第一章-B
深く濃い、乳白色した雲海の中、たった一本の跳ね橋が城門まで続いていた。
遥か上空にあるこの天球城では、雲を眼下に見ることができる。
メサルティム神聖帝国の、皇族たちが住まう城。
天を貫いた真っ白な城壁は、銀の光を反射し、輝かしい威容を誇っていた。
天辺から手を伸ばせば太陽に届くのではないか。そんな勘違いさえしてしまいそうになる。
黒の開襟型の軍服を着たクロノスが、橋を歩いて渡っていた。袖には階級章たる金線が入っており、軍帽には元老院所属特殊工作兵のマークがあった。
赤茶色した金属製の、凹凸のまったくない道。
橋架の下から吹き上げる風が、長い銀髪をさらっていく。
足が痛い。
長らくパリス内での生活が続いたせいか、体を動かすのが億劫になっていた。
遮ることのない太陽の光も厄介だ。クロノスの額には汗が滲み始めていた。
一時間ほど歩いてやっと城門に到着した。
見張りの兵らに挨拶して、噴水のある中庭に出る。初代皇帝の像のまわりにたくさんの花が咲き乱れていた。小さな白い花だった。
百夜香と呼ばれるもので、高地にしか咲かない稀少種だ。
天球城は南北に10キロ、東西に10キロと、歪な正方形の浮島の上に建造されている。オペラハウスや湖すらあり、それら全てが皇族のために作られたレジャー施設だ。その昔連行されてきたエルミラ3000人での大規模工事だったらしい。
神族3000万の頂点に立つ皇帝の威光を遥か彼方にまで示すためか、細やかで華美な意匠の建築物が多い。
クロノスがそっと崖の上から浮島の下方を見てみる。すると真っ黒な軍事要塞がこんもりと地上に影を落としていた。
上辺で華美な貴族風建築を、下方では脅しを込めた大砲を何千門と構えている。
壮麗さと恐怖との矛盾。
このパラドックスが今の帝国そのものと言えるだろう。
ふと湖の向こうを見ると、また工事をしている。100人ほどのエルミラが木材を綱で引いていた。ルキナ皇女の新しい寝所作りのための工事だ。
皇女自身は「いらん」と拒絶したものの、元老院が予算の都合上作ることに決めた余計な建物。
「…………」
クロノスの瞳に影が落ちた。
昨日自分が狩ったエルミラたちも、きっとあの連中と一緒に働かされることになる。
もうじき暑くなってくる。炎で焼けた鎖を全身に纏っているかのような暑さだから、炎鎖の季節とメサルティムでは呼んでいる。
工事現場では相変わらず、下級神族がエルミラに鞭を振るっていた。
皮膚が切れそうな鋭い音がここまで響いてきていた。
(俺に同情する権利なんてない。……俺は神族側の人間で。こうして見て見ぬふりをしているだけなんだから)
葛藤もしこりも心に残る。
だが、クロノスに彼らを助けてやる術など、どこにもなかった。
しばらく北西に歩いていると、レジャー空間にも終わりが訪れた。
天球上の一部に、帝国旗とは違う水色の雫を模した旗が現れる。
宮中神官の管理区内に入った証だ。
きちんと整備された並木を抜け、やがて巨大な白亜の神殿が現われた。
八階建ての荘重な建物で、数千年前から変わらぬ姿で存在していると聞く。
時の法王イノク三世が住まい、帝国のありとあらゆる儀式は、ここで行われる。
もちろん、勲章授与式も例外ではない。
(やれやれ。やっと着いたか。随分と遅刻したが構わないだろう)
ゆったりとしたペースで、白い大理石の上を歩いていく。軍靴の規則正しい音が、反響してきた。
儀式は聖堂で行われる。
クロノスは叱りつけられる覚悟を決めて、扉に手をかけた。
「き、貴様は半神半人のっ! ええぃ今まで何をしていた!」
知らない神官が顔を真っ赤にして怒鳴ってきた。
クロノスは少し顔をしかめて見せる。
(これは……まずいかもな。式がこんなに早く進められているとは思わなかった)
中に入ると、もう儀式は始まっていた。というか、もう終わりかけていた。
クロノスが中々来ないせいで、式が遅延していたのだ。
ステンドグラスの七色の光の下。
10人程度の男女が、ルキナの前に跪いている。いずれも軍人で、最近武功をたてた者たちばかりだった。
皇女がこちらに気づき、静かに微笑んだ。
(…………)
気のせいか、空気が重い。
背中に冷や汗が流れる。重さがないはずの流体魔素が、まるで鉛に変わってしまったかのようだ。
まずい。
これは怒っている。
素早くルキナの前に並び、皆と同じように跪いた。
周囲の視線が痛い。「あいつこんな大切な儀式に遅れやがって」「半神半人はこれだから」「しっ、儀式の最中だぞ」「皇女は怒ってらっしゃるな」「そりゃそうよ」「あいつ誰だ?」「皇女とどんな関係なんだ?」といった声が、ぼそぼそ背後の参列者の中から聞こえ始めた。
ザワザワと煩わしい。「静粛に!」勲章を台に持つ神官が大声で怒鳴る。城にいる神官と言えば、かなりの権力者だ。彼らに睨まれでもすれば、帝国で生きていけなくなる。
「…………」
参列者たちが一斉に黙る。
皆教会という組織が恐ろしいのだ。
だが―――クロノスには、皇女の無言の笑みの方こそがよほど恐ろしかった。
「クロノス・フォマルハウト。ただ今任務より帰還いたしました。遅れて申し訳ありません」
言い訳だった。
本当は早朝に帝都には着いていた。
しかし、そんな嘘はルキナには通じない。小さく一言。
「相変わらず嘘が下手だな」
呆れたようにため息をついた。
無表情の少年の表情に、ここで少し苦みが交じる。
(……あなたが鋭いだけだ)
自分で認識していることだが、クロノスは感情が表に出にくい顔をしている。いつも無表情無感動と人に馬鹿にされてきた。ウラノスなどがいい例だ。
何を考えているかわからない半神の小僧。
それが世間の一般認識だ。
だが、この皇女だけは別だった。
「ふん。なぜ嘘がばれたか考えているんだろう。そんなことお前の顔を見ればすぐにわかる」
「それこそ嘘です」
「これは本当だ」
「…………」
「わたし達は幼馴染だからな」
沈黙するしかなかった。周囲がまたざわめき始める。
「皇女と半神半人が幼馴染?」「馬鹿なっ」「あいつは何者なのだ!?」「フォマルハウト……?」「どこかで聞いたことが」「たしか元老院議長の……」「おおそうだ!」耳ざとい貴族達は、すぐにクロノスの姓から正体を言い当てる。
男にしては真っ白な肌が、さっと赤みがかった。
(ルキナ……。こんなところでどういうつもりだ)
注目されるのは慣れていない。
他人の視線は苦手だった。
ずれた片眼鏡を、さっと手でおさえる。
彼自身気づかない、緊張している時の癖だった。
それを見て皇女が意地悪そうに笑った。
「遅れた罰だ。せっかくわたしが出席していたのに」
「申し訳ありません、ルキナ様」
謝った瞬間、顔に何かが飛んできた。
黄金の竜を象った肩章だ。それは帝国騎士の証であった。
「こ、皇女殿下?」
神事なしの、あんまりな贈呈だった。神官たちが慌てる。
肩章には法王の祈りも込められており、皇女とはいえぞんざいに扱うのは許されない。
しかし、ルキナは教会の権威など、気にもしなかった。
クロノスも同様だ。
落ちた肩章を手ではたきながら、自分ではめた。
こうなっては神事も何もない。本当に前代未聞の帝国騎士任命式となってしまった。
皇女がクロノスの肩を掴み、強引に立たせる。
「駄目だ。許さない。今晩付き合え。つまらんパーティーだが、お前が一緒なら楽しめる」
「っ俺などが片離宮に入れるわけが……」
反論を述べようとするクロノスの口を、ルキナは手でおさえた。
柔らかく温かい感触が頬を包む。
降り注ぐ光が二人を照らし出して、ルキナの微笑む姿が過去と重なった。
どこまでも感覚だけが続いていく。
周囲の喧騒も今はなく、誰も見知らぬ二人だけの世界に入ったかのようだった。
「忘れたのか、クロノス?」
一つ歳上の少女の目。どこまでも透き通っていて、裏のない光を宿している。
クロノスは首を横に振った。
「覚えているよ、ルキナ」
「お前は強い。もっと胸を張れ。自分を卑下するな」
幼い頃、半神半人と蔑まれていたクロノス。
庭園の木陰で泣いていた時に、慰めてくれたのがルキナだった。
透き通るような感覚だけが残って、現実へとまた意識が浮かび上がる。
「どうした。また泣いているのか?」
ルキナの悪戯な目。
成長した彼女は昔のままの彼女ではなくて、ずっと大人びて美しなっていた。
しかし、その野葡萄色した澄んだ瞳は、そのままだった。
(俺はルキナに忠誠を誓うと決めた。帝国の……絶望の先に見た唯一の救いだから)
「わかりました。今日の夜会にあなたと共に出席しましょう」
「それでいい」
皇女がクロノスの頭を抱いた。
また神殿が騒然となった。クロノスの顔がルキナの胸に挟まれる形となる。
さすがの無表情少年もこれには参った。
銀の髪まで赤に染まりそうな勢いで赤面した。
凄まじい勢いでバックステップを踏み、柔らかい二つの感触から脱出する。
「……っ」
「おっと。ははは。恥ずかしがり屋だな」
「ウラノスもあなたも、……破廉恥だ」
「そう怒るな。お前を一ヶ月もからかえなかった。ストレスが溜まってるんだ」
これが本当にあの軍神の生まれ変わりとも称されるルキナ皇女殿下なのか。
参列者は大いにそう問いたいところだろう。
一つ年下の半神半人の少年と戯れるその姿は、年齢相応の少女となんら変わりなかった。
「う、うぅん。……皇女殿下。儀式はまだ済んでおりません」
見かねた神官が咳払いをした。
参列者たちはもはや呆然としている。
小さく舌を出した皇女は、一つこちらにウインクを残してさがっていった。
「―――では、クロノス・フォマルハウト。軍神セラスの前に跪きなさい」
恰幅のよい中年男性が出てきた。つばの広い白い帽子を被っている。
どうやら大神官のようだった。
クロノスは言われた通り、像の足元に跪いた。
頭を伏せて、目線は斜め下に向ける。
軍神セラス。
美しい女性の像だが、その両手には2メートルもの大剣が握られていた。
その表情は慈愛で満ちており、とても戦の神には思えなかった。
「―――はじめに剣があった。剣は無を貫き、その破片が集まって神が生まれた」
神官が朗々と聖書を朗読し始める。
メサルティムに伝わる古い神話だ。
はじめに神は天と地を創造した。天は白く、地は黒かった。
次に神は涙を流した。何万年と流れた水は、大量の雨となって大地を青く染め上げた。
雲ができ天を覆った。天は怒って雷を降らした。雲は散り散りになった。神は雲を哀れんだ。
「天よ雲よ。喧嘩をやめよ」そう言って、神は口から太陽を取り出した。
太陽は天も雲も地も、全てを照らした。争いは止んだ。
神は満足して数万年の眠りについた。
その後、太陽は神の代わりにありとあらゆるものを創造した。草木が生え、動物が生まれた。
大地はそれを喜び、山や谷を産んだ。雲と協力して川や湖も作った。
天だけは太陽を妬んだ。天も何か創造したかった。天は太陽を覆うように夜を作った。夜は月を作り、太陽に負けないように星々を作った。
天と太陽の戦いが始まった。太陽は負けじと昼を作り、夜を覆った。この戦いは永遠に続く。
両者の喧嘩を嘆いた大地が神を起こした。神は激怒し、また涙を流した。
大量の水は天も地も覆い、太陽も雲も隠した。全ての存在が神の怒りを沈めるよう努力した。
その時生まれたのが人間だった。
神は人間という生き物をたいそう面白がった。怒りが静まったのだ。そして次第に己も人間として存在したくなった。しかし神自身が人間に身を落とすことは許されない。
そこで神は己の小指を切り落とし、大地へ落とした。小指は神の分身となり、人間とそっくりの外見をもった。
―――それが始祖神ガシャトリアである。
ガシャトリアは空中に天上世界を創造した。
そしてメサルティム神聖帝国を建国したのだ。
「軍神セラスは、ガシャトリアの創造した最初の神であり、彼の正妻である。新しく騎士になる者よ。彼女の前で帝国への忠誠を示せ」
神官がクロノスの肩を剣の腹で叩いた。
パン、といい音が鳴った。
その剣がこれからクロノスの佩剣となる。
「謹んでお受けします」
少年は立ち上がって剣を敬々しく受け取った。
そしてその刃を自分の掌へ押し付けた。痺れるような痛みが広がった。
血が軍神の像の足元に滴り落ちていく。己の体の一部を、セラスに奉じる。これが騎士叙任式のフィナーレであった。
『ちょっとした設定資料』
天球城
雲海のさらに上、天上世界でも一番高いところにある。
神々の王。皇族が住む城。
一辺十キロの正方形の浮島の上に存在し、真っ白な城壁は世界一美しいと評判。
ルキナの寝所は離宮にあるが、古くなったため移転しようとしている。
そのためにエルミラを大勢動員中。
人間にとっては恐怖の城だろう。
軍神セラス
数百人の側室の中で選ばれた、ガシャトリアの正妻。自分の創造した女神の中でも、一番の美人だとガシャトリアが言っていた。
剣の達人で、パリスを創造したのもこの女性。
神族最強だったらしい。
創世神話
ガシャトリアがどうやって生まれたのかを詳しく書いてある。
人間をエルミラとして家畜にした経緯も説明してある。大半の文が神々の賞賛で、いかにメサルティム帝国が発展したかも書かれてある。文に矛盾や欠落も多いが、それは神官が意図して変えてしまったという噂がある。
これではもはや教会発行の歴史書だ。
それが事実だったのかどうかはわからない。
教会
ガシャトリアを信奉する団体。
メサルティム神聖帝国の皇帝位を授与する機関。かなりの権力を誇る。
裁判権を握り、法案提出権もある。立法権の主体である元老院との二重立法がかなり市民を苦しめている。その最たる議員がクロノスの父親であるアイゼングであることは周知の事実。
帝国は教会、皇帝、元老院の三機関で廻っている。
法王イノク三世が現在のトップ。
次に大神官が三名おり、上級神官、中級、下級とある。
天上世界だけでなく、地上にもその支部がある。
ルキナのおっぱい
あの無表情無感動なクロノスでさえうろたえてしまう究極の兵器。
ルキナ曰く十歳くらいから大きくなり始めた。ウラノスと違い、今も成長をしているという。
ちなみに天上世界にはブラジャーを作る技術者が少なく、完成品を地上から輸入する形をとっている。
フラウというブランドが市場を席巻している。
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