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『花の江戸、嘘の影 南町奉行・大岡忠相事件控』  作者: 常陸之介寛浩 ㊗️書籍刊行中✑本能寺から始める信長との天下統一


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第四話 十年前の火

 火は、燃えている時より、消えた後の方が長く残る。


 木を舐め、紙を巻き、黒く焦がして消えたはずの炎は、その場から消えてなお、人の胸の内でじりじりと燻り続ける。しかも厄介なことに、目に見える焼け跡は時とともに薄れるのに、心に残った焦げ跡ばかりは、年を経るほど妙にはっきり輪郭を持つ。


 近江屋の裏庭で、お紺が崩れたあの一件から、奉行所の空気は目に見えて張りつめた。


 お紺は医者に診せた結果、命に別状はないものの、心労が重なって強く気を乱したとされた。清之介は相変わらず「後家様のご負担が」と殊勝な顔を見せていたが、その顔の奥で何を恐れているのかは、もはや隠し切れていない。店内には見張りを置き、出入りする者の名と時刻を書き留めさせ、夜番も増やした。表向きは、失踪した手代が金を持って消えた件の吟味が続いているという形だが、実際にはもう、そんな単純な話ではなくなっている。


 忠相は奉行所の机に、近江屋の蔵から持ち帰った帳面を広げていた。


 表紙のない、地味な控えの帳面である。反物の出入りや勘定の覚え書きと紛れるように置かれていたが、中身は明らかに別であった。幼子に関する書きつけが混じり、薬代、乳母替え、夜泣き、衣類の仕立て、床払いの細々までが記されている。商家の表の帳面に載せる類のものではない。家の奥向き、それもよほど限られた者しか見ぬような記録である。


 そして何より問題なのは、そこに二つの幼名が並んでいることだった。


 一つは、松之助。


 もう一つは、墨が薄くなり、いったん線で消されたうえ、脇に別の印が書き添えられている。完全には読めない。だが、元の字の形から見て「佐」の字に近いものが残っているようにも見える。


 忠相は筆先でその部分を示した。


「源之丞」


「は」


 呼ばれて進み出た榊原源之丞も、もう何度目かの確認だが、やはり帳面へ身を寄せた。


「やはり二人、でございますな」


「うむ」


「片方は松之助。もう片方は名を消されている」


「しかも単に消したのではない。後から記しを足して、あたかも別の扱いに移したように見せている」


 源之丞は眉をひそめた。


「つまり、この家の中で、その子の立場が途中で変わった」


「そう見るのが自然だ」


「火事の夜を境に、でございますか」


「おそらくは」


 忠相は頁を閉じ、脇に置かれた別の書付へ手を伸ばした。


 それは昨夜のうちに寺から戻った報せである。近江屋の菩提寺にある過去帳には、松之助とされる幼子の記載がある。だが、その戒名の脇には削り跡と書き直しの痕があった。寺の者は、古いことでわからぬと口を揃える。もっとも、寺という場所は死人の事情には詳しくても、生きている家の都合にまで口を出したがらない。まして相手が老舗商家ならなおさらである。


「寺の小僧の行き先は」


「たどれました」


 源之丞が答えた。


「当時、まだ若い書付役をしておった者が、今は深川の外れの小寺におります」


「歳は」


「五十を少し越えたあたりとか」


「今日中に会う」


「承知」


 忠相は頷いたが、その前にもう一つ片づけねばならぬことがあった。


「清之介はどうしている」


「近江屋にて、お紺の看病と店の差配をしているふりをしております」


「ふり、か」


「はい。昨夜から妙に店の奥へ人を入れたがらぬ。帳場の者にも落ち着きがありませぬ」


「帳面を持ち出されたことが堪えておるな」


「ええ」


 忠相は少し考えた。


 清之介は、すべての真相を知っているわけではないだろう。だが、家の中で十年前の夜に何かが“そういうことにされた”のは知っている。そのうえで、その後の近江屋を守るため、都合の悪い話を封じてきた。つまり彼は、主犯ではないかもしれぬが、十年かけて嘘を維持してきた側の人間である。


「今は泳がせておけ」


「よろしいので」


「焦って動いた者は、たいてい自分の影を踏む」


 源之丞が下がると、入れ違いに弥吉が顔を出した。いつものようにへらりとした顔だが、今日は目の底に妙な光がある。夜のうちにかなり深く潜ったのだろう。


「旦那、ちいと面白くねえ話が拾えやした」


「面白くない話ほど役に立つ。申せ」


「近江屋の古い女中の一人が、今は本所の方で小さな飯炊き屋の手伝いしてるってんで、会ってきやした」


「口は軽かったか」


「軽くはありやせん。けど、人間、年取ると昔のことほど口が滑るもんで」


 弥吉はそう言ってから、声を少し潜めた。


「十年前の火の夜、近江屋の奥はえれえ騒ぎだったそうで。坊の具合が悪いだの、乳母が泣いてるだの、旦那衆が奥へ入っただの、そりゃもう火事どころじゃねえ顔もあったって」


「火事と病が同じ夜に重なった、か」


「へい。で、その古女中いわく、『あの晩から、家の中で呼び方が変わった』そうで」


 忠相の目が細くなる。


「呼び方」


「それまで誰かを呼んでた名を、急に皆が口にしなくなった。逆に、別の呼び方ばかりになったと」


「誰を」


「そこが肝心なところでしてね。古女中も自分じゃはっきり申さねえ。ただ、『同じ子を、前と後で違うふうに呼んでたような気がする』と」


 やはり、である。


 火の夜を境に、子どもの呼び名が変わる。そんなことが自然に起こるはずがない。病で死んだ子と、生き残った子が別人であるなら、名もそのままであるはずだ。だが実際には、同じ子を別の名で呼ぶようになった形跡がある。つまり、その夜に家の中で“どちらの子として扱うか”が決め直されたのだ。


「その古女中は、子を何人見た」


「二人、とまでは言い切りやせんでしたが、『奥の方に坊が寝てた』のとは別に、『土間に近い方で誰かが小せえ子を抱いてた』覚えはあると」


 源之丞が振り向く。


「おさよの言と合いますな」


「へい。まあ、火の晩のことで皆ごっちゃになってるんでしょうが、逆にごっちゃになってるからこそ、変なところばかり残るってやつで」


 忠相は机を軽く指で叩いた。


 ――奥の部屋に一人。

 ――蔵の前あたりにもう一人。

 ――火事。

 ――病。

 ――呼び名の変化。

 ――過去帳の書き換え。

 ――帳面の線引き。


 もう、偶然の積み重ねではない。


「弥吉、その古女中の名は」


「おきよって婆で」


「また会わせろ」


「へい。ただ、年寄りは一度しゃべったあと、急に怖くなって『何も知らねえ』って顔をすることもありやす」


「それでもよい。怖くなるということは、喋るべきでないと知っているということだ」


 弥吉は、へい、とだけ答えた。


 昼前、忠相は源之丞を連れて深川の小寺へ向かった。


 江戸の町は、場所が変われば匂いも音も変わる。日本橋の商いの匂いを離れ、川の近くまで来れば、水気を含んだ風と湿った木の匂いが鼻を打つ。深川の外れは、華やかな表町とは違い、どこか生活の裏面が見えやすい。寺の塀も黒ずみ、道端には昨日の雨の跡がまだぬかるみに残っていた。


 訪ねた小寺は、門も低く、庭も狭かった。だが掃き清めは行き届き、手入れされた草木に、住む者の几帳面さが窺える。迎えに出た老僧は、当時書付役をしていたというその人ではなく、今の住職だった。話を通すと、やがて奥からひょろりとした男が現れた。五十を越えたというが、痩せているせいかもっと老けて見える。頭は剃っているが、僧というより、長く寺の事務だけしてきた筆の人間という顔つきであった。


「昔、近江屋の過去帳を記したことがあるな」


 忠相が問うと、男は一瞬目を泳がせた。


「……昔のことにございます」


「昔のことだからこそ聞く。戒名の脇に、書き直しの跡がある」


「……」


「誰が書き直した」


 男はすぐには答えなかった。庭の方へ視線をやり、風に揺れる竹を見ている。その横顔には、十年分の黙りがこびりついているようであった。


「坊主よ」


 忠相が静かに言う。


「寺の帳面は、死人のためのものだ。そこへ生きている家の都合を入れたなら、そなたもまた片棒を担いだことになる」


 男は小さく肩を落とした。


「……私が、すべてを知っていたわけではございません」


「知っていたところまででよい」


「当時の住職の指図で、書き改めました」


「なぜ」


「近江屋様からの願いがあったと」


「どのような願いだ」


 男は唇を乾かした。


「亡くなったお子様のお名に、行き違いがあった、と」


 源之丞が低く問う。


「行き違い」


「はい。看病や火の騒ぎで、家の内が混乱しており、報せが錯綜したと。いったん伝えた幼名に誤りがあったから、改めてほしいと……」


「それを信じたのか」


「信じるも何も、寺は檀家の願いを無碍にもできませぬ」


「元は何と書いた」


 男は、そこで初めて忠相を見た。


「……それは」


「言え」


「松之助、では……ございませんでした」


 空気がしんとした。


 忠相は声色を変えずに続ける。


「では、何と」


「『佐』の字の入る幼名であったと……記憶しております」


 源之丞の視線が、忠相の顔へ向いた。

 忠相はわずかに目を伏せる。


 帳面の線で消された幼名。

 過去帳の書き換え。

 そして、失踪した手代・佐吉。


 この時点でまだ断定はできぬ。だが、火事の夜、寺へ伝えられた“死んだ子の名”は、もともと松之助ではなかった可能性が極めて高い。


「その後、なぜ松之助になった」


 男は首を振った。


「そこまでは……。ただ、住職は『家の内の事情に関わる。余計な口をきくな』と」


「その住職はもう亡いか」


「はい」


「生前、何か漏らしたことは」


「……一度だけ、『あの家は、死者の名より生者の都合を選んだ』と」


 忠相は黙ったまま、しばらくその言葉を胸の内で転がした。


 死者の名より、生者の都合。


 それはこの一件の本質を、ほとんどそのまま言い当てていた。誰が悪で誰が善か、そんな単純な話ではない。病んだ子、抱かれていたもう一人の子、家を守る後家、商いを守る番頭、何も知らぬまま大きくなった若い奉公人。どの時点でも、誰かにとっては「そうするしかなかった」理由があったのだろう。


 だが、そうして選ばれた“都合”は、十年たって一人の若者の足場を奪うに至った。


「源之丞」


 寺を出た後、忠相が言った。


「もう一度、火の夜を時で追う」


「時で、にございますか」


「うむ。人の証言は曖昧でも、時の並びは嘘をつきにくい」


「火が出た刻、病の急変した刻、寺へ報せが行った刻、過去帳が書かれた刻……」


「そうだ。火と死と名の入れ替えが、どの順で起きたかを詰める」


「承知」


 奉行所へ戻ると、忠相はすぐに記録を広げさせた。町年寄の火事控え、近江屋の帳面、寺からの聞き取り、おさよと古女中おきよの証言、お縫から出た文、そしてお紺へ届いた脅し文。それらを一つずつ並べ、言葉だけでなく、時の流れに沿って置き直していく。


 卯月十八日、夜。

 近江屋で小火。

 同じ夜、幼子が危篤。

 蔵の前にもう一人の子。

 報せは寺へ。

 過去帳にはまず「佐」の字の入る幼名。

 後に松之助へ書き換え。

 火の夜を境に、呼び方が変わる。

 その後、佐吉という若者が近江屋に奉公入り。

 近年、自分の身の上を探る。

 蔵で焼けた文と帳面を見る。

 失踪。


 紙の上で並べると、ばらばらだった話が一本の細い川になる。


 源之丞が腕を組んで言った。


「火の夜に死んだとされたのは、もとは松之助でなかった」


「うむ」


「では死んだのは、蔵の前にいた粗末な身なりの子の方か」


「まだそこまでは言えぬ」


「しかし、寺へ最初に伝えられた名が別なら」


「だからこそ、順を急ぐな」


 忠相は指先で机を叩いた。


「火の夜、家の中は混乱していた。死んだ子の名を取り違えたという筋も、理屈の上では立つ」


「ですが、それなら後からわざわざ呼び方が変わるのはおかしい」


「そうだ。だから私は“取り違えた”のではなく、“取り違えたことにした”と見ている」


 源之丞の顔が固くなる。


「近江屋の実子が松之助であったなら」


「死んだのは松之助で、残った子を松之助として生かした、という筋がまず立つ」


「では佐吉は……」


「その残った子である可能性が高い」


 言葉にすると、部屋の空気が一段重くなる。


 源之丞はしばらく黙り、それから低く言った。


「では近江屋は、十年前に実子を失い、別の子を実子として家に置いた」


「あるいは、一時そうした」


「なぜ」


「その問いに答えるには、まだ足りぬ」


 忠相は立ち上がった。


「後家にもう一度会う」


「今度は何を」


「順番を見せる。人は事実そのものを否定できても、順番まで見せられると、どこかで口が緩む」


 近江屋へ赴くと、夕刻前の柔らかな光が店先へ差していた。店の者たちは昨日までより明らかに落ち着かない。視線が泳ぎ、声を潜め、誰もが何かを待っている。もはやただの奉公人失踪では済まぬと、家の空気そのものが感じ始めているのだろう。


 お紺は奥座敷にいた。昨夜の動揺からは少し落ち着いたように見えるが、頬の色は薄く、目の下に影があった。だが、その目だけは昨日よりもどこか覚悟を帯びている。


「また、お尋ねに」


「うむ」


 忠相は座ると、前置きなく言った。


「十年前の火の夜、寺へ伝えられた亡き子の名は、松之助ではなかった」


 お紺の睫毛がぴくりと動いた。


「過去帳には書き直しの跡がある。蔵の帳面にも、幼名を消した形跡がある。家の中では、その夜から呼び方が変わったという証言も取れた」


 お紺は何も言わない。


「ここまで並べて、なお『昔のことは存じませぬ』で押し通すか」


 長い沈黙ののち、お紺はようやく、乾いた唇を開いた。


「……お奉行様は、どこまでおわかりなのです」


「わかっていることは多い。だが、まだお前の口から聞かねばならぬことがある」


「聞いて、どうなさるのです」


「真に近づく」


「真に近づけば、また誰かの名が傷つきます」


「すでに傷ついている者がいる。佐吉だ」


 その名を出したとたん、お紺は目を伏せた。


「……あの子は」


「何だ」


 お紺はすぐには続けなかった。だが今度の沈黙は、昨日までのような拒みではなかった。言葉の置き場を探している沈黙である。


「……あの子は、何も知らずに育つはずでした」


 忠相は黙って聞いた。


「火の夜、家の中は、もう滅茶苦茶でした。松之助は前から病んでいて、医者も、乳母も、女中も皆そちらへかかりきりで……そのさなかに小火が出て……」


「蔵の前にいたもう一人の子は誰だ」


 お紺の指が帯をきつく掴んだ。


「……近江屋の子ではありません」


「誰の子だ」


「それは……」


「言えぬか」


「言えば、その子を預けた者の名まで出ます」


「すでに十年だ」


「十年たったからこそです。今さら掘り返されて、誰が救われるのです」


 忠相は静かに言った。


「お前はまだ、“今さら”と思っている。だが佐吉は、今まさに足場を失っている」


 お紺の目が揺れた。


「火の夜、松之助は死んだのだな」


 お紺は、ようやく小さく頷いた。


 源之丞が、わずかに息を詰める。


「では、残った子を松之助とした」


「……はい」


「なぜ」


「家を、絶やせなかったからです」


 その声はかすれていたが、はっきりしていた。


「近江屋には、表に見えぬ事情がありました。分家筋がうるさく、商いも決して盤石ではなく、もし嫡の子が死んだと知れれば、家の中へどれほどの手が伸びるか……。先代も、それを恐れておりました」


「先代も承知であったか」


「……最後には」


「では、そのもう一人の子は、最初から松之助の身代わりとして置かれていたのか」


 お紺は首を振った。


「違います。あの子は、預かっていただけです」


「誰から」


「それは……」


「まだ言えぬのか」


「そこだけは……」


 忠相は少し黙った。


 ここで無理に預け主まで吐かせれば、口はまた閉じる。今は火の夜の骨を確かにする方が先だ。


「火が出た時、その預かり子はどこにいた」


「蔵の前です。乳母代わりの古女が、奥の騒ぎを避けて、そちらへ連れて出ていました」


「松之助は奥の部屋か」


「はい」


「そして松之助が死んだ」


「……はい」


「その直後、家の中で決めたのだな。預かり子を松之助として置くと」


 お紺は唇を噛み、ゆっくりと頷いた。


「誰が決めた」


「先代と……わたくしと、番頭筋の古い者が」


「清之介は」


「まだ若く、すべては知りません。ただ、後になって察したのでしょう」


「寺へ最初に伝えた幼名は」


「預かり子の方です」


「なぜ」


「混乱の中で、そちらを死んだ子として報せた方が、まだ都合がよかったからです。後から直せると思ったのでしょう……」


「なるほど。最初に死んだことにしたのは預かり子。だが実際に死んだのは松之助。だから後で過去帳を書き換えた」


 源之丞が低く呟いた。


「無茶な……」


「無茶でも、火と病と混乱の夜なら、人は押し通せると思ったのでしょう」


 お紺は目を閉じた。


「押し通したかったのです……。近江屋を、残したかった」


「そのために、残った子から元の名を奪った」


 お紺は答えなかった。答えぬことが答えだった。


 忠相はさらに問う。


「その子は、自分が預かり子であったことを知らずに育ったのか」


「幼いころは」


「ではいつ、近江屋を離れた」


「七つになる前です」


「なぜ」


「分家筋が、成長した顔つきを見て何か言い出すのを恐れたからです。病弱で人前に出せぬということにして、いったん家の外へ」


「そして後に、佐吉として奉公入りさせた」


「……はい」


「なぜ戻した」


「目の届くところに置きたかったからです」


 お峰の言葉と、ぴたりと重なる。


 忠相は深く息を吸った。


 これで筋は見えた。

 十年前、松之助は火の夜に死んだ。

 近江屋には別筋の預かり子がいた。

 家を守るため、その子を松之助として扱うことにした。

 だが成長すれば不自然が増すため、一度外へ出し、身の上を薄めたうえで後に佐吉として戻した。

 そして本人は近ごろ、自分の名に疑いを持ち始めた。


 火の夜の嘘は、十年かけて一人の若者を二度書き換えたのである。


「お紺」


「……はい」


「佐吉は今どこにいる」


 その問いに、お紺の目が大きく揺れた。


「知らぬ、では済まぬ顔だな」


「……わかりません」


「だが心当たりはある」


「……」


「誰が匿う」


 お紺は震える声で言った。


「もし、あの子が自分のことを知って逃げたのなら……行く場所は一つしかありません」


「どこだ」


「その子を預けた、女のところです」


 忠相の目が細くなる。


「女、か」


「名は……いまは、もう違う名で暮らしているはずです」


「どこにいる」


 お紺は唇を噛みしめ、やがて絞るように答えた。


「深川の外れ、洲崎の近くに……」


 源之丞がすぐさま顔を上げた。


「では」


「あわてるな」


 忠相は制した。


「お紺。まだ隠していることがあるな」


「……」


「佐吉に、根付や守り袋のことを教えた者は誰だ」


 お紺は目を見開いた。


「教えた者がおる。でなければ、蔵の下段を狙って帳面を見つけるまい」


「……わたくしではありません」


「清之介でもない」


「はい」


「では誰だ」


 お紺はかすかに首を振るだけだった。


 忠相はそれ以上追わなかった。ここで詰めればまた閉じる。


 だが一つ、確かなことがあった。


 この家には、お紺とも清之介とも別に、佐吉が真へ近づくのを見ていた者がいる。

 しかもその者は、守り袋をお縫の戸口へ置き、脅し文でお紺を揺さぶるだけの胆も持っている。


 つまり今動いている“第三の手”は、十年前の事情を知りながら、いま改めて事を動かしている。


 近江屋を辞するころには、日が大きく西へ傾いていた。春の夕べの光は柔らかいくせに、物の影だけをやけに長く伸ばす。店の格子も、通りの荷車も、行き交う人の足も、みな長い影を曳いていた。


 源之丞が歩きながら言う。


「これで、十年前の骨は見えましたな」


「うむ」


「火の夜、死んだのは松之助。生き残った預かり子を松之助として置き、のちに外へ出し、佐吉として戻した」


「そうだ」


「ならば、佐吉は近江屋の実子ではない。しかし家の都合により、そうであったかのように生かされた時がある」


「そうなる」


「……あまりに勝手な」


 武骨な同心の声に、珍しく怒りが滲んでいた。


 忠相は少し先の道を見たまま言った。


「勝手だ。だが十年前の彼らには、それしか見えなかったのだろう」


「それで許されるわけでは」


「許す話ではない。ただ、人が何かを誤る時、多くは悪意だけで誤るのではないということだ」


 源之丞は黙った。納得したのではない。ただ、それがこの奉行の見方であると知っているから黙ったのである。


 奉行所へ戻ると、忠相はすぐに洲崎近くの聞き込みを命じた。

 深川の外れ。

 違う名で暮らす女。

 十年前、近江屋へ子を預けた者。


 そこへ辿り着けば、佐吉の行方もまた近づくはずだ。


 だが、その矢先だった。


 夕闇が落ちるころ、見張りに出していた下役が駆け込んできたのである。


「申し上げます!」


「何だ」


「川岸にて、草履が見つかりました!」


 忠相の目が上がる。


「誰のものだ」


「近江屋の奉公人たちが、『佐吉の履いていたものに違いない』と……!」


 源之丞が舌打ちに近い息を漏らした。


「川へ投げたか」


「あるいは、投げたように見せたいか、だ」


 忠相は立ち上がった。


「場所は」


「日本橋川の下流寄り、荷揚げ場の少し外れにございます!」


「行くぞ、源之丞」


「はっ」


 夕暮れの江戸は、昼の賑わいがそのまま薄闇へ溶けていく。川沿いには荷の匂いと湿った板の匂いが混じり、橋の下には水の冷たい気配がまとわりつく。提灯がともり始めたばかりの薄明の中、草履が見つかったという場所には、すでに数人の野次馬が集まり、見張りの者が追い払っていた。


 草履は川べりの石の間に引っかかるようにしてあった。


 片方だけ。

 鼻緒は擦り切れ、若い男が日々履いたらしい癖がついている。近江屋から呼び寄せた新吉は、顔を青くしてそれを見つめた。


「佐吉兄ぃの……だと思います」


「思う、ではなく、確かか」


 源之丞が問うと、新吉は震えながら頷いた。


「裏に、小さく傷があって……前に兄ぃが、石に引っかけたって」


 忠相は屈み込み、草履の濡れ具合と泥の付き方を見た。


 川へ落ちた者の草履には見えなかった。


 鼻緒の根元に付いた泥は、一度乾いたあと、表面だけが浅く濡れている。流されてきたというより、つい先ほど置かれた形に近い。


「源之丞」


「はい」


「これは入水の証ではない」


「やはり」


「置いたのだ。しかも、人に見つけてもらえる場所へ」


 荷揚げ場からわずかに外れたとはいえ、見つからぬ場所ではない。むしろ半日もあれば誰かの目に入る。つまりこれは、佐吉が死んだと思わせたい者の置き土産だ。


 弥吉が後ろから息を切らして現れた。


「旦那!」


「どうした」


「近江屋の裏手で、見張りが妙な影を見たと!」


「誰だ」


「女でさあ。年増らしいが、暗くて顔はわからねえ。ただ、店の裏木戸の方をしばらく見て、それから川の方へ消えたと」


 忠相は川を見た。夕闇の水面は、薄い鉄のような色をしている。


 女。

 深川の外れ。

 預かり子の母か、あるいはその筋に連なる者か。

 そして草履。


 十年前の火は、いまようやく、川の水面にまでその影を伸ばしてきた。


「源之丞」


「は」


「近江屋の周りはそのまま固めろ。弥吉、お前は川沿いを当たれ。草履を置いた者は、まだ遠くへは行っておらぬ」


「へい」


「それと」


 忠相は草履から目を離さず言った。


「これは、佐吉が死んだという証ではない。むしろ生きている証だ」


 源之丞がうなずく。


「生きているからこそ、誰かが死んだことにしたがる」


「そういうことだ」


 花の江戸は、夜になれば昼の顔を脱ぐ。

 橋のたもと、川の水、提灯の灯、裏木戸の影。

 昼には見えなかったものが、夜には逆にはっきりする。


 十年前の火の真相は、ようやく見え始めた。

 だが、それが見えたということは、今度は“いま誰が何を隠そうとしているか”を追わねばならぬということでもある。


 草履は一つだけ、川べりに置かれていた。

 それは入水の証ではない。

 誰かが意図して置いた、“死んだことにしたい”という意思の形だ。


 そして、十年前にもまた、同じことがあった。


 死んだ子の名を取り替え、

 生きた子に別の名を着せ、

 都合のよい形で家を守った者たちがいた。


 今また誰かが、同じ手つきで一人の若者を消そうとしている。


 忠相は草履を見つめたまま、静かに言った。


「次は、火ではなく、水を使うか」


 その声は低く、だが冷たかった。


 十年前の夜が火の中で始まったなら、

 今度の夜は、水の縁から真に近づくことになる。

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