1.ヨーグルト
軋む階段を下りるとリビングがある。父と母と僕の3人で住むには、そこはあまりにも広すぎた。シンと静まりかえる食卓、広すぎるテーブル、母の趣味でもある細やかな白いテーブルクロス。複雑な模様の向こうに見える木目が模様に混じって、さらに複雑に見える。
駅が近いのに騒音はまるでない。優れた防音のためだろう、綺麗好きな母の手によって磨かれた窓から見える外の世界は、いろいろなものが、淡々と動いている。その中の人が、犬が、草木が、黙ったまま、ただ動いている。本当にこの家は「箱」のようだ。美しく整えられたドールハウス。
「――――優、なんか食うもんある?」
「ん? ないよ」
優がそのリビングの椅子に座って、白い容器を片手に外を眺めていた。
僕は明け方の雰囲気を感じて、彼女に近付く。
「……なに食べてんの?」
「ヨーグルト。アロエだよ、もうすぐ賞味期限切れそうだった」
「俺の分は?」
僕はテーブルの上の新聞に目をやりながら彼女に問う。優はスプーンをこの夜明けと同じくらいの静けさで口に運ぶ。幻想的な光景だった。
「だから、ないよ。これが最後の1個」
「……」
「朝練あるの、今日?」
「なんで?」
「なんでって。もうちょっと遅いでしょ、起きるの。いつも私が一番早いのに」
起きてたんだね、と優はやはり僕の方を向かずに、抑揚のない声で言った。
透明な駅にいるような気がした。ぼんやりと現実ではないように思えてくる。昔、祖父を見送ったあの駅のような、寂しく重々しい空気を思い出す。希薄で澄んだ空気が優からだけでなく、この部屋全体に漂い始めている。
優は家の中から目を背けるように、じっと外の光を見つめる。
「じゃ、俺はパンでも食べるけど……どこだっけ?」
「叔母さんに用意してもらってばっかりだから、場所がわかんなくなるんだよ」
「分かってる。……ああ、いや、まあとにかく今は、腹減ったから」
「それで起きてきたんでしょ?」
結局僕は、一度も優と顔を合わせることはなく、棚の上にパンを見つけて食べ始めていた。
彼女は振り向かない。広いダイニングテーブルが恨めしい。
「優。外に、何かあんの?」
優は一瞬黙った。
「――――何も。ただ、この時間って空が綺麗だから」
「いつも空綺麗って言ってるだろ」
「……自分が透明になってる気がするの。だから、朝は好きなの」
――――それを聞いた瞬間、悟ってしまった。
空を見ていたんじゃない。朝を見ていたのだ、優は。
箱の中から。
彼女の話し方はゆったりとしていて、僕を朝に引き込む。笑う仕草も怒る仕草も、どこか遠く、遠く離れたところにある。昨日の晩、紙切れ一枚でも愛しく思えてしまったのはきっとそのせいだ。優を一番近くに感じるのは、あの瞬間だった。月夜の晩に、照らされたたった一枚の紙に触れたときだ。
スズランの花がプリントされたその手紙を、紙の感触まで、僕は思い出すことが出来る。
「――――美味しかったー。ね?」
「俺、食べてないし」
優はやっと僕の方を振り返って笑った。
「……アロエの花言葉、知ってる?」
「アロエに花あんの?」
「あるよ。で、知ってるの?」
「知らない」
蓋についたヨーグルトをスプーンで丁寧に掬い取って、彼女は笑った。
そして得意気に語り出す。
「やっぱりね。あのね、アロエには健康、とか万能、とかっていう花言葉もあるんだけど」
「うん」
「悲しみ、って意味があるの」