献身と祝福と。
広い室内の隅っこで小さな光がチカチカと放たれる。
『お前はいつでも笑っていろ』
壮絶な色香を纏った美貌の王子の顔が獰猛な笑みを浮かべた。
肉食獣さながらに敏捷な動作で少女の唇を奪う。
真っ赤に熟れた頬、羞恥で目元を潤ませた彼女は、彼の背中におずおずと腕を回した。
『そうしたら、永遠にお前を愛してやる』
――暗転する。
「よっしゃぁああああああああ、全コンプリートっ。パァーフェクト、流石わたし、水埜蔵遊里、いぇい。あああああああ、がんばったよぉ」
三日徹夜したテンションとはなんとも恐ろしいものだ。
乙女ゲームの世界のなかで、乙女ゲームをする。
しかも、ザ・和風と言った日本家屋の一室でだ。
なんというシュールさ。
だが、そんなもの何だというのだ。
卓袱台に薄い最新式のノートパソコンを置き、前髪をちょんまげにして、眼鏡を装着し、Tシャツに短パンスタイル、胡坐をかいて美形に挑んでいるわたしにとって常識など言う言葉は既に捨て置いている。
「遊里ちゃん、ただいまぁ」
間延びした声が背後から降りかかる。
軽く首だけを向けると、藍染めされた着流しを見事に着こなし、前髪はボンボンでちょんまげされている甘ったるい美貌がへにゃりと綻んだ。
長身で柔らかい雰囲気を纏った男はわたしの三つ下の義弟である。
甘えたがりで寂しがりな彼は、いつまでたっても義姉離れをしない。
わたしとお気に入りがいいと強請ってきたから、赤いボンボンをプレゼントしてあげたのだが、年甲斐もなく外に行くときすら今日のように愛用しているのだ。
「遊里ちゃん」
「ちょっと待って、もうすぐエンドロールだから」
「僕より、大事?」
「まさか、でも、もう少しだから、ちょっと待って」
あくまでも、乙女ゲームは娯楽である。
屋敷にずっといる引き篭りのわたしが出来ることと言えば、前世からの趣味である乙女ゲームしかないのだ。
外は怖い。
考えても見たまえ。
何の能力も持たない落ちこぼれのわたしが外に出ればどうなるのか。
巷には人ならざるものが溢れていて、祓師であるわたしの血肉があいつらの好物であることを鑑みると、答えは簡単だ、殺される。
だから、わたしは滅多に外には出ない。
この屋敷は結界で守られているから、ここにいる限り、わたしは命の危険に脅かされることはない。
――絶対、私が攻略してやるんだから。
画面から流れるヒロインの口説き文句。
こんな言葉が吐けるのは、身の危険のない平和な世界にいるからだ。
背後から抱き締められ、首筋に顔が埋められた。
吐息が首に掛かってくすぐったいが、好きなようにさせてやる。
「ん、もう本当に終わるから、いい子で」
画面に集中し、エンドロールが流れる。
繰り返される日常。
小さな箱庭の世界。
もうじき、わたしは十六になる。
望んで、願った、覚醒の日を迎える。
異能を手に入れたわたしは、嫌でも外の世界を知ることになるのだ。
「流石、乙女ゲームだね。愛が満ち溢れているよ」
ぽつりと呟くと、一縷の腕の力が強くなった。
エンドロールとともに売れないアイドルが歌う陳腐な曲が流れてくる。
口ずさむそのメロディは、かつて聞いた乙女ゲームのテーマ曲に似ていた。
前世のわたしが嵌った乙女ゲームであり、わたしの今世の世界である「愛で満ち溢れている」の世界。
「一縷、髪の毛結び直してあげる」
異能を手に入れたわたしは、このような心安らかな時間を彼と過ごすことができなくなるだろう。
顔を近付ければ、一縷はわたしの瞳を覗き込んだ。
一見黒い艶やかな濡羽色だが、間近で見れば、実際は違うのだと気付く。
温和な光を放つ鮮やかな瑠璃色の瞳は息を飲むほど美しい。
その色をかつてのわたしはどれほど望んだことか。
いや、正直に言うと今でも欲しい。
宝石のごとく煌めく一縷の瞳は、決して手に入らぬ愛し子の証なのだから。
+++
水埜蔵遊里は特異だった。
異能とは色に宿るものであり、濃色になるほど強く、淡色になるほど弱い。
水埜蔵家の当主である父の一人娘として誕生した子どもは、将来を嘱望された。
「遊里、お前は私たちの子だから、きっと類稀な異能者になるだろう」
家族愛はあったと思う。
父と母は子煩悩でただひたすら甘やかされた。
十歳の誕生日。
項垂れる熱さと蝉の鳴き声が酷くうるさかった夏。
朦朧とする意識は漣のごとく途切れ、熱に魘された身体にはおでこに置かれた氷が命綱となっていた。
――わたしは、色なし子になる。
朦朧とする脳裏で、これから訪れる破綻を悟った。
子どもの頃は皆、白髪に淡い瞳の色を持つ。
大体八歳から十歳ほどで色は固定されるが、その際には覚醒熱と呼ばれる微熱が数日続く。
わたしも例外ではなかった。
数日後、覚醒熱が下がったわたしは、髪も瞳も淡色のままだった。
そうして、色なし子のわたしに与えられたのは今までとは異なる悪意の塊だった。
周囲の冷淡な態度に今まで甘やかされてきた子どもは戸惑う。
懸命に看病してくれた手が汚らわしいものでも触れたかがごとく振り払われる。
失望した。
知っていたからと言って傷つかないわけがない。
彼らはいつだってわたしを可愛がり、蝶よ花よと可愛がった。
だから、異能がなくとも何処か心の奥底ではこのまま愛されるのだと思い込んでいたのだ。
「遊里ちゃん、遊里ちゃんには、僕がいるよ」
土蔵造りの離れは、昔から狂人を隔離されるために使われたもので、座敷牢まで完備でしてある周到なものだった。
そんなところに齢十歳の子どもにこれから住めと言うのだ。
どれだけ嫌われているのか。
与えられた部屋はがらんとしており、寒々しい。
しくしくと泣き崩れ、部屋の隅っこで蹲るわたしを一縷は心配そうに見つめる。
本家の母屋から追い出され、離れにひとり隔離されたわたしを見捨てなかったのはこの小さな幼馴染だけだった。
本家の当主である父の弟の息子であり、この日、我が義弟になることが決定された哀れな子ども。
例え、彼が二年前に六歳という異例の幼さで覚醒したとは言え、まだ八歳である。こんなに幼い子どもが家族と離れるなんて耐えられることでもないだろうに、健気にも色なし子になったわたしを慕ってくる。
遊里ちゃん、と甘える声は舌足らずで幼い。
自分のことよりもわたしのことを気にかける一縷。
この子どもはこれから自分の身に起こることを気付かぬほどに幼いのだと悟り、わたしはまた泣いた。
悲しかった。
わたしは彼から奪ってしまったのだ。
「ねぇ、僕だけでは駄目?」
嗚咽を隠そうともせず、鼻水だらだら、涙がぼろぼろで、ふがふがと泣き喚きながら、わたしは小さな身体に縋りつく。
幼い肉体に引き摺られるように精神も幼児化しているのか、年上であることも、自分が彼にこれから犠牲を担わせる罪悪感もすべて放り投げ、欲望のままに何も知らない子どもを望んだ。
「遊里ちゃん、僕がずっと傍にいるから、それでいいでしょう?」
ぎゅう、と力加減もなく、精一杯の力で抱きしめてくる。
ぷにぷにとした丸みを帯びた身体を抱きしめ返し、甘い子どもの乳臭い匂いに安堵する。
「うんっ、いちる、いちるだけはずっと傍にいて」
ごめんなさい。
わたしは貴方から家族を奪い、当主としての責任まで押し付ける。
そして、今、身勝手な寂しさから、こうしてわたしに縛り付けようとする。
ああ、許してほしい。
ひとりは嫌なのだ。
一縷、貴方が傍にいてくれるなら、わたしはわたしは。
睡魔が襲ってくる。
ゆらゆらと揺らめいた。
重くなって、うつらうつらする瞼は重力に耐え切れずに静かに閉じていく。
夢を見た。
それは、見知らぬ女性の姿。
彼女が笑う、怒る、泣く。
めまぐるしく画面が切り替わり、時折ノイズ混じりの砂嵐が酷くなる。
気持ちが悪い。
脳髄を引きずり出され、ぐちゃぐちゃに掻き混ぜられ、溢れんばかりのデータが脳に焼き付けられる。
――すべてを思い出した。
断片的な記憶の欠片がひとつの事実に繋がっていく。
わたしはヒロインであり、彼は攻略キャラであり、この世界は乙女ゲームの世界だ。
凡庸であるのは物語になる前の布石であったのだ。
+++
十六歳になった。
わたしは無事に異能を開花させた。
「世界は愛で満ち溢れている」は、現代風ファンタジーを舞台にした恋愛シミュレーションゲームだった。
祓師と呼ばれる一族である当主の一人娘である水埜蔵遊里がヒロインである。
凡庸で、落ちこぼれである少女が十六の誕生日を契機に規格外の能力に目覚めたところからゲームは始まりを告げる。史上最強の力を手にした彼女が様々な人ならざるものと呼ばれる異形のものや宿敵である祓師のライバルたちに出会い、恋に落ち、成長するというもので、繊細で壮麗なイラストと魅力ある木目細かいストーリー展開で人気を博していた。
だが、恋愛している暇など、わたしにはない。
閉鎖的な一族において、色なし子は迫害の対象である。
この六年、力を持たぬことゆえに蔑まれ、見下され、辛酸をなめてきたわたしにとって、今更他人に心など許せないのだ。
異能を開花したわたしにすり寄ってくるのは、かつて家族として愛し、仲間として信頼し、誇りに思っていた一族たちだった。
「信じていましたよ」
「流石、私の娘だ」
手のひらを返したかのようにわたしを慈しむ彼ら。
ええ、父上。
ええ、母上。
朗らかに笑うわたしは、けれど、忘れない。
己を見捨てた両親を。
中傷してきた仲間たちの辛辣な対応を。
貶めてきた一族の厭らしい嘲笑を。
――わたしは、決して忘れない。
じくじくと内側から腐敗していく。
微睡むような毒を孕んだ雰囲気が室内を支配する。
ゲームの必要なシナリオであるからと言っても、彼らがわたしを切り捨てたことは事実だ。
「はい、わたしは一族の名誉のためにがんばります」
この人たちは信用ならない、それがわたしの結論だった。
唯一の味方は一縷だけである。
けれど、彼には彼の人生があるのだ。
水埜蔵家は腐っていた。
名家であることの驕りと矜持が彼らの歪んだ選民思想を育んでいる。
わたしがあのとき、異能が開花されていれば、一縷は産みの親から引き離されることはなかっただろうし、この陰鬱な家に閉じ込められ、力ない義姉の傍にいることに強いることはなかった。
哀れで愛おしい義弟。
このまま、次期当主としての責任ゆえに自由を奪われながら、身を駆使して疲労していく姿を見たくない。
柵に雁字搦めにされたこの家では、綺麗で優しい稀有なあの子を穢す。
わたしは今まで一縷からいろいろなものを奪ってきた。
力がなく、愚かで脆弱なわたしを守ってくれた一縷。
過去は取り戻せない。
だが、せめて未来だけは、一縷は自由であるべきだ。
だから、わたしは当主になろう。
彼が自らこの先の選択を選べるように。
そうして、わたしは一縷を手放す決意をする。
+++
腰まで伸ばされた白にも似た淡い水色の髪。
薄い脆弱な皮膚。
青褪めているように見える血色の悪い唇。
陰鬱そうな凡庸な少女が鏡の向こうに立っている。
すべてが力なき弱者の証である容貌を持つわたしは、一縷に大層な心労を掛けてきた。
「……一縷、ようやく貴方を解放してあげられるよ」
鏡のなかの己に手を伸ばす。
指の先が倦んだ光を宿す双眸に触れた。
湖の表面を切り取ったかのように透明な青は、よくよく見ると淡い瑠璃色だ。
水で混ぜた薄っぺらい色なし子を表わすものだと言え、義弟と同じ瑠璃の色であることに口元が軽く釣り上がる。
そこに確かに水埜蔵に受け継がれる血の繋がりを感じた。
+++
機は熟した。
次期当主は紛れもない一縷だったが、元々力さえあれば、わたしが次期当主であったのだ。
権力にしがみつくことしかできぬ老害どもに手を回し、色なし子であるとは言え、歴代当主に匹敵する異能を開花させたわたしに敵はいない。
ぴんと糸を張ったように張り詰めた空気を纏った一室で、わたしと一縷が対峙していた。
「一縷、当主はわたしがなるよ」
簡潔な言葉だった。
口がカラカラと渇き、唾液を呑み込むと、わたしは一縷を見つめた。
「貴方は、自由なの」
――何にも囚われることなく。
「どういうこと?」
「今まで水埜蔵家に縛り付けてきて悪かったわ。このとおり、わたしは異能を開花させた。当主はわたしがなる。叔父上にも話は通してある。一縷、家に帰りなさい」
実家に帰り、柔らかな世界で今まで苦労した分、幸せになればいい。
叔父は一族のなかでも変り者として知られ、色なし子にも慈悲を与える男だ。
一縷のことも常に気にかけ、彼を子どもとして愛している。
本来なら、父と子として過ごす時間をわたしが取り上げてしまったのだから、これからは思う存分親睦を深めればいい。
「どう、して?」
わたしは眼を見開く。
一縷は昔からわたしの意見に異を唱えたことなどなかった。
いつでも、にこにこして、わたしの言葉に従う一縷が初めて己の意見を主張する。
「僕は、いや。ここに、遊里ちゃんの傍にいる」
「一縷、いい子だから。この家は一縷のためにならないの」
「なんで?僕が何かした?」
「何もしていないよ」
「ならっ」
――幼い頃からこの家に毒された一縷は、幸せを知らない。
堂々巡りの話し合いはお終いだった。
結果は決まっている。
一縷は叔父のもとに帰り、当主としての雁字搦めな責任を負うことなく、自由に生きていくのだ。
「一縷、もう決まったことなの。明日、叔父上が迎えに来るから荷物を纏めておいて」
「……ゆ、うりちゃんっ」
わたしはそのまま一縷の問いかけを無視して、部屋を出た。
翌日、叔父が一縷を引き取りに来た。
彼は静かな瞳でわたしを見て、「本当にいいのか」と問いかけてきた。
良いも悪いもない、こうすることが一縷のためなのだと答えると、一縷によく似た愛らしい顔をくしゃりと歪めた。そして、大きな手のひらでわたしの髪をぐしゃぐしゃに掻き乱す。
「…………どうしようもない、本当に大馬鹿だな」
わたしは自嘲した。
小さく呟かれた叔父の言葉は、わたしにとって最早何の意味も持たないものだった。
+++
何故だ。
世界が反転していた。
乙女ゲームとは、本来ヒロインが攻略キャラたちを攻略していくゲームである。
決して攻略キャラが攻略キャラを攻略していくものではない。
あまりにも想定外で、思わずゲシュタルト崩壊に陥りそうになりながらも、現状を見極めるために状況を整理してみる。
がんばれ、わたし。
やれば出来る子なのだ、わたしは。
眼の前には笑顔の攻略キャラの皆さま。
人間と人ならざるものの対立が当たり前のこの世界で、ギスギスの敵対関係で危うい均等で保っていた彼らが和気あいあいとボーイズトークというものを繰り広げている。
すごく楽しそうだ。
徒党を組むことを端から放棄したような性格の悪い傲慢な方々が少女のように頬を紅潮させ、あーでもない、こーでもないと言い争っている。
「まさか、プライドが高くて人なんか信用しない皆さまが、一縷の件でわざわざわたしに話があると言いますが、一体何なんです?」
多少ぶっきらぼうになるが、目の前で茶番を見せられていれば仕方がないだろう。
ここが乙女ゲームの世界だと言え、この人たちと恋をするつもりはない。
閉鎖的で悪意に満ちて育ったおかげか、どうにもこうにもわたしは対人関係において、一縷以外の人間は信用できないのだ。
火埜蔵正宗、残念系熱血美少年は口を尖らせて、不満げに顔を顰めた。
「大体、貴方たち、一縷の何なんですか?」
大きく息を吸い込むと、顔を真っ赤にさせ「と」という言葉を連続させている。
「お、俺たち、と、とととと」
「火埜蔵、深呼吸してください」
「す、すまん」
「いいんですよ。私たち、と、友達ですからね」
普段冷静な妖狐が舌を噛んだ。
気恥ずかしそうに銀のフレームの眼鏡のずれを直しているが、白々しい。
妖気も隠されているため、見えないが、絶対に白いふさふさの九尾がぶんぶん嬉しそうに振っているに違いない。
「そ、そうだよ、俺らは一縷のと、ととと友達だ」
「……はぁ、そうですか」
人間も人ならざる者も虜にする一縷。
徒労でこめかみを押さえたくなる。
要はこのひとたちは、一縷とわたしの仲を取り持ちにきたらしい。
わたしは一縷に常々、こいつらとは関わるなと伝えたはずだ。
頭がおかしいと思われてもいいと思った。
一縷の幸せのためならば、わたしが狂人だと思われるくらい我慢できる。
ここは乙女ゲームの世界で「火埜蔵」や「妖狐」を始めとする攻略キャラたちの性格と危険性などをくどいぐらい説明した。
殊勝な態度で頷いていたくせに、何故に攻略しているのか。
「こいつらは敵だと思っていた。と言うか、人類の敵だな。だが、実際こうして見て初めてわかったことがある」
「…………ええ、同感です」
「何を?」
「こいつらは悪い奴じゃない。付き合ってみたら意外といい奴らだった」
「ひ、火埜蔵」
妖狐が感極まって、ふるふると肩を震わす。
「だから、一縷が好きな女であるお前もきっと悪い奴じゃないんだろう」
断言である。
わたしのことも敵対していたはずなのに、この変わりようはなんだ。
――あんたら、一縷にメロメロすぎじゃないかい?
「一時停戦、それもよいと思ってしまったのですよ」
妖狐が照れたように頭を掻いた。
多分、その一言は、偽りなき彼の本音なのだ。
+++
一縷がいない。
友達もいない、仲間もいない、恋人もいない、いないいない尽くしのわたしは今日も乙女ゲームに勤しむつもりだ。
気を紛らわすためにやるものが、乙女ゲームしかないのもどうかと思うが、他には何もないので、ノートパソコンを取り出し、電源のスイッチを入れた。
考えるのは一縷のことだ。
一縷に最後に会ったのはいつが最後だっただろうか。
代わりに、うざい攻略キャラたちが家にまで押し掛けてくる。
彼らは一縷に絆されて、わたしに対応が面倒だと思わせるほど、暇さえあれば押し掛けてきた。
友人の恋を応援すると言う体でわたしに構ってきているが、よほど初めての友達付き合いが楽しいのか、確実にわたしを出汁に頻繁に集まって遊んでいるのは見え見えである。
「作戦会議」だの称して、お泊まり会や遊びの予定決めなどでキャッキャッフッフッしていることも知っているけれど、彼らの名誉のために知らないふりをしている。
孤独であることは淋しいことだ。
わたしは一縷がいたから平気だったけれど、彼らには誰もいなかっただろう。
優しくて穏やかな義弟は昔から誰の懐にも潜り込むことが上手かった。
もやもやする。
拒絶したのは確かにわたしだ。
でも、でも。
もう会いたくなっているなんて、わたしは一縷がいないと何もできやしない。
金平糖に蜂蜜をかけるぐらいに甘ったるくて、最悪な気分になって、外の空気を吸うために立ち上がった。
部屋を出ると渡り廊下になっており、そこには四季折々に季節を楽しめる木々と砂利が撒かれた中庭、小さな池には水面に映える蓮の葉が浮かび、風流な雰囲気を醸し出している。
庭師によって丹念に整えられていた庭はわたしの自慢だった。
縁に座り、月を見る。
うっすらと歪んだ残像が細切れ、空間が緩やかに切り裂かれていき、風が凪いだ。
「うむ、風流かな。善きこと、善きこと」
好々爺のごとく明朗な声。
油断した、この男の存在に気が付かなかったとはどれだけ朦朧としているんだ、わたし。
「ここ、結界完璧なはずなんだけど、なんでいるの?」
「我を呼んだろう?」
月を見ていただけで、この男を呼んだわけではない。
だが、月を長く見ていると命を取りにくるという逸話もある男だ。
全面的に迂闊だった自分に気付き、ちっと舌打ちした。
黒いスーツに白いワイシャツ、何とも現代的な服装である男は、桂男と呼ばれる攻略キャラのひとりだった。
俗世離れした神秘的な美貌は彼が人ならざるものであると知らしめる。
桂男は絶世の美青年であった。
「助言しに来たぞえ」
――あんたもか。
一縷に攻略されたのか。
胡乱な眼で見つめるわたしを余所に、カッカッと声を張り上げた桂男は口角を微かに釣り上げた。
「そなたにとって、一縷はどんな存在かえ?」
「……」
仙人の気質を持つ彼は千里眼の持ち主でもある。
心も容易く見透かす彼は深い闇を包み込んだ目でわたしを見た。
ぞくりと背筋が粟立ち、桂男の本気を思い知る。
一縷は、よくぞここまでこの男を誑し込んだものだ。
「で、本題は?」
「……一縷は、酒呑童子の坊やに会いに行ったぞ」
月が、陰る。
白みを帯びた月暈が池に映し出され、水面に木の葉が落ち、波紋を繰り広げる風景が何故か心を騒がせる。
あれは、駄目だ。
酒呑童子は人間では御することのできないキャラなのだ。
粗野で傲慢で狂気に満ちたあの男はドSだ。ヒロインの強さに惹かれ、反発していくツンデレでもあるが、他者には冷酷で残虐な設定だったはず。
「遊里様、一縷様がっ」
世界が真っ暗になる。
その言葉の先は聞きたくもない。
嫌な予感を否定してもらいたくて救いを求めるかのように睫毛が二、三度震えた。
だが、この場で唯一否定してくれるであろう男は既に月に融けて、姿を消している。
「…………っ、ちくしょう」
愚かなわたしを嘲笑うかのように青白い月が冴え冴えと光り輝いていた。
+++
消毒液の匂いが鼻につく。
水埜蔵の支配下にある病院ゆえに面接時間外であるにも関わらず、わたしは一縷の傍にいた。
一人部屋であり、深夜ということもあってか、陰鬱な空気が籠っている。
木製の丸椅子に座って、彼の目覚めを待つ。
白いベッドに横たわるのは、青褪めた顔で静かに眠っている少年だった。
数日会わなかっただけなのに閉じられた瞼の下にはうっすらと隈ができており、唇は艶をなくし、やつれていた。
痛ましいその姿に耐え切れなくなって、起さないようにそっと手を握る。
身動ぎひとつしないためか、酷く血色が悪い。
死体のように冷たい手、ああ、わたしがそうさせたのか。
ギリギリと唇を噛みしめた。
冷えた一縷の手をさすり、包み込むように己の手のひらを添える。
どのぐらい、そうしていたのか。
「どうして、泣いているの?」
「い、一縷。良かった、目覚めたのっ」
すぐにベッド際にあるナースコールに手を伸ばすが、わたしの体温が移ってほんの少し温かみを取り戻した一縷の大きな手がそれを遮った。
「誰が遊里ちゃんを苛めたの?」
目元に手を寄せると、温かな水が溢れ出し、ぽたぽたと白いシャツを濡らした。
わたしは泣いていたのか。
「…………なんで、酒呑童子になんか会いに行ったの?」
「僕のせいで泣いているの」
「人の質問に答えなさいよっ。…………し、心配したんだから」
「ごめんね、酒呑童子に会いに行ったのは友達になりにいったからだよ」
「……えっ?」
「遊里ちゃんは十六になったら異能を手に入れた。遊里ちゃん、教えてくれたでしょう?ここは乙女ゲームの世界なんだって。遊里ちゃんはヒロインなんだって。十六になったら攻略キャラたちと恋をするのでしょう?だから、僕が邪魔になった。僕を見捨てた。ずっとずっと一緒にいなければいけないのに。どうして、なんでなんでなんでなんで」
「い、ちる」
「遊里ちゃんはとても魅力的だから、酒天童子が遊里ちゃんに会ったら絶対に恋をしてしまうでしょう?他のみんなもそう」
「そ、そんなことのために?」
「そんなことなんかじゃないよ。それに、例え彼らが悠里ちゃんに恋をしなくても、万が一でも悠里ちゃんが僕以外の男に惹かれるなんて嫌だもの。攻略するなんてもっと嫌。だから、彼らとお友達になったの。みんな、僕の恋を応援してくれるのだって」
攻略キャラを悉く攻略する攻略キャラ。
ヒロインよりヒロインらしい彼にわたしはぼんやりと、本当のヒロインはこの男なのかもしれないと思う。
「遊里ちゃんがその気になっても、これでみんな攻略不可だよ」
「……この世界が乙女ゲームの世界だなんて電波的なこと本当に信じているの」
「遊里ちゃんが言ったんだよ」
「何、それ。私が太陽が西から昇ると言えば信じるの」
「うん、そうだよ。遊里ちゃんの言葉が僕のすべてだもの」
「……」
「遊里ちゃんが傍にいないのなら、僕は生きている意味がない」
「…………一縷は、馬鹿だ。大馬鹿だ」
「そうだよ、でも、そうしたのは遊里ちゃんだよ。僕が攻略キャラなら、僕はあの日、既に遊里ちゃんに攻略されてしまったもの」
「わ、わたしは一縷からすべてを奪ってしまう。わたしは一縷から家族を奪って、あんな腐敗した醜悪な家に縛り付けた。わたしが脆弱で異能を持たなかったゆえに、一縷に負担を押し付けた。これから先の未来も欲しいと言ったなら、わたしはわたしは」
――折角、逃がしてあげようと思ったのに。
なのに、どうして自分からわたしに囚われようとするの。
「くだらない」
ぎりりと掴まれた手に力が籠る。
痛みに眉を顰めた。
「いち、る。傷が開く」
「そんなくだらない理由で僕を捨てようとしたの?僕の家族は遊里ちゃんだけ。僕は遊里ちゃんだけが好きなのだもの」
「……い、ちる」
「腐敗して醜悪な家に縛られる?僕にとって、遊里ちゃんのいるところが僕の楽園だよ。だから、遊里ちゃんが負担になるはずがないじゃない。当主の座なんていらない。遊里ちゃんが欲しいのならあげる。遊里ちゃんが望むなら、僕は何でもする。会いに来るなと言われたから我慢した。でも、もう、い、や。遊里ちゃんがいない。傍にいない。淋しい。もう、いや」
「い、ちる」
「好き、好きなの」
「い、ちる、いちる。傷が開くっ」
「遊里ちゃん、お願い、僕に攻略されて?」
「わかったから、落ち着いてっ」
「ほんとに?嘘じゃない?ずっとずっと一緒?僕に攻略されてくれる?」
くしゃりと顔を歪めて、悲壮に満ちた一縷の姿に血液が逆流し、心臓が早鐘を打つ。
空気を求めて口をパクパクと開くが、上手く呼吸ができない。
わたしは一縷を守りたかった。
なのに。
ああ。
一縷の涙で潤んだ目元は仄かに赤く染まり、痛々しい。
ちっとも幸せそうではない。
いつもほわほわしているのに、今は悲壮感に暮れた死にそうな顔をしている。
(どうして、こんなに簡単なことがわからなかったのだろう)
くっと笑ったその仕草に一縷の肩がびくりと震える。
わたしの一挙一動に狼狽する彼が愛おしかった。
「…………わたしは、もうとっくの昔に一縷に攻略されている」
救いようのない女の性が心の奥底から湧き上がる。
なんて、馬鹿なわたし。
このぬくもりを一度知ったからには手放せるはずもなかったのに。
それはきっとわたしだけではなく、一縷も同じ気持ちなのだ。
「ほ、んと?」
ヒロインは彼。
攻略されたのは、わたし。
「本当だよ。もう、逃げない。ごめん、ごめんね。わたしも一縷がいないと生きていけない。わたしは身勝手だ。一縷を見捨てたくせに、また貴方の優しさに縋る。でも、一緒にいたい。わたしは、一縷が好きだよ」
「うん、うん、うん」
泣き笑う。
ああ、幸せだと彼が呟く。
幸せか、わたしが傍にいると幸せだと言ってくれるのか。
+++
互いの心臓の音が心地いい。
ずっとこのままでいたいと思ったが、一縷の傷口が気になる。
「一縷、傷が開いていたら大変だから。看護師さんを呼ぼう」
「いや、離れたくない」と甘ったるい鼻にかかる声で一縷は一蹴すると、わたしの首元に顔を押し付けてくる。
「大丈夫」
「うん?」
「大丈夫だよ、僕はかすり傷だもの」
「はっ?」
「だから、僕はかすり傷だから、本当は入院なんてしなくていいの」
「ちょっとごめん」
一縷の服を問答無用で結んであった入院服の紐を解き、綺麗に筋肉の付いた上半身が露わになる。ぺたぺたと触りながら、確認すると小さく腫れた傷口があった。
「……一縷、何故、こんなかすり傷なのに大袈裟に包帯なんて巻いて、ベッドで寝ているのよ?」
「桂男が包帯を巻いてくれたの。それに妖弧も念のため一日安静にしていなさいって。二人とも心配性だよね」
胸元を開放的に広げた状態で、照れもせず、一縷は無邪気に答える。
その言葉の意味がわたしの頭に伝わると、ぐぐぐ、と襟を持つ手に自然と力が込もる。
(わたしは、いつから一縷の容態が酷いのだと錯覚していた?)
思い起こせば、流れるような怒涛のごとき、この数日間。
あいつら、グルかっ。
「……ちゃん、遊里ちゃん」
「えっ、な、なに?」
はっと気付いたときには、薄い皮膚から静脈が浮き上がるほど強く拳を握りしめていた。そうして、一縷が心配そうにわたしを見つめていた。
「遊里ちゃん、どうしたの?」
「……何でもない。一縷が軽傷でよかったなぁって、ホッとしたの」
「よくわからないけれど、よかった。でも、本当によかった。遊里ちゃんが勘違いしてくれたおかげで、遊里ちゃんと僕はこれからもずっと一緒にいるのだものね」
あいつらの見え透いた策にも気付かない純粋な義弟。
ほんわかとして裏表もない素直な一縷に彼らも絆され、癒されたのがよくわかる。
「そうだね、悔しいけど感謝はするわ。…………でも、仕返しは絶対にしてやる」
「最後なんて言ったの、声が小さすぎて聞こえないよ」
「……いや、何でもないよ。一縷、あんたは、そうやってずっと純粋でいてくれればいいのよ」
「なぁに、それ。遊里ちゃんこそずっと純粋でいてね?」
一縷はやっぱり馬鹿だ。
何処をどう見れば、わたしを純粋だと勘違いするのか。
一度は一縷を自分勝手に捨てたくせに、ひとりでいるのが嫌で結局は受け入れている。
本当に純粋なのは、一縷なのに。
わたしがいなければ、あの性質の悪いあいつらに騙されてしまうのではないだろうか。
心配だ。
考えるだけで胃がキリキリして、胃薬が欲しくなる。
そう言えば、一縷は小さな頃から何処かほんわかしていて頭の緩い子どもだった。
(この子は、わたしが守ろう)
どれだけ過保護なのかと思うが、いかんせん最早性分だ。
そうと決まれば、一縷の腰に手を回すと解いた包帯を器用に巻き付けていく。
のんびりとマイペースな一縷には言い聞かせねばならないことがたくさんあるのだから、とっとと家に帰りたいのだ。
だが、慌てているからか、一縷の美しい肌を掠めるように指の腹が当たった。
「ふふ、くすぐったい」
一縷が、笑った。
何の憂いもない、綺麗な笑みだった。
一、二度、睫毛を瞬かせ、首をこてりと傾け、潤んだ瞳と定評のある自慢の眼でじっとわたしを見ながら、桃色の唇を綻ばせる。
そうして。
いつか聞いた軽快なリズムで奏でられる陳腐なアイドルの曲。
一縷が口ずさむのは、遠い昔に聞いていた歌だった。
わたしの下手くそな歌い方と違い、流暢に歌い上げる彼の綺麗な旋律。
笑みが零れる。
ああ、この世界は本当に愛で満ち溢れている。
知らず知らずのうちに、わたしの唇は一縷の調子に合わせて歌詞を紡いだ――。
完。