第四十話 紙片の続き
紙片というものは、ひどく頼りない。
ちぎれた端は何も語らず、墨は薄れ、残った文字だけでは、そこにあった声の形すらわからない。
けれど、頼りないからこそ怖いこともある。
全部が残っていれば、まだ人は読み方を決められる。
だが二文字だけ残された紙は、読む者に続きを想像させる。
その想像が、人の胸のいちばん弱いところへ入り込む。
――若様。
その二文字を前にして、座敷の空気は重く沈んでいた。
忠相は紙片を畳の上に置き、すぐには誰にも触れさせなかった。
直之は黙って見つめている。
若君としての顔を保とうとしているが、目だけはどうしてもそこへ吸われていた。
佐吉は、少し離れたところに座っていた。
笹井屋から戻る途中で呼ばれ、そのまま奉行所へ連れてこられたのである。
彼は紙片の意味をまだよく飲み込めていない顔をしていたが、それでも自分がただの届け人ではないことは感じているらしい。
「どこで見つけた」
忠相が問うと、佐吉は膝の上で指を組み直した。
「笹井屋の裏です」
「裏?」
「帳面の張り替えで出た古い紙を、まとめて置いてる箱があって。そこの底に、くっついてました」
弥吉が横から口を挟む。
「底に?」
「はい。糊が古くなって、剥がれかけてて……。店の親方が捨てようとしてたんですけど、なんか字が見えたから」
「拾った」
「拾ったというか、見せてもらっただけです。でも、若様って字が見えて……」
佐吉はそこで直之をちらりと見た。
直之はその視線を受けても、怒りも不快も見せなかった。
ただ、静かに言った。
「私のことだと思ったのですか」
佐吉は少し困った顔をした。
「正直、わかりません。でも、今この話ばっかりしてるから」
「そうでしょうね」
直之は苦くもなく、淡く笑った。
その笑いがかえって痛ましかった。
「今の江戸で“若様”という文字を見れば、皆、私へ寄せて考える」
「……すみません」
「謝ることではありません」
そのやり取りを、忠相は黙って聞いていた。
この二人を正式に向かい合わせるのはまだ早いと思っていた。
だが、こうして偶然のように同じ部屋へ置かれると、見えるものがある。
名を奪われた者と、名を着せられた者。
互いにどう声をかけてよいかわからぬまま、それでも相手を“自分とは違う同じ傷の側”として見ている。
源之丞が紙片を覗き込んだ。
「紙質は、返せぬ紙の倉にあったものと似ておりますな」
「うむ」
忠相は頷いた。
「だが同じとは言い切れぬ。笹井屋に流れた古紙かもしれん」
弥吉が顎を撫でる。
「流れた、ですか」
「返せぬ紙の倉から、すべての紙がそのまま眠っていたとは限らぬ。不要と見られた端紙、剥がした裏紙、包み紙は、町の紙屋や帳面屋へ流れた可能性がある」
「つまり、捨てたつもりの紙切れが、別の店で顔を出したってわけで」
「そうだ」
忠相は紙片をもう一度見た。
若様。
その下に続くかすかな墨の線。
名の一部か、文章の続きか。
まだ判断はつかない。
「佐吉」
「はい」
「笹井屋の親方は、この紙の出どころを知っているか」
「聞いたら、古い帳面の裏張りに使われてたんじゃないかって。でも、どの帳面かまでは」
「帳面は残っているか」
「たぶん、まだ店に。張り替え途中のものがいくつかありました」
忠相は立ち上がった。
「行くぞ」
源之丞がすぐに続く。
「今からでございますか」
「今からだ。紙は待ってくれぬ」
弥吉が小さく笑った。
「人は待たせるのに、紙は待たせないんで」
「余計な口を利くな」
「へいへい」
その軽口に、佐吉が少しだけ口元を緩めた。
直之もわずかに目を伏せる。
場の空気が、ほんの少しだけ人の息を取り戻した。
笹井屋は、神田寄りの細道にあった。
表通りに面した大店ではない。
間口は狭く、暖簾も古い。
店先には帳面、半紙、文箱、筆の束が控えめに並んでいる。
紙を売る店というより、紙の世話をする店という方が合っていた。
親方の笹井喜助は、五十前後の小柄な男だった。
愛想はよくない。
だが、紙を扱う手つきだけは丁寧で、指の腹が紙へ触れる時に妙な優しさがある。
「お奉行様が、うちみたいな小店へ何の御用で」
「この紙片だ」
忠相が紙片を見せると、喜助は目を細めた。
すぐには手を伸ばさず、まず紙の端と墨の滲みを見た。
「……ああ、それですか」
「覚えがあるな」
「今日、そこの若いのが見つけましたんで」
喜助は佐吉を見た。
佐吉は少し居心地悪そうに頭を下げる。
「元の帳面は」
「奥にあります。けど、たいしたもんじゃありませんぜ。古い帳面の表紙を剥がしたら、裏張りに別の書付が使われてた。それだけで」
「それだけかどうかは、こちらが見る」
喜助は肩をすくめた。
「そういうことなら」
奥へ通されると、作業場には古い帳面がいくつも積まれていた。
表紙を張り替えるもの、糸を通し直すもの、使える紙だけを抜いてまとめたもの。
紙の匂いが濃い。
乾いた匂い、古い糊の匂い、墨の名残。
佐吉はその中で、少し落ち着かぬように立っていた。
「どうした」
忠相が問うと、佐吉は小声で言った。
「近江屋の帳場を思い出します」
「嫌か」
「嫌です。でも……嫌だけじゃないです」
それでよい、と忠相は思った。
嫌だけなら、まだ近づかぬ方がいい。
嫌だけではないなら、そこに立てる余地がある。
喜助が一冊の古い帳面を出した。
「これです」
表紙は剥がされ、裏張りの紙がところどころ浮いている。
帳面そのものは商家の出入り控えに見えた。
だが裏張りに使われていた紙は別物だ。
何かの書付を細く裂き、表紙の補強に使っていたらしい。
源之丞が唸った。
「こうされると、元の文は読みにくい」
「だから裏張りに使ったんでしょうよ」
喜助が言った。
「字のある紙をそのまま捨てるのを嫌がる者もいれば、字が読めぬように裂いて使う者もいます。どっちにしろ、昔の紙は簡単には捨てません」
忠相は帳面を手元へ寄せた。
若様の紙片が剥がれた場所の周囲を、慎重に見ていく。
裂かれた紙の残りが、まだいくつか張り付いていた。
そこには、途切れ途切れに文字が見える。
――若様……
――……夜半、衣……
――……直……
――……口外……
直之の肩がわずかに揺れた。
「直」
弥吉が低く言う。
「直次郎か、直之か」
「どちらにも取れる」
忠相は言った。
それが厄介だった。
わざとそうなるように、名の一部だけが残っているようにも見える。
「親方」
「へい」
「この帳面はどこから来た」
喜助は少し考えた。
「古道具屋経由です。たしか、本所の方の蔵ざらえで出たとか」
「本所」
「ええ。でも、そこへ入る前はわかりません。古い帳面は何度も持ち主を変えますから」
「古道具屋の名は」
「亀八屋です」
弥吉がすぐに頷いた。
「知ってやす。古紙も漁る店で」
「当たれ」
「へい」
喜助は、話が思ったより大きくなってきたのを感じたらしく、少し口元を固くした。
「あの、お奉行様」
「何だ」
「この紙、やっぱりまずいものですか」
「まだわからぬ」
「わからない顔じゃありませんぜ」
この親方、思ったより目が利く。
忠相は少しだけ喜助を見た。
「紙を扱う者は、紙が人を傷つけることを知っているな」
喜助は目を伏せた。
「知ってます。
借金の証文も、離縁状も、奉公請けも、養子の書付も、ぜんぶ紙ですから」
「なら、口を軽くするな」
「へい」
その返事には、商売人の軽さではなく、紙を扱う者の重さがあった。
作業場を出る前、佐吉がふいに喜助へ頭を下げた。
「今日は、ありがとうございました」
喜助は少しだけ面食らったような顔をした。
「別に礼を言われるようなことはしてねえよ」
「でも、捨てなかったから」
その一言に、喜助の表情が少し変わった。
「紙を?」
「はい」
佐吉は自分でも何を言っているのか、少し迷いながら続けた。
「俺、帳面のせいで自分のことがわからなくなったんですけど。
でも、帳面が残ってたから、わかったこともあって」
作業場が静かになった。
「だから、その紙も、捨てられてたら何もわからなかったと思って」
喜助は、しばらく佐吉を見ていた。
それから、ぼそりと言った。
「……妙な若いのだな」
「よく言われます」
「言われてねえだろ」
弥吉がすぐに茶化すと、佐吉は少しだけむっとした。
その表情が年相応で、場の空気がまた少しだけ緩んだ。
笹井屋を出たあと、直之はしばらく黙っていた。
夕暮れの細道を歩きながら、彼は何度も何かを言おうとして、やめた。
やがて、ぽつりと言った。
「若様、という字を見た時」
「うむ」
「胸が痛むかと思いました」
「違ったか」
「痛みました。
けれど、それだけではありませんでした」
「何があった」
直之は前を見たまま答えた。
「私は、あの字を見て、少しだけ腹が立ったのです」
「何に」
「誰かが、私のことをまた紙の上で揺らそうとしていることに」
忠相は頷いた。
「それでよい」
「よいのですか」
「うむ。
怖いだけでは、人はまた誰かに決められる。
腹が立つなら、自分の名を他人任せにしない方へ進める」
直之は少し考え、それから小さく頷いた。
その横で佐吉が、少し離れて歩いていた。
直之はふと足を緩める。
「佐吉殿」
呼ばれて、佐吉は少し驚いた顔をした。
「殿って」
「失礼でしたか」
「いや、そんなことないですけど……慣れなくて」
直之は少しだけ笑った。
「私も、いま自分の呼ばれ方にはあまり慣れておりません」
佐吉は一瞬何か言いかけ、結局、短く言った。
「そりゃ、困りますね」
「ええ。困ります」
それだけの会話だった。
けれど、忠相には十分だった。
二人はまだ互いの傷を語る段ではない。
ただ、同じ場所に立ち、呼ばれ方の困りごとを共有した。
それで今はよい。
奉行所へ戻るころ、弥吉が先に駆け戻ってきた。
「旦那、亀八屋、当たりでした」
「早いな」
「古道具屋は口が軽いのが取り柄で」
「何が出た」
「笹井屋へ回った帳面、本所の蔵ざらえじゃありません。
本当は、返せぬ紙の倉の近くから出てる」
源之丞が低く言う。
「つまり、あの帳面も倉から流れた」
「へい。
しかも亀八屋へ流したのは、例の焼きに来た伊三郎じゃねえ。別の若い男です」
「逃げた方か」
「たぶん」
忠相は、手元の紙片を見た。
若様。
夜半、衣。
直。
口外。
これは偶然流れた紙ではない。
誰かが、燃やされる前に一部だけ外へ流した。
すべてを守る力はない。
だが、消される前にかけらだけでも残そうとしたのか。
それとも、こちらを誘うために撒いたのか。
どちらにせよ、灰になる前の名は、まだ完全には消えていなかった。
つづく




