僕は君が大嫌い
僕は絵を描いている時が一番幸せだ。ただ書き続けることだけを考え続ける時間。描く以外の全てをシャットアウトして描くことに没頭する。
君が僕を手伝うといって煩わしい全てを請け負うと言った時、便利な道具が手に入ったと思った。
君が掃除をする。君が食事を持ってくる。君が道具を用意する……。
君が便利だったのは最初だけだった。
「話しかけるな!」と怒鳴ったのはいつだったか。
悲しげにゆがんだ顔を見て少しだけすっきりする。
「うろちょろするな! 視界に入るな!」と怒鳴ったのは数日前。
君の苦しげな表情でいらだちが少しだけましになって満足する。
部屋の外で動く音に「足音がうるさい!」と怒鳴ったのは昨日。
ごめんなさいと涙声が聞こえて、鼻で笑って絵を描き始める。
わかればいいんだ、わかれば。
物音一つしない家の中。それからずっと訪れた静寂。
そうだ、これが僕が望んでいたものだ。
僕はそのことに満足して絵を描き続ける。
僕の気配だけが充満する、静かな空間。
……少しだけ、気分が乗らない。
僕はどこかすっきりしない気持ちを見なかったことにして笑う。
誰にも邪魔されない空間で絵が描けて、僕は満足だ。これで集中できる。
僕は無理矢理手を動かし続ける。
筆が乗らない、いい絵が描けない。
気が散る。
静寂は破られることなく存在し続ける。僕だけの空間。僕の息が、動かす筆が、それだけが人の気配を作っている。
それは、描くことだけに没頭できる空間。何よりも集中できるひととき。
なのに、何よりも幸せな空間を前に、僕の頭の中は真っ白になっていた。
手が動かない。描きたいことが浮かばない。君の動く音が聞こえない。君は今どうしているんだ。この家にいるのか、いや、いないのか、何を今しているんだ、どうしてここにいないんだ。君は、君は、君は……。
君の気配がない。
大好きな絵が手に付かない。ああ、いらいらする。いてもいなくても君は僕の感情を逆なでる。
君がいるからいけない。君が存在するからいけない。
僕は、君が大嫌いだ。
僕は必死で手を動かすけれど、集中できない。
ああ、イライラする。君のせいで気が散る。
声が聞こえなくなったのはいつからだっただろう。足音が聞こえなくなったのは。……僕以外の気配が感じられなくなったのは……?
僕はいらだちに耐えきれず、筆を置いた。
僕は家中を探し回る。いらだちにせかされながら君の姿を探す。「本当に君は最低だな!」そう君に一言言ってやらなくては気が済まない。
「僕は君が大嫌いだ」
そう言ってやったら君はどんな顔をするだろう。泣くだろうか、謝るだろうか、それとも縋ってくるだろうか。そう思うと少しだけ溜飲が下がる。
早く君を見つけないと。
まったく。君がいないせいで絵を描く時間が削られてしまう。君はいてもいなくても僕の邪魔をする。君は僕を……。
なじる言葉をつらつらと思い浮かべながら歩き回る。君の名前を呼びながら歩いて歩いて、家中を探して、外まで行って歩き回って。
そして僕は、庭の片隅に、倒れている君を見つけた。
ベッドの上で君が静かに眠っている。何日も何日も、点滴だけで命を繋ぎながら目を開けることなく眠り続ける。
君がいつからあそこに倒れていたのか、僕には分からない。
動く君はいなくなった。家に僕以外の気配はなく、いつもなら邪魔をする君は、ここにいなくて、でも何処でなにをしているかも分かっている。だって 君はずっと病院のベッドの上。静かに、静かに眠っている。
もう君は、僕の邪魔をしない。
僕は笑った。
せいせいした。これで落ち着いて絵が描ける。
静まりかえった部屋の中で僕は筆を握る。ここは、僕が望み続けていた空間。
なのに、なんでだろう。心は浮き立つことなく、描きたい物がするりするりと消えてゆく。どう描けば良いのか分からない。どう色を乗せれば良いのか、どう描きたいのか、僕は……僕は……。
筆を握ったまま、何時間も何時間も変わる事のない描きかけの絵の前で立ち尽くす。
気分が乗らないだけだ。
ちらりと君の影がよぎる。
そうだ。もしかしたら君が目を覚まして、また動き回っているかもしれない。
そうだ、君はまた余計なことばかりしてるんじゃないのか。
やっぱり僕の邪魔をしていたのは君だったか。
僕は筆を置く。君は病院にいる。
ああそうだ、君に一言いってやらないと……。
君は、ただ寝ていても僕をイライラさせる。
そして僕は手に付かなくなった絵を置き去りにして、重い足を引きずり君の元へ通う。
早く君の元に行かないと。だって君が目を覚ましているかもしれない。そうしたら僕は君に文句の一つでも……。
君は、今日も目を覚まさない。
君のベッドの隣に座り込み、僕は一日ぼんやりと過ごして面会時間の終わりと共に帰る。眠れない夜が明けて、また君の顔を見に病院へ足を向ける。
君には言うべき事がたくさんある。いつ目を覚ますか分からないから、目覚めたらすぐにいってやらないと気が済まない。
君は目を開けない。ぴくりとも動かない。
君は僕をいらだたせる天才だ。君のせいで大好きな絵が手に付かない。
青白い君の顔がどうしようもなく僕の心をえぐる。
僕は君が、ほんとうに嫌いだ。
頬がぬれて、少しだけ冷たかった。
次の日はスケッチブックを持っていった。
僕は眠っている君を描く。
カーテン越しの日が当たっている顔を。眠る横顔を。少し肉の落ちた頬を。動かないまぶたを。僕の名前を呼ばない唇を。
描いても描いても足りなくて、君の顔を見つめながらひたすら手を動かす。あれだけ動かなかった手が、今は狂ったように何枚も何枚も君の姿を描き続ける。
通う度に君の眠る姿でスケッチブックは埋め尽くされ、何冊も何冊もそれが溜まってゆく。
なぜ、まぶたが開かないのだろう。なぜ、声が聞こえないのだろう。なぜ、君は寝たまま起き上がらないのだろう。
青白い顔で眠る君の姿に、僕に笑いかけたいつかの君の姿がよみがえる。
眠る君に重ねて、あの日の君を僕は写してゆく。眠る姿の中にいろんな表情の君を見つけては、記憶をなぞるようにいつかの君の表情を描き写してゆく。
掃除をする君が、料理をする君が、僕に笑いかける君が、ぱたぱたと足音を立てていた君が、楽しそうな君が、笑い声を上げていた君が、僕の名前を呼んでいた君が、僕の絵をのぞき込んできていた君が……いろんな君がここに生まれた。なのに僕は満足できずに、また、何枚も何枚も描き続ける。
でも足りない。
そうだ、一番満足した時の君の状態を描いてなかった。
僕に怒鳴られて悲しそうにうつむいた君。苦しそうに唇をかみしめた君。泣き出しそうな君。僕に大嫌いと言われて、泣き出した君。
描いても、描いても、僕は満足しない。描くことが辛くて、辛くて、でも手は止まらない。あの時の君を思い出しながら、僕はあの頃の君を描き続ける。
なんでだろう。僕はあの時の君を思い出しても、描いても、満足できない。どうしてだろう。あの時はすっきりしたのに、今は辛そうな君の顔を描く度に、涙が止まらない。
君の動く気配がない。君の足音が聞こえない。君の声が聞こえない。君の笑顔が僕に向けられない。僕の名前を呼ばない。こんなにも、こんなにも君を描いたのに、君は喜ぶ顔ひとつしない。君は、僕の言葉に、泣いてもくれない。
僕は、……僕は。君が、大っ嫌いだ……。
僕は、何枚も何枚も、君を描き続ける。
笑顔の君も、照れくさそうな君も、困った顔の君も、悲しそうな君も、辛そうな君も、数限りなく君は僕のスケッチブックの中にいる。
空いた時間があれば大嫌いな君の元に通い続ける。
描きながら君に話しかける。君の名前を呼ぶ。あったことを話しながら笑う。時々泣いて君をなじってみる。
僕が絵を描き続ける間、君の病室は、いつも騒がしい。
僕は、何日も何ヶ月も、一年を過ぎても、君を描き続ける。
もう何冊目になるのかも分からないスケッチブックの最後のページに眠る君を写してゆく。スケッチブックの最後のページは、いつも眠ったままの君の姿。いつものように話しかけながら、手を動かす。
見つめる先で、ぴくりと君のまぶたが動いた。
「……?」
君の名前を呼ぶ。返事が返ってこないことにはもう慣れている。その後の絶望にも。
僕は祈り続ける。
ねえ、目を覚まして。
僕を見て。君の声を聞かせて。僕の言葉に応えて。
ねえ。僕は、君のことが大っ嫌いだけど、君がいないのは少しだけ……少しだけ、寂しいんだ……。
君の唇が、僕の名前を呼ぶように、動いた。
僕は、絵を描いている時が一番幸せだ。
今日も僕の周りは騒がしい。静寂が訪れるのはたまにしかない。
だって今もほら、部屋の中で小さな足音がぱたぱたと聞こえる。動いている君の姿が見える。それを目の端にとらえながら僕は筆を動かす。
君の声がする。僕はそれに応える。君の笑い声がする。僕も一緒に笑う。君に触れる。君が僕に触れてくる。
君が僕の名前を呼ぶ、僕の心臓がとくんとはねる。僕が君の名前を呼ぶ、君がうれしそうに笑って応える。
まったく。君がいるから僕は大好きな絵を描くことに集中できない。
僕は本当に君が嫌いだよ。
僕がつぶやくと、君が声をあげて笑いながら僕に抱きついてくる。
君はいつも僕の邪魔ばかりする。
僕はため息をついて、それから君を抱きしめた。
僕の描いている絵の中に、生き生きとして笑いかけてくる君がいる。
そして同じ顔をして、本物の君が僕の腕の中で笑っている。
ああ、でも、まだうまく描ききれていない。君の笑顔はもっともっときらきらしていて、もっともっと僕を昂揚させて……早く描かなきゃ。もっともっと描かないと足りない。
僕は筆をとってまた君を描き続ける。
ここは、僕が世界で一番幸せな空間。
途中、「「君」はル○バ」説が浮上しました。ルン○ではありませんでした。もっと早くにその可能性に気づいていれば、「君」はル○バになっていたかもしれません。
上にジュースのせて移動して、壁にぶち当たってジュースをこぼす○ンバ。「ああ、本当に、君は僕をイライラさせる。」
……書きたかったです。もっと早くに教えていただけたら……残念でなりません。