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「名乗らない女」シリーズ

昼と夜

作者: ラーさん

*拙作「歩道橋の上で」 (http://ncode.syosetu.com/n8046l/) 「タクシードライバー」(http://ncode.syosetu.com/n9372l/)の続編です。両作を読んでからでないとわからない場面があります。

 彼には妻子がある。

 関係ないものと思っていたが。

 やはりそうはいくものではない。

「別れてください」

 人の話を聞かなそうな顔。

 彼の妻が私を睨んでいる。

 テーブルにはお金が置かれている。

 彼の妻が私を睨んでいる。

 テーブルにはお金が置かれている。

 ――面倒臭い。

「はい」

 テーブルに手を伸ばした。




 彼とは夜の付き合いである。

 彼は馴染みの客だった。

「や、こんばんは。ユウナさん」

 いつも一人のこの客は、店の奥で私一人を横に置き、静かにゆっくり酒を飲む。

「キミの注いだお酒は、何故か不思議と美味しくなる」

「それは好意?」

「告白」

「冗談ばかり」

「本気さ」

「奥さんがいるじゃない」

「ここにはいない」

 二人だけだった。

 それは決定的なこと。

 いつからか夜は二人の世界となった。

 夜だけの二人。

 夜。




 朝の目覚めは昼を過ぎた頃に訪れる。

 夜の汚れはシャワーが流す。

 それが一日の始まり。

 その日は快晴。

 外に出る。

 秋空。

 薄い雲がひとつ。

 涼しい風が街を走ってトレンチコートをなびかせる。

 ふらふらと街を歩いてビルの上。

 前は歩道橋の上にいたけれど、最近はデパートの屋上。

 人があまりいないことでは一緒だ。

 何をするでもない時間。

 平日の昼間のデパートの屋上には似たような人が幾人。

 自販機でコーヒーを買う。

 ホットコーヒー。

 胸に熱さが走り、ゆっくりとぬるまる。

 口の息を甘く吐く。

 フェンス越しの街並み。

 遠いがはっきりと届く喧騒。

 風は動いている。

 首をすくめる。

 手のコーヒー。

 失われるぬくもり。

 その名残。

 空き缶。

 タバコの火。

 最近吸う量が増えた。

 紫煙。

 風に溶ける。

 ゆるゆる。

 灰が落ちる。

 吸殻は空き缶へ。

 日だまりの下。

 浸食する影。

 ゆっくりと。

 浸食する影。

 茜空。

 赤と青の紫色の攻防。

 やがて街は星よりも速く光りだす。

 屋上の閉鎖時間を告げる放送。

 夕闇。

「さて、仕事に行かなくちゃね……」

 立ち上がる。




 夜の彼は夜の彼。

 光の渦のネオン街。

「きれいだ」

「私が? それとも……」

 満月。

「両方」

 夏の月は濡れた光を夜に放つ。

「欲張りね」

「人は贅沢さ」

 彼は笑い、私も笑う。

「それさえなければ楽でしょうに」

「苦しまなければ立派にはなれないさ」

「それは経験?」

「いや、知識」

 彼の横顔が夜の闇に浮かぶ。

「頼りないわね」

「まだ若いってことだ」

 彼はしっかりと私の手を握る。

「だから贅沢なのね」

 手に伝わる温もり。

「そうだな」

 私は手をほどく。

「昼も夜も捨てられない」

「恨むか?」

 彼は聞き、私は答える。

「私は楽がしたいの」

「だから夜だけ?」

 私は彼の三歩先に立ち、影の中で振り返る。

「立派になろうとしなければ楽ってこと」

 街の灯りに照らされた、彼の瞳が闇に沈む私を見る。

「キミがきれいな理由がわかった気がするよ」

「そう?」

 彼は闇に踏み込む。

「だから惹かれる」

 私の唇をふさぐ。

 あたたかさは触れて、離れて、消えた。




 彼は実業家であるらしい。

 らしいだけで詳しくは知らない。

 訊いたことがないからだ。

 知ったところで何になるわけでもない。

 実際何にもならなかった。

 妻は長舌だった。

 彼はフランス庶民料理を日本人の口に合わせて商品化し、低価格志向のフランス料理店のチェーン展開に成功して首都圏を中心に四十三の店舗を持ち、年商は三十二億円で、白金に居住し、車は三台所有していて、五歳の子供がK大学付属幼稚園に通っており、私が勤めているお店ぐらいなら通い詰めても経済的には何の問題もなく、夫の多忙な仕事の息抜きになるならそのぐらい構わないが、仕事に関して今度は自社商品の販売に大手コンビニエンストアと提携を結ぶ事業拡大を計画中で、そのために先方との折衝を繰り返しているのだが、年齢が若いだけに女性関係などで人間的信用を落としたくないらしい。

 嫉妬。

 自尊心。

 生々しく絡む。

 手切れ金の額は百万円だった。

 使い道に困るお金である。

 手に札束の入った封筒を持って街に出る。

 宵口の街。

 色々使い道を考える。

 コンビニで全額使い切る。

 さぞ、愉快だろう。

 しかし、買った商品の処分が問題だ。

 却下。

 募金する。

 多くの人が救われるだろう。

 しかし、額がパッとしない。一億ぐらいあれば別だろうが。

 それにどう使われるのかが見えないのは面白くない。

 却下。

 服を買う。

 見せる相手がいない。

 却下。

 貯金。

 却下。

 個人タクシーが見えた。

 止める。

 乗り込むと、三十後半と思しき運転手が振り返る。

「お客さん、どちらまで?」

 私は一言こう告げた。

「北の果てまで」




 一人の夜はお酒と付き合う。

 灯りを消した部屋は静かだった。

 私は変わっているらしい。

 開け放たれた窓からは車の流れる音が低く流れる。

 夜の風。

 人によく言われるが、それがよいことなのか、悪いことなのかはわからない。

 ウイスキーを傾ける。

 氷が鳴った。

 ただ、立派にはなれなかった。

 空っぽの胃に落ちたウイスキーは熱い。

 父の顔が浮かんだ。

 人の為に立派になるのは苦しい。

 二杯目。

 自分の為に立派になるのは虚しい。

 三杯目。

 それで夜の街を歩いていたら、夜の女になっていた。

 夜の風。

 流れるのは簡単で、それはとても楽だった。

 四杯目。

 だから私は嘘をつく。

 車の音。

 五杯目。

 ボトルが尽きた。

 私の嘘は酒の泥の底へ沈む。




 昼間に彼と出会ったデパートの屋上。

 薄く曇った空からは、冷たい風が吹いている。

 私の手には缶コーヒー。

「こんなところで会うなんてな」

 日曜日。

 彼は妻と子供とデパートに来ていると言った。

 昼の彼は昼の彼。

「いいの、こんなところにいて?」

「妻の買い物は長いんだ」

 雲の切れ間から光が差し、彼の姿が日の下に晒される。

「家族サービス?」

「義務だよ」

 彼は私の横に腰をかけ、フェンスの向こうに目を向ける。

「いい眺めだ」

「そうかしら?」

「街を上から眺めることなんてあまりないからね」

「街は狭いわ」

「そうかい?」

「空の方がきれいよ」

 陽光に照らされて白と灰色に浮かび上がる雲の列は、その隙間に空色をのぞかせながらゆっくりゆっくり風に乗って流れていく。

「都会の空はきれいじゃないさ」

 彼は言った。

「オレがきれいだと思う空は、子供の頃の思い出の田舎の夏空だけだ」

 彼の目は空の向こうの遠くを見ていた。

 くすんだ空。

 確かにくすんでいる。

 くすんでいるけれども。

 確かにそれは空。

 広く遠く。

「それでも私にはきれいに見える」

 空。

「私が変わっているのかしらね」

 私が呟き、彼が微笑む。

「そこが魅力さ」

 彼の笑顔を見て、私は目を伏せ、街を眺め、空を見上げ、口元に寂しさを覚え、私がタバコに火をつけようとすると、彼は手でそれを止めた。

「妻がうるさいんだ。タバコの臭いに」

 私はタバコをしまう。

「大変ね」

「ああ、大変さ。それに最近は子供が来年小学生だから、受験、受験で倍にうるさくなった」

 缶コーヒーを傾けると、口に苦味が広がる。

「小学生なんだ」

「うん?」

「子供」

「あ、ああ」

「大変ね」

 私は微笑んだ。そして彼はこの微笑みに安堵の表情を浮かべてしまった。

「私のどこが魅力?」

 缶コーヒーのラベルを見ながら話を戻すと、彼はそれに乗った。

「透明感」

「透明?」

「キミといると、ここではないところへ行っている気持ちになれる。その不思議さが魅力だ」

 彼の吐く息の白さは、生温かい熱を帯びていた。

「ここではない?」

「そう、現実を遠くする魅力」

 彼は私の瞳を覗き込む。

「それじゃあ、ここはどこ?」

「え?」

 殺風景なデパートの屋上には、廃棄された遊具が放置されている。

「閑散とした昼間のデパートの屋上」

 彼は苦笑した。

「冷たいなぁ」

 生温いコーヒー。

 沈黙。

 二人でフェンスの向こうを眺める。

 遠い喧騒。

 冷たい風。

 雲が流れていく。

 流れた雲は戻らない。

「……私ね、立派な人になりたかったの」

 破られた沈黙に、彼は少し眉を動かした。

「誰だってそうさ」

 彼は意味のない言葉を返す。

「父によく『立派な大人になりなさい』って言われたわ」

 私の吐く息は白い。

「公務員になる勉強もしてたんだけどね」

 コーヒーの缶を弄ぶ指。

「でも今は立派なホステス」

「卑下するなよ」

 私の中の不愉快なものがどうしようもなく溢れてきて、それが自嘲に変わって、言葉になって、口を漏れる。

「あなたの立派な愛人」

 私は笑った。

「おい」

 彼の感情が言葉にもならずに声となった。

 悲しくなった。

「昼間に会いたくなかったな」

 また雲が日を閉ざした。

「お父さーん」

 振り返ると、一組の母子が屋上の出入り口に立っていた。

 邪気のない声。

 男の子が駆けて来る。

「おう、タクマ!」

 父の声。

「それじゃあ、また今度……」

 彼が耳打つ。私はかすかにうなずいた。

 彼が息子を抱き、妻の前に立つと、妻は私の顔を見た。

 彼の声が遠くに聞こえる。

「……仕事で知り合った人で……偶然に会ったから挨拶……」

 コーヒーは完全に冷めてしまった。

 タバコに火をつける。

 紫煙が肺に沈殿していく。

 夜はまだ来ない。




 夏に会った少年を見かけた。

 屋上から下りて、夕闇の底を仕事場へと歩く途中。

 街は夜を迎える準備をしている。

 駅から溢れる人。

 少年の姿を認めた。

 秋に別れた少年。

 予備校に向かうのであろう少年は、重たそうな鞄を肩にさげ、振り返ることもなく足早に人波の向こうに消えていく。

 少年に告白された、歩道橋の上。

 よく晴れた秋空。

 少年は真っ直ぐだった。

 嘘をつくのが下手な少年は、きれいな瞳で私を見る。

「好きです」

 驚いてしまった。

 汚れを知らない少年は、真っ直ぐな瞳で私を見る。

「オレはガキで先のこともわからないけど」

 私を。

「でもズルズルもソコソコも嫌なのはわかってる」

 私だって。

「けど、今はそれしかなくて」

 私だって。

「でも、葉月さんだけは特別で」

 何が特別。

「空の広さを知っているから」

 憧れているだけ。

「だから!」

 少年はきれいな瞳で私を見る。

 熱く。

 強く。

 少年はすがった。

 救いを。

「――さよなら」

 そんなことできるわけがない。

 私は去った。

 それしかできない。

 できるわけがない。

 すがりたいのは私。

 すがれるものが何かあれば、誰もが救われることだろうに。

 私にあるのは中途半端な嘘。

 自分を騙しきれるほどの嘘があれば、幸せに暮らせるだろうに。

 夜の街。

 夜に浮かぶ街の光が、八方から私を照らす。

 八つの影。

 影は私を取り囲み、歩みに合わせてくるくる回る。




 波の音。

「亮ちゃん」

「はい」

「話していいですか?」

「話したいのなら」

「いろいろあったんですけれど」

「そうですか」

「亮ちゃんはそうですかばっかり」

「そうですか?」

「ほら」

「そうですね」

 波の音。

「聞きたいですか?」

「聞きたい気もしますし、聞きたくない気もします」

「なぜ?」

「シズさんの話ではないじゃないですか」

 波の音。

「なるほど」

 波。

「でも、それだと旅が終ればシズさんは死んでしまいますね」

「亮ちゃんもです」

「悲しいですね」

「仕方のないことです」

 カモメが飛んでいる。

「私も明日からは瀬崎亮介です」

 急に帰りたくなった。




 青森から帰った私は、その日のうちにお店を辞めた。

「お世話になりました」

「ちょ、ちょっと、ユウナちゃん」

 店長は非常に困った顔をしたが、私は青森で買った地酒を渡すと、頭を下げて店を出た。

 夜空。

 空気は澄んでいる。

 私はその空気を大きく吸った。




 彼が訪ねてきたのは、私が部屋を引き払う準備をしている最中だった。

「久しぶり」

 玄関を開くと彼がいた。夜の闇を背負った彼は、にこやかに私に微笑みかける。

「一週間も経っていないじゃない」

「寂しいと思うことに時間は関係ないよ」

「相変わらず、上手ね」

「連絡が取れないから心配した」

「ありがとう」

 玄関から部屋をうかがった彼は、部屋の整理されているのを見た。

「引っ越すのか?」

「さあ、どうしようか?」

 私は肩をすくめてみせた。

「店を辞めたそうじゃないか」

 開かれた扉からは冷たい風が吹いてくる。

「ええ」

「妻が来たそうだね」

 彼が神妙に言うので、私は笑ってしまった。

「今も見られているかも」

「すまない」

「謝られてもしょうがないわ」

「店を辞めるのも、引っ越すのも俺のせいだろう?」

 彼はまじめな顔だった。私は可笑しくなった。

「あなたってすごい人なのね」

「何が?」

「飲食業界の実業家で、四十三のチェーン店を経営している」

 怪訝な顔。

「奥さんが自慢してくれた」

「嫌味か」

「いいえ。だからあなたは自信家なのかという皮肉」

 彼は顔を歪めたが、私は笑って流した。そして彼の顔を見て言った。

「あなたは関係ないわ」

 穏やかに微笑む。

「私の問題よ」

「怒っているのか?」

 滑稽な彼の言葉。冷たい風が玄関に吹き込む。

「別に。むしろ感謝したりもする。いいきっかけになったから」

「きっかけ?」

「要するに、疲れちゃったってこと」

 彼は黙って私を見ている。

「嘘をつくのは疲れるの」

 彼は訊いた。

「何が嘘?」

 私は答えた。

「私は山本由佳里」

 私は私の顔を指し、

「あなたは遠藤幸一」

 私は彼の顔を指す。

「そういうこと」

 私はしっかり前を見る。

 遠藤は顔をそむけた。

「奥さんと子供さん、大事にしてね」

 私は扉を閉じた。




 玄関の扉を開けると、朝日が私を出迎えた。

 東の空の明るさが、夜の名残を晴らしていく。

 手から提げたボストンバッグがひとつ。

 コートのボタンはしっかり閉める。

 風は冷たいが、朝日を浴びた私の身体は徐々に徐々に温まる。

 やがて夜が尽きた。

 晴れ渡る冬の空。

「――いい天気」

 私は歩き出す。


発掘小説です。

まったく具体性のないホステスっぷりに、この連作の中で一番読み返して恥ずかしかった作品。短文の羅列で誤魔化してるなぁ。

まあ、こういう空気感は好きなのですが。

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[一言] 最後のセリフの清々しさたるや! おセンチな晩秋から冬にかけて、まさにこれからの季節に皆様読んで頂きたいそんな作品。歩道橋の上、タクシードライバーの話が続き物とは…後からじわじわ効いてきますね…
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