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『花の江戸、嘘の影 南町奉行・大岡忠相事件控』  作者: 常陸之介寛浩 ㊗️書籍刊行中✑書籍絶賛受付中


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第六話 番頭の正しすぎる理屈

人が嘘をつく時、もっとも始末が悪いのは、全部を作り話にする者ではない。


 本当に厄介なのは、事実をいくつも並べ、その間を自分に都合のよい筋で繋ぐ者である。

 そういう嘘は、聞く者の耳に入りやすい。なぜなら、端々に真が混じっているからだ。

 金が消えたのは本当。

 手代が姿を消したのも本当。

 川岸に草履が落ちていたのも本当。

 そこへ「だから盗んで逃げ、思い詰めて身を投げたのだ」という筋を一本通せば、話はそれらしく整う。


 整う、ということは、人の心を安心させる。

 だからこそ、整いすぎた理屈は危うい。


 その日の朝、南町奉行所の一室には、近江屋の番頭・清之介が再び呼び出されていた。


 白洲ではなく、詰問のための座敷である。表向きは、失踪した手代に関する詳しい聞き取りを重ねるため。だが実際には、忠相はこの男の“筋”を崩しにかかっていた。


 障子を通して入る朝の光は柔らかい。庭の砂利も、軒下の影も、静かで整っている。こういう静かな場所ほど、人は自分の用意した言葉をよく響かせられる。だが同時に、余計な一言もまたよく響く。


 清之介はきちんとした身なりで座っていた。浅葱の羽織に黒の帯、商家の番頭として不足のない装いである。顔色はこの数日でいくぶん悪くなっていたが、それでも背筋は伸び、口を開けば相変わらず理路は通るように見えた。


 忠相は急かさず、まず茶を一口飲んだ。


「清之介」


「は」


「お前の申すところによれば、佐吉は近ごろ落ち着きなく、蔵の方をうろつき、口入れ屋へも通い、ついには帳場の金を持って消えた。そうだな」


「左様にございます」


「さらに川岸では草履も見つかった」


「……はい」


「となれば、お前の筋ではこうか。佐吉は自らの素行の悪さゆえに金へ手をつけ、逃げたのち、行き場を失って身を投げた」


 清之介は一拍置いてから、深く頭を下げた。


「恐れながら……その可能性が高いものと」


 忠相は少しも表情を変えなかった。


「なるほど。筋は通る」


 その一言に、清之介の肩がほんのわずかに緩んだ。

 だが、次の瞬間にはその緩みが罠であったと知ることになる。


「では一つずつ聞こう」


 忠相は机上の書付へ目を落とした。


「まず、金だ。三両二分消えたと最初に申したな」


「はい」


「帳場のどこからだ」


「勘定箱にございます」


「勘定箱の中には、その夜、いくら入っていた」


「……八両余り」


「では三両二分だけが消えた」


「左様にございます」


「なぜ残りはそのままだ」


 清之介が僅かに眉を動かした。


「そ、それは、急いでいたか……あるいは、目についたところだけを」


「帳場の小窓から忍び込み、鍵も使わず、急いでいる者が、なぜぴたり三両二分だけ抜く」


「……」


「残りを数える余裕があったのではないか」


「た、たまたま、そのくらいを取って……」


「たまたまで三両二分か。二両でも五両でもなく」


 源之丞が横で、ぴくりとも動かずに立っている。武骨な男の無言は、問いそのものより圧になることがある。


 清之介は喉を湿らせた。


「帳場の金は、日ごとに整理しており……その時、表に出しておいた小分けの分が、ちょうどそれだけで」


「最初からそう申せばよかろう」


「……」


「今のは後から継ぎ足した理屈だな」


 清之介は言葉を失った。


 忠相はさらに淡々と続けた。


「次に、口入れ屋通い。お前は佐吉が近ごろ妙だと言ったな。だがその“妙”を、最初から盗みへ結びつけておる」


「……結果から見れば、そうであった可能性が」


「結果、とは何だ。金が消え、姿が見えぬことだけだ。だが口入れ屋で佐吉が尋ねていたのは、自分の身の上のことであった。働き口を変える相談ですらない」


 そこまで言うと、清之介の顔に、初めてあからさまな不快が走った。


「身の上を詮索すること自体、奉公人として分を過ぎております」


 その言葉に、源之丞の眉がわずかに動く。

 忠相はそこで、逆に静かになった。


「清之介」


「は……」


「今、お前は“分を過ぎる”と申したな」


「……はい」


「つまり、佐吉が自分の身の上を探ること自体が、お前には都合が悪かったのだな」


「そ、それは」


「奉公人が過去を探れば、何が困る」


 清之介の呼吸が浅くなる。


「わ、私はただ、若い者が妙なことに気を取られて勤めを怠るのはよくないと……」


「勤めを怠る」


 忠相は机上の別の書付を開いた。


「近江屋の若い衆どもから聞き取ったところでは、佐吉はむしろ仕事ぶりは真面目で、客前でも大きな落ち度はなく、帳場へ無断で手を出した様子もなかったとある」


「若い衆は甘く見ます。番頭である私の方が、日々の様子は」


「その番頭が、最初から一人の若者を盗人と決めてかかっている」


 忠相はそこで文を畳んだ。


「理屈は立つ。だが立ちすぎる」


 部屋が静かになる。


 清之介は俯いたまま、唇の端だけを固くした。


「川岸の草履についても聞こう」


 忠相が言うと、番頭の肩がぴくりと揺れた。


「はい……」


「草履が一つ見つかっただけで、お前はすぐに『佐吉が思い詰めて』という筋へ行った」


「金を持って逃げた者が、のちに良からぬ考えを起こすことは……」


「草履の泥の付き方を見たか」


「い、いいえ」


「見てもおらぬのに、なぜ入水と決める」


「決めたわけでは……」


「では、なぜそう言う」


 清之介の口が止まる。


 忠相は視線だけで押した。


「お前の理屈はすべて同じだ。

 佐吉が怪しい。

 だから金を盗んだに違いない。

 だから逃げたに違いない。

 だから川へ入ったに違いない。

 そしてその“に違いない”を、本当のことのように繋いでいる」


 源之丞が低く言った。


「草履は、川へ落ちた者のものではありませぬ。後から置かれた形です」


 清之介が顔を上げた。


「……!」


「鼻緒の根元の泥は、一度乾いたあと表面だけ濡れていた。流されてきたなら、もっと別のつき方をする」


「そ、それは……」


「誰かが置いたのだ」


 忠相が言った。


「佐吉が死んだと思わせるために」


 清之介の顔がみるみる青くなる。

 驚いた顔だった。だがその驚きは、初めて聞かされる事実へのものというより、自分の組み立てた筋が崩されたことへの驚きに近かった。


 忠相はその顔を見て、胸の内で静かに印をつけた。


 この男は、草履が“置かれたもの”である可能性を考えたことがない。

 いや、考えぬようにしてきた。

 なぜなら、考えれば自分の理屈が壊れるからだ。


「清之介」


「……はい」


「お前は何を守っている」


「近江屋にございます」


「家か」


「はい」


「誰から」


「……」


「佐吉からか」


「……あやつが家を乱すなら」


「乱すのは、身の上を知ろうとしたからか」


 清之介は歯を食いしばるようにして答えた。


「人には、知らぬ方がよいこともございます!」


 その声は、初めて番頭らしい整えを失っていた。


「若い者が妙なことを知れば、自分も狂う、まわりも狂う! 家の中が揺れれば、何人の口が干上がると思し召しです!」


 源之丞が鋭く言う。


「だから盗人に仕立ててもよいと」


「そ、そこまでは!」


「では、どこまでだ」


 清之介は息を乱した。言葉が先へ続かない。怒りと恐れとが入り混じり、自分で何をどこまで言ってよいかわからなくなっている。


 忠相はその乱れを逃さなかった。


「草履を置いたのはお前か」


「違います!」


 即答であった。早すぎるほどに。


「では誰だ」


「知りません!」


「本当にか」


「……」


「文は。先代の筆に似せた脅し文は」


「知りませぬ!」


「嘉兵衛か」


 その名を出すと、清之介の目が揺れた。

 だが今度の揺れは、怯えよりも嫌悪に近かった。


「……あの男なら、やりかねませぬ」


「なぜそう思う」


「昔から、人の弱みを嗅ぎつけるのだけは上手い男でした」


「人の弱み、か。近江屋の何が弱みなのだ」


 清之介はそこで、また黙った。


 忠相は畳みかけない。黙りというものは、無理に破ろうとするとただの拒みに変わる。だが、そのまま置けば、自分で自分の喉を締めることがある。


「お前は嘉兵衛が嫌いだな」


 静かに言うと、清之介は顔をしかめた。


「……好きになれと申されても」


「似ているからだろう」


「何に」


「家を守るためなら、汚い手でも使うところが」


 番頭ははっとしたように顔を上げた。


「私は……!」


「違うか」


「私は、家を守るために……」


「そうだ。嘉兵衛もまた、自分の取り分を守るために動く。方向が違うだけで、使うものは同じだ。帳面、脅し、死人の名、そういうものを掴んでな」


 清之介は何も言えなかった。


 忠相は少しだけ間を置いてから、話を変えた。


「佐吉が失踪する前日、お前はあやつと何か話したか」


 清之介の目が泳ぐ。


「……少し」


「何を」


「働きぶりのことで」


「嘘だな」


「……」


「お前は佐吉が蔵のあたりを気にしていたのを知っていた。ならば、話したのはそれだ」


 清之介はようやく、小さく吐き出すように言った。


「……あれ以上、昔のことを嗅ぎ回るな、と」


 源之丞が低く唸るように息を吐いた。


「やはり脅したか」


「脅したわけではない! 忠告です! あれ以上進めば、あの若い者には抱えきれぬと……!」


「抱えきれぬ、とは」


「自分が何者かを知ったところで、何になるのです! 家にとっても、あやつにとっても、何一つ益にならぬ!」


「益にならぬから、黙れと」


「……はい」


「そのあと、佐吉は何と」


 清之介は目を伏せた。


「……『それでも俺は知らなきゃいけない』と」


 忠相は黙った。


 部屋の中に、春の庭から入る明るい風が一度だけ流れた。

 その明るさがかえって、清之介の顔の青さを際立たせる。


「お前はその時、何と返した」


「……『知れば、今の居場所も失うぞ』と」


「それは脅しだ」


「結果としては……そうだったかもしれませぬ」


 清之介の声には、もう最初の滑らかさがなかった。


 自分の組んだ理屈を一つずつ崩され、残ったのは家を守りたい一心と、そのために若い手代へ向けた冷たい言葉だけである。正しすぎた理屈の皮が剥がれれば、その下にあるのはたいてい、ひどく個人的で、ひどく狭い恐れだ。


 忠相はそこで、さらに一つだけ釘を打った。


「草履を置いた者を、お前は知らぬと言ったな」


「はい」


「だが、もし佐吉が生きているとしたら、お前はどうする」


 清之介は息を止めた。


 問い自体が予想外だったのだろう。


「……生きて、いる」


「そうだ。川へ入っていない。どこかに身を隠している。そうなれば、お前はどうする」


「……連れ戻します」


「どこへ」


「近江屋へ」


「なぜ」


「目の届くところに……」


 言いかけて、清之介は自分で口を閉ざした。


 源之丞が厳しい声で言う。


「つまり、また佐吉の身の上を押し隠し、家の都合の中へ閉じ込めるつもりか」


「……家の外へ放り出せば、あやつは本当に何者でもなくなる!」


 清之介はほとんど叫ぶように言った。


「近江屋におれば、少なくとも食えて、寝られて、名もある! 外へ出れば何になるのです! 預かり子だの身代わりだの、そんな話が世へ出れば、あやつはどこにも立てぬ!」


 忠相は、そこで初めて少しだけ目を伏せた。


 この男の言い分には、醜い部分と同時に、現実も含まれている。

 たしかに、真が明るみに出た時、佐吉は“近江屋の松之助”にも“ただの奉公人佐吉”にもなれなくなるかもしれない。

 だからこそ、お紺も清之介も口を閉ざし続けた。

 それは正義ではない。

 だが、ただの悪でもない。


「清之介」


「……」


「お前の理屈には、一つだけ足りぬものがある」


「何でございます」


「佐吉本人の意志だ」


 番頭は黙った。


「生かすためと言い、守るためと言い、居場所を与えると言う。だがそのどれも、お前たちが決めている。あやつが何者でいたいかは、一度も問うておらぬ」


 清之介は返せなかった。


 その沈黙で十分だった。


 聞き取りを終え、清之介が下がると、源之丞が吐き出すように言った。


「筋は立っておりました。たしかに」


「うむ」


「だがあまりに、あやつの考える“家の都合”ばかりで」


「だから正しすぎた」


 忠相は机の上に広げた書付を眺めた。


 金が消えた。

 佐吉は蔵を探った。

 口入れ屋へ行った。

 草履が出た。

 これらは全部事実だ。


 だがそこから清之介が組んだ筋は、すべて“近江屋にとって都合のよい結末”へ向かっていた。

 盗んで逃げた若い手代。

 身を投げた不心得者。

 そう片づけば、家の古傷はまた埋め直せる。


 源之丞が腕を組む。


「では、草履を置いたのは清之介ではない」


「おそらくな。少なくとも、あれを置くという発想はこの男のものではない」


「では誰が」


「もっと外から見ている者だ。近江屋の内情を知りつつ、家の中の理屈とは別の目的で動いている者」


「嘉兵衛か」


「まだ早い。嘉兵衛なら帳面を欲しがる理屈は立つ。だが、佐吉を“死んだことにする”必要があるかは別だ」


「……」


「佐吉が生きていて困る者は複数いる」


 忠相はそこで、机上の文を並べ直した。


 先代の筆に似せた脅し文。

 帳面を返せという二通目。

 川岸の草履。

 お紺への一行文。

 そして佐吉が残した置き文。


 別々に見えた手が、少しずつ輪郭を帯び始めている。

 だがまだ、ぴたりとは重ならない。


「源之丞」


「は」


「近江屋の中で、清之介以外に十年前のことをある程度察している者を洗え」


「若い衆ではなく、古い者ですな」


「うむ。帳場まわり、奥向き、乳母筋、出入りの寺や口入れ屋までだ」


「承知」


「それと、清之介が佐吉に『知れば居場所を失う』と言った件」


「はい」


「この言葉は、嘉兵衛のような外の者には出ぬ。近江屋の中で、同じ考えを持つ者が他にいれば、その者もまた口を閉ざしておる」


「家のために、で」


「そうだ」


 昼を少し過ぎたころ、弥吉が戻ってきた。今日は珍しく足音が速い。


「旦那、嘉兵衛のことで一つ」


「申せ」


「深川の代書屋筋から聞きましたがね、あいつ、先代の字を真似て文を書いたことがあるそうで」


「いつだ」


「近江屋を暇出される前から。先代が体を悪くしてからは、ときどき急ぎの書付を代わりに清書してたことがあったとか」


 源之丞が言う。


「ますます怪しいな」


「へい。けど、それだけじゃございやせん。嘉兵衛は『字は似せられても、あの人の頭の中までは真似られねえ』って酔うとよく言ってたそうで」


 忠相の指が止まった。


「頭の中、か」


「へい。つまり、先代の文の“形”は真似できても、“考え”までは別だって、自分で知ってたってことで」


 源之丞が低く言う。


「すると、最初の文のような芝居がかった文は、かえって嘉兵衛には書けぬかもしれませぬな」


「あるいは、書けるからこそ、逆に自分ではやらぬか」


 忠相は言った。


 嘉兵衛が先代の筆跡を真似られるのは事実。だが、筆跡を真似ることに長けた者ほど、“似せたつもりの偽物”に敏感であることがある。最初の脅し文には、形をなぞりながら中身が外を向いている不自然さがあった。


 だとすれば、あの文は嘉兵衛本人ではない可能性もある。


 あるいは嘉兵衛の技を知る者が、わざと嘉兵衛に疑いが向くよう書いたか。


「弥吉」


「へい」


「嘉兵衛が今も字を書いて食っているなら、紙や筆墨を買う場所がある」


「そこを当たれ、と」


「うむ。先代風の崩し字を好んで頼む相手がいたかも知れぬ」


「面白くなってきやした」


 弥吉はそう言いながら、目は笑っていなかった。


 夕方近く、忠相は一人で机に向かっていた。


 清之介の供述を、今朝の聞き取りから一つずつ書き出し、横に“確かな事実”を並べていく。

 三両二分。

 小窓。

 口入れ屋。

 草履。

 忠告。

 近江屋へ戻すつもり。


 こうして並べると、清之介の理屈はきれいだった。

 だが、きれいすぎる。

 まるで最初から「佐吉はこういう奴だった」という結論があり、そこへ事実を貼っていったようである。


 人間の現実は、そんなに綺麗には並ばない。


 佐吉は蔵を探った。

 だがそれは金のためではなく名のためだった。

 口入れ屋へ行った。

 だが奉公口ではなく身の上を尋ねた。

 草履が出た。

 だが川へ入ったのではなく置かれた。

 清之介は“事実”を持ちながら、その意味だけをすべて捻じ曲げていた。


 だからこの男は、犯人でなくとも共犯である。

 少なくとも、佐吉を“死んだことにしても困らぬ側”の人間だ。


 そこへ、障子の外で下役が声をかけた。


「お奉行様。近江屋の小僧、新吉が、どうしてもお目通りをと」


「通せ」


 入ってきた新吉は、昨日まで以上に青ざめていた。両手をついて座るなり、声を震わせる。


「お、お奉行様……」


「何だ」


「佐吉兄ぃのこと、俺……一つ、黙ってました」


 忠相は黙って続きを促した。


「失踪する前の晩、兄ぃ、番頭さんと話したあと、部屋へ戻ってきて……」


「うむ」


「その時、『もし俺がいなくなっても、あいつらの言うことを全部信じるな』って」


 源之丞が顔を上げる。


「誰のことだ」


「番頭さんと……あと、もう一人」


「もう一人とは」


 新吉は怯えた目で言った。


「店の奥に、たまに来る年増の女で……俺、名は知らねえんですけど、兄ぃはその女を見てからおかしくなったことがあって」


 忠相の目が細くなる。


「年増の女。どのような」


「いつも夕方近くに来て、表からじゃなく、裏木戸の方へ。番頭さんか後家様と少し話して、すぐ帰るんです。町の人みてえな格好だけど、近所の女房って感じじゃなくて……」


「佐吉はその女を知っていたか」


「その日、見た時に、兄ぃ、顔色変えてました。で、そのあと、『あの女をどこで見たんだろう』って……」


 忠相は源之丞と視線を交わした。


 深川の外れ。

 預かり子の母。

 裏木戸へ来る女。

 そして佐吉の顔色。


 火の夜から繋がる女の影が、また一つ、今の時間の中に現れた。


「新吉」


「は、はい」


「その女が来たのはいつだ」


「佐吉兄ぃが消える前の二日くらい……」


「なぜ今まで黙っていた」


 新吉は泣きそうな顔になった。


「だ、だって、店のことに余計な口出すなって……みんなそう言うし……」


 忠相は短く息を吐いた。


 また同じだ。

 守るための黙り。

 家を乱さぬための沈黙。

 それが積もって、真を遠ざける。


「よい。下がれ」


 新吉が去ったあと、源之丞が言った。


「預かり子の母かもしれませぬな」


「その可能性は高い」


「だが近江屋へ出入りしていたとなれば、清之介もお紺も承知でございます」


「うむ。そして佐吉がその顔に見覚えを覚えた」


「記憶の底に残っていた」


 忠相は立ち上がった。


「今夜、近江屋の裏木戸を見張る」


「女を待つので」


「来ぬならそれもよい。だが来るなら、ようやく“今動いている者”を掴める」


 夕刻、花の江戸の空は薄紫へと変わり、町の喧騒は一度沈んでから夜の顔へ移っていく。店の暖簾は畳まれ、裏木戸の方が生き始める時間だ。表の商いが終わるころ、内緒のやり取りはたいてい裏で動く。


 忠相は提灯の明かりを遠くに避け、近江屋の裏手の影へ身を置いた。源之丞と数人の下役、そして弥吉が散っている。夜気には川の湿りと、煮炊きの残り香と、木戸の古い木の匂いが混ざっている。


 しばらくは何もなかった。

 だが夜が一段深くなったころ、裏木戸のあたりに、人の気配がすっと滲んだ。


 女である。

 頭巾を深くかぶり、身なりは地味だが、歩き方にためらいがない。


 木戸の前で立ち止まり、そっと二度、板を叩く。


 内から、誰かが小さく返した。


 忠相の目が細くなる。


 女は待っていた。

 そして、その木戸を開けたのは――清之介ではなかった。


 小さく戸を開いたのは、近江屋の奥向きに仕える年配の女中である。

 お紺でも番頭でもない。

 だが明らかに、内情を知る側の者。


 女は一言二言ささやき、何か小さな包みを渡そうとする。

 その瞬間、忠相が静かに声を発した。


「そこで何をしている」


 闇が、ぴたりと止まった。


 頭巾の女が顔を上げる。

 その横顔を、かすかな灯が掠めた。


 忠相はその面差しに見覚えはない。

 だが、見覚えがないからこそ確信した。

 これは、近江屋の“いまの暮らし”の中にいない女だ。

 そして、おそらく佐吉の過去に属する女である。


 女は逃げた。


 源之丞が動き、弥吉が横へ走る。

 狭い裏路地に、草履の音が散る。


 十年前の火から続く影は、ついにいま、息をして走り始めた。


つづく

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