3 彼氏のフリ
「紡君?」
「えっ……!? ごめん。ボーッとしてた」
伊集院さんに名前を呼ばれ、ハッとした。ヤバイ。完全に思考がフリーズしてた。
混雑した夕方のファーストフードの店内。あからさまに変わった俺の様子に気付き、伊集院さんは落ち込んだ。
「あの……。やっぱりおかしいのでしょうか。ゲームの男性に恋をするというのは」
「おかしくないよ」
ウソをついた。本音を言えば理解できないし、だから驚いた。
アニメはアニメ。現実とは違う。俺だって昔から色んなアニメを見てきたし、そのたび魅力的だと思う女子キャラはいた。でもそれだけで、本気の恋をする対象として見たことはなかった。
でも、そんなことを言ったら伊集院さんを傷付けてしまいそうでとても言えない。
「初恋はアニメの男性キャラクターでした。普段は明るくてふざけてばかりいるのに時に厳しくヒロインを諭す彼の姿に心を奪われました」
伊集院さんは語り始めた。
「初恋は実りませんでしたが、今でも美しい思い出です。
その後、成長と共に恋の対象となる男性は移り変わり、今、ツムグは三人目の恋人となりました。私は何の取り柄もないダメな人間ですが、ひとつひとつの恋に真剣に向き合ってきました。そこだけは誇れますし誰にも恥じることのないことだと思っています」
「そんな、伊集院さんがダメ人間だったら世の中の大半が泣くよ」
「ありがとうございます。でも、私はまだまだ未熟者。常日頃からそう感じています」
謙遜ではなく本気らしい。どこまでも生真面目だ。
「でも、幼なじみの友達……。彼女の名前は美綾というのですが、美綾はこの恋に反対しています。人にも話さない方がいい、そう強く主張していました。私は別に隠すことではないと思うのです。むしろツムグのことを公言したくて仕方ないのです。しかし美綾は違う考えでいるため、私の恋愛観を否定するのです。それゆえ、彼氏役を作れと言ったのだと思います」
なるほど。ツムグの件は秘密にしろっていうのは元々伊集院さんの意思じゃないのか。
「美綾さんの言うことも分かる気がする」
「そうなんですか!? なぜなんですっ?」
本気で分からないらしい。
「中学の頃、同じクラスにギャルゲー好きな男子がいたんだよ。あ、ギャルゲーってのは男向けの恋愛ゲームのことなんだけど」
「はい、存じております」
彼女は真剣な顔で俺の言葉に耳を傾けている。
「その男子、そのことクラスでカミングアウトしてから浮くようになって。男子にはからかわれ女子からも冷ややかな目で見られてた。美綾さんは伊集院さんにそうなってほしくなくて反対してるんじゃない?」
「はい。美綾は常に私を心配し見守ってくれています。紡君の旧クラスメイトの方のお話も実に勉強になります。……それでも私は悲しいのです。好きなものを好きと言って何がいけないのでしょうか?」
「いけないってことはないけど……。そういう話って受け入れられる人と完全拒否の人、両方いるから。難しいよね」
「はい……」
悲しそうにうつむく伊集院さんに、何も言えなかった。どっちかと言えば俺は美綾さん側の意見に近いかもしれない。
たった一度しかない人生、実在しない相手に情熱を捧げるより現実にいる男性と恋をした方が伊集院さんの経験値も上がるのかもしれないし。それに彼女なら恋愛相手に不自由しないはずだ。実際、他校の男達にモテている。
でも、本人はそんなこと望んでない。美綾さんの気持ちも理解はできるけど、ツムグを好きな伊集院さんに無理に他の恋愛を押し付けるのは酷だ。人の気持ちなんてそんな簡単にどうこうできるものじゃない。好きな感情だったらなおさらだ。
それに、俺には伊集院さんにリアル恋愛を勧める資格はない。俺自身、色々あって恋愛に尻込みしている身なのだから……。
もしかしたら、俺達は似ているのかも。心境も状況も違うけど、伊集院さんと俺は現実と向き合えていない。それだけはたしかだ。
かといって彼氏のフリを引き受けるなんて、できるんだろうか。
伊集院さんはたしかにいい子だけど、彼氏役をするとなったら今よりもっと接触する機会が増える。そうなったら嫌でも彼女と深い関わりになる。そうなった時、俺は冷静でいられるんだろうか?
心を読む。意図せずこの能力が発動してまた苦しむことになってしまうのでは?
天音のことを思い出し、どうしても悲観的に考えてしまう。
考えていると、俺とは真逆の爽やかな表情で伊集院さんは言った。
「私、こんなに自分のことを話せたの、男性では紡君が初めてです。……当然のことなんですが、画面の中のツムグは決められた文章しか口にしませんし」
「そうだね。ゲームにはシナリオがあるし」
当たり前のことを大真面目に言う伊集院さんに、少し笑えた。こわばってきた気持ちが楽になる。
「美綾の考え、全ては理解できていないけど、紡君との出会いは私に新しい何かをもたらしてくれる、そんな予感がするんです」
偶然。俺もそんな予感がしてる。初対面の時から伊集院さんのことを忘れられなかったのも、何か意味があるからだと、今は思う。
「改めてお願いします。彼氏のフリをしてもらえませんか?」
まっすぐ見つめるその瞳に、吸い込まれそうだった。
「分かったよ。俺でよければ」
すんなりそう答えていた。さっきまで色々考え込んでいたのがウソみたいにスムーズに。
複雑に考えたらキリがない。これでよかったんだ。もちろん心配も尽きないけど。
「あの、こちらからお願いしておいて何なんですが、彼氏のフリというのはいったいどのようにするのでしょう?」
ホント真面目だな。吹き出しそうになる。
「とりあえずは連絡先の交換じゃない? LINEやってる?」
「いえ、両親や美綾ともメールしか……。LINEというものはどうすればいいのでしょう?」
アタフタしながらスマホを触る伊集院さんはやっぱり面白い。
「LINEは別にやらなくていいよ。メールでも用件は伝え合えるし。あと、一応電話番号も交換しとこ。何かあった時のために」
「紡君、スマートですね! もしやこういう経験、豊富なのですか? 以前にもどなたかの彼氏のフリをしたことがあるとか……」
「初めてだよっ!」
「そうなんですね、それは失礼しましたっ」
「もう、何それ」
まただ。自然と頬がほころぶ。ツッコミ所満載だけど、伊集院さんと話すのはなんだか楽しい。LINEもやってない女子高生、初めて見た。
「でも、そういう所、伊集院さんらしくていいかも」
伊集院さんのスマホを借りてお互いの連絡先の交換をしていると、彼女はなぜか惚けた顔で目を潤ませていた。
「何? どうしたの!? 涙目になってるっ」
「やっぱりツムグそっくりですね。名前もそうですが、声が……!」
「そういえば初対面の時もそんなこと言ってたね」
ツムグ役の声優と俺は声質が似ているのかもしれない。だからってそこまで感動するなんて。本気で好きなんだな。
「もう、私、いつ死んでもいいです。その声に包まれて眠りたい……。カクッ」
よほど刺激的だったのだろう。伊集院さんはその場で意識を失いかけた。
「おーい! 伊集院さん! こっちの世界に帰ってきて!」
「……陽咲です」
「え……?」
「名前。恋人同士は名前で呼び合うものです。どうか陽咲と呼んで下さい」
ゆったりした声でそんなことを言う。伊集院さんは穏やかな顔でまっすぐこっちを見ていた。綺麗な瞳にロックオンされてしまう。
「いや、フリでそこまでしなくても……」
言い訳した。本当は照れくさいだけ。
「フリだからこそ徹底するべきです。周りに私達が恋人であると認めさせるためなのですから! これも美綾の受け売りですがっ」
そうかもな。付き合ってる設定なのにいつまでも名字読みでは不自然に思われそうだ。
「それに、ツムグも私のことを呼び捨てにしてくれますっ。音声なしですけどっ」
「それはそうだろうね。ユーザー名に音声がついたら無料アプリなんてやってけないと思う。容量的にも」
「だから、紡君には肉声で名前を呼んでもらいたいのです。その、やはり刺激が強いかもしれませんが……」
「言ってるそばから失神しそうだよ!?」
こんなんで本当に彼氏いる演技なんてできるのだろうか? 色んな意味で心配な子だ。
ぐったりとテーブルに両肘をつき、伊集院さんは息絶え絶えになっている。
「大丈夫ですから、呼んで下さい。どうか、私の名前を……」
いやいや、呼びづらいよ! それになんか息切れしかけてるし!
「これは試練。現実世界の男性に慣れるための訓練なんです。お願いします……! どうか私を生まれ変えさせてくださいっ」
重い! 女の子の名前を呼ぶ行為がそこまで深い意味を持つなんて知らなかった!
「紡君しかいないんです……。こんなことをお願いできるのは……」
頼られるのは嬉しい。でも、この一件で何かが変わってしまいそうでこわくもある。って、彼氏役を引き受けたそばから逃げるための言葉を探してる。
これじゃあ何も変わらない。そうだよな。こわいのは俺だけじゃない。彼女も必死なんだ。
「ひ、ひさ、ひさき…!」
これが彼女のためになるなら、恥ずかしくても呼んでやる!
「陽咲。これからよろしく…!」
「……ダメです」
「えっ?」
ダメって何が!? もしかしてこの話ナシにするとかそういうこと……?
「紡君の声、イケボ過ぎます……。名前を呼ばれたら、私、私……」
陽咲はふらふらとテーブルに突っ伏した。
「気をたしかに! 食べかけのベーコンポテトパイに思い切り顔突っ込んでる!」
「ひゃっ! どおりでマイルドな塩の味とベーコンの香りが……」
顔を上げた陽咲は、その可愛い顔にベーコンポテトパイの具をべっとりたらし、真っ赤な顔で拭く物を探している。ネコジャラシで戯れる猫みたいなその動きに、思わず笑いが込み上げてくる。
「ははは! こっちだよ、ナプキン」
渡すよりこっちの方が早い。陽咲の顔についた具を丁寧に拭いた。彼女っていうより、これじゃあ世話の焼ける妹だ。陽咲は年下だし。
拭き終わっても陽咲の顔はまだ赤いままで、何より気まずそうだった。
「ありがとうございます。とんだ失態をさらしてしまいました……」
「いいよ。制服汚れなくてよかった」
「穴があったら入りたいです……」
「もう大丈夫だから、そこまで思いつめないで」
「……ありがとうございます」
それからすぐ、店を出た。ベーコンポテトパイに顔を突っ込んだ瞬間、陽咲は店内中て注目の的になってしまい、さすがの彼女もそれには耐えられなかったらしく、店を出てしばらく経っても顔は真っ赤だった。
繁華街を抜けてしばらくすると静かな通学路に戻った。しょんぼりと陽咲はつぶやく。
「紡君も大笑いしていました」
「ごめんっ。それは、なんか、陽咲が可愛らしかったっていうか……」
小動物のように危なっかしくて放っておけない。彼氏のフリを引き受けてなかったとしても、その感想は変わらなかっただろう。
「可愛い、ですか!?」
陽咲は耳まで真っ赤にして照れている。
「言われ慣れてるでしょ? そういうの」
「慣れませんよ。毎回恥ずかしいしどう対応したらいいのか分かりません」
陽咲でもそんなことを思うんだな。「こんな美人スルーする男は男じゃない!」と豪語しているウチの姉達とは大違いだ。
感心していると、陽咲の心の声が聞こえてきた。
『可愛いーー。紡君はどういうつもりでそんなことを言うの? もしかして、それも彼氏役の一環?』
そんなことを考えて難しい顔をしていたんだな。
「思ったこと言っただけ。彼氏役だから言ったとかそういうのじゃないよ」
「えっ……!?」
やっぱり驚いてる。陽咲は目をしばたかせた。
「紡君は超能力でも使えるのですか!? 初めて会った時も私の気持ちを全て察してくれているかのようでした」
超能力、か……。そうなのかもしれない。普通の人間にはないはずの能力だもんな。どうして俺にだけこんな力が芽生えたんだろう。
「超能力かもね」
曖昧に答えた。
「すごいです! それってどうしたら身につくのですか?」
「さあ。選ばれし人間のみに与えられる能力なのかも」
中二病みたいなこと言っちゃったな。普通の女子だったらドン引きだろうけど、陽咲は違った。満面の笑みを見せ俺の言葉を肯定した。
「すごいです! そういうの憧れます!」
陽咲になら、いつかこの能力のことを打ち明けられるかもしれない。今はまだ勇気ないけど。
「すみません、ここでお別れになります」
話しているうちに陽咲の自宅に着いた。駅から学校まで歩く途中でいつも見かける豪邸が彼女の自宅だった。想像を裏切らない立派な邸宅。
「近いね」
白女から歩いて十五分くらいだった。
「はい。なるべく近くの女子校へ通うよう両親に言われ……。紡君はこの後そこの駅から電車に乗るんですよね」
「そうだよ。じゃあね」
彼女に背を向けた瞬間、寂しげなつぶやきが耳に届いた。
「私も電車通学してみたかったです」
親の希望で小学校からずっとエスカレーター式の白女にいた陽咲は、電車で通学することなんてできなかった。俺にとっては当たり前で面倒に感じることすらある電車通学も、彼女にとってはうらやましいことなんだろう。
「じゃあ、今度一緒に電車に乗ってみる? 学校帰りに制服で。少しはそういう気分になれるかも」
「いいんですか!? でも、紡君迷惑じゃ……」
遠慮しながらもその目は輝いていた。乗りたいんだろうな、制服で電車。
「迷惑だったら誘わない」
「ありがとうございますっ! 感激です!」
喜んだ後、ふと真面目な顔に戻り、陽咲は疑問を口にした。
「でも、どうしてそこまでしてくれるんですか? 彼氏のフリを引き受けて頂いただけで充分なのに。紡君にも紡君の都合があるのに」
「それはそうだけど、別に無理してるわけじゃないし……」
俺にもよく分からない。どうしてここまでしてしまうのか。深い意味はないから訊かれても困る。
「紡君は優しいですね。優しいのはゲームの中の男性だけだと思っていました。……って、何を言ってるんでしょう、私は……。ツムグが一番なことに変わりはないのに。今日はありがとうございました。お気をつけて」
陽咲は慌てたように別れのセリフを口にし、門を開け広い邸宅に入っていった。
何だったんだろ、今の。彼女らしくない言葉だったな。
名残惜しいけど駅を目指した。一人の帰り道なんて別に初めてってわけじゃないのに、陽咲と別れた後の帰路はいつもよりもの寂しい感じがした。
家に帰ると妹のミキが先に帰っていた。居間のテレビでチョコ菓子片手にアニメを観ている。
小学生の頃からアニメが趣味のミキは、部活等もやっていないせいかそのありあまった思春期の衝動を趣味に注ぎ込んでいる。
「ただいま。ミキ一人?」
「お兄、おかえり! お母さんは仕事。お姉ちゃん達もバイトとサークルで帰り遅くなるって」
「そう。あのさ、ちょっと訊きたいんだけど」
「今いいとこなのに〜。何?」
深夜にやってる男同士の恋愛アニメを鑑賞中らしい。主役の二人がいい感じの会話をしているところでリモコンの再生停止ボタンを押し、ミキはじれったそうに俺を振り向いた。
「ごめん。すぐ終わる。今母さんと一緒にやってる恋愛アプリあるだろ? あれってそんなにいいの?」
「面白いよ! お兄も興味あるの? やる!?」
「ないしやらない」
全力で否定した。男が男を攻略して何が楽しい。ツッコミを入れようとしたがやめた。
「最近知り合いもハマってて。そんなに面白い?」
「やってみたら分かるよ。キュンキュンするの! あれに興味持たない子は女じゃないよっ。お母さんだって好きって言ってたもん。お兄もやれば楽しいと思うよ」
「俺女じゃないし。遠慮しとく。そっか、そんなにいいんだ……」
ハマってるユーザーの声って生々しい。陽咲はそこまで主張してこなかったけど、ミキと同じくらい熱を持ってるんだろうな。
「興味ないのに訊いてこないでよっ。真面目に答えて損したっ。続き観よっ」
「ごめんって……」
俺自身、意味が分からない。ミキの機嫌を損ねてまでこんなことを訊いてしまったのはなぜだろう。ツムグのことをそこまで気にしてるのか? 俺は……。
いいや、違う。彼氏のフリなんて頼まれたから変に責任感が生まれただけだ。そうに決まってる。ツムグのことを意識する理由がない。
しかし、彼氏のフリ、か。陽咲も言ってたが、だからってどうしたらいいか全く分からない。とりあえず恋人同士らしくマメに会う。思い付くのはそれくらいだ。
夜、風呂から出てベッドに横になると、スマホにメールが来ていた。LINE慣れしてるからかメールってすごい新鮮な感じがする。送り主は陽咲だった。
《今日はとても楽しかったです。ありがとうございました。》
俺も楽しかった。ありがとう。
そう返した。すぐに返事が来た。
《明日は土曜日なので、さっそく電車に乗りたいと思います。放課後、学校の最寄駅で待ち合わせしませんか?》
了解。と送る。
《楽しみです! 早く会いたいです。》
ドキッとした。深い意味はないと分かってるけど。
早く会いたい。そんなこと久しぶりに言われた。中学の頃、天音と付き合ってた時に何度か言われた。でも、あの時は受験のために塾通いもしていて天音の誘いを断らなければならないこともたくさんあった。
今は後悔してる。もっと天音の気持ちになって考えてあげればよかった。塾の後、少しでも会う時間は作れたはずだ。そうすれば別れずにすんだかもしれない。
天音への想いと陽咲への想いで、気分が上下に揺れた。天音のことを考えると自分の嫌な所ばっか見え、陽咲のことを考えると気持ちが明るくなっていく。
明日が土曜日でよかった。こんなに土曜日の放課後が楽しみなのは久しぶりかもしれない。
本物の彼氏なんて俺には荷が重すぎるけど、〝フリ〟でいいから気が楽だ。だから陽咲といると楽しいんだ。それ以外の理由はない。
今、陽咲は何を考えてるんだろう?
天音は幸せになっているだろうか?
物理的な距離があると相手の心の声は聞こえない。近付いた時だけ働く能力らしい。
今はそばにいない二人の顔を思い出しているうちに、眠りに落ちていった。