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可能性の獣  作者: 咲楽桜
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獣の覚醒

「夏希! 起きろ!」

 聞き慣れた声が、耳の側で似つかわしくない言葉で響いた。

 君島夏希は肩を強く揺すられ、ゆっくりと目を開いた。

 頭の中には睡魔の残していった残香が残っており、覚醒しようとする意識を煙に巻いている。

「夏希! 起きろって! 何だかヤバいんだよ!」

 その声には切羽詰まっていると言っても良い響きがあった。

 実篤は何をそんなに焦っているのだろうか。

 久能実篤、時代がかった名前の持ち主はイギリス人の母親を持ち、母親の遺伝子を多分に受けた薄い色の髪と肌を持つ白皙の美少年だ。

 ただし、性格は外見に似合わず強気で攻撃的、その柔和な外見に痛い目に合わされているのは何も男だけではない。

「ったく、っせーな! 人が気持ち良く……」

 聞きなれない声がする。誰だろう、と、夏希は睡魔の中で頭を巡らせた。

 どうせ夢なのだろう。夢の世界なら何者が出てきてもおかしい事はない。外人も芸能人も参加自由なのが夢の世界なのだ。

「誰だ! テメーは! ココぁドコだ!」

 野卑、と、言っても良いような響きだ。

「随分な寝起きの悪さだな。貴様の品性が下劣なのは見かけだけじゃないようだな」

 実篤の情け容赦ない声が何者かに向かって投げかけられる。

 良家の師弟、上品で触れれば枯れる繊細なガラス細工のような外見とは対照的に実篤の言葉には刺と毒があり、一度怒れば血を見るまで収まらない激情の持ち主だ。

「何だとテメェ! それが初対面の人間に言う言葉かよ! それにここぁドコだ! テメェが連れてきたのか!」

「知るか阿呆。貴様のような貧乏人をさらって金がたかれるか。どうせならお前が俺を拉致れ。もっとも保険証なしなら歩いて病院は出られないだろうがな」

 駄目だ実篤。夏希は内心で呟いた。敵ばかり増やしても何の益もない。

 君はそれでいつだって一人ぼっちだったじゃないか。

「止めろ!」

 言って夏希は飛び起きた。

 急に起き上がったせいか脳の奥が少し痛む気がする。

 目の前ではミドル級のボクサーのような体格をした黒のタンクトップの男と、高校のワイシャツとチェックのスラックスに身を包んだ実篤の姿がある。

 タンクトップの男は金色の染めた髪を逆立てており、あるのかないのか分からない眉の下で、大きな三白眼をぎらめかせている。

「……夏希?」

 タンクトップの男が夏希の顔に目を向けて気の抜けた声を出した。

 いきなりの事で夏希はタンクトップの男の名前を思い出す事ができない。

「やっぱ夏希かぁ~。てか、この失礼な奴は誰だ? 知り合いか?」

 眉を顰めてタンクトップの男が言う。顰めた所に黒い眉を描いてみて、夏希はようやくタンクトップの男が誰であるかを思い出した。

 中学時代の悪友、鮫島徹也だ。

 気は優しくて力持ちと言えば聞こえはいいが、気が優しい分頭が回らず、力持ちな分気が短い。

「実篤、徹也、取り敢えず落ち着いてくれ」

 言って夏希は二人の間に割って入った。

 筋肉質で長身の徹也と、細身のサーベルのような体つきの実篤の間に入ると夏希の身長は二人に比べて一回りほど低く見える。

 生来の猫っ髪で立てる事のできない髪は、冴えない顔の眉の上にわずかにかかっている。徹也ほど猛々しくないが、実篤ほどの品の良さもない。

 強いて言えば普通というのが一般的な夏希の評価だろう。

「何だ。夏希の知り合いか」

 フン、と、鼻を鳴らして実篤が言う。

「テメェ、随分な態度じゃねぇか」

 元々目が悪くて顰め面になっていたのが、ドスをきかせた顔立ちになってしまった徹也が凶悪な表情で言う。第三者が見れば間違い無く徹也を警察に通報するだろう。

「徹也、こいつは学校の友達で久能実篤。ホラ、俺の成績が良くなったのはこいつに勉強を教わったから。で、実篤、こいつが徹也。グレてた時、何かと庇ってくれたのがこいつ。悪い奴じゃないんだ」

「フン、夏希の代わりにブタ箱に入ったって友達か」

「ブタ箱じゃねぇ! 留置所だ! 俺をそこらのチンピラと一緒にするな!」

「違うのか?」

 馬鹿にしているのか、本当に分からないのか判別できない口調で実篤が言う。

「当たり前だ! バーロー! ブタ箱ったら前科者になっちまうじゃねぇか!」

「ほう、底辺の事はやはり底辺に聞くのが一番だな。夏希、勉強になるな」

「頼む実篤、徹也をそれ以上挑発しないでくれ。そしてさり気なく俺を巻き込まないでくれ」 

 夏希は実篤に向かって言った。実篤は好戦的な性分の男だが、無闇に喧嘩を売って回るような男ではない。

「夏希よぉ、何かコイツ随分じゃねぇか。ホントにお前の友達か?」

「根は悪い奴じゃないんだ」

 夏希は徹也に笑みを向けて言った。近くで見ると眉がなくなったのではなく、髪と同じ金色に染めているだけのようだった。

「何だ、それだと俺の表面が悪いみたいじゃないか」

「実篤がそれ言うかな……まぁ、二人とも、取り敢えずここは俺の顔に免じて。って言うかここどこか解ってる?」

 周囲を見回して夏希は言った。

 コンクリートの壁に挟まれた路地裏のようであるが、空はコンクリートが続いているのかと思われるような灰色で、路地の出口は白い靄がかかったようになっていてどうなっているか分からない。

 そして本物の路地と決定的に違うのは、路地に面してドアも窓もなく、ゴミ箱もゴミもない事だ。

 生活の臭いというものが全くしないのだ。

「どこだよ?」

 最初から考える事を放棄したような口調で徹也が言う。

「お前は知ってるのか?」

 訝るような声で実篤が訊いてくる。

「さぁ?」 

 夏希は首をかしげた。最近の出来の良いゲームなら路地にだって生活感を感じるものがあれこれと配置されているものだ。ここはゲームより風景が簡略化されている。  

 夢なのか、と、夏希は自問したが、夢にしては感覚が鋭敏すぎた。中学生の頃赤い髪だった徹也が金髪になって、眉まで染めて出てくるというのも想像を超えている。

 やはり何かが変だ。

「重力はある。空気もある。地球上である事は確かだろうが、この手抜きな景色は二十年前のゲームみたいじゃないか。どんな低予算の映画だってこんなセットは組まんし、そもそもそんな予算があったらまともな景色の場所でロケするだろう?」

「夢……とか」

 口元に笑みを貼り付けて夏希は言った。自分でも信じていないが、この際二人の諍いを止められるのであれば理由は何でもいい。

「そりゃ変だ。俺はこの実篤って奴を知らねぇし、夢ならどうして荷物持ってんだ? 置いて来るだろ、普通」

 肩から下げたメッセンジャーバッグを叩いて徹也が言う。

 言われて夏希は足元に目を向けた。

 そこにあったのは通学カバンだった。

「待て、俺達はいつここに来たんだ? このカバンがあるって事は俺は帰宅前だ」

 言いながら夏希は頭を巡らせた。いつ、ここに来たのか。

 今日は何月何日の何時なのか。

 夏希はパンツのポケットを探るとスマホを取り出した。

 スリープ状態を解除して画面を表示させる。

「7月21日だ。今日の昼飯だって言える」

 考えつくのが遅いとばかりに実篤が言う。

 夏希は記憶を探った。

「お前は観たいDVDが出たからって家に帰った。俺は塾があって塾に行った」

「そんな事は分かってる」

「俺は学校終わってから単車で本屋行って茶店寄って……」

 徹也がそこに答えが書いてあるかのように中空に目を向けて言う。

「メールが届かなかったか?」

 夏希は記憶を辿って言った。

 塾の講義中にスマホのバイブが震えたのだ。講義が終わってからでも良かったが、勉強に疲れていた事もあってこっそりと机の下で画面を見たのだ。

 夏希はスマホの画面をタッチすると着信メールを開いた。

 そこには何かの儀式で使うような、やや抽象的なタッチで人の絵が描かれている。

 木にぶら下がった人間の絵で、絵の下にはローマ数字で12と書かれている。

 THE HANGED MAN

 アルファベットを読んでこれはタロットカードだと夏希は理解した。

 これを見た記憶はないが、恐らく開けると同時に眠りに落ち、ここに運ばれたのだろう。

「ジャスティスって、これタロットだよな」

 不用心な口調で徹也が言う。

「貴様が正義とは世も末だな。俺は皇帝だ」

 勝ち誇った様子で実篤が口にした。

 なるほど、送られたメールのカードはそれぞれ別であるらしい。夏希は一瞬自分のカードを公開すべきかどうか迷った。

 正義や皇帝は彼ららしいと言えば彼ららしいし、良いカードだが、吊られた男はどうも良くない意味だった気がする。

 この先、カードによって何か影響があるのだとすれば、不利なカードは伏せておいた方が良いのではないだろうか。

 夏希は咄嗟にそう考え、実篤の自信に満ちた横顔を見て冷やりとするものを感じた。

 徹也は恐らく見たままを口にしているだろうが、実篤はそうとは限らない。少なくとも、面識のない徹也という人間を前に正直に言う可能性は低いのではないだろうか。

 それが悪いカードであればあるほど。

「夏希はどうだったんだ?」

 徹也の言葉に夏希は逡巡した。

 言うべきか言わざるべきか。

 だが、迷うだけ無意味だと悟った。

 確かタロットは20枚ほどあり、それぞれに意味があったはずだが、ランダムで送られてきたのであればそれに意味を求めるのはナンセンスだし、仮に実篤のカードがとても悪いカードだったとしても、その推測を立てる自分には裏付けとなるタロットの知識がないのだ。

「ハングドマンだってさ。確かタロットって20枚くらいあるんだろ? って事は20人くらいが受け取ってるって事かな?」

「迷惑メールだとして、一斉に送ったとしたらランダムである必要がない。それか二十何人かがそれぞれ一斉配信したか」

 実篤が顎を摘んだ。ちょっとした仕草ではあるが、それが一々絵になる所が面憎くもある。

「でもこのメール、いきなり映像で本文ねぇんだぜ。リンクも貼ってねぇし、何のために送って来たんだ?」

「不特定多数の人間に送ったものなら、拉致するのも骨が折れるだろう。第一ここは圏外だ。今の日本で人が住んでいて圏外の場所がどれだけある?」

「最初から拉致する人間は決まっていたとしてメールに何の意味があるんだ?」

「分かんねぇなぁ~。こういう時、名探偵がいるとスパッと解決すんだけどな」

 早くも考える事を放棄した様子で徹也が言う。

「圏外という事は送信元を手繰ろうとしても手繰れないって事だ。どうにも演出過剰じゃないか」

 強がりからか、実篤が不敵な笑みを浮かべた。

「でも時計は内蔵だから日時は合ってる事になる。時計が正しければ俺はまだ講義中だ」

「俺も単車で産業道路走ってる頃だ」

「アリバイらしいアリバイがないのは俺だけみたいだが、俺はDVD屋で旧作を物色してた。お目当てが全部借りられてたんでな」

 それより、と、実篤が周囲を見回した。

「そろそろここを出ないか? こんな所にいても埒が明かない。で、右と左があるワケだが」

「どっちに行くかって?」

 腕組みをして徹也が左右の路の先に目を向ける。

「どっちも同じにしか見えないけど」

 夏希は左右の路の先を見た。どちらも光に包まれているのか、それとも霧が濃いのか白々として先を見通す事ができない。

「お前ら二人揃って大間抜けだな。確かに三人寄れば文殊の知恵という訳だ。俺が居た事を感謝しろよ。お前ら、スマホの画面を路の先に向けてみろ」

 実篤に言われて夏希は画面を路の先に向けた。

 すると画面がくるりと反転し、上下の表示が逆になった。

「表示が逆……でも何の意味が……」

 夏希が首を傾げると徹也は深刻な事を告げるように低い声を出した。

「タロットってのには正位置と逆位置ってのがあるんだ。内容までは覚えてねぇが、タロットの意味が逆になっちまうって程のもんらしい」

「貴様、妙な事に詳しいな。が、俺が知っているのもそこまでだ。俺たちは右に出るか左に出るかで持っているカードの意味が変わるって事だ。良きにせよ悪きにせよな」

「だったら上向きのままでいいだろ? 皇帝に正義なら、逆になったらひどい意味になりそうじゃないか」

 夏希が言うと徹也は薄い眉を顰めた。

「俺たちはいいとして、だ。お前のカードは元々いい意味のカードじゃねぇ。内容までは覚えてねぇが、その……逆に行った方がいい意味になるかも知れねぇ」

「別に、ただのメールだろ? こんなもの一々気にするなんてどうかしてるぜ」

 夏希は迷いを振り払うようにして言うと正位置の方に向かって歩き出そうとした。

「夏希、これはただのメールじゃない。スマホのジャイロを使っているとしてもどうにも答えが出ない。スマホのジャイロ機能で絵が回転してるなら、俺達は壁面に立っていなきゃならない。何故ならスマホのジャイロは傾きを感知するようにはできているが、前後なんてものを感知するようにはできていないんだ」

 実篤に言われて夏希は背筋がゾクリとするのを感じた。

 確かにプログラム的におかしい。タロットだけが回転するのならAR系のプログラムで動かしている可能性があるが、それ以外の画面もそっくり回転するというのはプログラムで動かしているとは考えにくい。

「何だか気味が悪ぃな。タロットの意味……ったってオフラインじゃ調べられねぇしな」

「つまり、俺達をここへ連れてきた誰かは正位置か逆位置かを選べって言ってるんだ」

 不満そうに実篤が言う。状況が不透明にせよ、他人に運命が握られていると考える事に相当抵抗があるのだろう。

「だったら正位置で出てみよう」

 夏希は言った。三人のうち二人がそれで良い意味になるのなら、多数決にした所で良いに決っている。

「でも、それだとお前……いや、俺も意味知ってる訳じゃねぇから良く分からねぇんだけどさ」

「誰も何が起こるか分からないんだろ? だったら試すしかないじゃないか?」

「一人づつ行く、という手もある。一人が行って、安全なら次の人間を呼ぶ、というのが理性的じゃないか? 生存戦略的には」

 片目を閉じて実篤が言う。彼には思案しながら喋る時に片目を閉じる癖があった。

「生存って大げさな……」

 夏希が言うと実篤は首を振った。

「行った先に銃が積んであったらどうする? 一方に銃があって、もう一方が迷路だったら? とは考えられないか? 俺たちを訳の分からない方法で拉致して、スマホが圏外になるような所に放り出した相手だぞ? この通路の上だって、俺達からは見えないような角度で観察しているかも知れない。ゲームを放棄したらズドン、とかな」

 指先を銃の形にして実篤は言った。

「そりゃ何でも大げさすぎるだろ? 第一日本で銃なんか使えねぇだろ」

「警察沙汰にもせずに人を誘拐して、圏外の、こんなでかい施設に放り込んだ奴が銃の一つも用意できないと思うか?」

 実篤に言われて徹也は口ごもった。

 確かに実篤の指摘は正しい。スマホに正体不明のプログラムを入れた事を合わせて考えると、誘拐されたという事以上に大それた何かがあるのだと思わざるを得ない。 

「つまり、俺達は既に強制的に何らかのゲームに参加させられてるって事か?」

 夏希が言うと実篤はため息をついた。

「ゲームかどうか分からん。だから俺はそこのごま団子を先に行かせろと言ってるんだ」

「ごま団子って言いやがったか! どういう意味だ!?」

 徹也が声を荒げると、

「貴様は意味も分からんのに怒れるのか? 後学の為に教えておいてやるが、ごま団子は中国の菓子で文字通り団子をゴマで包んで揚げたものだ。日本人の癖に頭を染めているからゴマ団子みたいだと言っただけだ」

「テメェだって日本人だろが!」

「悪いな、俺はハーフなんだ」

 十人中九人を怒り狂わせる勝ち誇った笑みで実篤が言う。元々沸点の低い徹也のこめかみに血管が浮き上がる。

「二人とも止めろって! 分かった。俺が先に行く」

 二人の激突を制して夏希は言った。徹也は文字通りストリートでは敵なしのパワーファイターだし、実篤は勝利の為には手段を問わない上に格闘技の道場を3つも掛け持ちしている格闘オタクだ。どちらが勝つにせよ、相手が悲惨な事になるのは目に見えている。

「だったら俺が行く。お前にンな危ねぇ事させられっかよ」

 徹也が夏希の肩に手を置いて路の先へと足を踏み出した。

「徹也待て!」

 夏希が声を上げる間にも徹也は歩を進め、不意に姿を消した。

「え?」

 夏希は徹也の広い背のあった場所で目を彷徨わせた。

 魔法としか思えない。人の姿が目の前で忽然と消えたのだ。

「落とし穴か、それとも霧に映像を投影しているだけなのか……どちらにしても良かったじゃないか。アイツが単細胞で。これで俺たちには選択肢ができた」

「実篤ッ!!」

 実篤の冷淡と言えば冷淡な言葉に夏希は頭に血が上るのを感じた。

 実篤にとっては他人でも夏希にとっては徹也は友人なのだ。

「夏希の中学時代なんて黒歴史だろ? さて、残るは逆位置だが……」

 夏希は平然とした様子の実篤の肩を掴んだ。

「おい!」

「何だ?」

 煩わしそうな実篤の顔を夏希は睨んだ。

「黒歴史なんかじゃない! 取り消せ!」

 夏希は中学時代一時期不登校になり、暴力的な少年たちとつるんでいた時期があった。

 小学校からの友人で路上の先輩だった徹也は、その時何かと夏希の世話を焼いてくれた。世間的に見ればグレていた時期だが、彼らとの間に友情は存在したし、路上でなければできない多くの経験も積む事ができた。

 最期の警察の路上少年一斉摘発の時も、彼らは夏希は学があるから、俺達の出世頭になって自慢させてくれと言って逃がしてくれたのだ。

「俺が夏希をヤンキーどもから助けだしてやったんじゃないか。俺が手を貸さなきゃお前も今頃負け組だっただろ?」

 夏希の手を払いのけた実篤の手を、夏希は掴んだ。

 確かに不登校になってから、夏希の所にやってきて強引に勉強させたのは実篤だった。そのお陰で今があるのだが、だからと言って徹也たちを見下すような言動は許せない。

「負け組とか言うな! 人生に勝ち負けなんてあるかよ! 実篤に何が分かるって言うんだ!」

「分かるね。人生に勝ち負けがないなんて綺麗事を本気で信じてるのか? いいか、俺も負け組なんだよ。生まれ落ちたその時にそう決まったんだ。同じ負け組でも少しはマシでいたいだろ?」

 掴まれたままの腕で実篤が夏希の胸ぐらを掴んだ。いつになく険しい瞳が夏希を射る。

「誰がそんな事決めるんだよ!」

「金だよ。俺たち公立のガキが将来何になれるってんだ? そりゃ東大にでも行けりゃ人生も変わるだろうさ。でもな、俺ン家にゃ大学に進学するような金なんてねぇんだよ。自衛隊なら曹長止まり、警察なら警部補止まり、高卒でキャリアで一部上場に就職できるか? 世界ってパイは俺たちが生まれた頃にゃとっくに切り分けられてて、俺たちは割り当てを食う事しかできねぇんだよ」

「そんな事分かるかよ! 貧乏人だって偉くなった人は幾らでもいるだろ!」

 夏希が語気を荒げて叫ぶと実篤は冷めた笑みを浮かべた。

「そんなお伽話を信じるから庶民は馬鹿にされるんだ。人口が一億人を超えるこの国で、サクセスストーリーが幾つ生まれている? みんなが知ってる成功者ってのは数が少ないから顔や名前が大衆に覚えられるんだろ? 誰でも成功できる国なら、逆に億万長者になったヤツの顔なんか一々覚えない。一人の成功者が生まれるその下で数千万人という人間がでかいジューサーで血を搾り取られてるんだ。そして権力者ってのは生まれながらにそのジューサーを持ってて血を浴びる程飲めるヤツの事を言うんだ」

「初めからそんな風に諦めてて成功なんてできない! 人は誰だって希望を持てる筈だ!」

 夏希は努力家で、学力も運動神経もずば抜けている実篤の言葉に納得する事ができなかった。努力が認められる事は彼自身がその身で証明しているではないか。

「希望なんてものがあるからおめでたい馬鹿共が喜んでジューサーに飛び込んでいくんだ。希望なんてのは痛みから目を背けさせる為に為政者が作った麻薬に過ぎない。お前も現実を直視して賢く生きろ」

「それが事実だとしても、その絶望的な現実を甘んじて受け入れる義理も道理もないはずだ! お前の言う希望が作られたものなら、その絶望もまた作られたものにすぎない! 人の作ったものが人に変えられない筈はないんだ!」

 夏希の言葉に実篤は一瞬驚いたように目を見開いた。

「なるほど、そういう考え方もあるか」

 言って実篤は片目を閉じて何事か考えるように口を噤んだ。

「確かに、両親が居て、マンション住まいで、塾にも通えるお前ならそういう甘ったれた発想も持つか」

 負けず嫌い、と言うにはあまりに黒い、瘴気にも似た何かを感じさせる言葉だった。 

「一つ告白しよう。俺は放課後毎日道場に通ってると言っていたが、お前は俺が道場に通う所を見た事はあるか?」

「隣町の親の知り合いの道場なんだろ?」

 圧倒的に喧嘩が強いので、実篤が道場に通っている事を夏希は疑った事も無かった。

「俺がガキの頃から行ってたのは風俗だ。金の為に身体売ってたんだよ。喧嘩はケツ持ちのヤクザから教わった。俺は格闘技の事なんて何も知らないんだよ」

 自虐的な笑みを浮かべて実篤は言った。

「そんな……」

「俺のお袋が外人ってのは本当だ。イギリスの英会話教師じゃなくてロシア人の娼婦だけどな。それがクズ相手に作ったガキが俺だ。親父が生きていた頃はお袋の稼ぎはみんなギャンブルでスッちまったし、親父が死んでからはお袋に仕事が回らなくなった。外人より若い日本人の方が人気あるからな。でも、お袋は稼いでいた頃と同じ金遣いですぐに借金まみれだ。どうすりゃいいか、どうなるか考えるまでもないよな? 美形の少年がどれだけ高く売れるか、金を貸す方もそれくらいは計算してる」

 実篤の視線が険しさを増した。それはプライドの高い実篤が自身の身の上を恨むに充分な境遇だ。

「……今まで……そんな事一度も……」

 夏希は言葉を失った。学力優秀スポーツ万能の絶対皇帝の素顔がそんなものだとは想像した事もなかったのだ。

「お袋は風俗で働いてる。だからさ、だから息子もダメなんだと言われないように、俺は強くならなきゃならなかった。誰よりも強く、誰よりも賢く……でも、それが自己満足にしか過ぎないって気づいちまった。そりゃそうだよな、俺を褒める大人はヤクザしかいないんだからな。体面を繕う相手さえ底辺なんだから嫌でも悟らせられるのさ、この世の仕組みってヤツをな」

「……俺にお前の身になって考える事なんてできない。でも、諦めたらお前だってその底辺になるんじゃないか? 歩く事を止めたら前には進めない、世界を憎んで、自分を憎んでもいい。でも、誰かの心の中で光り輝いていたら光を失った事にはならない。太陽が憎しみで煮えたぎっていても、その光で人間は生きていける。太陽が人間の感謝に気付けないなら、それは欲しいものが途方もなく大きいからだ。大金持ちにならなくても、記録に残らなくても、人に愛される事はできる。自分が足元に目を向けられないならそれは目標が高いんじゃない、自分が傲慢なだけだ!」

「だったらお前はこのどん詰まりの世界ってヤツの中で、何者かになれるのか? 人を守り、愛される事ができるのか? 愛も友情も力があればこそだ。そして力の源泉は大衆の好きな努力だの人情だのからは生まれて来ない。いいか、力は金の詰まった金庫からしか生まれんし、力が無ければ金は手に入らないんだ。お前と違って俺はいくら足掻こうが何者にもなれないって事を血が滲むほど思い知ってんだよ」

 強気な言葉と裏腹に実篤の顔には痛みに耐えるかのような苦い表情が浮かんでいた。

 夏希は実篤の手に自分の手を重ねた。

「実篤、気持ちが分かるとは言わない。でも、それが他人を見下したり傷つけていい理由にはならない。そしてそれは強さじゃない、弱さだ」

 夏希は実篤の手を強く握りしめた。言葉で伝わらなくても、体温で伝わるものもあるはずだ。

「分かってるさ……俺が他人を見下したり、傷つけなきゃ自分のアイデンティティも守れないほど哀れな存在だって事は……でも……それでも」

 夏希の襟を掴む実篤の手から力が抜けた。

 憑き物が落ちたように表情から険が取れ、すとん、と、音がするかのように実篤の身体が膝から地面に落ちかかった。

 咄嗟に夏希は実篤の身体を支えた。

「哀れじゃない、実篤がどんなに自分を蔑もうと、実篤は俺のヒーローだ。聞かなかった事にするなんて都合のいい事は言わない。でも、それでも実篤がヒーローでいつづけたいと思うなら、俺は足場にでも土台にでもなってやる」

「優しいな、夏希は……」

 消え入るような言葉が途切れると、支える夏希の腕から実篤の重みが消えた。

 否、地響きと共に地面を割って突然出現した、巨大な手が実篤の胴を掴んで上へと伸びたのだ。夏希が見上げる間にも、鉄の鎖がぶつかり合う金属音と共に全身を鎖で雁字搦めにされた巨人の身体が大樹のように地面から天へと伸び、自由の女神の聖火のように実篤の身体を掲げた。

 実篤のただでさえ白い顔は能面のように血の気を失い、意識を失っているかのようにその身体は人形のように揺れていた。

『ホント、救いようのない偽善者。世界がお前のようなヤツで溢れているから世界はハイエナどもの餌場に成り下がっているんだ……貴様は本当に愛おしくて汚れのない……世界の病巣だ』 

 巨人の顔を覆う、白い、美術の時間に見たダビデ像の顔を思わせる仮面の半分が崩れ、そこから覗く闇の中から声が響く。

 夏希は自分の足が震えるのを自覚した。巨人を縛る鎖だけで自分の腕ほどの太さがある。

 闇からの声は四方から迫るかのように大気を震わせ、その威圧感は巨人を中央に据えた魚眼レンズのように路地を歪ませていた。

 ……バケモノだ……

 夏希は自分のカチカチと歯の立てる音をどこか遠くに聞きながら巨人を呆然と見つめた。

 こんな巨大な生物を夏希は生まれてから一度も見た事がない。巨人が一歩足を踏み出せば自分は簡単に踏み潰されてしまうだろう。

 自分の足は現実離れした光景を前に否定するかのように小刻みに震えている。

 死ぬのか。ここで踏まれて。

 恐怖で戦慄く身体を叱咤するようにして巨人を見上げる。

 目があるのかないのか。仮面の内側の黄泉への入り口のような暗黒から冷えた瘴気が漏れ出し、自分から熱を奪って腐らせてしまうような錯覚すら感じる。

 でも、だけど、それでも。

 唇が震え、冷たい汗が喉を伝うのを感じながら。

 実篤を助けなければならない。

 夏希は口を引き結んで巨人の顔を睨んだ。蝋で塗り固めたかのような青白い肌のところどころが透け、モザイクのように苦悶する実篤の姿が浮かんでる。それは夏希の知らない実篤の人生の瞬間瞬間を切り取ったものだった。巨人は実篤を食っているのだ。

 俺はここで死ぬかも知れない。

 訳の分からない所に来て、訳の分からない巨人を前にして。

 恐怖で冷えていく四肢の頼りなさを感じながら、それでも夏希は胸の一点に小さな温もりを感じた。

 巨人の顔の暗黒の引力に身体の力という力が奪われ、まだ何の抵抗もしていないというのに意識まで奪われそうになる。

 しかし実篤を残して逃げる訳には行かない。

 訳は分からないが、それが自分の生きる証なのだと、命を度外視して戦う事が自分に与えられた使命なのだと、夏希は半ば本能的に悟った。

 生きる事とは逃げる事ではない。立ち向かう事なのだ。

『逃げろ、さっさとさっきのガキの後を追え、この世の闇から目を背け、欺瞞に満ちた道を行くがいい』

「行ってやる……行ってやるよ」

 夏希は吐き出すように低く言うと、

「でも行く時は実篤も一緒だ! 俺たちはどこまでも一緒だ!」

 叫びと同時に身体の中にあった小さな温もりが爆発した。その温もりが四散すると、すっ、と、強い貧血のように全身の力が抜けた。

 身体を抜けだした温もりは、光り輝く小さなウサギの姿を取って床に降り立つと夏希を振り返った。

 それは前に一度見た事があった。

 中学時代、小学校時代の友人だった徹也と路上で再会する少し前。

 クラスでいじめにあって、自室で手首にカッターの刃を当てた時。

 その時自分から飛び出した何か。

 夢や希望や、そういったものの源となる、人が生まれながらに持つ……

―可能性という名の獣―

 そのウサギの姿をした何か。

―その時、消えて欲しくない一心で呼んだのだ―      

「春菜!」

 妹の名前、自分が放り投げたボールが取れなくて、道路に飛び出したまま帰らぬ人となったたった一人の兄妹の名前。

 自分を縛り続ける罪の意識。

 自分の四肢から矢のように飛び出した鋼鉄の鎖がウサギを縛り、ウサギの内部で膨張する熱が蝶が蛹から羽化するようにウサギの背を引き裂いていく。

 漏れだした光が質量を伴って床の上で形を成そうとする。

 殻を破って出現した、光の結晶である背中を丸めて屈んだ人間の姿をしたものに、四肢から伸びる鎖が縛るのではなく守るように巻き付く。

 鎖の一節一節が光の粒子となって人型の全身を輝かせる。

 それは魔法と呼ぶにもあまりに現実離れした光景だった。

『導きなく、自らの力で可能性を手繰り寄せたか……』

 一瞬笑ったようにも見えた巨人が、空いている左手を振り上げた。

 鎖は西洋の甲冑かロボットの装甲のように人型を包み、最期に頭の上に二本のウサギの耳をかたどったような装飾を出現させた。

 目があると思われる顔面の装甲のスリットからウサギの目のような紅玉色の輝きが溢れる。

 流線型の白いボディの表面をLEDのような燐光が走り『THE HANGED MAN』の文字を描く。

 戦える。

 根拠なく、夏希は確信していた。

 目の前でハングドマンが心に思い描くように防御の姿勢を取る。

 と、巨人の手が一番上に上がると同時にあらゆる光が巨人の左手に吸い込まれた。

 景色が暗黒に包まれ、ハングドマンはおろか、前後左右さえ認識する事ができない。

 しかし、夏希は巨人の姿を認識していた。

 自分の目ではなく、ハングドマンの赤い目で。

―見える―

 ハングドマンが身構え、そこに暗黒をまとった巨人の左手が暗黒の竜巻となって振り下ろされる。

 暗黒に触れたハングドマンの腕がミキサーにかけるように粉砕され、闇の中へと吸い込まれていく。

 夏希の左腕から血が吹き出し、激痛が全身を駆け抜ける。

―吊られた男、それは自ら人間の原罪を償う咎人、全ての痛みが生まれ還る場所―    

 脳裏で言葉が閃くとハングドマンの失った左腕に暗黒の腕が出現した。

 ズタズタにされた左腕から熱が奪われ、全てを凍てつかせるかのような闇が全身を侵食する。 

 あの暗黒は巨人の武器であると同時に身体を蝕む存在でもあるのだ。

 巨人の左腕の暗黒がハングドマンに乗り移り、ハングドマンの左腕となった暗黒が巨人の左腕を粉砕する。  

 巨人の受けた傷がハングドマンに跳ね返り、既に失った左腕に更なる痛みを刻みこむ。

 傷だらけの夏希の左腕がありえない方向に捻じれ、激痛が脳髄を駆け上がる。

「……ッ……アアッ……」

 夏希は歯を食いしばったまま絶叫した。

 左腕の痛みが全身の神経を超電導のように駆け回り、顔の半分まで侵食した暗黒が身体を凍てつかせる。

「夏希! 逃げろ! 俺の事はいい!」

 意識を取り戻した実篤が叫び声が夏希の鋭敏な耳に届いた。

「ふざけるな! やっと俺もいいカッコができそうな所なんだ」

 暗黒で凍えて動かない顔の半分を無理やり歪めるようにして夏希は吐き捨てた。

 ハングドマンの赤い目で巨人の顔を見据える。

 暗黒を失いつつある巨人の顔が石膏のような仮面で修復されていく。

 対してハングドマンのマスクは半分が砕け、中が暗黒で満たされていく。

 暗黒に意識を持って行かれそうになりながら、夏希は戦う事に意識を集中した。

 ハングドマンのゴムのようにしなやかな足が地面を蹴り、路地の左右の壁を蹴って上空へと、巨人の顔めがけて跳び上がっていく。

 暗黒から生まれる憎悪と闘争心がチリチリと夏希の脳を刺激し、吐く息から瘴気が漏れ出す。絶望、孤独、怒り、悲しみ、妬みが絵の具を落とした水のように心の中で混ざり合い、魂を淀ませていく。

 実篤を掴んだ手でハングドマンを殴りかけて、暗黒に粉砕される思ったのか巨人の手が止まる。

 ハングドマンの身体が一直線に巨人の顔へと向かっていく。

 暗黒の左手で巨人を粉砕してやる!

 一瞬脳裏を過ぎったどす黒いその破壊的な感情を夏希は押さえ込んだ。

 巨人からすれば消しゴムのカスのようなハングドマンが暗黒に飲まれていない右腕を振りかぶり、仮面に向かって殴りかかる。

 と、城門のような巨人の口が開いた。

 バツリ!

 ギロチンが落とされたように肉と骨とが瞬時に噛み砕かれ、引きちぎられる音が夏希の右腕を駆け抜けた。

 激痛すら凌駕する漆黒の意識が脳を痺れさせ、ハングドマンのマスクのスリットから光が消える。

 思考の全てが暗黒の激流に飲まれようとする中で、夏希は意識の残滓で渦巻く暗黒の底を見据えた。

 生きとし生けるものの業が幽鬼となって犇めき、闇に満ちた怨嗟の声がその影を更に濃くしていく。

 夏希の意識は無間地獄に落とされた蜘蛛の糸さながらに闇の奥深くへと沈んでいった。

 救いを求める飢えた幽鬼が全身に絡みつき、その肉の一片までをも貪ろうとする。

 闇が身体を乗っ取ろうとするかのように肉を喰らい骨を侵食する。

―闇に食われるのが俺の定めなのか― 

―吊られた男とは地獄に吊るされた、亡者を慰める供物に過ぎないのか―

 内側から闇に侵食され、内側へと砕け落ちていくハングドマンの装甲を見つめ、夏希は悲しみを覚えた。

 暗黒は自分を食い尽くしてもすぐに渇き、飢えに苦しむだろう。

 食いつくされれば自分は何も感じなくなるだろうが、暗黒は救われない。

 光がなければ闇もなかったものを。

 ハングドマンはマスクの一部を残して崩れ去り、その影から伸びる無数の小さな黒い手がマスクの欠片に手をかけて闇へと引きずり込もうとしている。

 食われて自らも幽鬼となり他の誰かを闇に引きずり込む事になるのか?

 永遠に?

 失いかけの意識の中で夏希は問いかけた。

 この世の全てが食らわれたら闇はどうするのだろう?

 キリストは人間の罪を神に償う為に死を選んだと言うが、それは正しかったのか?

 吊られた男が供物で、キリストを示すものなら。

―過ちを繰り返すのか― 

 夏希は目を見開いた。神の子の自己犠牲で罪人は免罪符を手にするかも知れないが、それは欺瞞でしかない。罪は他人が償えるものではない。それは罪人に一時の気休めを与えるに過ぎない。

 もし本当に神が存在するなら、救世主は人類の滅亡をほんの少し遅らせたに過ぎない。

 砂漠に放り出された人間に水筒の水を与えた所で、すぐに渇いてしまう。

 水が尽きたら人はどうするか。

 死にたくなければ土を掘り、水脈を見つけなければならない。

―簡単な事なんだ― 

 希望が無ければ人は希望を生み出さずにはいられないのだ。どんなに闇が濃くなっても、その底に落ちた者は光を放たずにはいられないのだ。

 結果、生きる事になるか死ぬ事になるか分からなくとも。

 どんな闇も光があればこそなのだ。

 そして命ある限り、どんなに深い闇も星空のようにその中には輝きを秘めている。

―それが人間……可能性という名を冠した獣……―

 夏希の消えゆく視界の先で、ハングドマンを喰い尽くした闇が地面の上で小さな水たまりとなって渦を巻く。

 闇が互いに喰らい合って、小さな点に吸い込まれるように急激に縮んでいく。

 夏希には感覚的に巨人がもう自分を意識していないのが分かった。

 自我を喰い尽くされ、闇と一つとなった夏希は身体を離れて闇と喰い合い、君島夏希という肉体はただの肉塊になっていた。

 暗黒という集団個の一部となり、縮んでいく闇の水たまりの中で、針の先程の穴の向こうに巨人が見えていた光の穴も遂に閉ざされた。

 光は潰え、闇という個すら失い、時と空間という歯車の潤滑油となって消費され、存在が消滅していく。

 見えず、聞こえず、感じず、世界が存在しているのかどうかも分からない。

 一切の感覚の消滅した虚無の中では闇ですら存在する事ができない。

 無間の静寂の中、群衆のようだった暗黒の意識が、過酷な環境で原生生物が結合して生き延びようとするかのように、一つにまとまっていく。

 互いに喰らい合う事しかできなかった闇も、存在を保つ為には相手の存在を感じなければならない。互いを必要とし、力を合わせなければならない。

 そして光が灯った。

 それは小さな光だったが、遮るもののない空間ではそれで充分だった。

 光の征く所闇は無く、虚無を平らげて光はその輝きを増した。

 光は虚無を貫き、信号となって神経回路を駆け、肉塊に命の火を灯した。

 光に打たれた心臓から血液が吐き出されて全身の筋肉を活性化させ、両腕の傷から暗黒の残滓を体外に放出する。

 夏希は閉じていた目を開いた。

 どれくらい意識を失っていたのであろう、数秒間か、それとも数時間か。両腕をだらりと下げたまま立ち上がった夏希は再び暗黒を纏い始めた巨人を見据えた。

 実篤は蝋のように生気を失って全く動いていない。

「実篤を離せ!」

 巨人の顔は漆黒の闇を湛えた穴と化し、そこから遠雷のような音が響いた。

『誰……だ……』

 声というより音に近い響きを漏らし、巨人の顔面の暗黒から無数の細い腕が夏希に向かって伸びた。

「その傷、その痛み、俺が引き受ける! ハングドマン!」

 暗黒の腕と夏希の間で光が渦を巻き、両腕を失ったハングドマンが姿を現す。

 そのマスクのスリットの赤い輝きは心なしか以前より強い。

 硬質のマスクを軋ませ、ヒビを入れる音を立てて暗黒がハングドマンに吸い込まれていく。

 夏希の額が割れ、溢れだした血が顎まで伝って床に滴り落ちる。

 傷は負ったが、暗黒が夏希の意識を侵食する事は無かった。

「実篤を返してもらうぞ!」

 ハングドマンの体内に取り込まれた暗黒が光に圧縮されて鍛えられ、両腕のあった場所で漆黒の刃を形成する。

 巨人が雷鳴のように鎖を鳴らしてハングドマンに殴りかかる。

 巨人の拳が届くより早く、ハングドマンの暗黒の刃が鞭のように巨人の腕に巻き付いて寸断する。

 暗黒を吸い取られ、半分ほど仮面を取り戻した巨人が痛みからか天を仰いで咆哮する。

 ハングドマンが疾風のように地を駆け、暗黒の刃で巨人の股の間を駆け抜けながらアキレス腱を切断する。

 叫んだまま巨人が地響きを立てて仰向けに倒れかかる。

 ハングドマンが俊敏な動作で弧を描いて駆け、実篤を掴んだ巨人の右手を切断する。

 切り落とされた巨人の腕が消滅し、実篤の身体が落下する。

 両腕が上がらないまま、夏希は落下する実篤の下に滑り込んで受け止めようとした。

 命の宿った肉の重みが夏希の腹を打って骨を軋ませる。

 夏希の視線の先で、両腕を失い、万の管楽器を吹き鳴らしたような音で絶叫した巨人が、不意に内側から爆発した。

 血と肉が濁流のように折り重なる実篤と夏希の上を吹き抜け、路地の壁と地面を押し流して視界から消えていった。

 世界は透明で暖かな空気に包まれていた。

 上も右も左もどこまでも青く澄んでいる。

「夏希!」

 実篤の元気そうな声を聞いて、夏希はハリウッドの二枚目スターのように唇の端を歪ませて笑みを浮かべた。

「何だよ。随分元気そうじゃないか」

「似合わん顔はするな。ったく、無茶しやがって」 

 二人は水に落とした金槌のように、ゆっくりと中空を落下して行った。

 二人の眼下には空中に浮かぶ蓮の花のような部屋と、その中に居る徹也と数人の男女の姿があった。


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