第八話 入れ替わった幼子
人は、入れ替わったものをずっと見続けていると、いつしかそれを“もともとそうであったもの”として扱うようになる。
名がそうだ。
呼び方がそうだ。
家の中の座る場所、膳の置かれ方、目を向ける順序までがそうである。
誰かが本来その場にいるべきではなかったとしても、日がたち、月がたち、年が積もれば、周りの方がその形に慣れてしまう。
慣れは恐ろしい。
なぜなら、それは嘘を嘘ではなく“暮らし”に変えてしまうからだ。
深川へ向かう道は、昼と夜とでまるで違う顔を見せる。
日本橋の方に比べれば、夜の深川は音が低い。川風が路地へ入り込み、湿った土の匂いと煮炊きの残り香を運ぶ。長屋の戸の向こうでは、子どもが咳き込み、夫婦が小声で言い争い、誰かが針を動かしている気配がある。人の暮らしが薄い板一枚を隔てて並んでいる町では、秘密もまた壁の厚みほどしか離れていない。
弥吉の案内した裏長屋は、洲崎へ抜ける細い道の先にあった。
戸口の灯は消えている。だが、暮らしている家の闇である。見捨てられた空き家の暗さではない。
「ここで」
弥吉が小さく囁いた。
「表じゃ、お民と呼ばれてる女の家で」
忠相は戸口を見た。
粗末だが掃き清めてある。戸の木にも、暮らしの擦れがある。女一人で住む家にしては、戸口脇に履き古した男物の草履が一足だけ置かれていた。
源之丞もそれを見たらしい。
「若い者のものに見えますな」
「うむ」
忠相は一歩進み、戸を叩いた。
「南町奉行所だ。開けよ」
中の気配が止まった。
長屋の戸の向こうで、人が息を呑む時の静けさは独特である。物音が消えるだけではない。そこにあった暮らしの温度まで、すっと引く。
もう一度、忠相は叩いた。
「開けよ。壊させるな」
ややあって、戸が細く開いた。
出てきたのは、頭巾こそ被っていないが、先ほど裏木戸で逃げた女に違いなかった。年のころは四十に少しかかるほど。顔立ちは派手ではない。だが、苦労と用心が長く染みついた顔である。目元の形に、どこか佐吉の面差しを思わせるものがあった。
「……お民、ではございません」
女は最初にそう言った。
忠相は目を細めた。
「名を変えているのは承知だ」
「……」
「お滝だな」
女は、少しのあいだ忠相を見ていた。
やがて、観念したように戸をもう少し開いた。
「……お入りください」
中は狭かった。
だが清潔で、余計な物は置かれていない。縫い物道具が脇に寄せられ、小さな灯の下に、木の机と膳が一つ。壁際には薄い布団が二組ではなく、一組だけ畳まれている。つまり、ここに常に二人で住んでいるわけではない。だが、ときおり誰かを泊める用意はある。
忠相が腰を下ろすと、お滝は真正面には座らず、少し斜めへ控えた。すぐにでも逃げ出せる位置取りであり、同時に、背を向ける無礼はしないだけの覚悟も見える。
「佐吉はどこだ」
前置きなく問うと、お滝の指先が膝の上で縮んだ。
「……ここにはおりません」
「今日はいない、という意味か。それとも最初からいないのか」
「……」
「黙るな」
お滝は顔を上げた。
「二日前、来ました」
源之丞の視線が鋭くなる。
「何をしに」
「自分のことを知りたい、と」
忠相は黙って続きを促した。
「最初は、どこまで話してよいかわかりませんでした。あの子にとって、あまりに急な話で……」
「それでも話した」
「全部ではありません」
「どこまでだ」
お滝は細く息を吐いた。
「火の夜の前までです」
「前まで」
「自分が、もともと近江屋の子ではないこと。小さいころ、事情があって預けられたこと。近江屋で育った時期があること」
「火の夜に何があったかは」
「……言えませんでした」
「なぜ」
お滝の目に、じわりと水が滲んだ。
「言えば、あの子が“生きてきた十年”まで、全部よそものになる気がしたからです」
忠相はその言葉を静かに受けた。
お紺もそうであった。
清之介もそうであった。
知らぬ方がよい。
居場所を失う。
今さら明かせば、全部がよそものになる。
形は違えど、皆同じところを恐れている。
「佐吉は納得したか」
「しませんでした」
「何と言った」
「『だったら、俺はあの火の夜に何を失ったんだ』と」
忠相は目を伏せた。
よい問いであった。
そして残酷な問いでもある。
人は、自分が誰の子かを知れば答えに辿り着けると思いがちだ。だが佐吉の場合、問題はそこだけではなかった。火の夜に失われたのは、血筋や名だけではない。彼がどう生きることにされたか、その順序そのものが歪められている。
「そのあと、佐吉はどうした」
「蔵を見に行くと言って」
「近江屋へ戻った」
「はい」
「止めなかったのか」
お滝は少し笑った。
笑ったと言っても、唇がかすかに歪んだだけの、泣き顔に近いものだった。
「止めて止まる子なら、ここまで来ません」
忠相はうなずいた。
その通りだろう。
佐吉は蔵へ行き、帳面を見た。
だから消えた。
問題はそのあとだ。
「最後に会ったのは」
「昨日の夜です」
源之丞が一歩前へ出た。
「ここへ来たか」
「ええ」
「無事だったのか」
「……無事、とは申せません」
お滝の声が少し低くなった。
「顔色が悪くて、何日もろくに眠っていないようでした。自分のことを知ったというより、“何かを知ってしまった”顔でした」
「何かとは」
「帳面です」
やはりそこに来る。
「何を見たと」
「自分の幼名らしきものと、松之助の名と、そのどちらかに後から線が引かれているのを見た、と」
「それだけか」
「……それから」
お滝はそこで、ためらった。
「言え」
「帳面の隅に、母の名前も見たような気がすると」
忠相の目が細くなる。
「お滝、お前のか」
「はい」
「どう書かれていた」
「そこまでは。あの子も混乱していて、はっきり読めたわけではないようでした。ただ、『預け』『返し』『金』……そういう字が並んでいた気がすると」
源之丞が低く言った。
「金」
忠相もその言葉を重く受けた。
火の夜の真相は、単に“子を入れ替えた”だけではないのかもしれない。
預け子。
返し。
金。
もしそこに金のやり取りまで絡んでいるなら、近江屋とお滝の間の話は、人情や情けだけでは済まない。
だから帳面を欲しがる手が複数あるのだ。
「お滝」
「……はい」
「お前は、その帳面のことを誰かに話したか」
「いいえ」
「本当にか」
「……後家様には、『あの子が昔のことを知りたがっている』とは知らせました。でも帳面のことまでは」
「では、なぜ裏木戸へ行った」
「会わせてほしかったのです」
「誰に」
「佐吉に」
「近江屋は今、あの若者が死んだことにされかけている。そこへ会わせろと」
「それでも、会いたかった」
お滝はそこで、真っ直ぐ忠相を見た。
「十年前、私は、あの子を自分の手で離しました。生かすためでした。でも生かされた先で、あの子は別の名を着せられ、別の家の空気で息をしていた。私はそれを知りながら、遠くから見るしかなかった。今さら母親面をする気はありません。けれど……」
「けれど、何だ」
「死んだことにされる前に、一度くらい、自分の名前で呼んでやりたかった」
その一言に、部屋が静まった。
源之丞も弥吉も、しばし何も言わなかった。
忠相はその言葉の重みを、しばらく沈黙のまま受け止めた。
人は時に、あまりに遅い時刻になってから、ようやく正しいことを言う。
それが間に合うかどうかは別だ。
だが、遅いからといって嘘になるわけではない。
「佐吉はいまどこへ」
再び問うと、お滝は首を横に振った。
「ここを出たあとまでは」
「一人でか」
「……いえ」
忠相の目が止まる。
「誰と」
「男が、外で待っていました」
源之丞の声が低くなる。
「誰だ」
「顔をよくは見ていません。ただ、痩せた男で、筆と紙を入れるような細長い包みを背負って……」
弥吉が舌打ちに近い息を漏らした。
「嘉兵衛か」
「あるいは、それに似た筋の誰かだ」
忠相が言った。
「佐吉はその男を知っている様子だったか」
「最初は警戒していました。でも、男の方が『お前の名を知っている』と」
「それでついて行った」
「……はい」
忠相は静かに息を吐いた。
これでまた一つ、線が繋がる。
嘉兵衛か、それに近い男が、佐吉に接触している。
しかも“名”を餌に。
帳面のことを知っている可能性が高い。
おそらく脅し文とも無関係ではない。
だが、ここでさらに気になるのは、お滝が口にした「預け」「返し」「金」であった。
帳面は、単なる育児の記録ではない。
そこには、預かり子として佐吉が近江屋へ入った経緯、それに対する何らかの金の動きまで書かれている可能性がある。
それが事実なら、火の夜の入れ替えは、情や家の都合だけでなく、もっと冷たい帳場の理屈とも繋がる。
「お滝」
「はい」
「お前は、子を預けた時、金を受け取ったか」
女は、目を伏せた。
「……少し」
「いくらだ」
「覚えておりません」
「嘘だな」
「……二両ほど」
源之丞が眉をひそめる。
「二両」
「最初は断りました。でも、先代が『これで身を立て直せ』と」
「返したか」
「返せませんでした」
「火の夜のあともか」
「……はい」
「では帳面に『預け』『返し』『金』があるのは当然だな」
お滝は小さく頷いた。
「お前はそれを知っていた。だから帳面が世に出れば、自分まで引きずり出される」
「……はい」
「なのに裏木戸へ来た」
「それでも、あの子に会いたかったからです」
忠相は長く息を吐いた。
これで、お滝の沈黙もまた一つ剥がれた。
母として会いたい。
だが同時に、預かり金のこと、自分が子を離したこと、それが帳面に残っていることも恐れている。
善だけでも悪だけでもない。
人の事情はいつも濁っている。
「旦那」
弥吉が低く言った。
「そろそろ、近江屋の話が“家の情”だけじゃなくなってきやしたね」
「うむ」
「帳面を欲しがる手が増えるわけで」
その通りだった。
帳面には、
松之助の死。
預かり子の存在。
名の書き換え。
預け金。
返しの記録。
おそらくは、その後佐吉として戻すための手立てまで繋がる可能性がある。
これ一冊があれば、近江屋の面目も、お滝の過去も、佐吉の今も、一息に崩れる。
「お滝」
忠相は最後に問うた。
「火の夜、松之助と預かり子が“入れ替わった”のは、誰の考えだ」
お滝は長く黙った。
それはこれまででいちばん重い沈黙であった。
「……先代です」
「お紺ではなく」
「後家様も最後には承知しました。けれど、最初に言い出したのは先代です」
「お前は反対した」
「しました」
「それでも従った」
「……はい」
「なぜ」
お滝は目に涙を溜めたまま、しかし泣きはしなかった。
「生きている子を、あのまま抱いて外へ出れば、私にはもう食わせられなかったからです」
忠相はうなずいた。
結局、そこなのだ。
入れ替えは、単なる悪巧みではなく、切羽詰まった暮らしの中で行われた。
だから十年も持ってしまった。
誰もが少しずつ正しく、少しずつ間違っていたからである。
そこへ、外で小さく戸を叩く音がした。
全員が一斉にそちらを見る。
弥吉が立ち上がり、そっと戸に寄る。
気配を探り、低く声を返した。
「誰だ」
外から返ったのは、子どもではないが若い男の声だった。
「……新吉だ。近江屋の」
源之丞がすぐに戸を開けると、飛び込んできた新吉は息を切らし、顔を真っ青にしていた。
「お、お奉行様……!」
「何だ」
「近江屋に……嘉兵衛みてえな男から、言伝が!」
「どのような」
新吉は息を整える間も惜しむように言った。
「『帳面を返さなけりゃ、今夜中に“本当の子”の名を町にばらす』って……!」
弥吉が吐き捨てるように笑った。
「ずいぶん派手になってきやしたね」
だが忠相は、その言葉より新吉の次の一言を待った。
「それだけじゃねえんです……。そいつ、『もう一人の子は、生きてるだけじゃねえ』って……」
部屋の空気が凍る。
「どういう意味だ」
新吉は震えながら答えた。
「『入れ替わった幼子は、今も近江屋の勘定にぶら下がってる』って……」
忠相の目が細くなる。
勘定にぶら下がっている。
つまり、火の夜の入れ替えは、過去の一件として終わっていない。
金の流れか、名義か、あるいは相続や商いの上で、今もなお“その子”の存在が帳場の上で生きているということだ。
帳面を欲しがる理由が、ここでさらに増えた。
家の恥を隠すためだけではない。
今の近江屋の金や立場そのものが、その夜の嘘に繋がっている可能性がある。
忠相は立ち上がった。
「源之丞」
「は」
「近江屋へ戻る」
「今すぐに」
「そうだ。もうこれは、失踪した若い手代の身の上話では済まぬ」
「勘定、でございますか」
「うむ。火の夜に入れ替わった幼子は、十年前に名だけを奪われたのではない。今もなお、近江屋の金と地位のどこかに繋がれたまま生きている」
お滝が青ざめた顔で忠相を見た。
「そんな……」
「お前が知らぬ話も、まだあるということだ」
母も、後家も、番頭も、それぞれ自分の知る範囲だけで沈黙してきた。
だがその沈黙の外側に、帳場の理屈でものを考える者が別にいる。
嘉兵衛か。
それとも、近江屋のもっと古い勘定を握ってきた誰かか。
いずれにせよ、火の夜の入れ替えは、ただ一人の幼子を別の名で生かしたというだけではなかった。
その子の存在を使って、家の金と跡目と帳場の上の理屈まで調整した者がいる。
だからこそ、帳面が今もなお命取りになる。
忠相は戸口で振り返り、お滝へ言った。
「ここを動くな」
「……佐吉は」
「まだ生きている」
お滝の目が揺れる。
「そう思う根拠が」
「死んだことにしたがる手が、これほど慌てているからだ」
それだけ言って、忠相は外へ出た。
深川の夜気は冷たかった。
だが、その冷たさの中に、ようやく次の真の輪郭が見え始めていた。
火の夜、幼子は入れ替わった。
だが入れ替わったのは、名だけではない。
その子が生きる先の“勘定”まで、何者かが入れ替えたのだ。
つまり、十年前の嘘は今も終わっていない。
近江屋の帳場のどこかで、毎日の金の流れの中に、ずっと息をしている。
つづく




