第三十二話 名を町へばらまく者
名は、本来ひどく小さなものだ。
生まれた時に大人がつけ、呼ばれ、書かれ、時に笑われ、時に愛される。
それだけのもののはずなのに、いったん家や血や家督と結びつくと、名は急に重くなる。
重くなった名は、人を持ち上げもするし、押し潰しもする。
そしてもっとも始末が悪いのは、その重さを面白がって、町へばらまこうとする者だ。
弥吉が持ち込んだお芳の過去は、奉行所の空気をじわじわと重くした。
旗本筋の奥向き。
死んだことにされた娘。
家の外へ出され、別の名で育てられた子。
返されるべき名を返されぬまま、真を知る前に死んだという話。
それがすべて真かどうかは、まだ確かめねばならない。
だが、真であるかどうかより先に、その話があまりにもこの数日の事件とよく似ていた。
近江屋では、佐之助が松之助の陰へ押し込まれた。
榊原家では、直次郎が若君直之へ整えられた。
お芳の語る家では、娘が死んだことにされ、別の名で外へ出された。
形は違う。
だがどれも、家を守るために名を動かす理の上にある。
忠相は机の前に座り、しばらく何も言わずにいた。
源之丞も、弥吉も、珍しく黙っている。
こういう沈黙は、何も考えていないからではない。
言葉にすると軽くなるのを嫌う時の沈黙だ。
「旦那」
やがて源之丞が低く言った。
「お芳を、どう見ます」
忠相はすぐには答えなかった。
「恨みは本物だろう」
やがてそう言う。
「だが、恨みだけでもない」
「消された名を返したい、と」
「うむ」
弥吉が鼻で息を鳴らした。
「返すだけなら、もっと静かにやれそうなもんですがね」
「そこだ」
忠相は言った。
「お芳は“返したい”と言う。
だが、やり方は必ずしも優しくない。
紙を追い、家の傷へ触れ、当人の違和を揺さぶる。
それは返すというより、起こすに近い」
源之丞が頷く。
「眠らせてきたものを起こす」
「そうだ」
「そして起きたものが、どう暴れるかまでは見切れておらぬ」
「あるいは、見切っていても構わぬと思っているかだ」
部屋が少し冷えたように感じられた。
その時、障子の外で下役が声をかけた。
「お奉行様。榊原家より急ぎにございます」
「通せ」
入ってきたのは、またしてもあの若い小者だった。
だが前回のような、ただ慌てた顔ではない。
もっと悪い。
何かがすでに屋敷の中で広がってしまっている顔だった。
「何事だ」
忠相が問うと、小者は膝をつき、声を震わせた。
「町へ……」
「町へ、何だ」
「若君様のことを……書き立てた紙が……!」
源之丞が一歩前へ出る。
「どこに」
「屋敷の近くの辻、寺の門前、紙屋の並び、数か所に」
「内容は」
小者は唾を呑み込んだ。
「“榊原家の若君は、もとの若君ではない”と……」
弥吉が舌打ちした。
「やりやがったな」
忠相は立ち上がった。
「現物は」
「一枚、持って参りました」
差し出された紙は、粗末だがわざと読みやすく大きめの字で書かれていた。
町の人間が立ち止まって一目で意味を取れるようにしてある。
筆は、投げ込まれた一行文と同じか、それに近い。
文は短い。
――榊原家の若君は、本来の若君にあらず
――家を守るため、名を継がせたるものなり
紙は一枚では足りぬだろう。
何枚も刷ったように同じ文がばらまかれているはずだ。
つまり、これは内々の揺さぶりではなく、町へ向けた攻めである。
「誰が最初に気づいた」
忠相が問う。
「寺へ参った女中が……」
「若君は」
小者は顔を伏せた。
「すでにご存じです」
屋敷へ向かう道で、忠相は紙を見ながら考えていた。
これで一線を越えた。
一行文を屋敷の中へ差し込むのと、町へばらまくのでは意味が違う。
前者は家を揺さぶる。
後者は、家と若君を町の見世物にする。
お芳のやり口ではない、と忠相はまず思った。
お芳は危ういが、少なくとも“当人に返す紙”を求めていた。
こんなふうに辻へばらまけば、直之本人より先に町がそれを読む。
つまりこれは、痩せた男の手に近い。
真を脅しと見世物へ変えるやり方だ。
「弥吉」
「へい」
「紙の筋を追え。
同じ手のものをいくつ刷ったか、どこで切り、どこで乾かしたか」
「合点」
「源之丞、お前は屋敷の中だ。
誰が一番先に文を“始末しようとするか”を見ろ」
「片桐、ですな」
「おそらくな」
榊原家へ着くと、門前の空気からして違った。
門番の顔は硬く、奥から出入りする足音が速い。
それでいて、屋敷の表は異様に静かに保たれている。
こういう時の武家屋敷は、騒ぐ代わりに音を殺す。
それが余計に、人の胸をざわつかせる。
座敷へ通されると、直之はすでにそこにいた。
昨日までの“整えられた若君”の面影はまだある。
だが今日は、その上に薄く怒りが乗っていた。
怒鳴らぬ。
物も投げぬ。
けれど、長く教え込まれてきた静けさの下で、確かに火が立っている。
「ご覧になりましたか」
直之が問う。
「見た」
「町へまで出ました」
「うむ」
「これで、もう屋敷の中だけの話ではない」
忠相は頷いた。
「そうだ」
直之はそこで少しだけ唇を引き結んだ。
「片桐は、“急ぎ払え、見た者を脅すなり言い含めるなりして火を消せ”と」
「お前は」
「止めました」
忠相は目を細める。
「どうやって」
「“勝手に人を走らせるな”とだけ」
それは小さいが、確かな変化だった。
若君は今まで、家の理の中に座っていた。
だが今日は、その理がいつものように動くのを、自分の口で初めて止めたのだ。
「よく止めた」
忠相が言うと、直之は苦く笑った。
「止めたところで、町へ出た紙は戻りません」
「戻らぬな」
「ならば、もういっそ」
そこまで言って、直之は言葉を切った。
「何だ」
「いっそ、全部を」
「町へ出せと」
直之は目を伏せた。
「……そう思う瞬間もありました」
その正直さは悪くない。
むしろ、ここでそんなことは思わぬと言う方が危うい。
人は追い詰められると、すべてをひっくり返したくなる。
だが、ひっくり返した先に自分の足場があるとは限らない。
「だが、踏みとどまった」
忠相が言う。
「ええ」
「なぜだ」
直之はしばらく黙ってから答えた。
「それをすれば、私だけの話では済まないからです」
「家が揺らぐからか」
「それもあります。
でも、それだけではない。
お雪も、お冴も、昔の乳母も、屋敷の中で何も知らぬまま働く者たちも、全部が一斉に“どちらの側だ”と問われる。
……それは、近江屋で佐吉殿がやられかけたことと同じです」
忠相は、その言葉に小さく頷いた。
若君は見ている。
近江屋の話を細かく知らずとも、そこにあった痛みの形を、自分の今へ引き寄せている。
「ならば、次にやるべきは何だと思う」
忠相が問うと、直之はゆっくり顔を上げた。
「文をまいた者を追うこと」
「それだけか」
「……私自身が、私の足もとを知ること」
「その通りだ」
忠相は言った。
「外へ出た紙はもう戻らぬ。
だが、お前がどう立つかはまだ戻せる」
その時、片桐が入ってきた。
当然という顔ではない。
“呼ばれたので来た”という形を保っている。
だが内心は焦っている。
礼をしながらも、目が一度紙の方へ落ちた。
あの男にとって、紙は内容よりまず始末すべき物なのだ。
「お奉行様」
「片桐」
忠相は紙を持ち上げた。
「これについて申せ」
片桐は目を細めた。
「悪質な誹りにございます」
「誹りか」
「はい。
根も葉もない風聞を町へ流す卑劣な所業――」
「根も葉もない、と言い切るか」
片桐の言葉が一瞬止まる。
「……家を揺らすために、昔のことを好き勝手に繋いでおるだけにございます」
「好き勝手、か」
忠相は静かに言った。
「では問う。
直次郎という子は、この家にいたな」
片桐は返せない。
「嫡子の死後、直之として立ったな」
「……」
「お雪が衣を直したのも真だ。
お冴がその夜のことを覚えているのも真だ。
柏屋の相談覚えに、この家のような筋が残っているのも真だ」
部屋の空気が重くなる。
片桐は、もはや“すべてが嘘だ”では押し通せぬ段に来ている。
「若君の前で聞く」
忠相は低く言った。
「この紙を、ただの誹りと焼き捨てるつもりか」
片桐は直之を見た。
若君はまっすぐにその視線を受けている。
「……若君様の名を守るためにございます」
「守る、か」
直之がそこで初めてはっきり口を開いた。
「片桐」
「は」
「お前は、私を守るためと言う。
だが、それは本当に“私”を守ることなのか」
片桐の顔がわずかに揺れる。
「若君様……」
「私の知らぬところで私の名を決め、
私の知らぬところで私の昔を片づけ、
今また、町へ出た文を“私のため”と言って焼こうとする。
それは、私ではなく“若君という座”を守っているのではないか」
その問いは鋭かった。
しかも、近江屋の佐吉が今なら片桐へ投げたい言葉でもある。
若君は、自分の違和をようやく他人へ向け始めたのだ。
片桐はしばらく言葉を失った。
やがて、乾いた声で答える。
「座が揺らげば、お方ご自身も立てませぬ」
「それでも」
直之は言った。
「私は、私の知らぬまま守られ続けるのは、もう結構だ」
その一言で、部屋の空気が変わった。
お冴も、源之丞も、忠相も、誰も口を挟まなかった。
今ここで必要なのは、若君が自分の言葉で一歩出ることだ。
それを誰かが理屈で覆ってはならない。
片桐はゆっくりと頭を垂れた。
屈したわけではない。
だが、若君自身の口からそう言われれば、いつもの“家のため”の理屈だけでは押し切れぬと知ったのだろう。
「……かしこまりました」
その返事は重かった。
片桐をいったん下がらせたあと、弥吉が戻ってきた。
「旦那」
「どうだ」
「紙は、町の安い一枚物です。
ただし一枚一枚手書きじゃねえ。
うっすら同じ癖が重なってる。
たぶん下書きを置いて、数人が写したか、ひどく慣れた手が何枚も流したか」
「どこから出た」
「まだ絞りきれねえ。
けど、寺の門前に落ちてたのと、辻に貼られかけてたのとで、紙の裁ち方が同じです」
「つまり、用意してまいた」
「へい」
「痩せた男の手か」
弥吉は首をかしげた。
「字だけならそれっぽい。
けど“町へばらまく”ってやり方は、あの男一人にしちゃあ、ちと早え」
忠相はその言葉を受け止めた。
そうだ。
痩せた男は紙を嗅ぐ。
脅しにも使う。
だが、こんなふうに一気に町へ散らすには、もっと別の意志がいる。
見せしめ。
煽り。
江戸の噂好きの舌を、最初から計算に入れたやり方。
ならば、お芳でもない、痩せた男でもない、もっと“町の口”というものを知っている手が混じっている可能性がある。
榊原家の火種は、これで完全に屋敷の外へ出た。
若君直之の名は、もうただ家の中の問題ではない。
だがその一方で、若君自身もまた、“守られる名”の内側から一歩出始めた。
帰り際、直之が静かに言った。
「お奉行様」
「何だ」
「もし次に、また紙が出るなら」
「うむ」
「今度は、私にも最初に見せてください」
忠相は少しだけ目を細めた。
「なぜだ」
「誰かが私のためと称して焼き、誰かが私のためと称して隠し、誰かが私のためと称して守る。
そのどれもが、もう息苦しい」
それはまっすぐな言葉だった。
若君としてではなく、一人の若い男としての言葉である。
「よい」
忠相は答えた。
「ただし、お前もまた、すぐに全部を町へ返すな」
直之は、ほんの僅かに笑った。
「そこは、お奉行様の線引きを少しは真似るようにいたします」
その笑みは、苦くもあったが、昨日までの借り物の静けさとは違った。
名はまだ揺れている。
血もまだ曖昧なままだ。
だが、消された名と残された血のあいだで、若君はようやく自分の言葉を持ち始めた。
つづく




