104.私は私を受け入れられる
◆◆◆
時間が少し遡る。それは荒れ狂う化け物が顕現した時のこと。
これは傷付き倒れ意識を失った女性の、微睡みの中で見た夢の光景。
―――
――――
―――――
――――――
真っ暗な世界をただ1人歩く。
上下も左右も、自身の姿さえ曖昧になる中で彼女は考える。
(どうして私はこんなところに居る?)
そんな疑問に答えてくれる者は誰も居ない。……自分以外には。
(……簡単なこと。負けたから)
自身の記憶。体験。それらが写し絵のように流れてくる。
復讐の対象たる憎き悪魔。
それに1人で相対する自分。
激しい戦い。
現れる悪魔の奥の手である怪物。
凄まじい攻撃によって山から平原へと殴り飛ばされる自分。
受け止めてくれた彼。
そして意識を失う直前に見た―――『黒』に染まっていく彼の姿。
(……本当に、私は何をしているんだろう)
歩く。歩き続ける。幾ら歩いても暗い世界は暗いまま。何も変わりはしない。そんな世界は彼女に自問自答を強制させる。まるで全ての答えは自分が持っていることを知っている、そのことを自覚させる為のように。
(仇の首は1人で取りたいと息巻いて……それがこの様)
足元を見れば傷だらけの血塗れで倒れる自分の姿。装備も服もボロボロ。毒の影響でくすんで栗色となった束ねていた髪も解け広がっている。
(無様ね。……死んで生まれ変わっても何も変わってない。この復讐心が本物ならたとえ顔の皮を剥がされたって貫くべきなのに)
屈んで倒れている自分の顔を覗き込む。
(腑抜けた顔。眠っている暇なんか無いのに。こうしている間にも皆は、ウスユキやアザミ達は戦い……セーギさんは苦しんでる)
悪魔に深手を負わせたことで強力な呪詛を返されリンドウ達に降り掛かる呪詛さえも肩代わりし、常人なら数回は簡単に死ねる苦痛に耐えて武器を振り続けるウスユキ。
妖術による結界を発動して戦いの余波からマリーと倒れている自分を守りつつ治療を進めるアザミ。
そして―――
『……起きて……』
声が聞こえる。
(……誰?)
ここは夢の中。自分だけの空間。その筈なのに誰かが自分を呼ぶ声が聞こえてくる。
『……お願い、起きて……』
必死に。泣きそうな、或いはもう泣いているかもしれない声で。
近い。その声はとても近い場所で響いてくる。
『起きて。……でないと……また私は……1人に……』
そして気付く。声の出所に。
(……ああ。この声は。……そう、そうなのね)
倒れ伏す自分へ伸ばした手。その小さな手を見て思い出す。
あの日、花冠を作った時と同じ小さな手。
(私を呼んでいたのは誰でもない。……『私自身』)
少女がその小さな手で縋り付くように倒れた自分を掴んで揺り動かし懇願する。
『お願い』
(死んだと、殺したと思っていた……でも)
『起きて』
(でも……私はずっと私の中で、生きていたのね)
『でないと……私……私……』
自分の意識が倒れている自分へと入る。夢の中でも鉛のように重い体を震わせ、霞む目を開き、もつれそうになる舌を動かしてようやく自分は自分へと応える。
「……聞こえてるわ」
『……ぁ……』
血塗れの手を伸ばして少女に触れる。
翡翠色の髪が美しい少女の頬を、痛ましい泣き顔を見せる彼女を、労るように、優しく撫でる。
「……あの頃の、幼いままなのね。……私」
『……私』
「体ばっかり大きくなっても、心は子供のまま。……そういうことなのかしら」
『―――っ!』
小さな両手が頬に触れる血に濡れた手を握り締める。そして顔をくしゃりと歪め堰を切ったように翡翠の目から涙を溢れさせる。
『ごめっ……ごめん、なさいっ……私……私っ』
「何で……謝るの?」
『だって……だって……っ! 私、私に全部……押し付けてたっ! 辛いのも痛いのも怖いのも、怒りも恨みも復讐も……いけないことしてたのも全部っ! 全部全部全部押し付けて私はただ泣いてただけっ!』
ミラの悲鳴を聞き、ロベリアは苦笑する。
「……今も、泣いてるじゃない」
ロベリアは重たい体を動かす。上体を起き上がらせて泣き喚くミラをゆっくりと抱き寄せる。そうするとミラはロベリアの胸の内で声を荒げる。
『本当は誰も傷付けたくないっ!』
「……それでも私は他人を不幸にする道を選んだ。強くなる為に」
今までの人生でどれだけの人が自分の所為で不幸になったか。
『良いことをして、それで良い子だねって褒めて欲しかったっ!』
「……弱かった私には人に優しくする余裕なんてなかった。だから他人を踏み台にした」
善人も悪人も関係無い。ただひたすら目的の為に。
『1人は嫌だよぉっ! 私は1人じゃ生きられないっ!』
「……両親に甘えてばかりだった自分じゃ立ち上がれない。そんな情けない自分を殺して私は歩き出した」
そうして歩いて来たのが自分の道。日陰で水を啜って咲くことを選んだ花。本当は誰よりも日向を望んでいるのに、その眩しさで枯れてしまうような毒を持つ青い花。
『素敵なお家で沢山のお花を育てて……それからっ……それからお父様とお母様みたいに家族を作って幸せに暮らしたかったっ! ―――それなのに私はっ! 私に嫌なことを押し付けたっ!』
一つ。また一つとミラが慟哭するたびに、彼女の体に錆や汚泥のような物がまとわり付いていく。
自分の生き方を歪める不純物。それが 無垢なる少女の輝きを曇らせ無垢であれなかった女を形作る。その本当の輝きを埋め尽くす様はまさに精錬されても磨かれてもいない鉱。
少女は顔を上げ、歪んでしまった自分を真っ直ぐに見る。
翡翠の瞳が交錯する。
少女は今も泣いている。だけどその目に宿る輝きは眩しく―――
『だからっ……だからっ! もう私は私を1人にしないっ!』
―――あの日、1人で歩くことを決めた時とは違う『強さ』が秘められていた。
『だからっ……あの日あの夜……セーギさんと言葉を交わした時に、決めたの……』
幼い自分からセーギの名が出たことに戸惑いを覚える。彼という存在が弱かった自分にどんな影響を与えたというのか。―――実のところロベリアには心当たりがある。
―――俺はね、ロベリアさん。……好きなことだけして生きていたいんです―――
セーギという男の一端に触れた日の夜。その言葉の後に語られた彼自身がそれを口にするようになった切掛の話。それが自分のみならず幼い自分にも影響を与えていたのだ。―――そして気が付けばさっきまでとは逆に、ロベリアがミラに抱き締められていた。
「……私?」
『だからね、私。……一緒に行こう』
その抱擁は優しく温かい。
『今ならきっと……私は私を受け入れられるから』
美しい少女ミラは涙を流しながら微笑む。そこに錆や汚泥は見当たらない。
傷だらけの女ロベリアは自分の体にまとわり付く錆や汚泥の重さを今更ながら自覚する。そしてそのまま幼い自分の胸に頭を預ける。
「……意気地無しで甘えん坊で寂しがり屋。……そんなの今更……恥ずかしいわ。私、もういい大人なのよ? みっともないじゃない」
『大丈夫。皆もきっと笑って受け止めてくれる。それにね、私―――』
ロベリアの頭にふわりと何かがのせられる。
花の香りがした。
『女の子は小さくたって心は大人の女性で、大人になったって心は女の子のままなのよ』
矛盾するようなミラの言葉。
「……そうね。きっと、そうかもしれない」
それでもロベリアは納得する。
真っ暗だった世界に光が生まれる。その光はミラから放たれロベリアを照らす。
傷が癒える。重かった体が軽くなる。
つたない手で作られた花冠がのせられた頭。そこから栗色だった髪が変化を見せる。
頭髪が翡翠色に染まる。
『さあ。行こう』
ロベリアの変化を見届けたミラは彼女の手を引いて立ち上がらせる。ガラガラと音を立ててロベリアの体にまとわり付いていた物が落ちていく。
「ええ。行きましょう」
立ち上がったロベリアはミラと手を繋いだまま歩き出す。もう世界は暗くない。行くべき先は見えている。
ミラはもう泣いてない。それはきっとロベリア自身が泣き止んだから。
「悪魔がどうとか復讐がどうとか関係無かった。私は何時だって、何時からだって、好きに生きることが出来た」
『うん』
「ねえ私。私ね、友達が出来たの。こんな面倒な私を気に掛けてくれる、私にはもったいない良い子」
愛想が無いように振る舞う暁色の髪をした森人の少女。
「それにこんな私を慕ってくれる子も居る」
特殊な出生と血を持つ狐の獣人の少女。
「これから、仲良くなりたい子達」
誰よりも鋭い剣を振る、器用だが不器用な少女。
面倒見の良い、多くの守護を担う少女。
「そして……」
2人は顔を突き合わせて笑い合う。
「『気になる男の子』」
思い描いた顔はどちらも同じ。それがわかっているから笑みがこぼれる。
「会いに行きましょう。……好きな……そう、私の好きな人達に」
『うんっ』
「そして助けましょう。私を救ってくれていた人達を」
鼓動が強く鳴り響く。
流れる血潮が全身を熱く行き渡る。
鉱を捨て去った聖女が目覚める。
――――――
―――――
――――
―――
小さく未熟だった翼が遂に飛翔する。
◆◆◆
ウスユキは真の姿である人獣の状態で荒れ果てた草原を駆け回る。その中心にはタローマティがおり時折ウスユキが繰り出す斬撃を術を用いて防いでいく。
タローマティの体には肩から腰に掛けて刻まれた深い裂傷が存在し異形の下半身にも数多くの傷を負っている。
片やウスユキは目立った傷は負っていない。浅い傷は多いが放って置いても直に塞がるような些細な物ばかりである。それは共に戦うリンドウ達も同様であり、違いがあるとすれば彼女達はウスユキのような人間離れした自己治癒能力は備えていないことぐらいであり、刻まれた傷はそのまま残っている。
―――だが戦況は未だ勝敗を決するまでには至らない。
『……流石は【醜穢なる邪霊】と言ったところ。中々にしぶとい』
「それはこっちの言葉っ!! さっさと情けなく膝を着くがいいわっ!!」
悪魔の形相で吠えるタローマティ。その全身に刻まれた傷跡からは凄まじい高濃度の瘴気が迸っている。その中でも袈裟懸けに刻まれた傷――ウスユキの一撃によって刻まれた傷――からは一際濃い瘴気が漂っている。
「私の“呪詛”に蝕まれて苦痛の中で息絶えろ!! この愚かな肉袋共めがぁああああああっ!!」
憎悪と怨嗟に満ちた咆吼。それが傷口から垂れ流す瘴気を“呪詛”へと変化させる。
『……ちっ』
ウスユキの体、衣服や武装の下の生身には“呪言”がまるで刺青のように浮かび上がっている。それも自分がタローマティへ与えた傷と同じ箇所に一際大きく強力な物が刻まれじわじわと心身を蝕んでいく。
【悪因悪果】。傷を負った己自身を呪術の依り代として発動する最上位呪術。その効果は対象に己が負わされた傷と同等以上の苦痛を与え、更にそれによって削った生命力を吸収するという悪辣な性能を持つ。
この呪術はこの場に居るウスユキやリンドウ達を蝕んでいく。対抗策としてウスユキが“浄化”と併用した“仙術”によって防御策――という名の自身を生け贄とした方法――を取っているが、幾何かその被害を減衰させこそすれ完全に防ぎきることは出来ていない。
押しているのはウスユキ達の筈だが、この強力な呪術が戦況を膠着状態に陥らせている。
ウスユキはタローマティへ傷を刻みながら冷静に現状を分析する。
(……もし深手であれば深手であるほど強力な呪詛がこちらへ返ってくる。単純な生命力は向こうに分があることを考えれば長期戦は此方が不利。かといって短期で決めようとするなら相応の代償を支払わなければならない。ならリンドウ、キンレン、ストレリチアが行うべき役目は奴に傷を負わせることではなく―――)
呪詛以外に放たれる魔術や呪術による火・水・風などの多彩な攻撃を掻い潜りながらウスユキは白銀の闘氣を大刀“召雷樹”へと集める。そして仲間へと擦れ違いながら言葉を交わし合う。
『……リンドウさん、キンレンさん、ストレリチアさん。……足止めを』
「姐御? 何を言って……まさか」
刃が煌めき、そこに悪魔の顔が映し出される。
『一撃で持って……命を絶つ』
ロベリアの為に生け捕りにするつもりであったが……止めた。
己の生き方に影響を与え今でも強い憧れを抱く女傑。出来るなら彼女の力になりたいのが本心であるが―――ウスユキは自分へ目を向ける3人の華達をじっと見る。
(今の私は百華の頭領。なら取るべき手段は『必勝』。それが下の者を預かる上位者としての務め)
ウスユキの決断にリンドウ達は待ったを掛ける。
「ま、待ってください姐御!? 相手はこんな“呪詛”を私達に掛けてくる悪魔ですよ!?」
「……たとえ対抗術で呪詛や損傷を防いだとしても」
「致死の一撃が若様にどんな呪いとして跳ね返ってくるか……想像付かないわ~」
呪術は危険度に比例して強力になる。
ならば自身の『死』という物がどれだけの脅威となり呪詛へと転じるか。
『この中で最も強く、想定される『死の呪い』から生還出来る可能性が高いのは私です』
怨念が込められた激流を大盾で受け流しながらウスユキは既に覚悟した目を3人へ向ける。
『だからうだうだ言わず私に全て預けなさい。……生きて共に勝利を手にする為に』
揺るがない言葉。真っ直ぐ一本の芯が通ったその思いの強さにリンドウ達は―――
「やだカッコいい」「惚れる」「やっぱり若様との子供も欲しいわね~」
そんなことをのたまい、ウスユキは呆れたように頭を振る。
『あーあーあー。聞こえないっす。ほらさっさとやるべきことをやるっす。時間が経てばこっちが不利っすよ』
「承知!!」
ウスユキの指示を受けた3人は今までよりも深く切り込んでいく。反撃で受ける傷など意に介さず、血を流そうと笑みを浮かべ、ただ目的の為に前へと進み続ける。
そんな頼もしい3人の姿を視界に収め、大刀へと力を収束しながらウスユキは考える。
(……贅沢を言えば私と同格かそれ以上の戦士がもう1人いれば良かったけど……仕方が無い)
もしも不測の事態が起こり敵が無事なのに自分が倒れるという最悪の状況になっても、例えば“聖天戦乙女”のような最上級の戦士が他にいればそんな事態にも対応しやすい筈だった。……だがそれは無い物ねだり。現状自由に動けるのはウスユキ1人。その彼女にしても呪詛の影響で刻々と身体機能が低下し死の足音が近付いて来ている。
(悪魔は殺す。例えここで力尽きようと)
全てを決する為の、リンドウ達が作り出してくれる隙を見逃さないようにウスユキは全身全霊を開放して決死の攻撃を―――
「早まらないで」
『え?』
―――翡翠色の奔流が駆け抜ける。
それを見たウスユキは目を見開き踏み出そうとしていた足を止める。それはウスユキの傍を走り去りそのままタローマティへと一直線に駆け抜ける。
去り際にそれはウスユキへと言葉を残す。―――翡翠色の残光を瞬かせながら。
「力を貸して、ウスユキ」
◆◆◆
黒が塗り潰す。
『―――ガッ!? グゥ! ギッ!?』
「●●●●●●●●●●●!!!」
空中さえも蹴りながら化け物は縦横無尽に駆け巡る。ベヒーモスは四肢を振るってそれに必死に食らい付く。
周囲を揺るがす衝撃。飛び散り草原を赤く染める血。
一撃の重さはベヒーモスが圧倒している。まともに当たりさえすればそれで趨勢が決するほど。……しかし当たらない。正確には『当たりこそすれ受け流されて』しまっている。化け物の回避と併せた反撃によりベヒーモスの頑強な筈の肉体には無数の傷が刻まれている。
十の“誓約”に従い実力以上に強化されているベヒーモスが圧される。自我が薄れ獣性に身を委ね、自身の損傷すら意に介さず攻め立てるベヒーモスは自然災害に匹敵する衝撃を周辺にもたらす。それなのにこの化け物には届かない。
(……ま……だ……)
欠損の修復をしたのは一度や二度ではきかない。それによる体力の消耗は確実にベヒーモスの底を見せてきている。このままダメージが積み重なれば遠からず力尽きることになる。
(僕は……まだ……)
獣性の発露と体力低下によって自我が稀薄になろうとも、それでもオーズは歯を食いしばり耐える。
戦闘が激化するにつれて化け物の荒々しさが増している。それは周辺の破壊という目に見える形で表れ、既に両者の戦闘範囲内は荒野の如き模様を呈し草原の面影は皆無となっている。
(……倒れる……わけ……には……っ)
化け物の矛先がベヒーモスに集中しているのは『この場における最大の脅威』だからに他ならない。ならもしもベヒーモスが倒れてしまえば化け物は次に何処へ向かう?
ベヒーモスという力を発散させるのに打って付けの相手が居たからこそ被害がこの程度で済んでいる。つまり鎖と枷から解放された化け物がその暴力性と破壊を他へと向けるのは想像に難くない。
人が死ぬ。他ならぬ化け物の手で。
そうさせない為にオーズはその破壊衝動を受け止めきるつもりだった。
―――しかしそれも限界が見えてきてしまった。この途方も無い忌まわしき化け物を受け止めきるにはベヒーモス1体では荷が勝ちすぎた。
だがそれでもオーズは退くわけにはいかない。ここで退いてしまえば後戻り出来なくなる。
今のセーギは戦争を終わらせる為に敵性存在を殲滅する戦闘機械。もしも、もしもこの状態で1人でも兵士や戦士を殺してしまったなら……歯止めが利かなくなる。
己が力尽きるまで世界を巡り、戦場を見つけては全てを滅ぼす。
この世から戦場が無くなるまで。
そうして全てが終わった後に彼はきっと正気に戻る。
戦場で殺戮の限りを尽くした記憶を抱えて。
『ゴォオオオオオオオオオッ!!!』
ベヒーモスの豪腕が唸りを上げる。
限界以上の力を振り絞った影響で体が自壊し血を流す。体表が赤く染まり、王の獣は緋色の怪物へとなって吼える。
これまでで最大最強の攻勢。その物理的破壊力は範囲内に在る全てを滅する恐るべき暴威。
『ォオオオオオオッ!!!―――……ッ?』
―――ベヒーモスの視界がガクンと下がる。
何時の間にか見失っていた化け物の姿。その姿を探す前にベヒーモスは己の視界が下がった原因を探る為、足元へと目を向ける。
そこには膝下から脚部を失った両脚があった。一瞬の間にベヒーモスは化け物の手により両脚を奪われたのだ。
拙い。そう直感した時には手遅れだった。
「●●●●●●●●●●●!!!」
『――――――』
両断。ベヒーモスの胴体が胸部を境に上下に分かたれる。
さらに落ちていく視界。見えるのは失った脚で膝を着く上体の無い自身の肉体。
普通の生物なら致命傷。この瞬間にも絶命していても不思議ではない損傷。それでもベヒーモスが死んでいないのはそれだけ内に秘めた生命力が強大である証。
ベヒーモスを確実に仕留めるには首を落として潰すぐらいしなければならない。―――……つまり。
『―――ゴアッ!!?』
化け物がベヒーモスの側頭部に足を付け、そのまま地面へと踏み付けにする。
上体だけとなって重さが半分以下になったベヒーモスは軽々と大地へ叩き付けられる。
隕石が堕ちたような巨大なクレーターが発生しその中央にベヒーモスの肉体はめり込まされる。
砂埃さえ衝撃によって周囲に吹き飛ばされ、頭を踏み付けにされたまま横目に天を見上げるベヒーモスの視界には、不自然なほどに澄み渡る空が見えた。……そして己の首へ狙いを定めて振り上げられた、陽光を反射して不気味に輝く20の爪刃も。
終わる。
それが振り下ろされれば全てが終わる。
ベヒーモスは抵抗しようと体を動かそうとするが……動かせなかった。まるで自分の体が自分の物ではなくなったかのように脳から送られる命令に体が応えてくれない。あれだけ限界以上の力を与えてきた“誓約”も今は頼りない微光を発するばかり。
獣性が薄れオーズの意識が戻ってくる。まるで自分の最期の瞬間をその目に焼き付けろと言わんばかりに。
(……もう……駄目……なの? 僕は……)
爪刃に力が込められる。破壊の波動が澄み渡る空を黒く染めていく。
オーズの目元から血が流れる。それは自壊した時の傷によって生じた流血。―――だけどそれはまるで涙のようで。
その時、オーズの顔に温かい物が落ちる。
『……え……』
落ちたそれは小さな小さな粒。その粒の出所は化け物の顔、その瞳から。
『……正義?』
体に大量に表れた眼球ではなく、元の目があった場所から流れ落ちる温かい粒。
「――――――」
泣いていた。
化け物は爪刃を振り上げた体勢のまま、真っ赤な口をわななかせ、その両目から涙を溢し、オーズの顔へと滴らせていた。
『……はは』
オーズは笑ってしまった。血涙を押し流す本当の涙を流しながらオーズは笑った。
『……正義。……君はやっぱり、優しいね』
どれだけ化け物に成り下がろうと彼の本質が変わらなかったことが、嬉しかった。
嬉しくて嬉しくて……それと同時に悲しかった。
化け物のその友人を手に掛けることに涙を流して苦しむその姿が痛々しくて悲しかった。
もう少し、あとほんの少しだけ、自分が強かったなら……
『……ごめんね正義。……もう……僕、君と……戦えないや』
「―――ッ!!」
化け物が歯を食いしばる
「ッッ……●●●●●●●●●●●!!!」
涙を流しながら化け物は自身が踏み付けにする者へと爪刃を振り下ろす。
止まらない衝動に突き動かされ、化け物は友人へと絶死の一撃を―――
「セーギさん。それは貴方が本当にしたいこと?」
―――視界を埋め尽くす『翡翠色の奔流』が絶死の一撃を遮り弾いた。
「っ!!?」
弾き飛ばされた化け物はそのまま後方へと跳び退り着地する。
そして化け物は見た。自分の攻撃を防いだ者の姿を。
翡翠色の大蛇。
地に倒れ伏すベヒーモスを覆い隠すように、身をくねらせて囲い込む巨大な蛇。胴体の太さはベヒーモスの巨腕に匹敵しその全長は太さに相応しく途轍もなく長い。先程の絶死の一撃を弾いたのはこの100mは軽く超えているであろう大蛇が持つ翡翠色の鱗。その美しい鱗皮には先の化け物の一撃により痛々しい傷が刻まれたがそれは瞬く間に修復され元の完全な状態へと回復する。
大蛇は全身を翡翠色に輝かせ、そして鱗同様に美しい翡翠色を放つ瞳を悲しげに伏せ、静かに語り掛ける。
「私には……好きなことをしているように見えない」
その声は化け物にとって聞き覚えのある物で、……しかしその姿は自分が知っている筈の物と掛け離れており、戸惑うような様子を見せて警戒を露わにする。
『……ど、どうして』
大蛇は自身の陰に収めたベヒーモスに声を掛けられ目を向ける。
「…………」
『どうして……僕を助けた……の?』
その言葉に大蛇は目を細め、口を開く。
「助けた? 少し違うわ。私が助けたのは……」
ベヒーモスから視線を外し、次に目を向けるのは戸惑いを捨てて爪刃を構え始めた化け物の姿。
「セーギさんよ」
「●●●●●●●●●●●!!!」
化け物は地を蹴って大蛇へと肉薄する。その手にはやはり刀剣のように鋭く長い爪が伸びており目の前の敵を斬り刻む為に向けられている。その爪刃で鱗を引き裂けるのは実証済み。ならあとは相手が力尽きるまで攻撃を与えればいい。
迫り来る爪刃に対して大蛇は―――
「『分かて』」
爪刃が突き立てられるその時、翡翠の鱗が一際強く輝く。
そして起こる異常な光景。
鱗に触れた爪刃。その先端がまるで粒子のようになって散っていく。
「 !? 」
粒子化は先端だけに留まらずにどんどんと広がっていき遂には爪自体を消滅。その影響は今度は指先にまで―――といったところで化け物は弾かれたように身を翻して大蛇から距離を取る。
化け物は距離を取った後に自身の手に起きた異変をその目で確認する。大蛇から離れたことで粒子化は止まり指先は健在であるが爪は完全に消滅してしまっていた。
「…………」
爪の硬度や秘められた力の全てを無視して強制的に消滅させたことに化け物は警戒を露わにし、今までに無かった慎重さに重きを置いた様子を見せる。
化け物は既に戦闘不能になったベヒーモスから大蛇へと標的を完全に切り替える。目の前に突如として現れた大蛇は自身にとって紛れもない脅威であると化け物は判断したのだ。それもベヒーモス以上の存在として。
「……何だか可笑しいわね」
大蛇はそんな化け物を見てクルルルと喉を震わせて笑う。
「私、今でも貴方には勝てないと思っているのに……不思議―――」
「●●●●●●●●●●●!!!」
化け物は大蛇の言葉を聞き終えることなく口から漆黒の咆吼を放った。
強靱なベヒーモスに2度も重傷を負わせた破壊の権化。防ぐ術無く直撃すれば死に直結する恐るべき黒の奔流。それが一直線に大蛇へと迫る。
生き残るには回避するしかない。ベヒーモスはそう考えており、もちろん目の前にいる大蛇もそうすると予想していたが―――その光景は予想外だった。
大蛇は迫り来る黒の咆吼へ真っ直ぐにその身を躍り出した。まるで自身を槍に見立てて突き立てるように。
直撃すれば死ぬ。それなのに大蛇は真っ直ぐに迎え撃つことを選んだ。
理屈で考えれば有り得ない。ベヒーモスは大蛇が取った行動を自殺行為であると断ずる。幾ら特異な能力を備えていようとあの一撃は全てを滅する。それは大蛇も例外ではなく頭部から尻尾の先まで消し飛ばされる筈だった。
「―――【全て分かつ金剛】」
大蛇が輝く。
翡翠色の光りと化した大蛇はそのまま黒の咆吼へと衝突。
ぶつかり合う黒と翡翠の奔流。その結果はあまりに―――静かだった。
黒の咆吼が掻き消える。
「――――――」
まるで翼から舞い散る羽のように末端から砕けて散っていった咆吼。それと共に相殺するように消えていく大蛇。
その現象はこの世界に存在する7属性の一つ『金』の力。その極地である全てを“解放”する力の顕現であった。
化け物は自身が撃ち出しそして砕かれた咆吼の奥から此方へと真っ直ぐに向かってくる人影を目を見開いて見た。
「本当に不思議。だって―――負ける気がしないもの」
その人影は先程まで力能の塊だった大蛇の外殻を被っていた者。
翡翠色となった長髪をなびかせて。
戦いの最中だというのに今まで見せたことがなかったような穏やかな表情を浮かべ。
彼女はその姿を日の下に晒す。
鉱を捨て去り真の力を得た―――『金の聖女』ロベリアは、真っ直ぐ、ただ真っ直ぐに、駆け抜ける。
◆◆◆
「……綺麗」
ウスユキは手で庇をつくりその光景を眩しそうに見る。
黒の咆吼と翡翠の大蛇がぶつかり合い共に散った光景。消える瞬間まで輝きを放つ粒子はまるで天に咲く花々のよう。
人獣形態から獣人の姿へと戻っているウスユキの傍には、体力を消耗し尽くして座り込むリンドウ達3人と、そう得意でもない防御や治癒に心血を注いで疲れた様子を見せながらも気丈に立つアザミと彼女に抱かれたマリーの姿があった。
「……さて、じゃあ私も行くとするっす」
ウスユキは武装の内“召雷樹”だけを携えて歩き出す。その進む先は消え去った大蛇と化け物がぶつかり合う戦場。
向かう理由はロベリアへの加勢。それが出来るのはもうこの場に他の脅威は無くなったから。
この場において先程までは最大級の脅威であった存在は呻くような言葉をもらす。
「……な……ん……で」
下半身は消え、両腕も無くなり、荒れ果てた草原に転がる風穴が出来た胴体や無事な頭部も徐々に霞の如く粒子へと散らせながら、大悪魔である【醜穢なる邪霊】が1体『背教のタローマティ』はその命を終えようとしていた。
「私は……こんな……ところで……死ぬわけには」
「…………」
ウスユキはタローマティを一瞥すると、もう興味が無くなったと言わんばかりに視線を外す。この悪魔にはもう誰かを害するような力は残されていない。既に決着は付いたのである。
ウスユキの目にはもう翡翠色の髪をなびかせながら化け物の猛攻をいなし続けるロベリアしか映っていない。
――――――
――力を貸して――そうロベリアに言われたウスユキは。
『~~~っ! 任せてくださいっす!!』
喜色を前面に出した表情を浮かべて後に続く。この短時間の内に復帰出来たことや髪色が変わったこと、そして以前にも増して美しくなったこと。そんな疑問の何もかもを置いてウスユキはロベリアと併走する。
憧れていた人との共闘に胸が躍るのは元より、それ以上に頼られたことが嬉しかった。
戦線に復帰したロベリア。彼女の登場にタローマティは表情を歪める。
『死に損ないがっ。今更のこのこ出て来たところで―――』
タローマティはこの場に満ちる瘴気、ロベリアが自身に与えた傷、その2つを基にウスユキ達に掛けている呪術【悪因悪果】を行使する。
相手に苦痛を強制する呪いがロベリアへと襲い掛かり―――
『『分かて』』
目に見えぬ呪いに対してロベリアは手を突き出し力を発動する。
『っ!?』
消え去った。
タローマティが行使した呪術が跡形も無く。
ロベリアに対して行使した物だけではない。ウスユキ達に掛けていた物さえも消え去った。その予想外の出来事に唖然としたタローマティは致命的な隙を晒す。
『はっ!!』
『ぎぃっ!?』
銀閃が駆け抜け、上半身と異形の下半身が斬り断たれる。ウスユキが放った大刀による一撃はタローマティの上半身を宙に飛ばした。
(斬られた! まずいまずいまずいまずいまずいっ!? 呪術! 壊された! 新たに組み直す!? それとも回復……足りない! 時間が無い! ならどうする!? このままでは―――)
宙を舞いながらタローマティは混乱する思考を何とか落ち着かせようと必死になる。―――そして目前に迫ったロベリアの姿に気付く。
このままでは死ぬ。その結末を回避する為に僅かでも時間が欲しい。タローマティは今の自分に出来る時間稼ぎ……相手の隙を作る方法を模索する。
(っ! そうだこれなら!)
そしてタローマティは自身の持ち物でそれが出来る可能性が高い物があることに気が付く。
懐に手を入れ、“それ”を取り出す。
翡翠色の鱗皮で作られた貫頭衣。
『――――――』
ロベリアにはそれが一目で自分の家族や村人から作られた物であるとわかった。
タローマティはほくそ笑む。
(怒り、嘆き、恨み、そのどれを想起しようと大きな感情の揺れは心の隙になる! それを突いて―――)
この状況を打開する。そんなタローマティの考えは―――
『ごめんね、皆』
―――静かに涙を流しながら微笑みを浮かべるロベリアの手によって無に帰す。
【全て分かつ金剛】
ロベリアの伸ばした指先が貫頭衣に触れる。
全てを解放する『金』の力が貫頭衣を光の粒子へと散らせる。
翡翠の飛沫が周囲に満ちる。
『ただいま。そして……さようなら』
その光を身に受けながらロベリアはより深く踏み込む。その衝撃は地を揺らして光を天へと昇らせる。
ロベリアの力によって貫頭衣のみならず両腕さえも消し飛ばされたタローマティは自分が隙を作る嵌めになった。
凄まじい踏み込むによって蓄えられた力が振り上げた拳に込められる。普人にはない多節骨格からなる鞭のようなしなり、それを1㎜のズレもなく支える強靱な筋肉、それらが翡翠の鱗の輝きに包まれる。
『道を空けなさい。家族と村の人達の旅立ちの為に』
―――放たれた拳撃がタローマティの胴体を穿った。
『……ぁ……』
迸る光。それは穿たれた場所から噴き出すように散って消えていく。
まるで悪魔に囚われていた憐れな魂が解放されていくかのような光景。
『……お父様、お母様、皆……いってらっしゃい』
その一撃によってタローマティの力能が肉体と精神から『分かたれ』どんな術式を行使しても無意味と化した。
傷は致命傷。魔法も呪術も使えない。回復も出来ない。
悪魔はただ死を待つだけの肉となった。
仇討ちはここに成った。
ロベリアは拳を引き抜き、そのまま力無く倒れ落ちるタローマティを尻目に歩き出す。
指先で涙を拭い、ロベリアは自分を見詰めていたウスユキの傍を微笑みを浮かべ通り過ぎる。
『私は行くわ。ウスユキ』
『……じゃあ私はもう少し様子を見てから行くっす』
ウスユキは獣人の状態へと戻りながら端から消滅していくタローマティを見る。万が一も無いとは確信しているがそれでも見届けることに決めたのだ。
『……そう。……ありがとう』
『いいえ。私がしたいからするだけっす』
張り詰めた物が無くなった、そんな柔らかな表情をしたロベリアにウスユキは笑顔でそう言った。
それを最後にロベリアは走り出す。全身から力を溢れさせ―――その力能が大蛇を形作る。
大蛇はうねりながら高速で進む。決着が付こうとしている戦場へと向かって。
――――――
タローマティの崩壊は既に頭部を残すのみとなった。
これから死ぬ。その恐怖や恨みを呪いとしようとするが不可能だった。
「……助け……て、悪神様ぁ。……死にたく……ない……」
命乞いの声を聞き、アザミやリンドウ達は不快さを隠しもしない顔を向ける。
しかしウスユキだけは違った。先程まで興味など失っていたにも関わらず振り向いた彼女の表情には感情がありありと浮かんでいた。
「きっと、……お前の所為で不幸になった人や亡くなった人も……もっと生きたかったでしょうね。幸せに、なりたかったでしょうね」
悲しげな表情をしたウスユキ。彼女は首に掛けた聖印を掲げ祈りを捧げる。
「お前の存在に囚われ苦しんでいる人々と亡くなった人々が、お前の死によって僅かでもその魂が救われますように」
その言葉を言い終えると同時に、タローマティの残された頭部にも無数の亀裂が入り―――
「……ぁ」
砂像が崩れ落ちるように散った。
こうして【醜穢なる邪霊】第三位にして魂の位階930にも上った大悪魔はその悪辣な生涯の幕を閉じた。




