3.雲とポテト
「……マーナミちゃんっ」
「え? あ、先輩」
愛美はちょうど椅子から立ち上がるところだった。
濃い油の匂い。元々ファーストフード店の匂いは苦手だ。身体中に纏わりついて、服の繊維の間に油の匂いが染み込んでいくような気がする。
陽子は人の良い笑みを浮かべながら、小走りに近付いてきた。
座ってもいい?
だめ。帰るところなんです。頭ではそう思ったが、そんなことが言える相手ではない。愛美は不自然にならないようにまた席について、笑って頷いてみせた。
陽子も安堵したように笑う。
この人の笑顔は好きだ。ふわっと優しくて、つい微笑み返してしまう。
陽子はハンバーガーには手を付けずに、ポテトを5、6本掴んで頬張った。
彼女の丸い頬が赤く染まっている。
「最近、寒いですね」
愛美は無意識に呟いた。陽子もガラスの外に目をやる。
「ん? そうね、雨が降ってるからね」
「毎日曇ってますね」
「マナちゃんは雲嫌いなの?」
――――雲が嫌い?
愛美は内心首を傾げた。雲が嫌いな人などいるのだろうか。
寒いのが嫌いだから? 雨が嫌いだから?
「嫌いじゃないです」
「そう? マナちゃん、空見るの好きって言ってたからさ」
「好きですよ。でも、雲も空の一部だから」
「そっか、なるほど。そういう考え方ね。……いや、色んな考えの人がいるからさぁ。あたしはね、雲が好きなの」
陽子はアイスティーを口に含む。頬の色が肌色に戻っている。
「青い空に浮かぶ白い雲が好き、ってわけじゃあないのよ。雲って色々種類があるんだけど、あたしは全部好きなの。特に今日みたいな日は好きよ――全世界を雲が覆ってるような日はね」
愛美はぼんやりと向かいに座る陽子を眺めた。不思議なひとだ。やわらかい笑顔をした優しい人だと思うのに、突然こんな話をする。まるで歌うように、朗々と、自分には到底手の届かない場所の話をする。
不思議ね。ねえマナちゃん、雲ってあったかいと思う? 冷たいと思う?
あたしこの前見上げてて思ったの。不思議よね。あったかい気もしないし、冷たい気もしないの。ほんとはどっちなのかしら。冷たいのかな、あったかいのかな。
でもあたしはどっちにしても、雲が好きよ。
陽子は朗らかに笑った。
「……マナちゃんって、ユウちゃんと同じクラス?」
「ユウちゃん? って、ああ、高瀬さん。転校生で、田辺君のいとこの」
そうそう、と陽子は頷いた。
愛美はぼんやりと田辺を思い出す。去年同じクラスだった、地味でもなくて、派手でもなくて、微妙な位置にいた人。顔は悪くなかったような。
対して、彼の従姉だという高瀬優は、目立つ人だ。
きっと転校生でなくても目立っていただろうと思う。細い身体。細い髪。目を離したら雪のように溶けてしまいそうだ、と思ったものだ。彼女より美人な子なら他にもいるが、ふわふわした言動が妙に似合ってかわいらしいのだ。
「田辺君があの子にぞっこんでさぁ」
「ぞっこん、って死語じゃないですか?」
「あたしはね」
陽子はアイスティーを飲みきった。
「死語って言葉自体、死語だって思ってるの。だからこの世にもう死語は存在しないと思う」
「先輩のその論理が分かりませんよー」
本当に不思議な人だ。
陽子はまたポテトを2、3本掴んで食べる。愛美はその様子をじっと眺める。
「とにかく田辺君がユウちゃんに惚れててさあ。……協力してあげてくれない?」
「協力、って。従姉弟ですよ?」
「いとこは結婚できるでしょ?」
陽子はいたずらっ子のように微笑んだ。左右の指を丁寧に舐めて、ふふふ、と声を洩らす。
空の向こうからやってきた、イタズラ魔女の微笑み。
ぐらりと世界が揺れた気がした。
急に息苦しくなる。わたしは、新鮮な空気が吸いたい。
愛美は考える。ここはどこで、どうしてわたしはここにいるんだろう? 先輩は何が言いたいのだろう? どうしてこんなことをわたしに頼むんだろう。この人は誰だろう。だって陽子先輩は中学の時から田辺君のことがずっと。
『いらっしゃいませ!』
突然、背後で店員さんの声が聞こえて、愛美はハッと気が付いた。
ここはお店の中だ。空の中じゃない。
愛美は突然目が覚めたように周りを見て、にこにこと笑っている陽子を恨めしげに見つめた。
「…………ヨーコ先輩、またわたしに魔法かけたでしょ?」
「誰が魔法なんてかけるのよ。アンタが寝てただけじゃないの?」
「……そうかな。で、どうしてそんなこと頼むんですか」
陽子はポテトの容器を丁寧に潰した。
ハンバーガーの包みを開ける。
「だって一つ屋根の下に暮らして1ヶ月経つっていうのに、未だに何にもないって言うんだもん」
「何にもないって……当たり前でしょ。まだ高校生なんだし」
「あんたどこのオバサンよ。もう高校生なんだから」
「でも、わたしだって従兄がいますけど、別にそんなこと考えたこともないですよ」
陽子は口の中のものを飲み込んで、小さくため息をついた。
「マナちゃんとあの二人とは事情が違うんだって」
「どんな事情?」
「田辺君かユウちゃんから聞いてよ。あたしからは軽々しく言えないしねぇ」
釈然としない答えに、愛美は呆れた顔をした。
陽子は飄々としている。いつもこうだ。一番肝心なことを言ってくれない。陽子とは中学1年のときからかれこれ4年の付き合いになるが、未だにこの人の言葉を理解できた試しがない。
愛美は外に目を向けた。駅前は待ち合わせの人でいっぱいだ。雨が降っているからだろうか。中学生くらいの女の子が傘がなくて困っている。
陽子は笑顔のまま愛美を眺めた。