106.眠る貴方へ「おやすみ」を
振り回される怪腕が空気を爆ぜさせながら迫る。シータはその軌道を正確に見極め頭を下げて紙一重で避ける。
回避と共に接近するシータに対して化け物は追撃を掛けようと未だ15本も有る怪腕を動かす―――それに対して他の者達が対応を見せる。
「『燃えろ』」
ディアンサスの言葉と共に化け物が繰り出した怪腕の一つが燃え上がる。激しい火勢はまるで濁流のような唸りを上げる。そこから発せられる熱量は凄まじく、放置すれば腕だけではなく胴体にまで多大な影響を及ぼすと判断した化け物はその炎を散らす為に破壊の波動を放つ。
破壊の波動は炎を掻き消し更にはシータをも吹き飛ばそうとする。
しかし破壊の波動はシータに接触する直前に陽炎のように揺らぎ霞のように消えてしまった。
波動が消えた原因。それはルミーの力によってシータの周囲に張られていた結界による物だった。その結界が触れた物と同調し、力を取り込み消し去った。
「これよりセーギ様には誰1人傷付けさせません」
慈悲深く優しき守護聖女。そんなルミーの性質を体現したかのような全てを包み込み守り抜く結界がこの場に居る全ての者に施される。
「●●●●●●●●●」
反撃はディアンサスとルミーに阻止され迫り来るシータへの対応を制限された化け物は、残された手段の回避を選択しシータから距離を取ろうとする。
「舞台はまだ続いてるっすよ」
「!?」
しかし距離を取ろうと下がった位置には化け物の呼吸を解し足運びを読んだウスユキが待ち構えていた。彼女は大刀を振りかぶり刃を研ぎ澄ませている。
化け物の動きに呼吸を合わせ、通常の半分以下の時間で間合いを詰めたウスユキは大刀を振り抜く。……
しかしその刃は既に何度も経験した物。化け物は経験からくる未来予測を駆使して危うげなく避けようと―――
「私のことも忘れてもらったら困るわ」
剛脚。振り抜かれる大刀、それと僅かにタイミングをずらすように放たれたロベリアの蹴撃が化け物へと向かう。
巨体である化け物の足部を狙う2つの攻撃。これまでなら対応されていたその攻撃が新たに加わった3人によって化け物へと届く牙となる。
それでも防ぎ回避しようと動き出す化け物。しかしその動きは阻害されることになる。
炎。全身に存在する異形の瞳それら全てを覆い隠すように顕れた炎。破壊の波動によって散った筈の炎が舞い戻り化け物の視界を焼き尽くす。
感覚器官を塞がれ化け物の動きが一瞬だけ遅れる。その隙を逃さずにロベリアとウスユキの攻撃が炸裂、化け物の両膝から下を消し飛ばす。
「●●●●●●●!!!」
咆吼が響く。脚を失っても化け物は異形の腕で体を支えて地に立つ。
斬り飛ばされた腕と同じように損傷箇所の断面は黒に包まれている。そこからは異様なことに血は一滴も流れない。化け物の様子も苦痛を感じているのかわからないのもダメージがあるのか判断できない要因になっている。
しかし先程まで戦闘していたロベリアとウスユキには攻撃を通した時の手応えから確かに感じている物があった。
―――剣閃が疾る。
化け物の額から乱れ生えていた黄金の角、その左部分が斬り飛ぶ。
頭部という生物の重要な場所。そこに損傷を許した。その一連の状況から見て取れること。
それは化け物の動きの精細さが明らかに損なわれているという事実。
繰り出してくる攻撃は未だ一撃で致命傷を負わせられそうなほど強力ではあるが、それを操る化け物の動きがシータ達が合流する以前と比較し鈍くなっている。その動きの鈍化はこの瞬間にも進んでいる。
そして化け物の腕には白銀の腕輪が見える。
それから放たれる5色の輝き。化け物の鈍化の進行に比例するように輝きが増していくそれをシータは視界に収めながら更なる剣閃を繰り出す。
輝きを見せるのは腕輪だけではない。この場で戦う彼女達1人1人もその身に自身が持つ属性を帯びた輝きを放っている。それはまるで彼女達が自身の力を通じて化け物の奥に囚われている青年の心へ訴えかけているかのような光景。
それは正しい。
シータは口を開かずに声無き声でこの場に居る“聖女”達へ語り掛ける。ウスユキの『闇』による精神同調の効果によって引き起こされるこの現象は時間に一瞬に満たない間に過ぎ去る。
――もっと、もっと強くセーギ君の心に響く力が要る――1人だけではなく全員の力を一つに――個々の特性を残したまま束ねて使う――そんなことが出来るの?――……あの御2人から託された“羽”、これを使えば可能になる――
「●●●●●●●●!!!」
「っ!!」
視界を回復させた化け物の咆吼に身を晒しながらシータは聖剣を胸の前に掲げながら膝を着く。その姿はまるで祈りを捧げるよう。
「―――『天に惑いし外なる星よ。巨星より生まれし七つの星々よ』」
聖剣の柄に光が灯る。そこで純白に輝くのは一枚の“羽”。
その羽は『光』を司る天使の翼の欠片。【天外領域】から立ち去って行くシータ達に譲り渡した天使の願いと祈りが込められた力の結晶。
「『今その領域に満ちる力を顕わして現とし、貴きに昇りて大輪の華を咲かさん』」
祝詞が響く。一節一節が過ぎ去るごとに羽は溶けるように消えて無くなり、ただの純粋な力能へと変わり聖剣を輝かせる。
「『燦々たる命の太陽。稲妻喚びし風を生む木。冷熱の意を伝えし真なる火。全を擁して繋ぐ大いなる土。練り上げ分かつ剛き金。態を変えて生あるものを導く水。躰の影たる精神を育む太陰』」
「●●●●●●●●!!」
そうして無防備な姿を見せるシータへ化け物は容赦無く迫る。
「邪魔はさせないわっ!!」
シータと化け物。その両者の間に割って入ったのは炎翼を広げたディアンサス。
炎翼から火焔が噴き上がり、爆発するように化け物が居る空間を埋め尽くす。
「『焼き尽くせ』【劫火は灰に真実を残す】!!」
偽りを燃やし真実を照らし出す真贋の火。迫り来るその火焔を掻き消そうと化け物は再び波動を発するが―――しかし火焔は消えない。そして放たれた波動も周囲の者に届くこともない。波動は火焔に呑まれ跡形もなく消え去った。
火焔はそのまま化け物さえも呑み込むかに見えたが、化け物は怪腕を振るって周囲を埋め尽くしていた火焔を引き裂き消し飛ばした。……だがそれで無傷、というわけにもいかなかった。火焔に直接触れた手は黒煙を上げて指先から灰となって崩れ落ち、結果、半数以の手が焼かれて消えた。
「……っ……もうこれで攻撃も防御も打ち止めよ!」
ディアンサスは自身の内から力能が無くなっていくのを感じ取る。正確には自分からシータへと力を譲渡したことによる体力の枯渇である。そしてその現象は他の者にも起きている。
ウスユキの渾身の一撃が化け物の左腕3本を斬り飛ばす。
「ぐぅっ……私も流石にこれ以上は……っ」
今の一撃によりウスユキの体から化け物の肉体を断ち斬るだけの体力は失われた。彼女は再び重くなった体を動かし、化け物に対しての牽制に専念する。
「……っ、ごめんなさい。私も……っ」
ロベリアも翡翠の輝きに包んだ両腕で化け物の左右の腕1本ずつを微塵に弾け飛ばすとその身から輝きを失わせる。
「●●●●●●●●!!」
化け物の腕は左右合わせて10本に残された腕の手は消失、両脚は膝下から失い、頭部に生えた角も欠けている。全身に浮かぶ異形の瞳も火焔で炙られた後遺症か霞ませている。満身創痍と言っても過言ではない状態。……しかしそうでありながら化け物から放たれる威圧に陰りは無い。
そして化け物の傷が脈動する。
泡立つような蠢きを見せる傷口。それは自己治癒……失われた肉体を復元しようとする化け物の力。能力を阻害する特殊な火傷が再生を遅らせているがそれも時間の問題。これを放置すれば折角ここまで戦力を削ぎ落としたことが無駄になってしまう。
「『大地よ、全てを守護せよ』!!」
化け物の回復を阻止せんと接近したのはルミーだった。彼女は自身を攻勢結界の中へと収めるとそのまま矢のように飛翔して化け物へ突貫する。
「【悠久たる大土の抱擁】!!」
「●●●●●●●●!!」
突進してきたルミーを化け物は結界ごと掴んで止める。衝突の際に周囲には大地を捲れ上げる衝撃が奔り、歪に引っ繰り返った大地がまるで中心に居る2人を囲い込む爪のような様相を見せる。
「これで……最後……です!!」
ロベリアとウスユキに力を分け与え、後に全員に防御結界を施し、そして皆がそうしたようにシータへ力能を譲渡。それらを行いながら最後に捨て身に近い突進技を敢行したルミーから急速に力が失われる。
結界から硬度が失われて軋み、罅が走る。
異音を立てながら今にも砕け散りそうな結界の中でルミーは真っ直ぐに化け物を見詰め……危機的状況に陥っているというのに微笑む。
「……ふふ、何でしょうか……そう……思い出します。シータちゃんと貴方と一緒に観劇した日のことを」
3人で共に演劇を観た記憶。その和やかだった時間を思い出して心が温かくなる。
「……花姫様の役……譲ってあげます。……本当は私がやりたかったですけど」
拗ねたような、でも何処か満足げな表情でルミーはそう呟く。
化け物にはその言葉の意味は何一つ理解出来なかった。故にそのまま力尽きそうになっている目の前の存在を押し潰そうと怪腕にさらなる圧力を掛け……そして遂に限界がおとずれる。。
「●●●●●●●●!!」
砕け散る。
結界が砕け光の粒子となって空へ消えていく。ルミーの身を守り最後の足止めとしていた神秘の盾が消え去った。結界を突き破った怪腕がそのまま開かれた顎のようにルミーへと襲い掛かる。
―――その黒き指先が触れようとした瞬間、化け物の動きがこれまで以上に鈍り、ルミーに触れることはなかった。……その生まれた刹那の時間が命運を決した。
「『極光、全て集いて翼と成れ』―――」
シータが駆ける。
純白の翼のような光を背中から噴き出し陽の光さえ遅いと言わんばかりの速度で。
剣先を突き出して真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに。
聖剣には『光』『土』『火』『金』『闇』……そして色付いていない小さな1つの輝きが宿り、その5色と1つの輝きは荒れ果てた草原を幻想的に照らし出す。
「―――【星を照らす救世の光・星輝】」
―――繋がりを辿ってここに来た。遭遇した魔人……【不滅の聖霊】の2体が張っていた【天外領域】から解放される時にその『繋がり』を感じ取り、それを掴み取るように領域を叩き割って飛び込んだ。
砕けた空。そこから見下ろした光景を見て、不思議と理解した。
どうしてこんなにも荒れ果てているのか。どうして誰も彼も倒れ伏しているのか。そしてその原因である黒に染まる異形の影。……この光景に至る何もかもが、直感で理解出来た。
だから躊躇いなくシータは剣を向けられる。この事態を終結させることはもとより、剣を向ける相手が他でもない『彼』だから。
この場に居る聖女達の力を一身に受けてシータは前へ進む。
―――剣聖シータ・トゥイーディア。参ります―――
力が満ちる極限の一刀。光さえ越える『光』となってシータは駆ける。
閃光が化け物の胸に直撃する。
何時かの光景の再現。あの時、シータは目の前の存在を人類の敵である悪魔、その最大の脅威たる“魔王”としてしか見ていなかった。
しかし今は違う。
今のシータの胸にはもっと温かく、そして張り詰めて苦しいような、だが何処か心地よい、そんな想いが満ちている。
―――もっと……もっと……知りたい。貴方のことを、沢山。貴方自身の口から教えて欲しい。……だから―――
剣先と化け物の間で光が迸り、荒れた草原の全てを飲み込んでいく。
「―――帰ってきて! セーギ君!」
「――――――!!」
化け物と少女を含む周囲は眩い光で包まれ―――聖剣が化け物の心臓を貫いた。
◆◆◆
―――
――――
―――――
――――――
遙か先まで続く空の下、まるで鏡写しのように真っ青な色を日差しで輝かせる大海。
西大陸と東大陸を隔てる〈ゼントラー海〉。その海の上を白い飛沫を立てながら大型貨客船『微風の女帝号』が航路を東大陸……〈ヴァルトラウト帝国〉が擁する港へ向けて進んでいく。
その船の甲板の船首付近に立つ、黒と赤に彩られた扇情的なドレスと鐔の広い帽子を身に付けた美しい女性。彼女は船が進む先を紫色の瞳で眺めている。その姿は船旅を楽しむ貴婦人のようであった。
貴婦人――ペオル・ベルフェゴール――は現在『とある人物を帝立学園まで護衛する』という任務に就いており、今は特にすることが無くなり自由時間を過ごしているところであった。
船を揺らす波や風に乗る潮の香り、陽光を織り交ぜて輝く海面などから、広く深い大海を全身で感じている。
「…………」
ペオルは少し前から焦燥感に胸を焼かれていた。自分が自分でなくなるような、大切な何かが失われていくかのような、そんな感覚が胸の内でざわめいていた。そんな平常心を保つことが難しい現状がこうして仲間から離れ1人黄昏れることに繋がっている。
「ぁ」
―――そんな時であった。それは突然のことだった。
ペオルはまるで体に電気が走ったように身を震わせて甲板に膝を着く。片手は手摺りを握り締めて辛うじて倒れ伏すことだけは防ぎ、もう片手は激しい鼓動を打つ胸に添えられている。
(……これは……)
ペオルは自身に起きる異変に戸惑い……しかし直ぐにこれが自身の異常ではなく、『自分と関わりの深い者』に起きた異変によって引き起こされた症状であると気が付いた。
直感では無い。これは『心』で繋がっているからこそ起きた事態。
後ろを振り返り、船橋で遮られた方向―――西大陸の〈エリニア連邦国家〉が在る方へ目を向ける。
体が震える。それは決して寒さによる物ではない。胸の奥から溢れそうになる『自分の物ではない感情』がペオルの体を震わせた。
「マムっ!? 大丈夫ですかっ!?」
茫と船の後方を見ていたペオルの下へ駆け寄るのは冒険者特有の装備に身を包んだ女性だった。
「……大丈夫よ、サリアちゃん……」
ペオルは自身に寄り添ってきた相手――冒険者チーム〈ホワイトアキレア〉のリーダーであるサリア・マディアへ優しい笑顔を向ける。……しかしその瞳は焦点が定まらないように虚ろで揺らいでいる。
甲板で起きた異変に一部の者達が気付き遠巻きに様子を見に来る。その中からサリアのように飛び出してくる2人の人物――ジゼル・ハルマーとムルメ・マイナ――がサリアの下へと集まる。
「マ、マム? だ、だだだだだ大丈夫なのか? 船酔い? 船酔いか? か、回復! 回復魔法!」
「お、落ち着いてジゼルちゃん。こんな時は、……そうっ、睡眠系や麻酔系の魔法の方が効果的っ」
「2人が落ち着いてっ。……ああっ、マム。本当に大丈夫ですかっ?」
あわあわと慌てふためく3人へペオルはやはり変わらず優しい笑顔を向け、そして手招きする。
「皆」
「……マム?」
ペオルは腕を広げると3人を抱き締める。一緒くたに抱き竦められた彼女達は戸惑いながらもペオルに身を任せる。そんな素直で可愛い彼女達に胸を温かくしながらペオルは口を開く。
「……心配掛けてごめんね。でも本当に大丈夫なの」
「ですが……、マムがこんな状態になるなんて」
ペオルは強い。強すぎるほどに。そんな彼女が体調不良のような状態に陥っていることが信じられないサリア達は不安を隠しきれない目を向けている。
そんな自分を気に掛けてくれるサリア達が愛おしくてペオルは笑みがこぼれる。
「ふふ。……ねえ、覚えてる? 私に友達が……家族同然の人が居るって」
「え? ……え、ええ」
寝物語に語って聞かせてくれた話。悪夢にうなされ眠れぬ夜に精神を磨り減らしていた女性達にペオルが少しでもそれを忘れられるようにと口にした思い出話。
「今ね……そう、たった今。その家族がね―――」
ペオルは微笑む。眦から涙を流し、その涙の理由である胸の奥に湧き上がった感情―――『喜び』を感じながら。
◆◆◆
「っ!!」
学園寮の一室。窓からの風景を厳めしい顔で眺めていた寝間着姿の女生徒、帝立学園きっての天才であり“聖天戦乙女”の一角でもあるアネモネ・ダラニ・ボレアスはまるで頭を殴られたかのようによろめくと床にへたり込む。
「ふえっ!? アネモネお嬢様っ!?」
突然床にへたり込みその小柄な肢体をさらに小さくした己が主であるアネモネに、キオネ・ベロニカは部屋へ運んできた朝食を載せたカートを放り出すようにして慌てて駆け寄る。
「痛っ!?」
しかしいざアネモネの体に手を触れさせようとしたキオネは掌に熱さを伴う衝撃を受けて、肩に触れる寸前だった手を引き戻す。
キオネの掌にはナイフで切り裂いたような創傷が出来ておりそこから真っ赤な血が流れ出す。そこで初めてキオネはアネモネの状態を正確に見ることが出来た。
風が吹いている。
安易に触れれば切り裂く無数の風の刃がアネモネの周囲に吹き荒れている。キオネの掌はその刃によって切り裂かれたのだ。
「……ア、アネモネお嬢様?」
血の溢れる掌を握り絞めもう片方の手で上から押さえて簡易的な止血をしたキオネはアネモネに近付く事は止めて声を掛ける。
窓の方へ向いていたアネモネの顔がゆっくりとキオネの方へ向けられる。
「……キオネ?」
「っ!?」
そして向けられたアネモネの顔を見てキオネは肩を跳ねさせて身を強張らせる。
「……どうした、俺の顔に何か付いて……おい、その手」
「私は大丈夫です! それよりアネモネお嬢様―――」
「む」
キオネが何かを言おうとする前にアネモネは自身から風が吹き荒れているのに気が付きそれを収める。風刃が止み、室内にはその名残である微風が流れていく。
「……手を出せキオネ。その傷は……俺の所為だな? ならそれは俺の責任だ。治癒は苦手だが出来ないことはない」
「あ、あの……ですが……」
「何を躊躇っている? 良いから早く手を出せ。痛い思いをさせてすまなかったな」
アネモネは力の抜けていた脚に力を入れて立ち上がり、キオネの手を取ろうと自身の手を差し伸べようとして―――その手に雫が落ちる。
「……何?」
透明で水のような雫。その雫は一滴だけで終わらず次々と流れ落ちていく。
それはアネモネの赤紫の瞳を持つ両目から溢れ白い肌を伝って流れ落ちた涙だった。
キオネは元よりアネモネ自身ですら信じられない面持ちでそれを見る。あの日とは違い、止めどなく流れる落ちる涙を。
「アネモネお嬢様! 私なんかの傷よりも御自身の心配をしてください! 急に座り込んだり……そのっ……泣いてたりっ! 絶対にお加減が優れていないのですよ! それにさっきも魔法を覚えたての子みたいに制御が利かずびゅんびゅんと暴走させてたじゃないですか! 大事を取って今日は学校はお休みしましょうそうしましょう!」
「…………」
身を案じて捲し立ててくるキオネの言葉を聞き流してアネモネは黙って彼女の手を掴む。
「あ」
「……体調は悪くない。……むしろ良い。それにあと3日もすれば〈アヨーディ王国〉の王女がこの学園へやって来る。その出迎えの準備に学園の代表たる俺が不在というわけにはいかんだろ。……動くなよキオネ、これは命令だ。……『優しき風よ。この者に癒やしを』【治癒】」
キオネの血に手を赤く染めながらアネモネは彼女の傷に治癒魔法を行使する。調子が良いという言葉通りその魔法の行使に問題は見られずそう時間も掛からずに治癒を完了させる。
「涙は別に苦痛や悲哀による物じゃない。だから気にするな」
アネモネはベッド近くの棚からタオルを取り出し水差しの水で湿らせると自分とキオネの血を拭い取る。先程までへたり込んでいた者とは思えないアネモネの手早く無駄の無い動きを見ながらキオネは恐る恐る口を開く。
「……もしかして……何時もの由来の知れない『記憶』と御関係が?」
「…………」
それ以外にアネモネのような強者が変調をきたす理由に心当たりが無い。それを指摘されてキオネの手を拭いていたアネモネは動きを止める。
「……今度はいったい何が思い浮かんだのですか?」
「……大したことじゃない。……ただ……」
拭くのを再開して残っていた血も完全に拭き取るとアネモネはタオルの綺麗な部分で自身の顔も雑に拭う。そうして涙は少し赤くなった目を名残として無くなった。
大したことではない。アネモネはそう言ったがぽつぽつと溢すように自身の脳裏に過ぎった物を口にする。そうすることで自分自身でも理解出来ていない感情に整理を付けるように。
「さっきまで……誰かが藻掻いていた。……底の見えない深淵のような黒の中で、苦しんで、苦しんで、藻掻き続けていた」
黒い激流。その中で会ったことなど無い筈の男が必死にその場に留まろうとしていた。
「何故か俺はその誰かが沈んでしまわないように手を貸していた」
自分の胸から鎖が伸びていた。それをその男に握らせていた。顔も知らないような男に手を貸す義理など有りはしない。それなのにその光景の中のアネモネは必死で―――
「それでもその誰かは徐々に沈んでいっていた。俺以外にも手を貸していたのは居たがそれでも助けること出来ていなかった」
それが嫌だった。何故、どうして嫌なのかは上手く説明出来ないが……このまま『彼』が居なくなってしまうのだけは認めることが出来なかった。
―――二度と失いたくない。……同じ世界に居るのに、また会えなくなるなんて……嫌だ。嫌だよ―――
「……そんな時、光が差した」
「光、ですか?」
「ああ。……さっき風の力が溢れたのはきっとそれが原因だ」
「 ? ……どういうことですか?」
窓から差し込む朝日をアネモネは手を翳して見詰める。
「光は黒を祓っていた。……しかし光だけじゃ男を救うのに足りなかった。だから他の者からも力を借りていた。そうして5つの輝きが集まり……気が付けば俺もそこに力を貸していた」
アネモネは自身から力能が半分以上も消費されているのを自覚する。
そうしたアネモネの話しを聞いたキオネはある疑問を持った。
「あの……もしかして……何処かで、『今』、何かが起きていたということですか?」
これまでの『思い出す』ような記憶とは決定的に違う。アネモネのそれは現在進行形のような語り口だった。
「……そうかもしれないし、違うかもしれない。……ふん、確認する術など無いな」
そう言い切るとアネモネは寝間着に手を掛けて勢いよく脱ぎ捨てる。就寝時は下着を着けない派の彼女の白い肌が輝く裸身が晒され、小柄なのに圧倒的な実りを見せる胸部がたぷんと音が鳴りそうな感じで揺れる。
慎みの欠片も無い脱ぎっぷりにキオネは犬耳をピンと立てて狼狽える。
「ちょっ!? はしたないですよ!? ご令嬢なんですから品がない行いは控えてくださいとあれ程っ!」
「知らん。それにここは女子寮。仮に誰かに見られたとして何の不都合がある?」
「それは……っ! ……はぁ~……」
アネモネお嬢様は美し過ぎて同性でも魅了してしまうんですよ! ……何て怒鳴りたくなったが以前にも似たようなことを注意したことがあったが結局無意味だったのを思い出してキオネは肩を落とす。
(……せめて、せめてもう少しだけ女の子らしく振る舞ってくれれば……)
主の振る舞いに半分諦めた感のあるキオネは、男以上に男らしいアネモネに特に深く考えもせず言葉を掛ける。
「……好きな殿方でも出来れば変わったりするんですかねぇー」
「もう居る」
―――だからその返答がいったい何に対しての物か一瞬理解出来なかった。
「……え?」
キオネは唖然としてアネモネに目を向ける。
「……え?」
そこには何故か同じように唖然とした顔を向けてくるアネモネの姿があった。まるで自分自身が口にした言葉が信じられないかのような様子である。
「……え?」「……え?」
―――2人は同じように首を傾げ、そのまま運んできた朝食が完全に冷めてしまうまで妙な空気を漂わせることになった。
◆◆◆
――――――
―――――
――――
―――
荒れた草原を満たした光が徐々に小さくなり、消えていく。
シータは真っ直ぐな瞳を自身が剣を突き立てている者へと向けている。そして―――
「……気分はどう? セーギ君」
刃は目の前の相手を穿っていた。
突き出した刃は根元まで深く刺さり背中側へ剣先が飛び出ている。
心臓を突き破られている筈の相手は憔悴したような様子でありながら、しかし、それでも、シータへ穏やかな笑顔を返した。
「……もうちょっとだけ、優しく起こして欲しかった……かな?」
化け物ではない。
人へと戻ったセーギはシータへそんな軽口を叩く。
「うん。じゃあ今度は優しく起こしてあげる。……何か希望は有る?」
「……そう……だな……」
セーギは自身の心臓を穿つ剣を握るシータの手へ自分の手をそっと重ね……そのまま体を寄り掛からせる。触れ合った場所から感じるセーギの鼓動がだんだんとか細くなっていく。
「……今みたいに……皆が……傍に居てくれたら……嬉しい」
手は回していないが、抱き締め合うような体勢で2人は微笑む。
「ん、わかった。じゃあ次はそうするね」
「……ありがとう」
セーギはその薔薇色の瞳だけを動かし周りに居る、自分を助けようと集まってくれた全員を見渡す。
「……本当に……ありがとう……皆」
その感謝の言葉には様々な気持ちが込められていて―――
「……俺、皆と会えて……好きになれて……良かっ……た……―――」
―――セーギはその言葉を最後に、深い、深い眠りに付いた。
「――――――」
「……おやすみなさい。セーギ君」
剣を伝って流れる血を感じながら、シータは自分の肩の上に頭を乗せて動かなくなったセーギへ頬を擦り寄せ静かにおやすみを告げる。
もう、鼓動は聞こえない。
―――ここに悪魔の暗躍とそれがもたらした“誓約”に端を発する戦争が終結した。
◆◆◆




