109.終焉変遷のピリオド
1秒、1分、1時間、1日、1年……流れる時の体感が短いか長いかは主観……体内を駆け巡る精神圧の増減による意識覚醒率と空間認識率の割合によって変動する。
気が付けば終わっていたかもしれない。途方も無く長かったかもしれない。……そんな生物特有の感覚は機能により正確な時を把握出来る私には無縁の感覚。
―――貴方はどうだったのでしょう? 彼らと過ごしたあの日々は、貴方の心の中ではどのように記憶されていますか?
しかし私がそれを知る機会は永遠に存在しないでしょう。……それでも知りたいと願うのは、知ることによって私自身の中に在る無力さを理解し、納得や折り合いという名の整理を付けられるからでしょうか?
叶うのならば、もしも叶うのならば。
貴方が全てを思い出した時、その記憶が貴方を嘖む物ではなく、もっと別の何かであることを切に願います。
◆◆◆
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―――
A.D.2026.04
新たな命の誕生が行われた〈揺り籠〉。そことはまた別の国、海を越えた先、義経の故郷でもある時差にして6時間以上距離を隔てた場所に存在する〈揺り籠〉。そこで義経とソーニャは以前まで自分達が行ってきていた職務から離れ、Dr.ホワイトの所持するその〈揺り籠〉の部屋を間借りする形で子育てに専念している。
「ぱ~ぱ」
「はーい! パパだよぉおおおー!」
よちよちと歩いて来る一歳にも満たない乳児――正義――を満面の笑みで迎えて抱き上げる親馬鹿全開の義経。
「ぬおおおおおお可愛いぃいいいいいい!!」
義経はそのまま我が子のぷにぷにほっぺに頬擦りする。それに対して正義は「……ん……やぁあ」と義経の微妙に生えた髭のチクチク感を嫌がり小っちゃな手でぺちんと父親の顔面を叩く。
「ふっはっはっはっはっ! 叩かれちゃったよおい! なあおい!」
叩かれたのに嬉しそうな義経は自分の隣りに居るソーニャへ話し掛け―――
「ダーリンうざい」
「あばっ!?」
氷のような目付きをしたソーニャに正義を取り上げられた挙げ句に尻を蹴り飛ばされた。
父の腕から母の腕の中へと移った正義は短い両手を前へパタパタさせてソーニャの体を叩く。それは嫌がってのことではなく催促の行動だった。
「ま~ま」
「可愛い可愛い私の正義。さぁご飯にしましょうね」
「まんま、まんま」
我が子の空腹を察したソーニャは服の前を開けて胸を露出すると母乳を与え始める。
尻をさすりながら立ち上がった義経はもりもり母乳を飲んでいく正義を見て、そしてソーニャへと顔を向け感心した様子で口を開く。
「……あれだけ酒が好きだった君が育児の為とはいえ完全に飲酒を止められるとは思わなかったよ」
その言葉にソーニャは得意気な顔をする。
「母として当然よ。……でもお酒の話題は出さないでほしい……」
……最後は締らなかった。本当はお酒を飲みたいのを我慢しているのだ。妊娠初期、それよりも前から数えてかれこれ3年近くは断酒している。
「ははは、ソーニャは本当に立派だな」
「……そう。貴方はそうやって私をもっと褒めるべき」
「うむ。偉い偉い」
「ふふん」
義経はよしよしとソーニャの頭を撫でる。
そんな家族団欒の光景。
「…………」
それを偶然部屋の前を通り掛かったDr.ホワイトがじっと見る。彼の脳裏には数年前の記憶……子を儲ける以前の義経とソーニャの姿が思い起こされる。
―――不遜な男は嗤う―――『この実験で想定される被害? そんな物! 至高の天才たる私の礎に成れる栄誉と比べれば微々たる物だ!』―――彼にとって周囲は自身の生み出す理論を形作る為の部品……代替の利く代物でしかない。
―――氷の女は見下す―――『……どうして私が低脳の意見を訊かなければいけないの? お前達は黙って私の言うことに従えば良い』―――彼女は自身が決めた基準に満たない者を人間以下、低脳……驢馬と蔑み実験動物としか見なしていなかった。
(……「誰だこいつら?」って言いたくなるね)
“天才”という物はとても不安定な天秤で成り立っている。
常人を越えた才能を持つということは、常人にはない精神性を持つことと同義。
Dr.ホワイトがこれまで見てきた者や情報として知り得た者を含めた数多の人々の中、義経とソーニャは確実に5本の指に入る頭脳を持っている。極論すればそれ即ち『世界で5体しか存在しない生物』ということ。
その秤に掛けられた重りにより、常人を超越した能力を持つ彼らは『天使』にも『悪魔』にも傾きうる。
「―――……カメラマンは必要かな? 良ければ記念撮影をしてあげようじゃないか」
「Dr.ホワイト! ナイスな提案だ! さあ写せやれ写せ! 私達家族を!」
「……家族の思い出。アルバム……良い、とても良い」
「きゃっきゃっ」
この幸せを作った重り。その重さが母の腕の中で笑い声を上げる。
(……天使と悪魔。それを決定する存在……実に面白いね。差し詰めこの子は彼らにとっての『神様』と言ったところか)
カメラのシャッターを切りながらDr.ホワイトはそんなことを考える。被写体の中心に彼らの『神様』を据えながら。
幸福な日々。その1頁が今日もまた刻まれる。
◆◆◆
A.D.2028.08
「正義君の経過はとても良好だ。……今は」
「…………」
別室に3歳になった正義を寝かし付けた義経とソーニャはDr.ホワイトと話し合いをする。2人の表情に我が子を前にした時の柔らかさは無い。
厳粛な空気の中、義経が先の含みの有る言葉へ硬い言葉を返す。
「……医者として、お前はあの子をどう看る?」
「そうだね……」
Dr.ホワイトはイスの背もたれに身を預けながら手元のカルテに目を落とす。そこには義経・ソーニャ・正義、3名の診療した記録が事細かに載っている。
「はっきりと言えば、……正義君がどうして生きているのか、不思議でならない」
Dr.ホワイトはペストマスク越しに2人を見詰め言葉を続ける。
「……見てもらった方が早いね。青い鳥、正義君の検査記録を出してほしい」
『わかりました』
デスク上に設置している出力機が起動する。携帯端末ほどの大きさをしたそれから光が放たれ、宙に立体映像を投影する。
映し出されたのは2種類の“脳”。
「こっちが普通の人の脳。その性能がどうあれ外観的に私も君達も、脳という器官の姿に大した違いはない。……だから見てほしいのはこの、……正義君の脳の方だ」
通常の脳、血の通う赤みの強いピンク掛かった色の思考する臓器。その隣りに映したもう一つの脳の『異常』を指してDr.ホワイトは言う。
「……見ての通り、現在の正義君の脳の正常な部分は常人の2割といったところ」
2割を除いた残り8割。その状態。
―――乱麻正義の脳の大部分は『金属光沢を持つ謎の物質』に置き換わっていた。義経はその物質の名を口にする。7つの色が揺らめくように輝くその物質の名を。
「……【Xs】……」
Dr.ホワイトは立体映像の脳に触れる。すると正義の脳は縦に分割されその内部を外側へ晒す。
「最初に見た時は驚いたよ。まさか爪の先ほどの結晶体だった【Xs】があそこまで人体を侵食するとは……」
正義の脳内に存在する【Xs】。それは脳の中心から根を伸ばすようにして全体を侵食している。
「浸食部分の脳機能は義経君とソフィーヤ君が【Xs】を軸に作成した“半生体AI”が肩代わりしているお陰で生命活動自体に問題は出ていない。これは君達が当初想定した『死んだ脳細胞の復活』の結果に沿ったものだった。成功したからこそあの子は生きている」
「……はぁ」
「ん?」
Dr.ホワイトは溜息を吐いたソーニャへと顔を向ける。彼女は半目にジトッとした視線でDr.ホワイトを睨み付ける。
「……貴方は本当に趣味が悪い」
ソーニャの発言に続くように義経も口を開く。
「お前の悪い癖だな、Dr.ホワイトよ」
「おや? どういう意味かな?」
「とぼけるなよこの性悪め。お前は医者という専門家の立場を笠に着て患者の不安を煽るような診察結果を言い渡すことが趣味だろう」
「……きひひ。趣味とは人聞きが悪い」
Dr.ホワイトはマスクの下で笑う。
「嘘は言ってないさ。……患者がそれをどう受け取るかまでは本人の自由であると思わないかい? その際私にちょっと不安で心細そうな……私しか頼る相手がいないとでも言うような縋る表情を向けてくれれば治療への意欲が湧くというものさ」
…………。
「……ダーリン。この人やっぱり変態よ。胡散臭いの見た目だけにしてほしいわ」
「年中こんな格好をしている酔狂が変態でないわけが無いだろう。私達も褒められた人格を有していないがこいつも十分同類だよ」
「きひひ、手厳しいね。大事にするものだよ? 特に……【神人計画】を主導していた“連合”から共に離反した友情に厚い共犯者は、ね」
Dr.ホワイトはデスクの引き出しの中からカルテの束を取り出す。
「正義君の経過と今後。そして最終的な状態は君達の方がよく理解しているんじゃないのかい? 私が医者として言えるのは、現状を維持出来るならば正義君はこれからも元気で健やかであるということだね」
取り出しカルテの束は義経、ソーニャ、正義の3人分。そこには3人の健康状態は元より脳波などの“脳”に関する検査記録も事細かに記載されている。
義経はDr.ホワイトの手からカルテをひったくるとざっと目を通す。要点だけを正確に読み取った義経は不敵に笑う。
「順調だ。素晴らしい。やはり私達は天才だ。そうだろうソーニャ」
横から覗き込んでいたソーニャもニッと口角を上げて笑う。
「本当ね。これなら将来的に正義は『普通の人』として生きられる」
満足げな2人にDr.ホワイトは肩を竦める。
「……本当に君達はとんでもない物を作ってくれたよ。想定通りなら正義君が15歳に成る頃にはひとり立ち出来るようになるんだろう?」
―――現在の正義の状態は異常ではあるが安定している。脳の殆どが金属物質に置換されているが生きていくのに問題は無い。それもひとえに正義の傍に義経とソーニャが共に居るからこその『安定』である。
義経は自分の頭を指で突きながら口を開く。
「私とソーニャの脳は今、正義の脳の大部分を占める【Xs】と深く結びついている。この3年で『全脳金属状態から2割も通常の脳に回復した』のは回路を量子に組み込まれた【Xs】が狙い通りの働きをしてくれたからに他ならない。―――“固有自我”の形成と同調した私達の脳の模倣を“脳情報子共有量子”を用いて平行するというな。この早さなら予測通り15歳前後で正義は私とソーニャ無しでも普通に生きていくことが出来るようになる」
義経が組み上げた魂を軸にし、正義の脳は義経とソーニャとの脳を模倣し『人間という種を目指して成長している』。
有機物が無機物へと、無機物が有機物へと変化する。そんな既存の常識では起こり得ない超常現象により正義は着実に人間になっていく。それを語った義経の後をソーニャが引き継ぐ。
「量子で繋がった正義と私達に物理的距離は何の障害にもならない。例え宇宙の端と端の距離が開いていたとしても正義の脳は私達の脳は繋がったまま。……でも」
―――懸念が無いわけではない。それをソーニャは口にする。
「でも『死』は別」
それを言ったソーニャに表情は無い。しかし揺らぐ瞳からは彼女の内心が表れている。
「もしも基準としていた脳が失われでもすれば正義の脳は誤作動を起こす。……『万能な物質』とは言い換えれば良性だけでなくそれと同じだけ悪性を持つということ。私達が正義の脳の完成を待たず死にでもすればあの子は『人じゃない何か』になる可能性が極めて高い」
「…………」
Dr.ホワイトは先程までのからかうような雰囲気を消し、最初にあった厳粛な空気を取り戻す。そして義経とソーニャからこの計画実行前に聞かされていた情報をさらうように言葉にする。
「血縁であり、正義君の肉体情報を構成する最も重要な2つの情報源である君達。もしそれを失えば初めに量子にAIとして刻まれた人間に成る為の指令、特性により体内で増殖しながら浸食を進める【Xs】、そして肉体を越えて拡張していく心。それらの要素が正義君の内側で荒れ狂い……遠からず肉体が耐えきれなくなり命を落とすことになる、か。……ここまで来れば科学や医学と言うよりオカルトの領分だね」
もし『乱麻正義』という一個体が完成する前に義経とソーニャが死にでもすれば、その先には自己崩壊という名の死が待ち受けている。
「―――そうしない為に私達は居る」
義経はそう言うと手に持っていたカルテの束をデスクの上へと置く。
「だからこそ、だ。……本題に入ろうじゃないか」
そして切り出す。こうして彼らだけが集まった理由を。
「Dr.ホワイト。私達は―――逃げ切れるか?」
「…………」
即答出来ない。その理由は明白。それを理解している義経とソーニャは狼狽えることなく現在の自分達が置かれている状況を受け止める。そんな2人へDr.ホワイトは結論だけ述べていく。
「……私が所有している〈揺り籠〉300の内、既に100は“連合”に所在がバレて踏み込まれた。他の場所も時間の問題だろう。君達が私の元へ来る前に居た施設も言わずもがな。やれやれ……向こうも相変わらず執念深いことだ。チェスで言うチェック、将棋で言う王手と言ったところかな」
から離反し追われる立場となった義経とソーニャ、そしてDr.ホワイト。もしも見つけられ捕らえられれば最悪の結果が待つ。
体から『脳』だけを摘出されて研究に利用される。脳だけにして演算を行う為だけの生体部品にしてしまえば裏切ることは当然、余計な雑念を抱くことも無くなる。
そんな悪魔のような所業に手を染める“連合”の目的はただ一つ。
―――人を越えた存在……『神』の領域に至ること。
常人と隔絶した能力を持つ天才達。“連合”はそんな彼・彼女達の中から理念に共感する者を各国から集め、選りすぐり、そして“連合”が思い描く真の超越者を創造する為に日夜『研究』と『実験』を続けている。
義経とソーニャはそこに所属する研究者であった。そしてその研究者達の中にあって2人の才能は突出した物であり、だからこそ計画の要に選ばれた。……神の領域に至る最適解、人を越えた存在を天才の遺伝子を使い『産み出す』という【神人計画】の要に。
産み出された『神の器』に愛情は不要。それは研究材料にする為だけに生み出される物であるからだ。……そのような人道に反する計画であったからこそ、その計画に選ばれる者は才能だけでなく人格も選考され、そうして選出されたのが義経とソーニャなのである。
2人の傑物を中心にして計画は進み、目的の成就に近付いたと誰もが思っていた。―――しかし計画は失敗する。
産まれた子は入念な下準備を経て出産されたがその甲斐無く死亡した。
それだけなら『次』を作ればいいだけ。そう判断した“連合”であったがここで想定外の事態が発生する。
義経とソーニャが医学者筆頭であるDr.ホワイトと共に“連合”を離反した。死んでいても解剖して研究材料にすることが決定していた神の器……赤子を持ち出して。
だからこそ“連合”は血眼になって3人と赤子の行方を追う。心変わりした義経とソーニャにDr.ホワイトを危険視しているのは元より、彼らの持つ優秀な『脳』を欲して。
―――そんな自分達が立たされている現状に義経は強い瞳で前を向き、抗う意志を見せる。
「私達は死ぬわけにいかない。正義が立派に成長して幸せになるのを見届けるまでは」
それにソーニャが続く。
「そう。正義にはいっぱい幸せになってもらうのよ。私達2人の分、今のあの子の分、……そして一度死んだあの子の分を合わせた、沢山の幸せを」
義経とソーニャの純粋な愛。それを見たDr.ホワイトはゆっくりと頷く。
「……まだ詰みではない、というわけかい? まぁ君達が諦めないと言うなら私もここで諦めるという選択は無いね。それに君達が本当に気を付けるべきは死ぬことではなく生きたまま捕らえられることだけど……万が一の為にその辺りの仕込みは私が担当しよう」
『―――僭越ながら』
立体映像が青い鳥の姿を映す。3人の視線が自身に向けられたのを確認した青い鳥は彼らへ言葉を発する。
『私も皆様の力になります。現実の肉体を持たない私ですが、だからこそ可能な手があるでしょう。それで出来うる限り皆様のお手伝いをさせて頂きます』
その申し出を義経は笑みをもって受け止める。
「……青い鳥。……ならお前にも存分に働いてもらおう、私達の―――正義の幸せの為に!!」
どんな障害が現れようとそれを乗り越え、その先にある幸せを掴み取る。
義経のそんな思いが込められた宣言をこの場に居る全員が胸に刻んだ。
◆◆◆
A.D.2030.06
――――――
―――――
――――
―――
無情。必然。燃える。燃える。燃え落ちる。
炎。
炎が何もかも燃やし尽くす。
白亜の通路は燃え盛る炎の照り返しを受けて真っ赤に染まる。
そして壁には炎の赤とは違う黒ずんだ赤がこびり付き、その床に血溜まりを作り壁に背を預けるようにして立ち竦む女性の姿がある。―――そんな彼女の足元には5・6歳程度の子供がその身に縋り付いていた。
「……お母さん? ねえ……どうして? ……どうして」
「…………」
声を掛けるが返事は無い。女性―――ソーニャの腹部には瓦礫が突き刺さり、それで壁に磔にされていた。血は止めどなく溢れ出て、縋り付く子供の両手さえも赤く染めていく。
―――彼らが住む〈揺り籠〉を襲った爆発。それによる瓦礫と衝撃から我が子を庇ったソーニャは口から血を垂らしながら虚ろな表情で俯き、どれだけ声を掛けられようと反応は無く指先一つ動かすこともない。
「……ぁ……ぁあ……」
幼子に医療の心得など無い。しかし正義にはそれでも目の前に居る母親がどのような状態なのか嫌というほど理解出来てしまった。
正義は血塗れになった両手で自身の頭を抱える。
「っ!? ぁあアアア……ギィイイイッッ!?」
脳が軋む。脳の奥底を抉り取られるような痛みが走る。それは彼にとって命と同等の『何か』が剥離していく魂の悲鳴。
もう取り返しは付かない。後はもう壊れていくだけ。
「―――正義!!」
瓦礫と火焔が渦巻く通路の先から白衣姿の男……義経が走ってくる。
「ゲ……ゲゲッ……グェブッ……ゴェッ」
「正義! しっかりしろ! 正義!」
痙攣・嘔吐・心神喪失・生理機能障害……それらの症状を一気に表わした正義は白目を剥き、腹部を『出血』で赤く染めながら膝を着く。そんな彼を傍まで駆け寄った義経は腕を伸ばして支える。
「……っ。……ソーニャ……すまない!」
義経は物言わぬ妻を一瞥すると、正気を失った正義を抱き上げ再び走り出す。
「くそっ! くそくそくそくそ! くそぉおおおおおお!!」
愛した者を置き去りにして義経は走り続ける。逃げる為に。その腕で抱えるこの世で最も大切な者を守る為に。それが1番以外を切り捨てる無情の選択だと理解しながら。義経は赤が染める地獄から走り去る。
「…………」
―――それを見送ったソーニャは口の端に笑みを作る。
(……それで良い。私はもう手遅れ。……だから―――)
崩れた壁の向こうから武装した集団が踏み込んでくる。それは“連合”が出動させた改造手術・薬物・催眠などにより常人を“多少”逸脱した補強人間を中心に構成された回収部隊。彼らは目当ての相手を発見すると所持した銃を構えながら近寄ってくる。彼らの中にはクーラーボックスほどの大きさをした携帯用の冷凍装置を運んでいる者も居り、それでソーニャの脳を回収しようとしているのがわかる。
「随分と手を煩わせてくれたが、これで終わりだ。最後にその優秀な脳だけは我々の為に役立ててもらおう」
回収部隊の男はそう言うと、高周波により恐るべき切断力を持つ大型ナイフを取り出すと仕掛けを起動させその刃をソーニャの首へ近づける。
「――――――」
「? 何か言ったか?」
蚊の鳴くような小さな声で何かを言ったソーニャを男は手を止めて訝しげに見る。
―――顔を上げたソーニャは氷のような鋭さを宿した瞳で男達を睨み付け、そして吐き捨てる。
「Иди на хуй.осёл(くたばれ。ド低脳が)」
それが彼女の口から出た最後の言葉だった。
『終言受諾しました』
青い鳥は告げる。そして定められていた通りにスイッチを押し、ソーニャの頭部に埋め込まれていた物を起動させて彼女の脳内に存在する小さな【Xs】の結晶と干渉させる。
「っ!? 拙いっ、退け―――」
この部隊の部隊長は異変に気付き撤退を指示しようとしたがもう手遅れだった。
光の粒が花吹雪のように通路に舞い落ちる。
天井に有るスプリンクラーを改造した機械から金属粉末が散布される。―――それは七色の光を発しながらこの場に居る全ての者へと降り注ぐ。体に付着したその粉末は衣服や装備を意に介さず人体へと吸収されていく。
それを確認したソーニャは目を瞑り、一筋の涙を流す。
(……ごめんなさい、正義。……貴方には幸せになってほしかったのに…………ごめんなさい……)
ソーニャは脳の制限を自力で解除すると、『全力』で思考演算を開始する。
人体に備わる安全装置を外して行われる人の許容量を遙かに越えた脳の酷使。生体電流が火花を散らすようにして脳細胞を焼き切っていく。
毛細血管が弾け眼球が赤黒く染まり涙腺や鼻孔から夥しい出血を起こす。
―――ソーニャが取った手は『自死』。過剰酷使による脳の自壊。
そしてその死に至る損傷は散布された。Xs粒子によって一時的に同調した周囲の生物へも波及する。【Xs】を媒介に超々高密度の精神圧がソーニャから紫電のように発せられる。美しくも見える稲光が【Xs】を散布された空間内を限定的に乱反射しながら駆け巡る。
周囲に居た回収部隊の全員が紫電を浴びると身を震わせる。逃げ場の無い精神圧が容赦無く空間内部の者達へ猛威を振るう。彼らは壊れた玩具のような狂った挙動で痙攣すると防護マスクの隙間から血を噴き出す。
―――そして1人、また1人と膝を着き、頭を床へ打ち付けるようにして倒れていく。ソーニャと同調し、同レベルでの脳の過剰稼動に耐えきれなかった者から非可逆の脳破壊に至り生命活動を停止……死んでいく。
「……ぉ……ぉぉお……や、やめっ……っ!? ―――」
部隊長は頭を抑えながら悲鳴染みた制止の声を上げる。部隊員よりも優秀な頭脳を持っていた彼だけは他の者と違い易々とは倒れなかったが、それだけ。脳に掛かる負荷が余りにも強すぎてその場から一歩も動くことが出来ず、ただ最後の瞬間が訪れるのが先延ばしになっているだけとなっている。
ソーニャは同調によって死んだ部隊員達のダメージさえもフィードバックしてしまい脳の8割以上を壊死させる。そしてこの場に居る生存者が自分以外存在しなくなったのを見届けると、消えゆく意識の狭間で最期の想いを胸に抱く。
―――正義。私達の一番大切な―――
手放したくない想い。失いたくない気持ち。それを抱きながらソーニャは―――
「――――――」
赤に呑まれて消えた。
◆◆◆
「……君はそれを本気で言ってるのかい?」
細かい傷や汚れが目立つ格好の2人と幼子が1人。追手から必死に逃げて辿り着いたこの〈揺り籠〉の中枢たるメインルームで身を潜めている。
ペストマスクが半壊し、左側から素顔を晒したままDr.ホワイトは目の前の男……義経へと睨むような視線を向ける。義経より年嵩のある壮年の男性であり褐色の肌に複雑な刺青を彫り込んだDr.ホワイトの素顔は視線の鋭さも合いまり言い様の無い威圧が溢れている。
「Dr.ホワイトよ。お前は私がどういう人間か忘れたのか?」
しかし義経はそんな威圧を物ともせずに自分の腕に抱えた我が子をDr.ホワイトへと押し付ける。
「逃げるには足止めが要る。……ソーニャは最後の手を打っただろうが焼け石に水。所詮死にかけの人間がする悪足掻きでしかない。私達の居場所を突き止めた奴らの追手は次々にやってくる筈だ」
義経はDr.ホワイトが正義を受け取ったのを確認すると白衣を翻しメインルームのシステムへアクセスする。その態度は〈揺り籠〉から脱出することを拒むものであった。
「君が死んだらこの子は1人に……いや、この子まで遠からず命を落としてしまう。足止めなら私がしよう。そしてその間に君達がここから脱出を」
「無理だ」
Dr.ホワイトの提案を拒否した義経は辛うじて使用可能なシステムに触れながら視線だけを背後によこす。
そして義経は何故自分が正義と共に逃げることが出来ないのか、その理由を口にする。
「私も既に長くない。……正義と共に生きるのは不可能だ」
白衣の下。そこには複数箇所の銃創が存在した。流れ出た血はズボンを重く濡らして靴にまで垂れていく。
腹部を中心にして撃ち込まれた銃弾は義経の内臓を無残に食い散らかしている。常人なら凄まじい苦痛により歩くことはおろか立ち上がることさえ不可能な重傷。
それでも義経が動けるのはソーニャと同様に自力で脳のリミッターを外すことが可能だからである。それにより彼は肉体の限界が来ても意志の力によって無理矢理体を動かすことが出来る。
「……聞こえているだろう青い鳥。電波妨害を受けようとお前がこの施設内に居るのに変わりない」
相手側の初撃により〈揺り籠〉内部の電子機器は軒並み破損、またはその機能をダウンした。それによって義経達は敵方の攻撃に対し無防備となり、碌な対応を取ることが出来ず取り返しの付かない事態に陥ることとなった。
しかしそんな状況下でも青い鳥は己が務めを全うしている。
事実上システムが死んだ〈揺り籠〉の中で青い鳥は限られた経路を確保しつつシステムを随時復旧、使用可能な物を駆使して義経達の逃走をバックアップしていた。
最先端AIの処理能力をフルで活用した力技―――……それでも犠牲が出たのは双方の戦力差が覆せないレベルに達していたという単純な答え。
彼ら全員の命を守る。それを成し遂げることが出来ず、あまつさえ己が主の1人でもあるソーニャの自死の補助を行ってしまうという最悪の手を打つこととなり、更にはもう1人の主にして創造主でもある義経がその命を散らそうとしている。青い鳥はその事実に膨大なシステムエラーを抱えることになり機能不全に陥りかけていた。
『――――――』
そんな青い鳥の現状を正確に理解している義経は『道』を作る。命令という名の進む先を明確にする道を。
「お前の管理者として命ずる。―――『命令:この瞬間より青い鳥の最優先事項はDr.ホワイトと乱麻正義両名の命と逃走の補助とする。この命令は私の死後1時間まで有効とし、以降はDr.ホワイトを次のマスターとする』」
『―――っ―――』
第一の命令によって守るべき者と手段が限定される。第二の命令によって現・主を見殺しにすることを強いて、更に時間を指定することで死を確定させて助けにという選択を潰す。そして最後の命令により青い鳥は事実上義経と縁が切れることとなる。
この『命令』による指示はもう誰にも取り消せない。唯一それが可能な義経はそうする気が欠片も無いからだ。
「―――さあ、立ち去るがいい。……私はここで朽ち果てる」
砂上の楼閣のようなメインシステムに対して義経は、首元にあるコネクタを用いた有線接続をも併用しAIを越える処理能力によって脱走経路を作り出しDr.ホワイトと青い鳥へそう言い捨てた。彼らが何か言おうとしても既に義経の手は、現在この〈揺り籠〉へと進攻して来ている“連合”の迎撃の為に動き出している。
「……医者に対して命を見捨てろとは、君は本当に失礼な男だ」
Dr.ホワイトはその腕に正義を抱え歩き出す。その進む先は義経が作り出した脱走経路。
「私は自死を選択した君達夫婦を永遠に軽蔑しよう」
メインルームの扉を開き外へと踏み出す。そして閉じられる扉―――それが閉めきる前にDr.ホワイトは静かな声でこの場に残る義経へ告げる。
「そして同時に誇りに思おう。―――家族の為に命を賭した……我が友よ」
それを最後に扉が閉ざされる。
後に残された義経はそれを見届けるとべモニターへ向き直る。
「―――さあ、来るなら来い愚鈍な阿呆共。私は少々往生際が悪いぞ」
この施設へ続々と投入される兵士達のシグナルを視界に収めながら義経は不敵に笑う。……それが強がりだと自覚していようと彼は引き下がらない。
何故なら彼の後ろには1秒でも長く生きていてほしいと願う大切な者が居るから。
義経は最期の戦いに身を投じた。




