2.海の記憶
Yへ
あの後曇っちゃったね。残念。せっかく、朝は綺麗だったのにね。
そういえば今日、今まで話したことなかった先輩に話しかけられたんだ。なにかと思ったら、『田辺君の従姉ってもしかして優ちゃんのこと?』だってさ。
有名なんだねえ、田辺君(笑)
名字違うのに良く分かったな、って思ったら……あの先輩に私の話、したんだって?
なんかちょっと複雑そうだったから、気になったんだけど。まぁ話したくないなら聞かないよ。ヨーコ先輩だったかな。名字は知らない。
……手紙って困るね。毎日会う人と、なんてさ。
だって手紙って、普通遠くの人とするものじゃない? 姿の見えない人と。
代わりに文字で会うんだよ。文字で、話すわけでしょ。こうやって手紙書くのって、なにか意味があるのかなあ……って考えると、メールって不思議だよね。毎日毎日会ってる人とメールしたって飽きない。どうしてなんだろう?
あ、結構書けた。こんな風に質問しちゃったりとかしてもいい?
まだ居候を始めて1ヶ月。この家のこと分かってきたつもりだけど、まだ分からないところもあるから。
夜も遅いのでこの辺にします。おやすみー。
Uより
P.S. Yの字は読みやすいよ。私より「楷書」って感じがするな。
Uへ
もう寝るのかよ。早すぎだろ。まあいいけどさ。
陽子先輩に会った? じゃあまさかバド部見に行った? 吹奏楽部入るって言ってなかったっけ?
陽子先輩とはちょっと色々あって。相談に乗ってもらったんだ、中学の頃に。ほら、今はやってないけど、前はバド部だっただろ。その時にさ。なんの話したかっていうのは……ちょっと。まぁもちろん優も出てきたんだけど、あんまり関係ないから気にしないで。まじで。
何メートルか先に、お前の部屋がある。
顔見て話せばいいだけの話なんだけどな。こっちの方がよほど面倒だし、紙だって勿体ないし。お前の使ってる便箋、高いんじゃないの? 俺のはそこら辺の文房具屋で買った安物だけどさ。……うん、やっぱ照れるな。これ。
メールはもっと気楽じゃん? ちょっとした用事でもOKって感じがしてさ。手紙ってなんか大事なもののような気がするだろ。それなのに、どうしてこんな下らない事、手紙でやりとりしてるんだろう。
じゃあ、そろそろ寝る。おやすみ。
Yより
P.S. Uの字は女らしいよ、まるっこくてさ。俺には書けない。
翌日優は、朝起きて僕を見るなり輝くような笑顔になった。
「気色悪いな。どうした?」
「ひっどー。せっかく、今日すごく機嫌いいのに」
彼女の唇に白いヨーグルトが吸い込まれていく。
「……お前の朝の習慣に俺を付き合わせるなよ」
僕がいつものように夜明けを横目にぐったりとしていると、優はまた、空を見つめていた。その真剣な瞳に僕は映っていない。彼女の目に映らないのなら、ここにいる必要はないのに。
夜が明けると、彼女は僕に向き直って「ごちそうさま」と言った。
なんとなく、別の言葉を囁かれた気がした。……本当は、何と言ったんだろう。
∽∽∽※∽∽∽
――――黒に近い群青色をした海が見える。
白いワンピースを着た細い女が、船の先に立っている。
僕はその人に近付いて、ユウ、と呟いた。ユウ。ユウ? 誰の名前だっただろう。「ユウ」という名前はあまりにも近しい名前で、近いのに遠いような、奇妙な感じがする。どうして僕はこの女性を「ユウ」と呼ぶのだろう。
波が揺れて、彼女が振り向いた。
風が強い。彼女の前髪がぶわりと強引に巻き上げられ、僕は冷たい風に煽られながら必死で目を開いた。
「ユウ」
どちらの声だったのだろう。
僕の声だったのか、彼女の声だったのか。
「優!」
これは僕の声だ。
叫ぶと、彼女は目を伏せて微笑んだ。彼女は今いくつで、僕は今いくつで、何をしているんだろう? ここはどこなんだろう? 僕と彼女は従姉弟で、僕は――――。
……ダメだ。記憶がそこまでしかない。
同じ屋根の下で暮らしたあの頃のことなら、いくらでも覚えているのに。
二人で夜明けを見たあの日々。二人で手紙をやり取りした日々。
初めて彼女と手を繋いだ日はいつだったろう?
きっと二人とも何も知らない、ずっとずっと子どものときのことだ。
やわらかい手。細い指先。
彼女の香りの残るあの家を、僕はもう訪れることができない。




