表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『花の江戸、嘘の影 南町奉行・大岡忠相事件控』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

37/42

第三十八話 灰になる前の名

 燃やす、というのは便利なやり方だ。


 刀のように血がつくわけでもない。

 人を川へ沈めるように、遺骸が上がる心配もない。

 紙は燃えれば灰になる。

 灰になれば、そこに何が書かれていたかは、人の胸の中にしか残らない。

 だから昔から、家を守る者たちは、最後に火へ頼る。

 帳面も、書付も、名も、灰になれば片づいたことにできるからだ。


 だが、灰になる前に読む者がいれば、話は変わる。


 神田寄りの古倉で捕まえた男は、逃げそこねたというより、逃げるべきか踏みとどまるべきか、その一瞬を量り損ねた顔をしていた。


 三十前後。

 町人風の着流し。

 指先に墨の汚れ。

 懐に筆。

 そして手に持っていた紙包みの中には、火打石と細い油紙の束。

 放火の道具としては雑だが、紙倉を焼くには十分すぎる。


「誰だ」


 忠相が問うと、男は唇を引き結んだまま答えない。


 源之丞が肩を押さえつける。

 弥吉は裏手へ走ったもう一人を追いかけたが、足音はすぐに遠のいた。

 あちらは取り逃がしたらしい。


「黙っていて済むと思うな」


 源之丞が低く言う。


「済むとは思ってませんよ」


 男が初めて口を開いた。

 声は妙に乾いている。

 怯えきっているというより、ここまで来た以上は腹を括るしかないと知っている声だ。


「なら名を言え」


「伊三郎」


「どこの者だ」


「……帳面屋崩れでさ」


 忠相は男の顔を見た。

 帳面屋崩れ。

 たしかにそういう匂いはある。

 紙の重ね方を知り、倉の中でどこに灯を入れればよく燃えるかもわかっている類の男だ。


「崩れた帳面屋が、どうして返せぬ紙の倉を焼きに来る」


 伊三郎は苦く笑った。


「そりゃ、そこにいたからでしょう」


「答えになっておらぬ」


「答えなんて、きれいなもんじゃないんで」


 弥吉が戻ってきて、舌打ちした。


「もう一人は逃げた」


「顔は」


「見えた。

 痩せた男じゃねえ。

 もっと若い。

 でも町の小悪党でもねえ。

 この倉の場所を知ってる走り方だった」


 忠相は頷いた。


 単独ではない。

 そして伊三郎は、主犯ではなさそうだ。

 こういう場へ送り込まれるのは、たいてい“紙を燃やす役”だ。

 倉の中身の価値は知っていても、その意味までは知らぬことが多い。


「全部押さえろ」


 忠相が言うと、源之丞はすぐに下の者へ指図を飛ばした。


 倉の中の文箱、包み、一覧、相談覚え。

 それらをすべて奉行所へ運ぶには時間がかかる。

 だが今やるしかない。

 ここで一刻でも遅れれば、別の手が動く。


「旦那」


 弥吉が低く言う。


「この倉、知られたってことは、向こうももう“終い時”だと思ってますぜ」


「うむ」


「なら次は、紙だけじゃなく人も消しにくるかも」


「だから急ぐ」


 伊三郎を連れて奉行所へ戻るころには、日もだいぶ傾いていた。


 江戸の町は相変わらず普通の顔をしている。

 表通りの店では今日の帳合いが始まり、子どもが大人の足もとを走り抜け、湯屋帰りの男が手拭いを肩へかけて歩いている。

 そのすぐ裏で、家を守るために動かされた名の記録が倉ごと燃やされかけていたなど、誰も知らない。

 いや、知ったとしても、多くは“どこかの家のややこしい話”としてしか受け取らぬだろう。


 だからこそ、紙を読む者が要る。

 そう忠相は思った。


 奉行所に戻ると、まず伊三郎を一室へ入れ、別に倉から運ばせた紙を広げた。


 源之丞と弥吉、そして記録に強い下役が一人つく。


「分けるぞ」


 忠相が言った。


「家ごとにか」


 源之丞が問う。


「それだけでは足りぬ。

 “何のために返せなかったか”でも分ける」


「どういうことで」


 忠相は文箱の中の紙を見下ろした。


「家督のため。

 病弱な嫡子の備え。

 外へ出せぬ子の処理。

 婿養子。

 寺の跡目。

 遊女屋の名跡。

 同じ“返せぬ紙”でも、理屈の置き方は違う」


 弥吉が肩をすくめる。


「読むだけでも骨ですな」


「だから読む」


 忠相は答えた。


 文箱の一つを開く。

 そこには、近江屋の紙や榊原家の紙に似た文言がいくつも並んでいた。


 ――実子病身につき、備えの子を内々に

 ――表へは出さず、旧来の筋に見せること

 ――女児なるゆえ、名を外へ流す

 ――婿筋整い次第、本来の子の扱いを改める

 ――焼却待ち


 その一つひとつに、人の一生がぶら下がっている。

 だが紙の上では、それがまるで布や米の処理のように簡潔だった。


「酷えな」


 弥吉がぽつりと言う。


「うむ」


 忠相は短く答えた。


 酷い。

 だが、酷いだけで片づければ、この紙を書いた者たちの“家を守る理屈”が見えなくなる。

 そこが大事だ。

 悪辣で、醜く、しかし当人たちには必要でもあった理屈。

 それを見なければ、同じことはまた別の家で起きる。


「旦那」


 源之丞が別の包みを差し出した。


「これを」


 開くと、そこには家名ではなく、人名だけが箇条書きにされていた。


 初音。

 直次郎。

 佐之助。

 そのほかにも、知らぬ幼名や仮名がいくつもある。


 そして脇に、短い注がある。


 ――返却不可

 ――当人死亡

 ――名のみ現存

 ――現家にて定着

 ――再燃注意


 忠相の指が、その最後の四文字で止まった。


「再燃注意、か」


 源之丞が顔をしかめる。


「火種の覚え書きですな」


「そうだ」


 返せぬ紙の倉は、ただの墓ではない。

 いつかまた燃え上がるかもしれぬ名の火種を整理した帳面でもあったのだ。


 つまり、ここに関わる者たちは、ただ昔を隠したのではない。

 どの名が今後また揺らぐか、どの家がいつか危うくなるかまで、薄く見積もっていた。


 それはもはや一時しのぎではない。

 ひとつの仕組みだ。


「伊三郎を呼べ」


 忠相が言う。


 男はすぐに引き立てられてきた。

 さっきより顔色は悪い。

 奉行所の中で、倉から運び込まれた紙の束をちらと見ただけで、自分がどれほど深い場所へ足を踏み入れていたか、ようやくわかったのだろう。


「お前は、この倉を何だと思っていた」


 忠相が問う。


 伊三郎は少しためらってから答えた。


「……古い家の内証を預かる場所だと」


「誰に聞いた」


「前の帳面屋の主に」


「その主は」


「死にました」


「だからお前が引き継いだか」


「引き継いだってほどじゃ。

 ただ、時々“出し入れ”を頼まれた」


「誰に」


 伊三郎は目を伏せた。


「紙問屋筋と、武家の古い用人筋と……あと」


「あと、何だ」


「町で噂を扱うような連中にも」


 弥吉が舌打ちした。


「やっぱりな」


「つまりお前は、返せぬ紙を預かるだけでなく、必要とあらば流す側にもいた」


「俺は、大きいことはしてません」


「では、何をした」


「包みの入れ替えです。

 燃やせって言われたのを奥へやったり、まだ取っとけって言われたのを前へ出したり……」


「誰の指図で」


 伊三郎は唇を噛む。


「その時々で違うんです。

 一人じゃない。

 武家の用人。

 商家の古番頭崩れ。

 紙問屋筋。

 名前を出せない家の奥の女……」


 忠相は小さく息を吐いた。


 やはりそうか。

 この倉の怖さは、持ち主が一人でないことだ。

 誰か一人を捕まえれば済む話ではなく、江戸のあちこちの“家を守る理屈”が、緩く手を結んでいる。


「焼けと言ったのは誰だ」


 忠相が低く問う。


 伊三郎は少し震えた。


「……若い男でした」


「痩せた男か」


「いや、違います。

 もっと整った身なりで、声を抑えてた。

 でも、“今なら倉ごと消せる”って」


「名前は」


「聞いてません」


「顔は見たな」


「半分だけ。

 でも、たぶん町人じゃない」


「なぜそう思う」


「紙を怖れてるくせに、紙そのものに慣れてないんです」


 その言い方に、忠相は目を細めた。


 なるほど。

 紙のありかを知っている。

 だが、日常的に紙を扱う者の手つきではない。

 つまり、家の内側で“紙の意味”だけを知ってきた者かもしれぬ。

 片桐のような古い用人筋。

 あるいは、その下で動いていた若い手。


「旦那」


 弥吉が別の包みを開いて声を上げた。


「これを」


 出てきたのは、薄い紙に挟まれた小さな札だった。

 札には、たった二行。


 ――榊原家 再燃高し

 ――若君、違和を抱くゆえ注意


 源之丞が息を呑む。


「若君の違和まで、書いてある」


「見ていた者がいる」


 忠相は低く言った。


 これは恐ろしいことだった。

 直之が自分の足もとに違和を抱いていることを、倉の向こう側の者たちはすでに知っていた。

 つまり、家の中の揺れは、ずっと外へ漏れていた。

 お雪だけではない。

 お冴だけでもない。

 あるいは片桐自身すら気づかぬどこかで、若君の揺れは“再燃高し”という札にされていた。


 人の痛みが、ここでは火事の予測のように扱われている。


「……酷いな」


 弥吉が今度ははっきり言った。


 忠相は何も返さなかった。

 返すべき言葉が、いまは見つからなかった。


 その時、障子の外で声がした。


「お奉行様」


 直之である。

 呼んでいない。

 だが、ここで来るだろうともどこかで思っていた。


「入れ」


 若君は部屋へ入ると、まず机上の紙の山を見た。

 その一瞬の目の動きだけで、これがただの家の控えではないと悟ったらしい。


「……これが」


「倉から出た」


 忠相が答える。


 直之はすぐには近寄らなかった。

 武家の若君としての抑えと、一人の若い男としての怖れが、そこで拮抗しているのが見えた。


「見ますか」


 源之丞が静かに問うと、直之は少しだけ考えてから頷いた。


「はい」


 忠相は、いきなり榊原家の札は見せなかった。

 代わりに、まず家名のない紙を一枚出した。


 ――実子病身につき、備えの子を内々に


 直之の目が、その一行に止まる。

 表情は変えない。

 だが、変えまいとする力が顔の奥で張った。


「これだけなら、まだ誰の話とも見える」


 忠相が言う。


「だが、こういう理屈が一つの家だけのものではなかったことは、わかるな」


 直之は頷いた。


「はい」


「次を見せる」


 今度は、札を置いた。


 ――榊原家 再燃高し

 ――若君、違和を抱くゆえ注意


 直之の指が、そこで初めてわずかに震えた。


「……私の」


「そうだ」


「違和まで」


「そうだ」


「外で札になるのですか」


 その問いは、怒りより先に、ひどく寒いものを感じた者の声だった。


 忠相は答えた。


「お前の痛みを、火種と見た者がいる」


 直之はしばらく何も言わなかった。

 やがて、絞るように言う。


「私は……」


 そこで言葉が途切れる。


「何だ」


「私は、まだ“本当の若君”が誰かも知らない。

 それなのに、私の違和だけが、もう外で札になっている」


 忠相は頷いた。


「だからこそ急ぐ。

 お前を町の見世物にするためではなく、お前自身の足もとを先に固めるためにな」


 直之は、長い息を吐いた。

 それは悲鳴ではない。

 だが、悲鳴を飲み込んだ息だった。


 江戸は今日も名を呼ぶ。

 だがこの倉の中には、呼ばれなかった名、返されなかった名、そして“再燃高し”と札をつけられた名が積まれている。

 もう後戻りはできない。

 ここから先は、一軒の家や一人の若君の話では済まぬ。


つづく

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ