を用いて意志を絞り出す。尋常では無い存在に対して恐怖すら湧き上がるが―――それは杞憂であると直ぐに知る。
『我は只の通りすがり……だが……無事で良かった』
『……あ』
言霊を使えるからこそ、聖獣は他者の言葉からそれに込められた感情をある程度読み取れる。それは我が子が感じた物と同じ。体を擦り付ける我が子に視線を落とす。
子鹿はあどけない、されど真っ直ぐな目で親を見上げる。
『ディア』
『……坊。この方は……』
『うん。良い人』
『……そう……そう。……良かった……』
流した涙が光る。我が子が流すそれと同じように。
『本当に……良かった』
奇跡は現実に。願いと祈りは真実となって叶った。
―――この日、聖獣の親子は青い鬼によって救われた。




