7 月明かりの電話
結音から誘われたことは、陽咲に会って直接訊いてみよ。
そう思ったけど、次にいつ会うかをまだ決めてなかった。電話するのもためらわれる。さっきメールしたばかりだし……。
考えていたまさにその時、陽咲からメールが返ってきた。
《そうなのですね。天音さんのことは了承しました。でも、もし何かあったらその時は話して下さいね。私では何のお役にも立てないかもしれませんが……。》
そんなことないのに。天音に色々言われた時かばってくれた。
陽咲のメールを見た瞬間ためらっていたのがウソのように電話したくなって、すぐにスマホを手にした。窓を開けてベランダに出ながら、プルルルルと鳴る呼び出し音を聞いた。
『もっ、もしもしっ! 伊集院です』
緊張してるのか陽咲の声はうわずっている。しかも家電みたいな対応。スマホにかけたのに。
「俺だよ、紡。スマホで名字言われるのって何か新鮮」
『あっ、そ、そうでした! 固定電話には基本的に家政婦さんが対応して下さるのですが時々私が出ることもあるので、つい、そのクセでっ』
初対面の時みたいに慌ててる。そんな陽咲がおかしくてつい笑ってしまう。
「あははっ。陽咲はやっぱり陽咲だ」
『うう……。返す言葉もありません』
そうか。学校帰りも友達と遊んだりすることってほとんどないって言ってたもんな……。だとしたらこうやって誰かと電話するのも久しぶりなのかもしれない。
「美綾とはスマホで電話したりしないの?」
『はい。彼女は隣の家に住んでいますから電話よりも会って話すことがほとんどですね。そういえば、美綾とはもうお知り合いになられたのですか?』
つい呼び捨てで「美綾」と呼んでしまった。今まで陽咲の前ではさん付けしていたから疑問に思われるのも当然だ。
美綾から聞いたヒロト君の件は口止めされているので、彼女とはたまたま会ったことにした。
「陽咲を送った後に偶然会って挨拶程度に少ししゃべったんだ。陽咲のことよろしくって言われた」
『そうだったんですね。話しやすくて明るくて元気で……。美綾はとてもいい子でしょう?』
「うん。爽やかさを絵に描いたような感じだった」
背中に暴力上等と書いた羽織を着たら似合いそうと言いかけ、やめた。
『はあ……』
電話の向こうで陽咲が恍惚としたため息をついた。
「どうしたの? 電車で出歩いたし今日は疲れた?」
『いえ、そうではないんです。電話越しの紡君の声音がたまらなくて……。それは夜の月のごとくクールさを醸し出していながら胸を甘く震わせる優しさを持ち合わせているんです。はあ……』
「電話口でそこまで惚れ惚れされたの初めてだよっ」
『そんなはずは…! 私以外の女性も同じ反応をされるのではないですか?』
「こんな経験初めてだよ」
『それは意外です!』
「大げさだよ。そこまで言われるとなんか恥ずかしい」
『恥じることはありませんっ、それは長所なんですからっ!』
「力説するね」
『当然です!』
「でもね、知ってた? 電話で聞く相手の声って本人の声じゃないんだよ」
『ええっ!? そうなんですか!?』
「実際の声を電波に乗せると通信量がかかりすぎるから、負荷を軽くするために本人の声に一番近い声をデータベースから選出して流してるんだって。俺が今聞いてる陽咲の声もそう、直接聞く陽咲の声と同じように聞こえるけど別モノ」
『しっ、知らなかったです…! 私は紡君ではないデータベースの声にドキドキしていたんですね!? とんだ失礼をいたしましたっ!』
「いいよ、謝らなくて」
『あ、でも、本人の声でないと分かると緊張感が薄れてきました』
「リラックス効果が出てよかった」
『さすが紡君ですね』
ひとつひとつのことに大きく反応する陽咲が何だかおかしかった。
ベランダの手すりにもたれて月を見上げた。
「さっきはありがとう。メール」
『いえ。私ばかり紡君に助けて頂いています。なのでいつかお返しがしたいんです』
「分かったよ。ありがとう。何かあったら真っ先に陽咲に相談する」
『はい! いつでも待ってますから!』
陽咲はウキウキと声を弾ませた。
「頼りにしてるよ。あ、そうそう! さっき結音から電話があって、結音の彼女と俺達の四人でどこか出かけないかって誘われたんだけど、陽咲そういうの大丈夫?」
色んな意味で気になった。
はっきりそう聞いたわけじゃないけど、陽咲の親は陽咲をあまり遠くの学校に行かせたくないような感じだし、放課後の行動も制限しているフシがある。
『あの、私……』
やっぱり断られる? わずかに低くなった陽咲の声を聞いて残念な気がしていると、彼女はうんとテンションを高くして言った。
『ありがたいお誘いです。行きたいです! ぜひその会合に参加させて下さい…!!』
「え、いいの!? 本当に? 親とか何も言わない? あ、『会合』はちょっと大げさかもだけど」
『話せば分かってくれると思います。日頃から親の言いつけは守っているので、たまにのことなら』
「ホント? ありがとう!」
断られる覚悟もしてたから、いい返事をもらえてなんか嬉しい!
にしてもやっぱり意外だ。陽咲はそういうのを敬遠すると思ってたから。
「なるべく帰りが遅くならないよう結音には念を押しておくから。あと、俺達がホントの恋人じゃないこと結音だけは知ってるから、当日何か困ったことがあれば話聞いてくれると思う」
『何から何までありがとうございます。助かります』
やっぱり門限とかあるんだろうな。その辺り良家のお嬢様という感じがする。
「あと、言うまでもないことかもしれないけど、その日は結音に告白されたことは言わないでほしいんだ」
『結音君の彼女さんもご一緒とあらば当然です! その件はもう気にしていませんし、墓場まで持っていく所存です』
「墓場って! そこまで大きく考えなくてもいいけど。結音はある意味重罪人だな……」
陽咲の一言一言に反応してしまう。
『親が参加するパーティーへの同伴を除けば、男の人と女の人が集まる場へ行くのは幼稚園以来なんです』
陽咲は楽しげだ。親が厳しいあまり同年代との交流はほとんどできなかったのかもしれない。
「そんなに嬉しいんだ」
『はい! 会合でないとしたらマンガやアプリによくあるダブルデートというイベントですよね。一度体験してみたかったのですが、ツムグともそれ以前の恋人ともそういう物語はなかったので、今とてつもなく楽しみで仕方ありませんっ』
「良かった。そこまで喜んでくれるなんて嬉しい。結音も喜ぶと思う。詳しいことはまたメールするから」
そう言い電話を切ろうとした時、
『あの、紡君……。ダブルデートの日なのですが……』
陽咲はためらいがちに何かを言いかけ、すぐに取り消した。
『いえ、何でもないですっ』
「え……?」
『今日も月が綺麗ですね』
「陽咲も見てたんだ…!」
『はい。夜風に当たりたくてテラスに出ました』
ドキッとした。陽咲も今同じ月を見てるんだと思ったらやけに嬉しかった。陽咲が何を言おうとしたのか気になったけど、同じ景色を見ている喜びでその気がかりはスッと消えた。
「今日は雲も少ないから星もよく見えるね」
『あっ……! これは決して愛の告白ではないんですよっ!? 目の前の景色を見て思ったことを口にしただけなんですっ』
「分かってる。夏目漱石でしょ?」
月が綺麗という言葉をアイラブユーに訳した夏目漱石。有名な話だ。
そんな訳し方をするなんて、頭がいいだけでなく夏目漱石はロマンチストな作家だったんだろうな。変な力ゆえに青春時代特有のフレッシュな精神状態をすっ飛ばしてしまった今の俺にはその感性が死ぬほどうらやましい。
『嬉しいです』
「嬉しい?」
『学校にいる時間以外でこうして同じ高校生の方と語り合えることが嬉しいんです。いつも変わらずそこにある月の光が、今日はよりいっそう美しいものに感じます』
「奇遇だね。俺もそう思ってた。月、ホント綺麗。あ、今の愛の告白じゃないよ」
陽咲のマネをしてわざとそんなことを言ってみた。
『わ、分かっていますっ!』
本気にしかけて顔を赤くしているだろう彼女の顔が想像できるようだった。
薄暗い夜に優しく照らす月明かり。春の終わりに吹く風は時々生温いもののけっこう涼しくて気持ちがいい。違う場所にいても空だけはつながっているんだと感じた。
『紡君も空を……?』
「うん。ベランダにいる」
『大丈夫ですか!? 外にいては謎の刺客に狙われるのではないですか?』
本気で何かを心配してくれている。陽咲の一部を表現しているとも言える中二病発言。
「そんな要素、俺にはないよ」
『いいえ、あります。超能力を使えると言っていたではありませんかっ!』
覚えてたー!! 恋人のフリをすると決めた日、心の声を聞いてしまう能力のことを悟られないため俺がテキトーに言ったことを、陽咲はまともに信じてる!
罪の意識を覚えつつ否定しておいた。
「あれはその場のノリで言っただけなんだ。信じるとは思わなくて……。ごめんっ」
『そうなんですか? 残念です……』
「期待を裏切ってごめんね」
『そういう力が本当にあったら素敵だなと思ったんですよ』
「そうかな? あったら絶対苦労するよ」
つい実感がこもってしまう俺とは対照的に、陽咲は楽天的だった。
『紡君の言葉を真似たみたいになってしまいますが、それは与えられるべくして与えられた意味のある力だと思うんです。実際に見たことがないので何とも言えませんが……』
「もし俺がホントにそういう能力の持ち主だったらどう思う? 例えば、人の心を読む能力、とか……」
何でこんなこと訊いてるんだろ。絶対引かれるって分かってるのに……。無意識のうちに陽咲を試したのだろうか?
不都合な反応を覚悟し身構えていると、陽咲はよりいっそう明るい声でハッキリ言った。
『そんなの決まってるじゃないですかっ。紡君に弟子入りしますよ! 知らないことはどんどん吸収し向上心を持ち続けていたいのです!』
「向上心の方向性が間違ってる!」
『いいえ、紡君。人生は間違うものです。間違っていいんです!』
「妙に説得力があるいい言葉だ…!」
そのパワーはどこから湧いてくるんだ!? あまりの前向きオーラに、こっちのマイナス思考がかき消されそうだ。
『そういう力があるとしたら、それはその人に必要な力だからです。私はそう思いますよ』
ありがとう。そんな風に言ってくれて。少しだけ楽になれた気がする。心の中で感謝した。
「…でもさ、考えてみて? 陽咲がもし人の心を読む力を持ったらどうする? こわくならない? 俺はこわくなると思う……」
『はい、紡君の言う通りかもしれません。本来人に備わっていないはずのものが内に生まれるわけですから、戸惑い悩むこともありうることだと思います。でも、もしそんな力があったら、あの時私は人を泣かせずにすんだかもしれません。ですからやっぱり超能力の保持を切望せずにはいられません』
思わぬタイミングで打ち明け話が始まった。いつもの陽咲の声なのに、いつもより神妙な声音だった。
『幼稚園に通っていた頃、どうしても互いに相容れない園児がいました。彼は毎日のように私の前に現れ苦痛を強いてくる困った方でした……』
それって…! さっき美綾が話してたヒロト君のことだ。
「そんな子がいたんだ」
知らないフリで話を聞いた。
『怒るのが得意ではないんです、私』
「なんか分かるよ」
陽咲には「キレる」ってイメージがほとんどない。だからこそ美綾から聞いたヒロト君への反撃エピソードにもビックリしたわけだし。
『しかし、私にも限界というものはあります。彼の言動はあまりにひどいものでしたから、ある日私は彼に強く反発しました。その結果、彼を園から脱走させてしまうほどのショックを与えてしまったのです……』
「そんなことが……。気になるのも分かるけど陽咲は何も悪くないんじゃない?」
『そうかもしれません。でも、あの時彼の心を読めていたら、私はまた違った対応ができていたのかもしれません。そう思うと超能力ってすごいなって思うんですよ』
「なるほど、それで……」
『はい……』
…どこまでいい子なんだ。いい子を通り越してお人好しですらある。自分が言われたことよりヒロト君に言ったことを気にするなんて。
『もちろん彼から報復はありました。私のような女は財産目的の男性からしか好かれないとはっきり言われ……。ショックで頭が真っ白になりました。本当に全くその通りだなと、年々そんな思いが強くなっています』
電話の向こう、陽咲はどんどん落ち込んでいく。ヒロト君の言葉を真に受け過ぎだ。
「超能力なんてなくても陽咲はそのままでいい。神様がそう判断した結果じゃない? 俺もそう思う」
『そうなんでしょうか……』
「今でも気になる? ソイツのこと」
『はい。女子校になったので彼と会うことはないと思っていましたが、それは誤った認識でした。実はこの前ヒロト君と会ってしまったんです』
この時、陽咲の口から初めてその名前が出た。
『その時、紡君もそばにいました』
「そうだった!? いつ?」
『覚えていますか? 他校の人に声をかけられていた私を初めて助けてくれた日のことを』
「ああ…! あのガラの悪い二人組? たしか第一高校の」
『そうです。一人は初めて会う方でしたが、もう一人はヒロト君でした』
「もしかしてだけど、ピアスしてた方?」
『はい。それがヒロト君です』
妙に引き際がよかった方の男か。ヒロト君の方も陽咲に会ったのは偶然だったのかもしれない。
「ナンパされたと思ったら相手がヒロト君だったんだ……。それは気まずいね」
『いいえ、声をかけてきたのはヒロト君ではなくもう一人の方でした。でも……。ヒロト君の顔を見て体が硬直してしまったんです』
「陽咲……」
あの日、いつもみたく通り過ぎようとした白女前の道で『助けて!』と陽咲の心の声が聞こえた。今思えば、あの時の陽咲の助けを求める声は深く悲しげだった。無理もない。
『ずっと考えていたんです。今度もしヒロト君と会えることがあったら昔言ったことを謝りたいって。園を脱走するほど傷つけてしまったんですから……。でもいざその場面になったらあの日みたく頭が真っ白になって、謝るどころか何の言葉も浮かんできませんでした……』
当たり前だ。陽咲だってヒロト君の言動で嫌な思いをしたんだから。
とはいえ、このまま忘れなよって言うのも無理がある。現状維持が一番楽で簡単だけどそれでは根本的な解決にはならない。陽咲はヒロト君に謝りたいと思ってるんだから。
そういう罪悪感みたいな気持ちを引きずるのってけっこうキツい。天音のことで同じ思いをしたからすごく分かる。こういうのって時間が経てば経つほど言い出しにくくなってしまうし。
「俺に考えがある。任せて」
『え……?』
きっとこのままでは陽咲自身モンモンとしたままだ。どうせなら憂いなくダブルデートという名のイベントを楽しませてあげたい。
『でも、紡君は部外者ですしそこまでお手をわずらわせるわけにはっ』
「じゃあお弁当のお礼ってことでどう? 一肌脱がせてよ」
『ぬっ、脱ぐだなんて、そんなっ、ダメですっ! 刺激が強すぎますっ』
電話の向こうで何か良からぬものが噴出する音がした。まさか鼻血!?
「大丈夫!? もしかしてティッシュが必要な事態になってないよね?」
『大丈夫です、問題ありませんっ。テラスにもティッシュ箱は常備してありますからっ』
「その鼻血体質、非常に心配! 体内の血液量足りてる!?」
『その対策もぬかりありませんっ。毎食欠かさず鉄分を意識した食事を作って頂いていますから。今日のお弁当は鉄分を度外視してしまいましたがっ』
「徹底っぷりがすごい!」
もはや恋愛アプリをやるために生まれてきたといっても過言ではないな、陽咲は。
「モノのたとえというか、これは言葉のアヤっていうか、本当に服脱ぐわけじゃないからね?」
『そ、そうですよね? そういった日本語が存在することは知識として頭にあったのですが、いざ男性の口からそのセリフを言われると想像を超えた刺激が脳を貫いたんですっ…! ただでさえ紡君はイケボですからっ。はぁ、はぁ……』
「顔が見えないせいか緊迫感がすごいんだけど! すぐに電話切って救急車呼びたいレベルなんだけど!」
『それには及びません。万が一のためにお医者様が駆けつけてくれるシステムになっていますから。まだそのシステムを利用したことはありませんが』
「行くまでもなく来てくれるのか。それなら安心だね、じゃない! そんなの利用しないのが一番に決まってるっ」
『そうですよね。健康体の維持に努めます』
ホッとした。陽咲の気分が少しでも落ち着いたのならそれでいい。
『紡君、どうされるおつもりなんですか?』
「第一高校に行ってみるよ。あの二人も俺の顔覚えてるだろうし」
たとえ忘れられてても大丈夫。こっちはヒロト君の名前を知ってる。彼が陽咲と同じ高一だってことも。学校の前とかで待ち伏せしてれば確実に会えるだろう。
『それなら私も行きます! 紡君にだけそんなことをさせるわけにはいきませんし、元々私の問題ですから』
そう言うと思った。でもそんな無理はさせられない。ヒロト君の顔を見ただけで体が硬直したなんてよっぽど彼のことがこわかったんだ。陽咲がヒロト君と直接会うのは、今は避けるべきだ。
「いいよ。ヒロト君とどうなったか陽咲にもこまめに報告するから、彼女の権利利用するってことで、俺に任せといて?」
『紡君……』
うっとりした声で陽咲は言った。
『反則です。そんなの止められるわけないじゃないですかっ。そんなイケボでそんなこと言われたらっ……。はうぁっ』
ゴトンッ。電話口からスマホの落下音が聞こえた。まさかこれって……!
「ちょ、陽咲!? しっかりして!?」
『……ふへへへっ』
少し遠くから寝言みたいな声が聞こえてくる。恋愛アプリの延長線上みたいな甘い夢を見てそうな感じ。
「え、ホントに失神!? ウソでしょ? 陽咲っ、起きて! 美綾に連絡して見に行ってもらわないと! って、美綾の連絡先知らねー!!」
こっちも久々にパニクった。