見てはならぬ。
肝試し。
言わずと知れた夏の風物詩だ。誰しも一度は経験があるだろう。
海水浴のように遠出をする必要もない。
夏祭りのように人ごみに揉まれる事もない。
花火大会などは大変だ。終わった後は修行か何かを終えた後のような疲労感で体は満たされ、家に帰りつけば泥のように寝入ってしまうだろう。これほど記憶に残らない夏の思い出もない。
故に、面倒なことはしたくない。お金もない。けれど夏の思い出は残したいなどという都合の良いことを考える若者にとっては、肝試しは格好の遊びなのだ。
肝試しは通常、墓場や神社などで行われることが多い。
なぜか? それはそれなりの雰囲気があり、男女ペアで挑もうものならドキドキイベントの期待度特大なシュチエーションを演出できるわりに、実に〝安全〟だからだ。
どうして安全か、だって? 考えてもみてほしい。
たとえば墓地。ここはきちんと供養された方たちが眠る場所だ。
一般的には恐ろしい印象を持たれている事が多いが、実際にはとても清浄な場所である。
もちろん、危険とまで噂される霊園なども実在するので一概に言い切ることはできないが〝そういったもの〟との遭遇率はかなり低い。少なくとも私は出会った事がない。
神社などはもってのほかだ。確かに、夜の神社は何かが物陰から這い出てきそうな雰囲気はある。しかし思い出してほしい。あそこは神聖な場所だ。悪しきものなど居ようはずもなく、雑霊などが迷い込むような場所でもない。
もし神社で怖い目にあったとしたら、それは貴方の逞し過ぎる想像力が生み出した幻想か、神様からの「こんな所で遊ぶんじゃない」というメッセージだ。
つまり何が言いたいかというと、肝試しなんて危険のないただの遊びだということだ。
そう思っていた。その筈だった。
だから、きっと、〝油断〟していたんだ――
高校二年の夏休み。
特に何かあるわけではないのに、何かしなければならないと妙に落ち着かない気持ちだったのを覚えている。
去年は高校生らしい夏の過ごし方など解らなかった。
来年は進学や就職活動などで自分も、そして周りの友達も夏を満喫するどころではないだろう。
だから、本当の夏は今年しかない。
そう思っていた。
準備は万全だった。
夏休みを遊び倒すために、事前にアルバイトに精を出してお金を貯めた。
もちろん私一人で軍資金を用意しても意味がない。当時仲の良かった男女四人グループで話し合い、それぞれが十分な資金を準備した。
せっかくの夏を労働で潰すなんてもったいないと思ったのだ。
そして夏本番。
待ってましたと言わんばかりに私は友達と遊びまわった。
宿題? なにそれ知らない。
八月の終わりにみんなで半べそ書きながらテーブルを囲むのも思い出だよね?四人で数もちょうど良いと思わない?
終始そんな感じの計画的無計画で夏を存分に謳歌した。
そして夏の終わりが見え始め、夜風に秋の香りが漂い始めるころ。
私たちは、飽きていた。
海も川もプールも行った。
夏祭りや花火大会などは合わせて五回も足を運んだし、叩き割ったスイカがいかに食べにくいかも十分に理解した。
そして肝試しも私たちにとっては何度も繰り返した〝やりなれた遊び〟だった。
墓地や神社はもちろん、町はずれにある廃病院にも勇気を出して足を運んだ。
夜はあまりに怖すぎるので、昼間にだったが……。
小さい病院とはいえ、人気のないその威容はなかなかの威圧感だった。
だが実際に入ってみれば、そこは怖いというよりも剥がれ落ちた壁材や割れた窓ガラスの破片などで危ない、といった場所だった。
それなりに有名な心霊スポットだった事もあって、あちこちにお酒の空き缶やスプレーの落書きなどがあり、それが生者の気配を漂わせていたことも恐怖感を軽減するのに一役買っていただろう。
私たちは飽きていた。更なる刺激を求めていた。
去りゆく夏を惜しみ、決して忘れる事のない思い出を作ろうとどこか躍起になっていた。
次はもっとマイナーで、ヤバい所に行こう。
誰かがそういった。
夏の最後に印象に残るような思い出が欲しい。
そう思っていた私たちは、あっさりとその言葉に賛成した。
そしてそれが、間違いだった。
私たちが足を運んだのは雑木林の中にポツンと佇む小さな一軒家だった。
一見しただけではただの廃屋で、地元の人間でも存在に気が付いていない者の方が多いだろう。
しかし、一度は噂を耳にしたことがある。そんな場所だった。
どんな噂かって? 笑わないで聞いてほしいのだけど、その家は「人を喰う」のだそうだ。
そうは言っても流石にバリボリと音を立てて喰らうのではない。
その家では、今までに多数の行方不明者が出ているのだ。
家の住人が忽然と姿を消す。
しかし家から出て行った形跡はなく、家財道具もそのままに住人だけが姿を消すという不思議な事件が何度も起き、実に五人もの人間が行方知れずとなっていた。
そんな不気味な家に移り住もうとする者は、もはやいない。
しかし肝心の家の所有者は行方不明。勝手に取り壊すわけにもいかずに放置され続け、今や立派なお化け屋敷だ。
さて、事の真相はさておいて私たちはその家の前に立っていた。
胸に迫る物を感じさせるほど色の濃い夕焼けを背に、その廃墟は佇んでいた。
壁という壁を覆い尽くさんばかりの蔦植物も優秀な演出装置となっている。
見たところ、人が出入りしている形跡もない。手垢だらけの心霊スポットに辟易していた私たちは、その様子に満足した。
ひぐらしの鳴き声を背中に受けながら、ゆっくりとドアノブを回す。
意外なことに鍵はかかっていなかった。
夕刻の廃屋は薄暗い。あちこちの物陰が闇に淀んでいる。
しかし内部は荒らされた様子もなく、小奇麗と言えるほどだった。もちろん廊下を歩けば判子のように靴底の足跡が残る程度には埃が積もってはいたが。
それよりも、気になるのは不快な臭いのほうだった。
腐った水のような、生臭い臭いがあたり一面に充満している。
最初は、周りが雑木林に囲まれているせいで植物の香りが強いのだろうと思っていたが、この臭いは明らかに気配が違った。
一呼吸ごとに肺が腐っていくような、胸に溜まる臭気だった。
それぞれが汗拭き用のタオルやハンカチで口元を抑えながら、慎重に歩を進めていく。
しかし、小さな平屋建ての探検はすぐに終わった。
風呂場やトイレなどの水回りの扉を開けるときに少し緊張した程度で、特に胸躍るような事は何も起きなかった。
残すは六畳ほどの小部屋のみ。
結局ここもはずれかと、気の抜けた様子で四人が部屋に入る。
そして異変はすぐに現れた。
最初は音だった。
ミシリ、という床が軋む音。
一瞬だけどきりとしたが、それが自分たちの足元から湧き上った音だということに気が付くと、安堵したような緩い空気が流れた。
しかしその直後。
生木を割るような大きな音と共にがくりと足元がぐらつき、まずい! と思う頃には既に遅かった。
突然、床が抜けたのだ。
四人は悲鳴を上げる間もなく床下へ落下した。
普通は数十センチ程度であろうその床下は、なんと三メートル近くも掘り下げられていた。
薄暗くて良く見えないが、周辺を土に囲まれている気配がする。どうやら床の抜けた六畳間の床下だけ、深く掘り下げられているようだった。
幸いにして足元の土は柔らかく、特に怪我などはしていないようだ。
友達にも驚いた以上の被害はなかったようで、食べ歩きのし過ぎで体重が増えたのだ、などと冗談を言い合っている。
次第に目が慣れて、物の輪郭くらいは把握できるようになると、私はある異変に気が付いた。
一人足りない。
私たちは四人でこの部屋に入ったはずだ。しかし、目に映る人の輪郭は二つ。
自分を含めれば、ここにいる人数は三人だ。
うまいこと落下を免れたのだろうかと考えていた矢先に、遠くから聞こえてくるような、くぐもった声が聞こえてきた。
聞き間違えようもない。姿の見えない友達の声だ。
しかし、どこから?
上からではない。だかここにも居ない。
……下から?
もしかして、更に深い場所があってそこに落ちてしまったのだろうか。
そう考えた私は這うように、慎重にあたりを探る。
指先に感触があった。そっと指先で撫でてみる。
木の感触だ。
不意に視界が光に照らされた。
目を細めてそちらを窺うと、友達の一人が携帯電話の懐中電灯アプリを起動した様子だった。
というか、それならば私だって持っている。気が動転しているとそんな当たり前の事すら思い出せないものだ。
改めて視線を戻す。そこにあったのは……木の〝蓋〟だった。
結構大きい。直径は一メートルを少し超えるだろうか。
しかしその四分の一ほどは欠け落ち、その隙間から更に深い闇が顔を覗かせていた。
声は、その中から響いてくる。
私はその穴のそばへ回り込み、慎重に覗き込む。
獣の吐息のように臭気が湧き上ってきた。
廃屋に入った時から感じていた、肺が腐るような悪臭だ。
胃が裏返るのを必死に抑え込みながら、ライトで中を照らす。
分厚い闇の中から浮かび上がってきたのは、姿の見えなかった友人の顔だった。
私はほっとして、日ごろの行いが悪いからよ、と軽口を叩いて手を伸ばす。
その時、不意に頭上から声がした。
お前ら、大丈夫か? と。
私は振り仰ぐ。
そこには先ほど闇から浮かび上がったものと同じ顔が、心配そうな表情でこちらを覗き込んでいた。
なぜ? と思った。
即座には状況を理解できなかった。
その一瞬の隙が仇となったのだろう。
伸ばした指先に何か硬い物が触れると同時に、私は闇の中へ引きずり込まれた。
短い悲鳴を上げ、木蓋を割り砕きながら落下していく。
そうだ。なぜ気が付けなかったんだ。
こんな肩口がやっと入ろうかという小さな穴に、人間一人が落ちるはずもない。
ならば、先ほど穴の中に見えたのは……。
水の中に体が沈み込む感触で、浮ついていた意識が引き戻された。
なんて酷い臭いだ。明らかに腐っている。
ドロリとした感触のする水を払いながら思う。どうやらここは古井戸のようだった。
それなりの高さがある。穴の入り口からは友人たちが大声で私を呼んでいた。
私は大丈夫、と腕を振る。その袖口から何かがぶら下がっていた。
目を細めてそれを見つめ、その正体に気が付いた私は悲鳴を上げることもできなかった。
それは――白骨化した人間の手首だった。
がしり、と何かが腰に絡みつく。
喉が引きつり、ひっ、と情けない声が漏れ出た。
根の合わない歯を鳴らしながら恐る恐る視線を下げる。
私の腰には、何本もの白骨化した腕が絡みついていた。
一つや二つではない。恐らく十はある。
私は指の一本ですら動かせなくなっていた。
恐怖で身体が竦んでいた。意識を失わないようにするので精いっぱいだ。
腐った水の中から、何者かの気配が湧き上ってくる。
誤魔化しようのない嫌な予感。
ろくに祈った事もない神様に加護を求めるが、聞き入られようはずもなかった。
それは不浄の塊としか表現のしようがない存在だった。
衣のようにヘドロを纏った骸骨が現れた。
垂れ下がり、髪のようになったヘドロの隙間からやけに黒目の大きい眼球が私を見つめている。
辺りは闇に包まれているのに、その眼球だけはやけにハッキリと目に映った。
骸骨の口がゆっくりと開く。
そして、呻くような女性の声で私にこう言った。
「み、るな。ミル、ナ。見るな。視るな」
私の記憶はそこで途切れている。
精神力の限界を迎えた私の意識もまた、井戸のように深い奈落へ落ちたのだった。
決してみるな――という、遠い残響だけが脳裏に響いていた。
それからはもう夏休みを満喫するどころではなかった。
なにせ今まで行方不明だった五人の遺体が、その住居の床下に隠された古井戸の中から一挙に発見されたのだ。
私たち四人は毎日毎日、嫌になるほど事情聴取を受け。親からは世界を恨みたくなるほどに説教をされた。
結局、その白骨遺体に事件性は確認できず、事故として処理されることとなった。
五人もの人間がなぜ、どのようにして床下に封印された古井戸に身投げしたのか――という謎を残したままで。
そんな苦い経験も、後から振り返れば笑い話になるひと夏の思い出――とは、いかなかった。
私の視力は、その日から完全に失われていた。
腐った水と木の破片で眼球を傷つけ、失明に至ったのだろうと最初は思っていた。
しかし医者の診察では眼球に特に異常はなく、なぜか眼球と視神経が見事に切り離されている状態、ということだった。
まるで一度引きずり出して、またはめ直したみたいに――、と医者が口を滑らしたところで、ナイーブになっていた父親が激昂し、医者に殴り掛かって大騒ぎになった。
それから友人たちは、私に対する負い目からか距離を取り始めた。
毎日のようにお見舞いや日常生活の手伝いをしてくれてはいたが、昔とは明らかに〝心の距離〟が離れてしまっていた。
ありがとう、ごめんね、またね。
そんな何気ない言葉の一つ一つに遠慮を感じ、私の心は苛立った。
私は恐怖した。
もしかして、残りの生涯をこの暗闇の中で過ごす事になるのだろうかと。
何も見えない孤独の中で、一人寂しく過ごしていくのかと。
それは――、あの古井戸の中と何が違うのか――
それから一年の時がたち、食事をするのにも事欠いていた私は指先でその具合を確認できるほどにやせ細っていた。
日に日にあの骸骨の容貌に近づいていく気がして、私の心はざわついた。
しかしそんな日々とも別れを告げる日が来た。
視神経再生治療が功をなし、以前の五分の一程度とはいえ視力の回復が成ったのだ。
いや、成ったはずだ。
今日、一年ぶりに目を開く。
私は一人にして欲しいと家族に告げた。
新たな一歩を踏み出すこの記念すべき日に、初めに目にするものは自分の顔でありたかったのだ。
鏡の前ではらりと包帯を解き、ゆっくりと瞼を押し上げる。
動き方を忘れていた私の瞼は、それでも確実に世界への扉を開いた。
そして私は驚愕した。
脳が痺れたように眩暈がする。
喉が引きつり呼吸は困難になり、胃は握りつぶされたように悲鳴を上げている。
鏡の中で私を見つめていたその瞳は――井戸の底で見た、やけに黒目の大きいあの瞳だった。
なぜ、と思うと同時にぐりん、と眼球が私の意志とは関係なく蠢いた。
眼球は歓喜するように震え続ける。
そのたびに振り回される視界に私は気分を悪くして口元を抑えた。
不意に、ぴたりと眼球の動きが収まる。
そしてじわり、と何かがそこから顔全体を侵食するように広がり始めた。
私はなすすべなくその感覚に恐怖していた。肩は細かく震え、喉からは悲鳴の切れ端が次々に漏れ出てくる。
やがて侵食は顔全体に及び、その口元が裂けんばかりに歪められた。
私の意志ではない。
何者かがこの体を乗っ取ろうとしている。そう直感した。
しかしもう遅い。
何もかもが、手遅れだった。
腐った水のようなドロリとした侵食が喉に達し、声帯を震わせる。
そして無理やり歪められた口から、言葉が発せられる。
「見てはならぬと――言ったのに――」
お話は以上だよ。
まぁ結局何が言いたかったのかというと、若気の至りとはいえあまり羽目を外し過ぎると痛い目に会うよって事だね。
え? その〝私〟はいったいどうなったのか、だって?
別に、どうもこうもないさ。
――私は、ワタシだよ――