第七話 お紺の沈黙
沈黙には、いくつか種類がある。
知らぬから黙る者。
怯えて黙る者。
怒って口を閉ざす者。
そして、知りすぎているがゆえに、何を言っても誰かを傷つけるとわかっている者の沈黙。
もっとも重いのは、たいてい最後のものだ。
近江屋の裏木戸から現れた頭巾の女は、驚くほど足が速かった。
夜の江戸の裏路地は、昼とはまるで別の町になる。表通りの賑わいが引いたあとには、細い路地、井戸端、木戸の影、川風の抜ける隙間ばかりが残り、人の足音ひとつで空気の濃さまで変わる。女はその闇に慣れていた。裾を乱さぬようわずかに持ち上げ、振り返りもせず角を二つ三つ折れていく。知らぬ者なら迷うような細道を、躊躇なく選んでいた。
「逃がすな!」
源之丞の低い声が飛ぶ。
弥吉は横手へ走り、下役が反対側へ回る。忠相自身は深追いこそせず、近江屋の裏木戸に残った年配の女中へ視線を据えた。今、むやみに皆で追えば、路地の奥で見失う可能性が高い。それより、この場に“受け取るはずだった側”が残っていることの方が大きい。
女中は戸に片手をかけたまま、真っ青になって硬直していた。五十を越えたあたりか、奥向きに長く仕えてきた女特有の、目立たぬが抜け目のない顔つきである。だが今は、その抜け目のなさも吹き飛んでいた。
「誰だ」
忠相が静かに問うと、女中は膝から崩れそうになりながら頭を下げた。
「も、申し訳ございませぬ……!」
「何を渡そうとしていた」
「わ、私は……その……」
「見せよ」
女中の手に残っていた小さな包みを源之丞の代わりに忠相自身が受け取る。薄い紙で幾重かに包まれたそれは、重くはない。開けば、中から出てきたのは古びた小さな櫛と、女ものの守り袋、そして折りたたまれた短い文であった。
忠相はまず文を開く。
――会わせてほしい
――あの子が生きているなら、一度だけ顔を見たい
――帳面のことはもう口にしない
筆は脅し文のものとは違う。崩し字ではあるが、もっと切実で、うまく見せようとする気取りがない。文の末尾に名はない。だが、その短さの中に、長い我慢の跡がある。
「会わせてほしい、か」
忠相が低く呟くと、女中は震える声で答えた。
「わ、私は頼まれただけにございます。あの方が来ると……昔から……」
「昔から、とは」
女中はしまった、という顔をした。
「申せ」
「……たまに、様子を聞きに……」
「誰の様子だ」
「……佐吉様、の」
源之丞が追っていた足音が遠くなっていくのを、夜の路地の向こうに聞きながら、忠相は目の前の女中から視線を外さなかった。
やはりだ。
裏木戸へ来た女は、帳面を狙う脅迫者ではなく、佐吉に会いたがる側の人間である可能性が高い。少なくとも、この文はそう読める。ということは、今近江屋の周りには、最低でも二つの手が動いている。
一つは帳面を求め、草履や脅し文で家を揺さぶる手。
もう一つは、佐吉の生死そのものを気にし、ひそかに近江屋と繋がろうとする手。
問題は、その二つが同じ者か別の者かであった。
「この女の名は」
「……お滝、と」
「何者だ」
「そ、それは……」
「まだ黙るか」
女中は膝をつき、額がつくほど頭を下げた。
「お許しを……! 後家様から、もしもの時は何も申すなと……!」
忠相は一瞬だけ目を閉じた。
結局、ここへ戻る。
お紺の沈黙。
お紺が口を閉ざせば、家の中の者は皆その沈黙を守る。
忠義か、恐れか、その両方か。
「お紺に会う」
忠相が言うと、女中は顔を上げかけてまた伏せた。
「い、今は……」
「今だ」
奥座敷へ入ると、お紺はすでに起きていた。灯の下に座る顔は青白いが、取り乱してはいない。先ほど裏木戸で起きた騒ぎはもう耳に入っているのだろう。障子の向こうに人の気配が増えたことを感じている顔だった。
忠相が包みと文を前へ置くと、お紺の表情が静かに固まった。
「見覚えは」
しばらくののち、お紺は低く答えた。
「……あります」
「名は」
「お滝」
「何者だ」
「……昔、子を預けた女にございます」
源之丞が息を呑む。
忠相はその反応を見ずに問うた。
「佐吉の母か」
お紺は、ゆっくりと、だが確かに頷いた。
座敷の空気が一段重くなる。
これまで火の夜の骨は見えていた。
預かり子がいたこと。
その子を松之助として置いたこと。
のちに外へ出し、佐吉として戻したこと。
だが、その子を預けた女の姿は、まだ霧の向こうだった。
今、その霧に顔ができた。
「なぜ今まで隠した」
お紺は少し唇を引き結んだ。
「申せば、あの女まで引きずり出されます」
「すでに引きずり出されつつある」
「……」
「裏木戸へ来るほどだ。向こうも黙っているだけでは済まなくなっている」
お紺は文に目を落としたまま言った。
「もう口にしない、とありますでしょう」
「帳面のことか」
「はい」
「では、口にしたことがあったのだな」
お紺は答えなかった。
その沈黙を見て、忠相は包みの中の櫛を手に取った。木の色は飴色に変わり、歯の一本が欠けている。長く女が使ってきた品だ。守り袋もまた、何度か縫い直した跡がある。金目のものではない。だが、会わせてほしいという文とともにこれを渡そうとしたのなら、そこには単なる懐旧以上の意味がある。
「この櫛は何だ」
「……あの女のものです」
「なぜ佐吉に渡す」
「昔、あの子が幼いころ……よく、その櫛を握っておりました」
源之丞が低く問う。
「母の形見として、でございますか」
お紺は首を横に振った。
「形見というほど立派なものではございません。ただ、離す時に、あれしか渡せなかったのです」
「離す時」
「……火の夜のあとです」
忠相は櫛を静かに置いた。
「お滝は、なぜ子を預けた」
「それも、申さねばなりませんか」
「今さら惜しむほど、口は閉じておらぬ」
お紺は長く息を吐いた。その息は、十年分の疲れを少しだけ含んでいるように聞こえた。
「……お滝は、先代の囲いではございません」
源之丞の顔がわずかに動く。どうやらそこを疑っていたらしい。
「では」
「あの女は、先代の縁者筋の家にいた下女でした。事情があって子を抱え、表では育てられなくなった」
「事情とは」
「男です」
「その男は」
「逃げたか、消えたか……。あの女は多くを語りませんでした。ただ、子を抱えたままでは食っていけず、縁の先を頼ってこちらへ来たのです」
「近江屋が預かった」
「はい。先代は情のある方でもありましたから」
忠相はその言葉を胸の内で転がした。
情のある方。
たしかに、囲いでも嫡筋でもない子をひそかに家へ置くのは、情がなければできぬ。
だがその情が、火の夜には別の形へねじれた。
「お滝は、火の夜に子を取り戻さなかったのか」
お紺の目が揺れる。
「……取り戻せませんでした」
「なぜ」
「松之助が死にました」
「それは聞いている」
「家の中がひっくり返っている時に、あの子まで外へ出せば、何もかも露見します。先代は……“今はまだこのままにせよ”と」
「お滝は承知したのか」
「承知したのではありません。泣いて、怒って、それでも……最後には黙りました」
「なぜ」
「生きている子を、生かしておくためです」
その一言に、源之丞は黙り込んだ。
結局、またそこへ戻る。
誰かを守るための沈黙。
だが守り方を誤れば、その沈黙は刃になる。
「お滝はその後も近江屋と繋がっていたのだな」
「折に触れて、様子だけは」
「会わせたか」
「幼いころは、遠くから一度二度……。けれど、成長するにつれて難しくなりました」
「なぜ」
「顔です」
お紺はかすかに目を伏せた。
「大きくなれば、誰に似たかが出ます。松之助ではない、と気づく者が増える」
「それで七つ前に家の外へ出した」
「……はい」
「そして後に佐吉として戻した」
お紺は頷いた。
「お滝は承知していたのか」
「半ばまでは」
「半ば」
「戻す、と聞いた時には反対しました。けれど、他に居場所がないとも知っていた」
忠相はそこで、お紺の顔をじっと見た。
この女は、十年前の決断に深く関わっている。
松之助を失い、家を守るため預かり子をその名で置いた。
のちにまた佐吉として戻し、目の届く場所へ置いた。
冷たいと言えば冷たい。身勝手と言えばその通りだ。
だが、この女の中には、それを単なる都合だけで済ませられぬ感情も確かにあった。
「お紺」
「……はい」
「お前は、佐吉をどう思っていた」
お紺はその問いに、初めてすぐには答えなかった。
これまでの問いは、事実か、隠し事か、火の夜の筋か、そのいずれかであった。だが今問われたのは、自分の心である。事実より、よほど答えにくい。
障子の外で、風が細く鳴った。
灯が少しだけ揺れ、お紺の横顔に影がさす。
「……憎いと、思ったこともございます」
やがて、彼女はそう言った。
源之丞が息をひそめる。
「松之助がいなくなったあと、あの子がそこにいるのを見るたびに、この子が悪いわけではないと知りながら、胸がざわつきました。あの子が笑えば、松之助はもう笑わぬと知る。あの子が熱を出せば、今度は失ってはならぬと怖くなる。見れば苦しく、見ぬようにすればそれもまた気になる」
お紺は膝の上で手を重ねた。
「だから、家の外へ出した時には、少しほっとしたのです。ひどい話でしょう」
「……」
「けれど、戻ってきて、佐吉として働くようになってからは……」
「何だ」
「どうしても、松之助ではないのに、松之助の年を数えてしまうことがあったのです」
忠相は黙って聞いた。
それは恐ろしく歪んだ情だ。
失った子への執着と、残った子への罪悪と、十年かけて積もった習い性とが一つになっている。
母とも、主とも、加害者とも被害者とも言い切れぬ感情。
「佐吉は、それを知っていたと思うか」
お紺は首を振った。
「はっきりとは知らなかったでしょう。けれど、感じてはいたかもしれません」
「だから身の上を探り始めた」
「……はい」
「お前は、その時止めたか」
「止めました」
「何と言って」
「知らぬ方がよいこともある、と」
忠相は、苦くも笑わずもない息をついた。
お紺も清之介も、同じ言葉を口にしている。
知らぬ方がよい。
だがそれは、知れば壊れるからではない。壊したくないものがそれぞれあるからだ。
「お紺。裏木戸へ来たお滝は、いまどこへ行く」
「……深川の外れ、洲崎近くの裏長屋に」
やはり同じ場所である。
「佐吉もそこにいるか」
お紺は目を閉じた。
「わかりません。けれど、あの子が自分のことを知って逃げるなら、まずあの女を探すでしょう」
「なぜそう言い切れる」
「自分が何者かわからなくなった時、人は最初に“最初の手”へ戻りたくなるものです」
その言い方は、まるで自分自身のことを言っているようでもあった。
忠相は立ち上がった。
「源之丞」
「は」
「深川へ」
「今すぐに」
「そうだ。だが踏み込む前に一つ確かめる」
「何を」
「お紺の沈黙が、どこまで真かだ」
お紺が顔を上げた。
「……まだ疑われますか」
「疑うのが役目だ」
忠相は包みの櫛を見た。
「お滝は会わせてほしいと書いた。帳面のことはもう口にしないともな。ならば、お前とお滝の間には、すでに帳面を巡るやり取りがあったはずだ」
お紺の睫毛が震える。
「いつだ」
「……三月ほど前に、一度」
「何と」
「お滝が、『あの子が蔵で何かを見たらしい』と知らせてきました」
源之丞が鋭く問う。
「なぜお滝がそれを知る」
「佐吉が……会いに行ったからです」
部屋の空気がまた動いた。
「会ったのか」
「はい。一度だけ。深川で」
「では、お前は佐吉が失踪前に母と会ったことを知っていた」
「……はい」
「なぜ黙った」
お紺は唇を噛んだ。
「言えば、もう引き返せなくなると思ったからです」
「何が」
「近江屋の中だけの嘘では済まなくなるからです。外に、本当の母がいると知れれば、家もあの子も、お滝も、全部が――」
言葉は途中で切れた。
それ以上は言わずとも十分であった。
つまり佐吉は、火の夜の帳面に近づく前から、すでに自分の生まれに近いところまで来ていた。
深川でお滝に会い、何かを聞き、なお足りずに蔵を漁った。
そして帳面を見て、自分の名の痕跡を見つけた。
だから消えた。
「お紺」
「……」
「お前はまだ、佐吉が生きていると思っているな」
お紺はゆっくりと頷いた。
「草履が見つかったと聞いても、死んだとは思えませんでした」
「なぜだ」
「死ぬつもりの子なら……あんな文を残しません」
お縫へ託した置き文のことだろう。
忠相は短く頷いた。
「それは私もそう思う」
お紺はその一言に、わずかに目を見開いた。奉行が自分と同じ結論を言ったことに驚いたのか、あるいは少し救われたのか、その両方かもしれない。
座敷を辞したあと、源之丞が廊下で低く言った。
「お紺の申すこと、どこまで信じます」
「事実の骨は合っている」
「心の方は」
「それも多くは真だろう」
「ではなぜ、まだ疑うと」
忠相は歩みを止めずに答えた。
「真を言う者が、すべてを言うとは限らぬからだ」
源之丞は小さく頷いた。
まさにそれである。
お紺は今、かなり深いところまで口を開いた。
だがなお、“帳面を欲しがる手”については何も言っていない。
お滝は会わせてほしいと言い、帳面にはもう触れないと書いている。
ならば脅し文と草履と二通目の文は、お滝の仕業ではない可能性が高い。
つまり、近江屋を揺さぶるもう一つの手はまだ別にある。
「深川へ向かう前に、清之介を見張れ」
忠相が言う。
「番頭を」
「お紺が口を開いたと知れば、動く」
「何をしに」
「帳面か、人か、あるいは両方を押さえに」
源之丞の目が細くなる。
「佐吉より先に、お滝を探すかもしれませぬな」
「うむ」
花の江戸の夕べは短い。日が傾けば、店先の賑わいは一気に夜の支度へ変わり、川からは冷えた風が上がる。奉行所へ戻る道すがら、忠相の頭の中では、いくつもの線が静かに重なり始めていた。
お滝という女。
佐吉の本当の母。
深川で一度、佐吉と会っている。
帳面に近づいたことも知っていた。
近江屋の裏木戸と繋がっていた。
だが、脅し文の手ではなさそうだ。
では誰か。
嘉兵衛か。
それとも、まだ見えていない別の古い手か。
奉行所へ着くと、弥吉が先に戻っていた。今日も息が少し上がっている。
「旦那、深川の洲崎近く、当たりをつけやした」
「早いな」
「お滝って名じゃ通りませんでしたがね、似た筋の女なら一人」
「どのような」
「縫い物と洗い仕事で食ってる、年増の女でさ。表じゃ『お民』って呼ばれてる」
「住まいは」
「裏長屋の端。あまり近所付き合いはねえが、時々、若い男が夜に様子を見に来るって噂がありやして」
源之丞が言う。
「佐吉か」
「あるいは、別の誰かか」
忠相は静かに答えた。
「だが行く価値はある」
弥吉は頷いた。
「ただ、旦那。もう一つ」
「何だ」
「清之介の野郎、さっき店を抜けて、こっそり裏へ回ったそうで」
源之丞の目が鋭くなる。
「誰が見た」
「見張りの下っ端で。長くは出てねえが、戻った時、妙に慌ててたって」
忠相は少し考え、言った。
「お紺の口が開いたと知ったな」
「でしょうな」
「ならば今夜、深川へ向かう者は我らだけではあるまい」
源之丞がすぐに理解した顔をした。
「清之介も行く」
「あるいは使いをやる」
「佐吉か、お滝か、先に押さえるために」
「そうだ」
忠相は立ち上がった。
机上に置かれたお滝の文を懐へ入れる。
会わせてほしい。
帳面のことはもう口にしない。
その短い文は、脅しではなく願いだ。
だが願いだけで動けるほど、もう事は静かではない。
誰かが佐吉を死んだことにしたがっている。
誰かが帳面を取り戻したがっている。
誰かが母と子を再び引き裂こうとしているかもしれない。
そしてその間に、お紺はずっと沈黙していた。
家を守るために。
子を守るために。
自分の心を守るために。
だが沈黙は、守るだけでは終わらない。
長く続けば、それ自体が誰かを追い詰める。
佐吉はまさに、その沈黙の中で自分の名を失いかけた。
「参るぞ」
忠相が言うと、源之丞と弥吉が同時に頭を下げた。
深川の夜は、日本橋の夜より湿っている。
川の匂いが濃く、裏長屋の戸は薄く、人の暮らしの息遣いがそのまま路地へ滲み出る。
そこに、本当の母と、失われた名と、十年前の火から逃げきれなかった者たちの気配が待っている。
お紺の沈黙は、ようやく破れた。
だが破れたということは、次に誰かが必ず動くということでもある。
火の夜のあと、近江屋は名前を書き換えた。
今夜、その書き換えられた名を取り戻そうとする者と、もう一度塗り潰そうとする者とが、同じ闇の中で動き始める。
つづく




