第三十六話 返されぬ名の置き場
返されぬ名には、行き場がない。
捨てられるわけでもない。
燃やされるわけでもない。
ただ、誰の口にも上らなくなり、帳面の端からも削られ、けれど完全には消えきれず、どこかに薄く残る。
人の胸の中。
古い女の手の癖。
使われなくなった小物の箱。
そういう場所に、返されぬ名は置かれる。
それは墓に似ている。
ただし墓と違うのは、誰も手を合わせぬことだ。
奉行所の一室で、お芳と直之を同じ空気の中に置いたあと、忠相はしばらく二人を黙らせたままにしていた。
言葉は早すぎると浅くなる。
とくに、自分の名の継ぎ目に初めて手をかけようとしている者と、長く消された名ばかりを追ってきた者を向かい合わせた時はなおさらだ。
ここでどちらかが正しげに口を開けば、もう片方は自分の痛みを説明する方へ回る。
それではいけない。
最初に口を開いたのは、お芳ではなく直之だった。
「あなたは」
静かな声だった。
だが武家の若君としての整えではなく、一人の若い男として問う声だった。
「消された名を返したいと言った」
お芳は小さく頷いた。
「ええ」
「返せば、人は救われると思いますか」
その問いは、思ったより鋭かった。
おそらく直之自身が、そこへ引っかかっているのだろう。
真を知りたい。
だが、知れば救われるとは限らぬ。
そこが怖い。
お芳はすぐには答えなかった。
それから、珍しく少しだけ弱い顔をした。
「思ってた時もあります」
「今は」
「今は……」
お芳は忠相ではなく、直之だけを見て言った。
「返したところで、もう元には戻らないことの方が多いと知ってます」
直之は黙って聞く。
「でも」
お芳は続けた。
「元に戻らないからって、何も返さなくていいことにはならないでしょう」
その言葉は、理屈ではなく、過去から削り出されたものだった。
初音のことがあるのだろう。
返せぬまま死んだ娘。
その一つが、この女の言葉を決めている。
「あなたは若君でいたいのですか」
今度はお芳が問うた。
源之丞がわずかに目を上げる。
だが忠相は止めなかった。
よい問いだった。
残酷だが、避けてはならぬ問いでもある。
直之は少しだけ視線を落とした。
「わかりません」
そしてすぐに続けた。
「いまの私は、若君としてしか生きてきていない。
だから“いたい”かどうかを問われても、それ以外の自分がまだうまく思い浮かばぬのです」
お芳は、その答えに少しだけ眉を寄せた。
わかるようで、腹の底では納まりきらぬ、という顔だった。
「私は、そういう人が一番危ういと思っています」
「なぜ」
「自分の名を疑い始めても、結局、その名の中でしか立てないからです」
忠相はそこで初めて口を開いた。
「それは違わぬ」
二人がこちらを見る。
「だが、だからといってすぐにその名を剥がせば、人は裸になる」
忠相は言った。
「裸で立てる者もいる。
だが、多くは違う。
直之はいま、榊原家の若君という名の中でしか生きておらぬ。
ならばまず、その名の内側に立ったまま、何が削られてきたかを知るほかない」
お芳は少しだけ苦く笑った。
「お奉行様の線引きだ」
「そうだ」
「まどろっこしいですね」
「急げば、お前はまた誰かの名を町へこぼす」
お芳は言い返さなかった。
図星なのだろう。
その時、障子の外で足音が止まった。
弥吉である。
「旦那」
「入れ」
弥吉はいつも通りの軽さを半分残しながらも、目はよく働いていた。
「例の、紙を辻に貼った小悪党筋ですが」
「何かわかったか」
「銭を渡したのは、やっぱり顔を隠した男。
けど、その男の前に、紙の束を預けた別の手があるらしいんで」
「別の手」
源之丞が問う。
「へい。
紙の束は、最初から揃ってた。
文も乾いてて、折りもきっちりしてた。
つまり、辻に貼る直前に慌てて書いたもんじゃねえ」
忠相は頷いた。
「どこで用意した」
「まだそこまでは。
ただ、町の小悪党に渡す前に、一度“置き場”があったって話です」
「どこだ」
「神田寄りの古い貸蔵か、使われなくなった帳面屋の倉か。
とにかく紙を濡らさず、少し寝かせられるとこで」
「置き場、か」
忠相は低く繰り返した。
紙を集める置き場。
消された名を抱えた書付や、ばらまくための文を一度寝かせる場所。
それは単なる隠れ家ではない。
この一連の動きの“心臓”に近い。
お芳が、そこで初めて明らかに顔を変えた。
「……置き場」
「心当たりがあるか」
忠相が問うと、お芳は少しだけためらった。
「あるには、あります」
「申せ」
「昔、代書や紙問屋や、家の内証の書付を扱う者の中には、“返せぬ紙”だけを預かる倉があると聞いたことが」
源之丞が眉をひそめる。
「返せぬ紙」
「焼くには危うい。
表へ出すにも危うい。
でも、いつか要るかもしれない。
そういう紙だけを、名も出さずに寝かせる場所です」
弥吉が言った。
「そんな都合のいい倉が、ほんとに」
「都合がいいから残るんでしょうよ」
お芳は吐き捨てるように言った。
「家を守るために名を動かしたなら、その痕の紙は邪魔になります。
でも、邪魔だからって全部焼けば、逆に後で自分たちが困る。
だから“今は出せぬが、捨てきれぬ紙”だけを、どこかへ押し込む」
忠相は静かに息を吐いた。
返されぬ名。
返せぬ紙。
それらを一時的に眠らせる置き場。
江戸という町なら、たしかにあっても不思議ではない。
むしろ、ない方が不自然かもしれぬ。
「場所は」
忠相が問うと、お芳は首を横に振った。
「具体には。
でも、そういう倉を知るのは、古い代書筋と、家中の帳面に関わる者たちです」
「片桐」
直之が小さく言った。
お芳がそちらを見る。
若君の口からその名が出るのを、少し意外に思ったのかもしれない。
「片桐も、その手の紙の重みは知っているでしょう」
直之は続けた。
「家の内では焼けぬ。
だが表へも出せぬ。
だから、どこかへ置く。
……そういう顔を、あの人はしていました」
それは大事な言葉だった。
顔。
結局、人は紙だけではなく、紙を扱う顔も読む。
「旦那」
弥吉が言う。
「神田寄りの古い倉筋、洗いやす」
「洗え。
ただし、紙を焼く手が先に動く前にだ」
「へい」
弥吉が出ていくと、部屋の中はまた少し静まった。
忠相は直之を見た。
若君はもう、昨日までのように“自分の違和を抱えたまま揺れている”だけではない。
片桐の理屈も、家の沈黙も、紙の置き場の発想も、自分の足もとに繋がるものとして見始めている。
「直之」
「はい」
「お前は今、何を一番恐れている」
突然の問いだった。
だが、今聞くべきだと思った。
若君がどこへ向かうかは、恐れているものの形でかなり決まる。
直之は少し考えた。
それから、意外なほど素直に答えた。
「私が真を知ったあと、榊原家の者たちが“これまで通り”の顔に戻ることです」
お芳がわずかに目を上げる。
忠相も、少しだけ目を細めた。
「それはどういう意味だ」
「一度は揺れるでしょう。
片桐も、お冴も、家中の者たちも。
でも、結局みな、“それでも若君は若君にございます”という顔へ戻って、全部を今まで通りにしてしまうかもしれない」
「それが嫌か」
「はい」
直之の声は静かだった。
「真を知っても、何も変わらないまま“若君でいてください”と言われるのが、一番怖い」
それはよくわかった。
佐吉が恐れたのも、結局はそれだ。
近江屋の帳場へ戻り、“何でもなかった顔”で立つこと。
人は、嘘そのものより、嘘を知ったあとで以前と同じ顔を強いられることの方に、もっと深く傷つく。
「ならば変えるほかない」
忠相が言う。
直之は顔を上げた。
「何を」
「少なくとも、何もなかった顔では戻れぬようにする」
お芳が小さく笑った。
今度の笑いは皮肉だけではない。
「それはいい線ですね、お奉行様」
「お前は黙って見ていろ」
「見てるだけで済むなら、ずいぶん楽ですけどね」
その返しの軽さに、少しだけ部屋の張りが緩んだ。
だが、緩んだからといって終わるわけではない。
置き場の話が出た。
返されぬ紙が眠る倉があるなら、そこにこそこの章の次の火口がある。
近江屋の帳面。
榊原家の相談覚え。
初音のような、返されぬまま死んだ名。
そういうものがもし一か所へ集められているなら、それはもう一軒や一人の話ではない。
「お芳」
忠相が最後に問う。
「その“置き場”を知っているとしたら、痩せた男か。
それとも、お前のように消された名を追う者か」
お芳は少しだけ考えてから答えた。
「両方です」
「どういうことだ」
「痩せた男は、紙のありかとして知っている。
私は、“返されぬ名がどこへ押し込まれるか”の果てとして知っている」
忠相は黙って頷いた。
同じ倉でも、見方が違う。
片方は、脅しと見世物のための宝庫。
もう片方は、返せなかった名の墓。
そこへ踏み込めば、物語はまた一段大きくなる。
江戸の外では、今日も誰かが誰かの名を呼んでいる。
だがその呼ばれた名の裏で、返されぬ名たちがどこへ置かれてきたのか。
次に見るべきは、そこだった。




