始まりと終わりの場所
「ごめんね郭。」
春麗は本当に申し訳なさそうな顔をしてそう言った。
「わたし、お父様についていくわ。」
そう言って春麗はそっと郭に口づけをした。
そこで郭は目を覚ました。身体を起こして自分が泣いていることに気が付いた。あれは夢だった。でも春麗がもういないことを郭の心は感じ取っていた。
肌身離さずつけていたはずの腕輪が自分の左腕になかった。腕輪は真っ二つに割れ、寝台の横に転がっていた。春麗が父である天帝と共に入っていた腕輪。割れた腕輪からはもう二人の気配は感じなかった。
「しばらくのお別れね。」そう言って自ら腕輪に封じられた春麗。時が来れば帰ってくる予定だった。時が来れば帰ってくると思っていた。その彼女はもう自分の元に帰ってこない。そう実感して、郭の心は虚しくなった。
郭は腕輪の破片を拾うと、大切な恋人を想ってそれを丁寧に埋葬した。
腕輪の埋葬をしてから何日かの時が過ぎ、郭は春麗が死んだことに対し自分の中でなんとか折り合いをつけようとしていた。春麗が決めたことだから、春麗が望んだことだから。どんなに自分に言い聞かせても、ぽっかりと空いた心の穴は埋まらなかった。ただ最後に会いに来てくれた、それだけが気持ちを少し軽くした。あれはただの夢だったのかもしれない、それでもそのことが郭に確かに春麗と心が通じていたと思わせてくれる出来事だった。
春麗の死について折り合いをつけることは郭にとってとても難しいことだった。郭が初めて春麗と出会った時、それは結界越しで姿も見えない出会いだった。天上界を治める天帝の娘であった彼女は、賓客であると同時に人質のようなものだった。そのため丁重に、そして厳重に結界の中に閉じ込められていた。姿も見えない彼女と初めて言葉を交わした時、その時から郭にとって彼女は特別だった。自分がなぜこんなにも彼女を強く求めるのか自分自身理解できないまま、郭は春麗に強く惹かれた。彼女の声を聴くと胸が暖かくなって、すさんだ心が癒された。彼女の全てを受け止め、共に歩んでいきたいと思った。力になれなくても、傍にいて支えになりたいと思っていた。
春麗は郭の光だった。それが失われたこのどうしようもない喪失感と、一体どうやって付き合えばいいのか郭には解らなかった。春麗が自ら死を選んだこと。それは確かなのに、なぜ死を選んだのか、それを納得することはできなかった。受け入れることを心が拒否していた。
自分が納得できていないことを他人に納得させることは更に難しく、そのことで妹の淑英と口論にもなった。そんな自分でもどうにもならない気持ちを抱え、郭は途方に暮れていた。だから会いに行った。あの人なら何か答えをくれるのではないか、そんな気がして清廉賢母に会いに行った。
清廉賢母。春麗に魂の還る場所を教え、天帝の魂を救いたければその魂をそこに還せと助言した人物。地上の神の娘。初めて会った時、郭は彼女に得も知れぬ恐怖を感じた。彼女から発せられる気に身体は委縮し、その眼差しで見つめられると全てを見透かされているようで落ち着かなかった。自分とは次元が違う、まさしく神に近しい存在の様に思えた。そんな先入観もあってか、大戦時、全ては彼女の思惑通りに事が進んでいる様に感じられた。全ては彼女の手のひらの上で、物事は全て最初から結果が決まっていたような、そんな気さえした。
そんな清廉賢母に会って自分が実際どうしたいのか郭には解らなかった。淑英の様に春麗の死を彼女のせいにしたいわけではない。彼女のせいでないことは解っていた。あれは春麗が決めたこと、彼女のせいであるわけがない。なら彼女に会ってなにがしたいのか。それは郭自身にもよくわからなかった。答えをくれるかもしれない、路を指し示してくれるかもしれない、ただそんな曖昧な思いだけで、彼女に会いに行った。彼女に何を話すべきなのかさえ解らなかったから、友人を心配するふりをして彼女に会いに行った。友人が彼女を匿っていると確信して会いに行った。
そうして再会した清廉賢母は見る影もなかった。初めて会った時に感じた威厳や威圧感は全く存在しなかった。全てを見透かされてると感じるほど深く澄んだ瞳は、生気を失い虚ろに彷徨っていた。意識があるのかさえ解らない。これで生きていると言えるのかさえ解らない。衰弱し今にもその命を終えようとしている彼女の姿を見て郭は動揺した。彼女もまた無事ではなかった。その事実が衝撃的だった。彼女だけは何事もなかったかのように無事に存在しているものだと思い込んでいた。なのに、今にもその命がつきようとしている彼女を見て、郭は後ろめたさを感じた。結局自分も彼女に責任を押し付けようとしていたのだと気が付いて、自分に嫌気がさした。そんな彼女を慈しみ何とか生かそうと試みる友人の姿に、郭は目をそらしたくなった。
そんな時、清廉賢母は少しだけその意識を取り戻した。以前のような威圧感はなかったが、以前と変わらない瞳で彼女は郭の目を覗き込んだ。そして全てを納得した様子だった。淡々と事実を語る彼女の言葉に耐えられなくなって、郭は目をそらした。そんな郭の胸に清廉賢母はそっと手を当てた。
「天帝の娘さんの気配を、あなたのここに感じる。あなたと彼女はまだ繋がってる。ちゃんとここに絆が残ってる。大丈夫。また逢えるよ。」
清廉賢母のその言葉に郭は涙が溢れそうになった。目頭を押さえそれに堪え、郭は天上を見上げた。彼女が触れた胸が熱かった。郭はそこに確かに春麗との絆を感じることができた。錯覚ではない、思い込みではなかった、確かに春麗と自分はまだ繋がっている。郭はそう思うことができた。
清廉賢母は郭に丸薬を授けると意識を失った。郭には彼女が何をしたのかはわからなかった。ただ彼女が自分に何かをしたことはだけはわかった。彼女が何かしたのでなければ、気休め程度のその言葉でこんなにも自分が楽になっていることに説明がつかなかった。ぽっかりと空いてしまったはずの穴が暖かい何かで埋まっていた。
名を呼ばれた。それは自分の名ではなかったが、確かにそれが自分をさしているのだと郭は解った。自分を呼んだのは、春麗によく似た雰囲気の女性だった。春麗ではない。でも春麗だと郭は思った。
「わたし行くわ。」
女性は淋しそうな顔をしてそう言った。
「あなたが何度生まれ変わっても、あなたがわたしを忘れてしまっても、わたしはずっと覚えてる。ずっと見守ってるから、この場所で。」
その後女性は何かを呟いたが、郭には聞き取ることができなかった。ただその姿が春麗の最後の姿と重なって胸が苦しくなった。
扉が徐々に閉まり、暗い闇の中に一人女性は消えていった。完全に扉が閉じられると、その扉も姿を消した。その場所への鍵がもう失われてしまったことを郭は知っていた。その女性が二度とそこから出られないことを郭は知っていた。
郭が目を覚ますと頬に涙の跡があった。不思議な夢だった。でもどこか懐かしさを感じる夢だった。あの夢の中の女性を知っている気がしたが、思い出すことはできなかった。
「もしかすると魂の記憶かもね。」
今朝の夢の話をすると清廉賢母はそう言った。奇跡的に一命をとりとめた彼女は、後遺症こそ残っているがすっかり元気になっていた。郭達よりはるかに長く生きている彼女は、その力のほとんどを失ったとはいえ、頼れる存在だった。
「魂の還る場所に還った魂は、そこで記憶を流して帰ってくる。だからみんな生まれる前のことは覚えてない。人の魂は弱いから積み重ねられる記憶の重さに耐えられない。記憶を保持し続けてしまえばその魂は壊れ永遠に失われてしまうから。だからこそ記憶は流さなくてはいけない。でもね、案外魂に記憶って残っているものなんだよ。」
郭には彼女の言っている意味は解らなかった。
「わたし達ターチェには魂遺伝の考えがあるのを知っているよね?それは元々わたし達最初の兄弟の力がその魂に刻み込まれたものだからだよ。だからその魂を持っている者は同じ力を持っている。最初の兄弟以外の子たちは、わたし達の魂から版画と同じような要領で力が転写されただけだから、その力はわたし達には及ばない。けど人間から見たら、血縁関係もないのに同じような力が発現するのは不思議だよね。人間には考えられない法則でしょ。でもね、これは人間にも当てはまるんだよ。」
郭はますますい意味が解らなくなった。そんな郭の様子を見て清廉賢母は困った様な顔をした。
「魂に刻まれた力は生まれ変わっても残るの。それは記憶も同じ。どうやったら記憶が魂に刻まれるのかは解らないけど、流しても落ちない傷となってそれが魂に残っていたら、覚えていても不思議じゃないんだよ。だから人間の中にもたまにいるでしょ、前世の記憶があるとか、生まれつきやけに能力が高いとか。そういう人たちは魂に能力や記憶が刻まれてるんだよ。そこまではいかなくても、繰り返された魂になにかしら刻まれていてもおかしくないし、それが何かのきっかけで表れてもおかしくないんだよ。」
そう言うと清廉賢母は郭をじっと見つめた。
「あなたの魂はずいぶんと古い。多分、父様たち神様の時代から継ながれてる魂だよ。そんな古い魂が今でもまだ統合されず個として残っていられるのは、きっと輪廻転生を司る神様の加護を受けているからだよ。神様に大切にされて、丁寧に補強されて、脆いはずの人の魂がこんなにも長い年月を得てもその形を失わずにいられてる。あなたは加護を受けた特別な人だ。」
その言葉に郭はなんだか不思議な思いがした。自分が特別な存在なんだなんて一度も考えたことはなかった。
「あなたはその神様に会ったことはあるのか?」
郭の問いに清廉賢母は首を横に振った。
「神の実子であるわたしの魂はその人の手を借りる必要がないから。でも、神でもないわたしはその場所を通り過ぎなくては現世に戻ることはできないから、その場所のことは知ってるよ。それにわたしは父様から沢山お話を聞かせてもらったから、神様の時代のことも色々知ってる。」
そう言って清廉賢母は遠い目をした。郭がどうかしたのか聞くと彼女は微笑んだ。
「神様の時代の終わりはある意味で一つの世界の終わりだった。世界が変わり、世界を構築していた概念が変わり、多くの神が失われた。現世に残っていた神ももう誰もいない。大いなる神も、天上の神もどこかに姿を消してしまったし、父様ももう夢の中から出てこない。これってさ、わたしたちの今と似てるなって思って。」
そう言われ、郭もほんの数百年前の出来事に思いを馳せた。
「わたし達ターチェを滅ぼすために女媧は地上の子たちを根本から変えてしまった。特別だったはずの力が今じゃそこらへんにあふれていて、わたし達がもう地上の子等を守る必要はなくなった。魂を受け入れるべき器が望めない以上わたしたちターチェは衰退するしかなく、不老長寿の技法が失われた仙人界もまた滅びの一途をたどるしかない。わたし達の戦争は終わって、わたし達の時代も終わった。神様の時代が終わった時と一緒。これからは新しい秩序と概念が生まれ、そしてわたし達は消えていくんだ。」
そう考えると淋しいね、と清廉賢母は呟いた。
「わたし達が不老長寿である以上、滅びるとしてもそれがどれだけ先の事かは解らないけどね。もしかしたらこのままずっと滅びないで生き続けるのかもしれないし。もしかしたら新しい世代の子供達が生まれる可能性も全くない訳じゃないし。」
そう言って清廉賢母はいたずらっぽく笑った。
「ただ、滅びるとしたら最後の一人にはなりたくないな。」
ぽつりと呟いたその言葉は彼女の本音だったと思う。
郭が海を渡ってこの島に来たのはある意味衝動だった。
仙界大戦が終結して久しく、郭は平穏な日々を送っていた。ただそこに春麗がいない。その虚しさが時々郭の胸を苦しめた。でもいつかまた逢える。その根拠のない確信が郭の心を支えていた。
清廉賢母の弟子だった功が旅立ったのは、清廉賢母が一命をとりとめて暫くしてからの事だった。世界中を旅して周り久しぶりに仙人界へ帰ってきた彼の話を聞いて、ふと自分も旅に出ようかと思い立ち、郭はこの島にやってきた。何故この島にしたのか。それは本当に衝動のようなものだった。旅に出ようと思ったその時、この島に行きたいと強く思ったのだった。
この島は清廉賢母達が生まれ育ったところだった。彼女らが過ごしていたころの面影などあるはずはないが、遠い昔に彼女らがここにいたと思うとなんだか感慨深いものがあった。
功から話は聞いていたが人の暮らしぶりはずいぶんと様変わりをしていた。見慣れない建物や物の数々に郭は驚きを隠せなかった。
郭が視線を感じて振り向くとそこには少女がいた。その少女が春麗と重なって、声を掛けようとしたとき、「美晴。何してるの?行くよ。」そう別の誰かに声を掛けられ少女は行ってしまった。
美晴。そう呼ばれた少女。何故、彼女に春麗を重ねたのか郭には解らなかった。春麗とは全く似ていない。似ていないのに、一瞬目が合った彼女の顔が忘れられなかった。郭は自分がどうかしてると思った。そう思いながらも、もしかしたらという気持ちがぬぐえなかった。でもたとえ本当に彼女が春麗の生まれ変わりだったとしても、今の彼女に記憶はない。今の彼女は春麗じゃない。自分と重ねてきた時間を何も今の彼女は持っていない。そう考えて、ようやく郭は以前に友人が言っていた言葉の意味を実感した。
「輪廻転生か。ターチェはその信仰が強いみたいだからな。でもさ、実際輪廻転生があったとして、生まれてきたとして、それは沙依と言えるのか?今のこいつの人生は今のこの一回だけだろ。新し身体に生まれてきたって、それは新しい人生の始まりであって、今の人生とは関係ないだろ。死んだ先があるから大丈夫なんて考えは俺には出来ないんだよ。」
沙依とは清廉賢母の本当の名前だった。清廉賢母が生死を彷徨っていた時、彼女を魂の還る場所に還した方がいいのではないかと言った郭に友人はこう言った。そう言って彼は必死に清廉賢母を助けようとしていた。どうして彼があんなに必死になっていたのか、ようやく郭には解った気がした。
「春麗。どうして勝手に死んだんだ。どうしてあんな大事な事一人で決めて逝ってしまったんだ。俺は、それでもお前といたかった。お前が逝くなら、俺も一緒に逝きたかった。どうして、俺を置いて逝ったんだよ。」
郭の目から涙がぽろぽろ溢れてきた。ずっと自分をごまかしてきた。ずっと見ないふりをしてきたが、これが郭の本心だった。辛いことが多すぎて、辛いことに慣れ過ぎて、自分のごまかし方をよく知っていた。だから春麗を失った時、無自覚に心に蓋をしていた。蓋をして、また逢えるから大丈夫なんて自分に言い聞かせて、ごまかして。自分が壊れないようにずっと自分を守ってきた。でも、一度気付いてしまった本心をもうごまかすことはできなかった。
声にならない声をあげて、叫びにならない叫びをあげて、郭は泣き続けた。涙が枯れてもまだ、泣き続けた。
「大丈夫だよ。彼女もあなたを探してる。また逢える。また繋がれる。」
いないはずの清廉賢母の声が聞こえた。優しく響く彼女の声が腹立たしくて仕方がなかった。自分の幻聴であっても、これが自分の望みだったとしても、こんな言葉は聞きたくなかった。どうあったて春麗はもう戻ってこないのに、こんな言葉は聞きたくなかった。
「信じて、あなたと彼女の絆を。魂の繋がりを。消えてなんかいない、ずっと昔からずっと繋がってる。何度だって巡り合える。たとえお互いがお互いを解らなくなったとしても、魂に刻まれたその絆が決してあなた達を離さない。」
幻聴が何を言っているのか郭には理解できなかった。清廉賢母の声で聞こえるこれが、幻聴だと解っているのに、今彼女に会ったなら郭は彼女を殺してしまいそうだった。
それ以上何も言うな。それ以上は何も聞きたくない。発狂しそうになりながら、郭は耳をふさいでしゃがみ込んだ。そんな郭の頭を、暖かいものが包んだ。
「郭。ただいま。」
郭の耳元で声がした。聞きなれない声だった。でも、よく知っている響きだった。
「わたしが解る?」
そう訊かれ、郭の目から枯れたはずの涙がまた溢れてきた。
「幻なのか?」
「幻じゃないわ。姿かたちは変わってしまったけれど、わたし帰ってきたのよ。それでもわたしだって解ってくれる?」
「わかるさ。解らないわけがないだろ。でもどうして?」
顔をあげた郭の前には町で見た少女がいた。
「ひどい顔ね。」
見慣れない顔で、良く見慣れた表情をして少女は笑った。
「町で見かけたとき、こんなところにあなたがいるなんて信じられなくて驚いたわ。よく似た人じゃなくてあなただってすぐ解った。でも今のわたしに気付いてもらえないんじゃないかって怖くって、声がかけられなかった。」
そう言う彼女を郭は強く抱きしめた。夢じゃない。幻じゃない。抱きしめた彼女のぬくもりが、鼓動が、確かにそこに彼女がいることを実感させてくれた。
彼女の身体が壊れそうなほど強く抱きしめながら、郭は何度も彼女の名を呼んだ。少女は少し困った様な顔をして呟いた。
「ただいま。愛してるわ。」
大戦が終わり父を道連れに自害した後、気が付くと春麗は泉の中にいた。起き上がって周りを見渡してもそこには何もなく、だた暗い闇だけが広がっていた。光源もないはずのその場所で、泉の水だけがキラキラと光っていた。よく観ると泉の中には大小の青白い光が無数にあって、それらが水の中を無秩序に動き回っていた。素早く動くものもあれば、ゆっくり動くものも、同じところを回るものも、まっすぐ進んでいくものも、色々あった。生き物のように動くその光がなんだかとても愛おしく感じて、春麗は不思議な気持ちに支配された。
「おかえりなさい。わたしの欠片。」
声がしてその方を見ると、そこには春麗とよく似た女性が立っていた。
女性は春麗に近づくとその頬にそっと手を伸ばし、春麗の顔にその顔を近づけた。女性は春麗の目を覗き込むと、じっと何かを読み取っていた。
しばらくすると女性は春麗から離れ、それはそれは幸せそうに微笑んだ。
「ようやくあの人に巡り合えたのね。」
春麗には女性の言葉の意味が解らなかった。
「あなたは何も覚えていないのね。」
そう言って女性は語った。
「あなたはわたしの欠片。ここから動けないわたしの代わりに、現世にいるあの人を探すためにわたしが現世に流したわたしの欠片。」
かつて世界が一つだった頃、それは神々の時代だった。その頃は天上も地上もなく、常世も現世もなく、死という概念もなく、ただ時間だけが沢山あった。世界が分かれ、新たな概念により世界が動き出した時、神の時代は終わった。そして多くの神が失われた。
女性もまた神だった。女性にも名があったはずだが、自分が何という名だったのか女性はもう覚えていない。今残っている神で自らの名前を憶えているものなどもういないだろうと女性は思っていた。名を呼ぶものがいなければそれは用をなさず、長く呼ばれなかった名は失われて当たり前なのだから。
神の時代が終わる時、女性はこの場所に自らを封じた。自らをもってこの場所を封じた。かつてここは始まりと終わりの場所と言われる場所だった。神々でさえ気軽に触れてはならない神聖な場所だった。全てのモノがこの場所から始まり、全てのモノがこの場所で終わりを迎える。ここは全ての願いが叶う場所だった。
最初に自我を持ったのは誰だったのか、女性には解らない。女性が存在した時にはもう、神々は自我を持っていた。自我を持てば欲が生まれ、欲は深く広がるものだった。それは神も例外ではなかった。神の時代を終わらせたのもまた神だった。ある神が自らの欲の為にこの始まりと終わりの場所の禁忌に触れ、その力を暴走させた。世界を守るために女性はこの場所に自らを捧げ、この場所と同化した。この場所にはもうかつてのような力はない。この場所はただ、魂が生まれ、そして還ってくる場所となった。この場所と同化してしまった彼女はもうここからは出られない。神である彼女はこの輪廻の流れに乗ることはできなかった。女性はただ一人ここでその魂の流れを見守り続けていた。
かつて女性には愛した人がいた。神の時代が終わるころに生まれた彼は神ではなかった。女性にしたら刹那ともいえるような時間だったが、確かに愛を育み、そこに絆が生まれ、女性は確かにそこに幸せを感じていた。世界の異変にいち早く気が付いたのは彼だった。彼と共に奔走した日々は楽しかった。そんな彼がいる世界を女性は守りたかった。だから自らをこの場所の贄として差し出した。そうやって差し出したこの身だったはずなのに、女性は彼への想いを諦めることができなかった。外の世界で生きる彼を見たい、出来ることなら傍にいたいと思ってしまう自分がいた。
彼の魂もまたここに還りここから生まれていく。でもその魂をここにとどめておくことはできない。触れ合うことも話をすることもできない。ただその生きてきた軌跡をなぞり、これから歩んでいく道を想い、ただ見守ることしかできない。もう二度と交わることはできない。解っていたはずなのにそれが辛かった。彼の魂がここに戻りその軌跡をなぞる度、ここに自分も居たかったと思ってしまう自分がいた。自分の名前も、彼の名前ももう忘れてしまった。でも彼への想いだけは忘れなかった。繰り返せば繰り返すほどその想いは強まった。彼の軌跡をなぞるのはもう辞めよう。何度そう思ったか解らない。でも女性はそれを辞めることができなかった。
だから女性は自分の欠片を一つ、輪廻の流れにそっと流した。もし叶うなら、その欠片が彼と出会えますように。もし叶うなら、その欠片が彼と共にあれますように。そう願って流した欠片が春麗だった。
「でもずっとあなたは彼を見つけることはできなかった。何度も何度も繰り返し、ようやく見つけ出すことができたのね。」
彼といられて幸せだった?そう女性に問われて、春麗はええと言って微笑んだ。
春麗は初めて郭と出会った時のことを思い出した。初めて会った時から、春麗は郭に強く惹かれていた。結界越しのお互いに姿も解らない、そんな交流からの始まり。彼の声が耳に心地よく響き、心が温かくなった。それを思い出して春麗の胸が痛んだ。ここは魂の還る場所。わたしはもう彼の元には帰れない。そう実感して春麗の頬を涙がつたった。
そんな春麗の涙を女性は優しくぬぐった。
「彼の元に帰りたいのね?」
その言葉に春麗は黙ってうなずいた。
「わたしも同じ気持ちよ。だから行きなさい。」
そう言って、女性は泉の中へ春麗を落とした。
「魂の記憶を流さないで送ってあげる。会いたいのなら見つけなさい。そしてここに帰ってきたら、また話を聞かせてね。」
そう言う女性の声が遠くに聞こえて、春麗は意識を失った。
そして目覚めたその先で、春麗は大切な人との再会を果たした。