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『花の江戸、嘘の影 南町奉行・大岡忠相事件控』  作者: 常陸之介寛浩 ㊗️書籍刊行中✑書籍絶賛受付中


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第五話 死んだはずの者の筆跡

 人は、死んだ者が戻ることを恐れる。


 もちろん本当に墓の下から這い出してくるなどとは思っていない。恐ろしいのは、死んだはずの者が、名前や筆跡や記憶といった形で、こちらの暮らしの中へ不意に戻ってくることである。埋めたつもりのこと、焼いて消したつもりのこと、もう誰も知るまいと高をくくったことほど、ある日突然、紙切れ一枚の姿で目の前へ現れる。


 そしてそういう時、人の顔はよく動く。


 近江屋の川岸で見つかった佐吉の草履は、奉行所へ持ち帰られたあとも、忠相の机の端に置かれていた。


 片方だけの草履。

 鼻緒の擦れ。

 裏に残る小さな欠け。

 新吉の言葉どおり、佐吉の履物である可能性は高い。だが、その草履は川へ落ちた者のものには見えなかった。置かれたものである。見つかるために置かれた。つまり誰かは、佐吉が死んだと思わせたがっている。


 その誰かが、十年前の火の夜から続く筋と繋がっているのは間違いない。だが問題は、その手が今どこまで伸びているかだった。


 奉行所の朝は静かに始まったが、その静けさを破る報せは早かった。


 まだ日が十分に高くなる前、近江屋から使いが飛んできたのである。若い手代が青い顔で平伏し、ほとんど息も継がずに言った。


「後家様が……! 後家様のもとへ、妙な文が届きまして……!」


 源之丞がすぐに忠相の前へ進み出る。


「妙な文とは何だ」


「そ、それが……先代様のお筆に、よう似ていると……」


 忠相の指が机を軽く叩いた。


 来たか、と思った。


 死んだ子の名を書き換え、草履で入水を装い、脅し文を差し込んだその手が、次に使うとすれば、最も効くのは“死んだ者そのもの”を呼び戻すことだ。とりわけ近江屋のように、先代の死後もその名の影響が大きい家ではなおさらである。


「源之丞」


「はっ」


「近江屋へ」


 忠相が立つと、使いの若い手代は、まるでその一言で息が繋がったように大きく頭を下げた。


 日本橋の朝は忙しい。店の戸が開き、荷が入り、魚河岸からの匂いが風に流れ、通りにはあっという間に人の流れができる。だがその賑わいも、ひとつの店の内側で起きている騒ぎまでは隠しきれない。近江屋に着いた時、暖簾は出ているものの、店の空気は明らかに硬かった。客に向ける笑顔が薄く、奉公人たちの足取りも揃っていない。何かがあった店の顔である。


 奥へ通されると、お紺は顔色をなくして座敷にいた。昨日までの疲れもまだ抜けていないのだろう。頬は青白く、唇も乾いている。だがその手にはしっかり一通の文が握られていた。


「これにございます」


 差し出された文を忠相が受け取ると、紙は新しい。だが筆づかいはわざと古風に崩してあり、たしかに一見すれば“年を経た手”に見えなくもない。


 文面は短かった。


 ――お前たちが埋めた名は、まだ土の下で眠ってはおらぬ

 ――帳面を消しても、寺を直しても、あの夜は残る

 ――松は枯れ、残った子は誰のものだ


 源之丞が横から覗き込み、低く言った。


「脅しにしては、妙に回りくどい」


「うむ。脅すより、思い出させることが目的だ」


 忠相は文を畳まず、そのまま光へ透かした。紙そのものは市中で買える質。墨も新しい。つまり先代の遺した実物ではなく、誰かがわざと“それらしく”書いたものだ。


「お紺」


「……はい」


「これは誰が、先代の筆に似ていると言った」


 お紺は少しためらい、答えた。


「わたくしが……最初にそう思いました」


「本当に似ているのか」


「まったく同じでは……ございません。けれど、字の崩し方が……」


 横から清之介が口を挟んだ。


「私も、一目見てぞっといたしました。先代様がふと書かれる時の、あの独特の払いに似ております」


 忠相はその番頭を見た。


 青ざめた顔は作り物ではないように見える。だがそれと同時に、どこか“先代の筆だと信じたい”者の顔でもある。人は恐ろしいものほど、かえって自分からその形を与えてしまうことがある。


「清之介」


「は、はい」


「先代の書付は、どこまで見ていた」


「商いの文、内向きの覚え書き、折々に」


「ではこの文のどこが似ている」


「その……字の流れが」


「具体には」


 清之介の口が止まった。


 忠相はそこで、わずかに口端を動かした。


「一目でぞっとした者ほど、案外細かいところは見ておらぬものだ」


 源之丞が、ふ、と鼻で息をついた。


 お紺が不安げに言う。


「では……先代の筆ではないのでしょうか」


「死人が文を書くことはない」


 忠相は簡潔に言った。


「似せて書いた者がいる。それだけだ」


 お紺は目を伏せたが、その顔に浮かんだのは安堵ではなかった。死人の文でないとわかって安心するような状態なら、そもそもこんな文にここまで動揺しない。彼女はこの文面の意味そのものに揺さぶられているのだ。


 ――松は枯れ、残った子は誰のものだ


 それは単なる脅しではない。十年前の夜に近江屋で起きた選びを、ほとんどそのまま言い当てている。つまり書いた者は、外から噂を拾った程度ではない。帳面や寺の書き換え、あるいは火の夜の内情まで踏み込んで知っている。


「お紺」


 忠相は静かに言った。


「この文を書ける者に心当たりは」


「……」


「あるな」


 お紺の指がわずかに縮む。


「……ある、と申しましても」


「申せ」


「先代に仕えていた者の中で、字の癖まで真似られそうなのは……お一人だけ」


「誰だ」


「嘉兵衛です」


「何者だ」


 清之介が代わりに答えた。


「昔の内向きの書付や文の下書きをしておりました、手代上がりの者にございます。商いにも強く、筆も立ち、先代様のご意向を文に直す役目をしておりましたが……三年前に暇を出されました」


「なぜ」


 清之介の顔に、わずかな苦みが浮いた。


「酒と、口にございます」


 弥吉なら「だいたい両方ある奴はろくなもんじゃねえ」と言うところだろうが、今はそこにいない。


「どこへ行った」


「はっきりとは……。深川の方へ流れたとか」


 忠相は源之丞と視線を交わした。


 また深川である。

 預かり子の母の手がかりも深川。

 そして今、先代の筆を真似られる旧手代も深川。


 偶然としては重なりすぎていた。


「その嘉兵衛は、火の夜のことを知っていたか」


 問われると、清之介は明らかに答えに窮した。


「……奥向きのことにまで、どこまで」


「知っていたから暇を出したのではないか」


「そ、それは」


「言え」


「……先代様が亡くなった後、嘉兵衛は何度か、家の古いことを持ち出して、金の無心をいたしました」


 お紺がそっと目を閉じる。


「やはりな」


 忠相は言った。


「最初から申せばよいものを」


 清之介は額を畳につけた。


「申し訳ございませぬ……。家の恥を」


「家の恥では済まぬところまで来ておる」


 忠相は文を畳み、懐へ収めた。


 この嘉兵衛という男は、十年前の火の夜の真相を種にして近江屋を揺さぶることができる。筆跡まで似せられるなら、先代の名を借りて脅しを重ねることもできる。疑うには十分な人間であった。


 だが、あまりに筋が通りすぎてもいる。


 十年前のことを知る。

 先代の筆跡を真似られる。

 深川方面へ流れた。

 近江屋へ金を無心したことがある。


 ここまで揃うと、かえって“そう見せたい者”が別にいる可能性も浮かぶ。


「源之丞」


「は」


「嘉兵衛を探せ。だが捕らえるな。まず生きて動いているかを確かめろ」


「承知」


「弥吉にも回せ。酒場、筆耕、質屋の筋から当たらせる」


「はっ」


 忠相はそこで、あえてお紺へ向き直った。


「文を見て最も怯えたのは、この一節だな」


 そう言って指したのは、最後の一行だった。


 ――残った子は誰のものだ


 お紺ははっと顔を上げたが、否定しなかった。


「なぜだ」


「……」


「その問いは、お前にしか痛まぬ問いなのか」


 長い沈黙ののち、お紺はかすかな声で言った。


「……あの子が、誰のものでもなくなってしまうからです」


 清之介がぎくりとしたように顔を向けた。番頭にとって“家のもの”という感覚が強いのだろう。だが、お紺はそうではなかった。


「近江屋のものでもなく、預けた女のものでもなく、己が何者かも定まらぬままになる。そう思っておるのだな」


 お紺の瞳に、初めてあからさまな涙の色が滲んだ。


「……はい」


 忠相はそれ以上は責めなかった。


 この女は嘘を重ねた側の人間だ。だがその嘘を十年抱えてきた果てに、いま本当に怯えているのは、家の評判や跡目だけではなく、佐吉という一人の若者が何者でもなくなってしまうことなのだ。


 それは罪の軽さにはならぬ。

 だが、人の心としては真である。


 近江屋を出たあと、源之丞が歩きながら言った。


「嘉兵衛、でございますか」


「うむ」


「筋としては確かに立ちます。火の夜を知り、先代の筆を真似られ、金にも困っていた」


「だが、わかりやすすぎる」


「同感でございます」


 源之丞は少し考えたあと、さらに言った。


「もし嘉兵衛が本当に脅しているなら、もっと露骨に金を取りに来てもよさそうなものです」


「そうだ。ところが文は、金より先に記憶を揺さぶりに来ている」


「家を潰すのが目的か、あるいは……」


「誰かに思い出させたいのか」


 忠相は言ってから、ふと足を止めた。


 通りの向こうで、商家の番頭らしき男が筆屋から出てくるのが見えた。細長い包みを抱え、店先の暖簾を気にするように足早に去っていく。江戸では何でも金になる。反物も魚も、紙も、そして筆跡すら。


「源之丞」


「は」


「先代の筆に似せた文を書ける者は、嘉兵衛だけとは限らぬ」


「筆耕屋、代書人、文の下書きを請ける浪人……いくらでもおりますな」


「うむ。『似ている』という評ほど、当てにならぬものもない」


「では、どこを見る」


「筆跡そのものではなく、文の癖だ」


「癖」


「先代が本当に使う言い回しか。あるいは、先代の言葉を真似るつもりで、別人の考えが滲んでいないか」


 源之丞はしばらく黙り、やがて問うた。


「旦那には、もう何か見えておるので」


「少しな」


「どこで」


「『松は枯れ』という言い方だ」


「……おかしいので」


「近江屋の先代が、自分の嫡子をそう書くか。あまりに外から見た言い方だ」


 源之丞の目が細くなる。


「家の内の者なら、『松之助が死んだ』と書けば足りる」


「そうだ。わざわざ松に見立てて比喩にするのは、文を上手く見せたい者の筆だ。先代の実際の悲しみではなく、“それらしい文”を作っている」


 源之丞は深く頷いた。


 つまりこれは、先代の筆を借りているようでいて、実のところかなり“見せるための文”である。内情を知る者でありながら、同時に芝居がかってもいる。そこが引っかかった。


 奉行所へ戻ると、弥吉がすでに上がり框で待っていた。今日は珍しく、へらりとした調子が薄い。


「旦那。嘉兵衛の筋、少し見えやした」


「申せ」


「深川の裏長屋に、一時いたのは確かでさ。けど二月ほど前に姿を消してる」


「どこへ」


「そこまではまだ。ただ、筆の真似が上手ぇんで、時々代書屋の手伝いをしてたって話はありやす」


「酒は」


「相変わらず。口も悪い。で、一つ妙なのが」


「何だ」


「嘉兵衛のやつ、このところ『昔の帳面が手に入りゃ一財産だ』なんて吹いて回ってたらしいんで」


 源之丞が眉をひそめた。


「昔の帳面」


「へい。近江屋に限るとは言ってねえが、あいつが近江屋の古い話で無心してたって筋と合わせりゃ、たぶんそっちでしょう」


「帳面を狙っていた、か」


 忠相は机上の持ち帰った帳面へ目をやった。


 佐吉の置き文にも、蔵の下段の帳面が出ていた。

 つまり帳面は、佐吉だけでなく、嘉兵衛にとっても価値のある品だったことになる。


「嘉兵衛が近江屋へ忍び込もうとした形跡は」


「今んとこは。ただ、草履が見つかった川端あたりで、夜更けに酔っ払いと揉めたって話が一つ」


「誰と」


「それが、相手の顔がよくわからねえ。嘉兵衛みてえな痩せた男だったってだけで」


 忠相はしばし考えた。


 帳面。

 筆跡。

 深川。

 川端。

 嘉兵衛。


 いよいよ、火の夜の事情を知る者たちが、今の江戸で互いに帳面を奪い合い、脅し、あるいは先んじようとしている形が見えてきた。


 だが、その真ん中にいるはずの佐吉本人の姿が、まだない。


「弥吉」


「へい」


「嘉兵衛を探せ。だが帳面のことを吹いて回っていた相手を先に洗え」


「吹いて回る時ゃ、たいてい聞かせたい相手がいまさあ」


「そうだ。嘉兵衛は酔って口が軽いか、誰かに誘われて口を滑らせたかのどちらかだ」


「合点で」


 弥吉が去ったあと、忠相は文を改めて開いた。


 ――お前たちが埋めた名は、まだ土の下で眠ってはおらぬ

 ――帳面を消しても、寺を直しても、あの夜は残る

 ――松は枯れ、残った子は誰のものだ


 文の筋だけ見れば、書いた者はかなり深いところまで知っている。

 帳面の存在。

 寺の書き換え。

 松之助の死。

 残った子。


 これほど知っていて、なお“誰のものだ”と問うのは、単に金を脅し取る者の目ではない。もっと私怨に近いものか、あるいは、この一件そのものに人生を傷つけられた者の目である。


 そこへ、下役が慌ただしく障子を開けた。


「申し上げます! 近江屋より、もう一通文が!」


 忠相が顔を上げる。


「今度は何だ」


「店先の帳場へ、誰が置いたとも知れず……!」


 源之丞がすぐに立ち、忠相も文を受け取らせた。


 今度の紙は前のものより粗い。だが筆は同じ手に見える。文面は短い。


 ――蔵の帳面を戻せ

 ――さもなくば、次は寺ではなく町へ出す


 源之丞が低く言った。


「今度は、はっきり帳面を求めてきましたな」


「うむ。やはり帳面が狙いだ」


「嘉兵衛の線が濃くなりました」


 忠相はしかし首を横に振った。


「濃くはなった。だが、この文で一つ、さらにわかった」


「何でございます」


「最初の文を書いた者と、これを書いた者の目的が同じとは限らぬ」


 源之丞が文を見返す。


「筆は似ておりますが」


「筆は似せられる。だが、最初の文は記憶を刺しに来た。二通目は帳面をよこせと言っている。順番が違う」


「つまり」


「最初に家を揺さぶり、次に帳面を取ろうとする者。あるいは、最初の騒ぎに乗じて別の者が帳面を狙っている」


 源之丞が息を詰める。


「二人、いるので」


「可能性は高い」


 十年前の火は一つ。

 だがそれにぶら下がる思惑は一つではない。


 家を守りたい者。

 名を取り戻したい者。

 金に換えたい者。

 恨みを晴らしたい者。

 そして、死んだことにされた者の存在を世へ出したい者。


 事件が複雑になる時というのは、事実が増える時ではない。事実は少なくても、それを別々の思いで掴む手が増える時だ。


 忠相は二通目の文を畳んだ。


「源之丞」


「はっ」


「近江屋の帳面を戻すふりをする」


「囮、で」


「そうだ。渡すと言っておびき出せるなら、それもよし。動きが変わるだけでもよい」


「承知」


「ただし、本物は出すな」


 源之丞の顔に、ようやく少しだけ戦う前の静けさが宿った。


「ようやく、向こうもこちらへ手を伸ばしてきましたな」


「うむ」


「では、掴めます」


 忠相は頷いた。


 火事の夜の帳面。

 死んだはずの者の筆跡。

 それを真似る者。

 それを欲しがる者。

 それに怯える者。


 ばらばらだった影が、少しずつ同じ場所へ集まり始めている。


 夕刻、奉行所の机に向かって一人になった忠相は、二通の文を並べて見た。筆の払い、文字の傾き、文の呼吸。似ている。だがまったく同じではない。とくに「帳面」の二字の書き方に、二通の間でわずかな癖の違いがある。最初の文は“見せる文”、二通目は“急いだ文”だ。もしかすると同じ者が書き分けたのかもしれぬし、似せることのできる別人かもしれぬ。


 だが、もう一つだけ、はっきりしていることがあった。


 佐吉が見たのは、自分の名の痕跡だけではない。

 その帳面には、今もなお誰かが血眼で欲しがるだけの、もっと大きな意味がある。


 それが何かは、まだ言い切れぬ。

 だが少なくとも、十年前の火の夜に“誰が死に、誰が残ったか”を証するだけのものではない。

 その先の、人と家と金の筋まで繋がっている。


 だからこそ、帳面を欲する手が複数あるのだ。


 奉行所の外では、夜回りの拍子木が鳴った。

 江戸の夜は、秘密を抱えた者ほど足を速める。


 忠相は文を文箱へ納め、火を見た。


 死んだ者の筆は、戻ってこない。

 だが、生きている者が死んだ者の筆を借りたがる時、その胸の内には、たいてい自分の名前では届かぬ何かがある。


 近江屋を揺さぶっているのは、死人そのものではない。

 死人を借りねば言えぬ者たちだ。


 そしてその者たちは、今夜、帳面を餌にすれば必ずまた動く。

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