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『花の江戸、嘘の影 南町奉行・大岡忠相事件控』  作者: 常陸之介寛浩 


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第九話 生きている佐吉

 生きている者は、死者よりも厄介だ。


 死人は言い訳をしない。

 だが生きている者は、逃げもするし、黙りもするし、真を知りながら口にしないこともある。

 しかも、周りの人間が勝手に“死んだことにしたがる”ような者ほど、まだ生きているという事実そのものが、誰かにとって鋭い刃になる。


 深川から日本橋へ戻る道すがら、忠相の頭の中では、いくつもの線が静かに位置を変えていた。


 火の夜、松之助は死んだ。

 預かり子がいた。

 その子は生かされ、松之助として置かれ、のちに家の外へ出され、佐吉として戻された。

 ここまでは、お紺とお滝の口からほぼ揃った。


 だがその先にある“勘定にぶら下がっている”という言葉が、新たな影を落としている。

 もし、火の夜の入れ替えがただの情や家の体面だけでなく、金や名義の上でも利用されていたなら、話は一気に変わる。

 家の恥を隠すための沈黙ではない。

 今もなお利益を生み続ける仕掛けとして、その嘘が生かされていることになる。


 それなら、帳面を取り返したがる者がいるのも当然だった。

 それなら、佐吉を死んだことにしたがる手があるのも、なおさら当然だった。


 近江屋へ着いたころには、夜もかなり深くなっていた。だが店はまだ眠っていない。表は閉めていても、奥には灯が点り、帳場にも人の気配が残っている。老舗というものは、昼の商いだけで立っているのではない。人に見せぬ夜の顔の方にこそ、家の本性が出る。


 裏から入ると、源之丞の配した見張りがすぐに顔を出した。


「お奉行様」


「何か動きは」


「清之介が一度、帳場へ入って長く出てきませなんだ。ほか、奥向きの女中どもが落ち着かず」


「嘉兵衛らしき者は」


「まだ姿を見せておりませぬ」


 忠相はうなずき、まず帳場へ向かった。


 清之介はそこにいた。

 几帳面に帳面を並べ、灯の下で算盤に手をかけている。だが、その手はほとんど動いていなかった。指先だけが算盤玉を撫でている。何かを計算しているのではなく、気を落ち着かせるための癖のようなものだった。


「まだ起きていたか」


 忠相が声をかけると、清之介はびくりとした。

 振り向いた顔は疲れ切っている。だが、疲れているからこそ、いつもの整えが薄くなっていた。


「お奉行様……」


「嘉兵衛らしき男から言伝があったそうだな」


「……はい」


「『本当の子の名を町にばらす』と」


 清之介の喉が上下した。


「さらに、『入れ替わった幼子は今も近江屋の勘定にぶら下がっている』ともな」


 番頭の顔が、はっきりと強張る。


 この反応だけで十分だった。

 “勘定にぶら下がっている”という言い回しは、やはり内側の理屈に近い。外の者が思いつきで言うには妙に帳場くさい。


「何のことだ」


 忠相が問うと、清之介はすぐには答えず、まず視線を帳場の上の帳面へやった。

 その視線の先に何があるか、それだけでもかなりの答えになる。


「申せ」


「……昔の、名義のことにございます」


「具体に」


 清之介は深く息を吸った。


「先代の代、近江屋には分家筋との間で、商いの元手に関わるややこしい話がございました」


「ややこしい、ではわからぬ」


「もとは、先代の実子である松之助様が、将来正式に跡を継ぐことを前提に、内々で積み立てられた金があったのです」


 源之丞が眉を寄せる。


「幼子のための積み立てか」


「はい。公にしたものではなく、親類筋と古い得意先だけが知る形で」


「その松之助が死んだ」


「……はい」


「ならば、その金はどうなる」


 清之介は唇を舐めた。


「本来なら、一度すべて見直しにございます」


「見直せば何が起きる」


「分家筋が口を出します。元手の返し、跡目の立て直し、商いの揺れ……何もかも」


「だから、松之助は“生きている”ことにした」


「……」


「そのために預かり子を置いた」


「……はい」


 源之丞が低く言った。


「つまり、火の夜の入れ替えは、家名だけでなく金を守るためでもあった」


 清之介は俯いたまま答えた。


「家名と金は、別ではございません」


 忠相は黙ってその言葉を受けた。


 近江屋のような家にとって、それはたしかに真だろう。

 名だけ守って金を失えば、家は倒れる。

 金だけ守って名を失っても、やはり倒れる。

 だから彼らは、火の夜に両方を同時に守ろうとした。


 その結果、一人の幼子の名を奪い、十年後に一人の若者の足場を奪おうとしている。


「その積み立ては、今も生きているのだな」


「……形を変えて、店の中へ」


「帳面に残るか」


「古い控えを辿れば、どこかには」


 忠相はそこで、近江屋の蔵から持ち帰った帳面とは別に、まだ見ていない“今の帳場側の帳面”が存在することを悟った。

 嘉兵衛らしき者が「勘定にぶら下がっている」と言ったのは、古い火の夜の帳面一冊ではない。

 そこから繋がる今の金の流れまで、どこかで掴んでいるのだ。


「清之介」


「はい」


「佐吉は、このことまで知ったか」


 番頭は少しだけ目を上げた。


「……たぶん、全部では」


「だが匂いは掴んだ」


「……はい」


「だから脅威になった」


「……」


 答えない。だが、その答えぬことが最も雄弁だった。


 まさにその時、外で足音が響いた。

 弥吉である。ふだんの軽い足とは違い、今日は少し乱れていた。


「旦那」


「何だ」


「川向こうの古びた茶屋跡で、人の出入りがあったってんで、見に行ったんですがね」


「どうだった」


「人はもういねえ。けど、火の気の跡がありやして」


「誰かが潜んでいたか」


「へい。で、置いてかれた紙が一つ」


 弥吉が差し出したのは、粗末な紙切れである。

 雨気を吸って少し波打っていたが、字は読めた。


 ――金じゃない

 ――盗まれたのは名だ


 忠相はその文を見た瞬間、わずかに目を伏せた。


 短い。

 乱れた筆。

 だがこれは、先代風の脅し文とも、嘉兵衛が見せびらかしそうな芝居とも違う。

 考えを整えきれないまま、胸の内の核だけを紙へ押しつけたような字だった。


「佐吉か」


 源之丞が言う。


「可能性は高い」


 忠相は答えた。


「少なくとも、あの若者の考えに近い」


 ――盗まれたのは名だ。


 それは、この一件の中心をほとんどそのまま言い切っている。

 金を盗んだことにされ、命まで捨てたことにされそうな若い手代が、本当に取り返したいのは三両二分ではない。

 火の夜から奪われ、塗り替えられ、十年かけて薄められた自分の名である。


 弥吉が言った。


「茶屋跡には、もう一人いた形もありやした」


「誰だ」


「わかりやせん。ただ、囲炉裏の灰の崩れ方が二人分。で、佐吉のもんらしい若い足跡のほかに、もっと癖のある草履跡が一つ」


「嘉兵衛か」


「痩せた男の歩き方っぽいってくらいで」


「文のほかに何か」


「何も。ただ、急いで出た跡が」


 忠相は紙を畳み、懐へしまった。


 佐吉は生きている。

 それだけは、もうかなり確かだ。

 生きていて、誰かと会い、何かを話し、そしてまだ隠れている。


 問題は、その“誰か”が味方かどうかである。


「源之丞」


「は」


「嘉兵衛を急ぐ。だが、先に茶屋跡の周囲を洗え。佐吉はまだ遠くへは行っておらぬ」


「承知」


「弥吉、お前は深川と日本橋を繋ぐ筆と紙の筋をもう一度当たれ」


「へい」


「脅し文を書く手と、佐吉の短い文を書かせるような手は、同じ場所を通るかもしれぬ」


 弥吉が頷いて去ると、部屋には忠相、源之丞、清之介だけが残った。


 忠相はゆっくりと清之介へ向き直った。


「見たな」


「……何を」


「今の文だ」


「……はい」


「これは金のために逃げた男の文ではない」


「……」


「お前もわかっていたはずだ」


 清之介は長く黙っていた。

 やがて、かすれた声で言った。


「……あやつは、昔から金勘定には向いておりませんでした」


「今さら、そのようなことを」


「損得で動く子ではない、と……そう申し上げたかったのです」


「ならばなぜ、最初から盗人に仕立てた」


 その問いに、清之介はしばらく返せなかった。

 番頭の顔には、整えきれぬ疲れが深く刻まれている。

 理屈を組み立てて家を守ってきた男が、その理屈そのものに追い詰められている顔であった。


「……あやつが、生きていて、全部を口にすれば」


「どうなる」


「近江屋は終わります」


「家が終わるから、あやつを終わらせるのか」


「そうは申しておりません!」


 だが、その声に勢いはなかった。


「終わらせたいわけではないのです。ただ……」


「ただ?」


「ただ、あやつが生きていることが、今の近江屋にとっては、あまりに危うい」


 忠相は静かに言った。


「だが生きている。しかも、お前たちの理屈とは違う言葉で生きている」


 清之介は何も返さなかった。


 その夜更け、忠相は奉行所へ戻ったあとも眠らず、机に向かっていた。

 灯明の火は小さく揺れ、障子には自分の影だけが薄く映る。

 紙の上には、これまで拾った言葉をいくつか並べていた。


 知らぬ方がよい。

 居場所を失う。

 会わせてほしい。

 帳面のことはもう口にしない。

 金じゃない。盗まれたのは名だ。


 人によって言うことは違う。

 だが、それらは全部、同じ一点を別の向きから指している。

 佐吉は、自分が何者であるかを知ろうとしている。

 そのために帳面を見た。

 帳面には、ただ幼名だけでなく、預け金や名義や、今も続く勘定の筋まで記されている。

 だから家は口を閉ざし、番頭は理屈を整え、母は会いたがり、脅しの手は帳面を欲しがる。


 十年前の火は終わっていない。

 いまも帳場の上で、金の形をして燃え続けている。


 そこへ、外でそっと足音が止まった。


「誰だ」


 忠相が声をかけると、障子の向こうからおずおずと答えが返る。


「……お縫です」


 この時刻にか、と源之丞なら顔をしかめるだろう。だが忠相は「入れ」と言った。


 入ってきたお縫は、息を切らしていた。頬が赤く、目には強い色がある。怖れもあるが、それ以上に、何かを聞いてしまった者の顔だった。


「何だ」


「……さっき、うちの長屋に、知らない男が来ました」


 忠相の目が細くなる。


「どのような」


「痩せていて、筆みたいな細長い包みを持ってて……」


 嘉兵衛か、その筋の男だ。


「何をしに」


「私に、佐吉さんがどこへ行ったか知ってるだろう、って」


「お前は何と」


「知らないって言いました」


「本当に知らぬだろう」


「……はい。でも、その男、帰る時にこう言ったんです」


 お縫は唇を引き結んだ。


「『あいつは、自分が生きてるだけじゃ済まねえことをまだ知らねえ』って」


 部屋が静かになる。


 ただ生きているだけでは済まない。


 それは、佐吉本人の身の上を越えて、今の近江屋の勘定と跡目にまで影響が及ぶという意味だろう。


「ほかには」


 お縫は頷いた。


「その男、最後に……『本当に取り返したいなら、火の夜の前の帳面を見ろ』って」


 忠相の指が止まった。


 火の夜の帳面ではない。

 火の夜“前”の帳面。


 つまり、松之助がまだ松之助であり、預かり子がまだ別の幼名で記されていた頃の記録だ。

 そこを見れば、入れ替わる前の真がそのまま残っているかもしれない。


 そして、それを知っている男が、お縫へわざわざ言った。


 佐吉本人ではない。

 だが佐吉を追う者の中に、“もっと古い帳面”の存在を知る者がいる。


 忠相は立ち上がった。


「源之丞を呼べ」


 下役がすぐに走る。


 忠相はお縫へ言った。


「その男の顔は」


「暗くて、よくは。でも声は少し酒焼けしてました」


「嘉兵衛の可能性が高いな」


 やがて源之丞が入ってくる。事情を聞くと、すぐに顔つきが変わった。


「火の夜“前”の帳面、でございますか」


「うむ」


「それがあるなら、入れ替わる前の幼名も、預け金も、全部がそのまま」


「そうだ」


「近江屋の蔵にまだ」


「あるかどうかだ」


 忠相は短く言った。


「だが、佐吉を追う者がそれを知っている以上、もう向こうも探しに動く」


「こちらが先に押さえるべきですな」


「うむ」


 お縫が小さく問うた。


「……佐吉さん、生きてるんですか」


 忠相はその娘を見た。


 ここで不用意な慰めを言う気はなかった。

 だが嘘をつく気もない。


「生きている可能性は高い」


 お縫の肩がわずかに震えた。

 安堵か、不安か、そのどちらもだろう。


「ただし、急がねばならぬ」


「どうして」


「生きているからこそ、追われる」


 お縫は唇を噛み、黙って頷いた。


 忠相は灯明の火を見た。

 火は小さい。

 だが、そこに紙を近づければ、すぐに燃え移る。


 十年前、近江屋で燃えたのは蔵だけではない。

 子どもの名であり、母の手であり、家の勘定であり、今もなお帳場に繋がる仕組みそのものが、一度火をくぐって形を変えた。

 そしてその形を、いま佐吉は取り返そうとしている。


 ――金じゃない。盗まれたのは名だ。


 あの短い文は、やはり真ん中を射ていた。

 だが忠相は、そこへさらに一つ付け加えねばならぬと感じていた。


 盗まれたのは、名だけではない。

 名を通して生きるはずだった人生そのものだ。


 だからこそ、この一件は、ただの家の恥や若い奉公人の失踪として収めてはならぬ。


「行くぞ」


 忠相が言うと、源之丞が深く頷いた。


「どこへ」


「近江屋の蔵だ。今度は火の夜の前の帳面を探す」


「嘉兵衛より先に」


「いや」


 忠相は静かに言った。


「嘉兵衛が来るなら、むしろ来させる。生きている佐吉を餌にしてでもな」


 夜はまだ終わらない。

 そして今夜は、ようやく“生きている者”を中心に、すべての手が動き始める。


つづく

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