第三話 お縫の嘘
人の口は、言ったことで嘘をつくとは限らない。
むしろ厄介なのは、言わなかったことの方である。
南町奉行所の朝は早い。
まだ空の青みが薄く、瓦の上に夜の冷えが残っているうちから、下役たちは動き始める。掃き清められた庭の砂利は白く、井戸端では水の音が澄んで響き、炊き出しの煙が低くたなびく。役所というものは、町の揉め事を扱う場所であるくせに、朝だけは妙に静かだ。その静けさの中で、前日の騒ぎも訴えも、一度きちんと紙の上へ載せ直される。紙に書かれると、人の感情は薄まり、代わりに形だけが残る。
だが、形だけになった話ほど、かえって本当の姿を見失いやすい。
大岡忠相は、机上の守り袋を眺めていた。
昨夜、お縫の家の戸口に何者かが置いていった古びた袋である。麻の地は色が褪せ、紐の結びも古い。中から出てきたのは、小さな幼子用の根付。木地の一部は焼け、細工の花模様も半ば黒く焦げていた。
十年前の火事。
松之助の名らしき紙片。
書き直しの跡がある過去帳。
そして今、幼子の持ち物。
誰かが、過去を隠したいのか。
それとも逆に、思い出させたいのか。
戸口へこっそり置くというやり方が、その曖昧さを何よりよく物語っていた。脅しでも、告発でもない。誰かの胸の底へ、古い記憶の針をそっと刺すようなやり口だ。
「源之丞」
忠相が呼ぶと、榊原源之丞がすぐに進み出た。
「は」
「お縫の家の様子は」
「夜のうちに見張りを置きましたが、それらしい者の出入りは掴めませなんだ。袋が置かれたのは、宵の口より後、夜回りが二度目の拍子木を打つ前までの間と見られます」
「人目を選んでいるな」
「はい。近所の女房どもも、誰かが怪しく立っていたという話は持っておりませぬ。用心深い者の仕業かと」
「あるいは、近所に紛れても怪しまれぬ顔か」
源之丞は黙ってうなずいた。
江戸の長屋という場所は、よそ者には狭い。だが、顔を知った者が歩けば、思った以上に盲い。毎日見かける相手のことほど、かえってきちんとは見ない。
「お縫とその母は」
「今朝、奉行所へ呼んでおります。ほどなく」
忠相は守り袋から根付をそっと取り上げた。小さく軽い。掌の上に乗せると、子どもの持ち物独特の、使われて角の取れた丸みがある。新品ではない。長く人の手にあった品だ。
「これは脅しではないな」
源之丞が言った。
「ええ。脅すだけなら文でもよい。わざわざ物を置くのは、『お前は知っているだろう』と呼びかけるようなものでございます」
「知っている者へ向けた品、か」
「はい」
忠相は根付を戻した。
人は、自分が忘れたいことを、他人も忘れていてくれると思いたがる。だから古い品を突きつけられると、脅された以上に動揺する。お縫がどこまで知っているかはまだ定かでない。だが少なくとも、置いた者は、お縫がこの品に意味を見いだすと考えたのだ。
つまり、お縫はただの向かいの娘ではない。
障子の向こうで足音が止まり、下役が声をかけた。
「お縫殿、ならびに母君、お連れいたしました」
「通せ」
入ってきたお縫は、昨日と違い、肩の力を幾分か落としていた。気丈な娘だが、さすがに一晩で心安く眠れた顔ではない。目の下にうっすら影がある。その後ろから入ってきた母親は、年のころ四十前後。痩せぎすで色白、針仕事で身を立てる女に特有の、手の節の目立つ人であった。咳こそしていないが、胸の奥に弱りを抱えている様子は見て取れる。
二人は平伏した。
「面を上げよ」
忠相が言うと、お縫はすぐ顔を上げたが、母親は一拍遅れてそっと視線を上げた。娘はまっすぐこちらを見る。母は、見ようとしてなおどこか脇へ視線が流れる。性質の違いがそのまま出ている。
「名は」
「お縫にございます」
「母は」
「おさよと申します」
忠相は守り袋を前へ置いた。
「昨夜、お前たちの戸口にこれが置かれたな」
お縫の肩がぴくりと震えた。
おさよは、顔色こそ崩さなかったが、指先が膝の上でぎゅっと縮んだ。
「見覚えは」
忠相が問うと、お縫は少しだけ唇を湿らせてから答えた。
「……袋そのものには、はっきりとは」
「中の根付には」
「……」
「黙るな」
お縫は目を伏せた。
「どこかで見たような気は、します」
「どこで」
「それが、はっきり思い出せません」
忠相はお縫ではなく、おさよを見た。
「母親の方は」
おさよは細く息をついた。
「昔のことにございます。針仕事でいろんな家へ出入りしておりましたゆえ、似たようなものを目にしたことはあったやもしれませぬ」
「似たようなもの、か」
忠相は根付を手に取った。
「子ども用の品だ。似たようなものはいくらでもある。だが、火に焼けたものまで似るとは思えぬな」
おさよは答えなかった。
源之丞が口を開く。
「おさよ。そなたは十年前、近江屋へ針仕事を納めていたな」
「……はい」
「火事のあった夜も出入りしたか」
「そこまでは……」
そこでおさよの声が止まった。
忠相はその止まり方を見た。思い出せぬ者の止まり方ではない。思い出したくない者の止まり方である。
「おさよ」
「……はい」
「思い出せぬのではあるまい。申したくないだけだ」
おさよの喉が小さく動いた。
「火事の夜、何を見た」
「……火を」
「それだけか」
「女房や手代たちが、水を運んで……皆、慌ただしく……」
「幼子は」
その一語で、おさよの目が揺れた。
お縫が横から小さく息を呑む。
「坊ちゃんは、具合が悪いと聞いておりました」
「見たのか」
「……」
「見ていないのか」
「私は……その……奥までは」
嘘である。
だが、全部が嘘ではない。奥までは見ていないのだろう。だが、奥に何があるかは知っている。
「では聞く。お前は昨夜、娘に何と話した」
「何も」
「『あの夜、二つの泣き声がした』とは申しておらぬか」
おさよの顔からすっと色が引いた。
お縫が母を振り向いた。昨日、忠相へその言葉を伝えたときには、半ば勢いに任せた部分もあったのだろう。いま母自身がそこを突かれ、娘もまた、自分が軽々しく口にした重さを改めて知った顔になった。
「……寝言のようなものにございます」
おさよは絞るように言った。
「寝言にしては、よくできている」
「昔のことです。記憶も曖昧で……」
「曖昧な者は、そこまで怯えぬ」
忠相はそこで、お縫へ視線を移した。
「お縫。お前の母は、何かを隠している。だが今、ここで無理に剥がしても、ただ壊れるだけだ」
お縫は唇を噛んだ。
「……はい」
「そこでお前に聞く。お前自身は、佐吉とどこまで懇意であった」
「向かいに住んでいて、顔を合わせて、少し話すくらいで……」
「嘘だな」
お縫が目を見開いた。
源之丞も静かにそちらを見る。
「お前はあの若者を庇いすぎる。単に顔を知っていた程度では出ぬ庇い方だ」
「……」
「言え」
「……幼いころから、たまに……見かけていました」
「近江屋でか」
「はい」
「奉公に上がる前からか」
「……はい」
おさよが小さく「お縫」と制するように娘の名を呼んだ。だがもう遅い。娘の口は一度開けば、母ほど器用には閉じない。
「どのように見かけた」
「母の手伝いで近江屋へ行くことがあって、その時、奥の方で……」
「奥の方で、何だ」
「子どもがいたんです」
部屋の空気が、ぴたりと張りつめた。
「松之助か」
「名前まではわかりません。でも、坊ちゃん、って感じじゃなかった」
「どういう意味だ」
お縫は目を伏せ、言葉を探した。
「坊ちゃんっていうなら、もっと大事にされるはずでしょう。でも、その子は、奥にいるのに、どこか隠されてるみたいで……」
忠相は黙って続きを待った。
「着ているものは悪くなかったけど、乳母がべったりついてるわけでもないし、使用人たちも『若様』みたいには扱っていなかった。なのに、ただの奉公人の子がいる感じでもなくて」
「その子が佐吉だと」
「……たぶん」
「たぶん、か」
「大きくなってから顔立ちが似ていたんです。目元とか、困ったときの黙り方とか」
「似ていたことを、佐吉本人にも言ったか」
「言ってません」
「なぜだ」
「そんなこと、軽々しく言えません」
忠相はうなずいた。
そこは本音だろう。だが、その本音のまわりにまだ幾つも黙りが巻きついている。
「では、佐吉が自分の身の上を気にし出したのは、何がきっかけだ」
お縫はちらりと母を見た。おさよは膝の上で手を握りしめ、目を閉じた。
「……根付です」
「この根付か」
「たぶん、同じものです」
「どこで見た」
「佐吉さんが持っていました」
「いつ」
「失踪する少し前に」
源之丞が一歩進み出る。
「何故それを昨日まで黙っていた」
お縫は真っ直ぐ源之丞を見返した。
「怖かったからです」
武骨な同心の顔がわずかに動く。
「何が」
「言ったら、佐吉さんが本当に悪いことをしたみたいになるかもしれない。根付を持っていたってことは、近江屋の奥のものに手をつけたって意味になるかもしれない。そう思ったら……」
「だが今は言う」
「言わない方が、もっと悪くなる気がしたからです」
忠相はその言葉に、わずかに頷いた。
人が本当のことを言う時、立派な覚悟で言うとは限らない。大抵は、黙り続ける方が苦しくなって、押し出されるように口から出る。お縫のそれはまさにそうだった。
「佐吉は、その根付について何と」
「『これを見つけたら、わからなくなった』って」
「何が」
「『俺が昔見たものと同じ気がする。でも、俺がそんな昔のものを覚えてるはずがない』って」
お縫は一度声を止めた。
「それで、もしかしたら自分は、小さいころ近江屋にいたことがあるんじゃないか、って」
「記憶はあるのか」
「はっきりじゃないみたいでした。火の色とか、誰かが泣いてる声とか、女の人の手とか、そういう欠片だけ」
忠相の視線が、おさよへ戻る。
「お前は、その話を聞いていたのか」
おさよはしばらく黙り、やがて絞るように答えた。
「……少し」
「ならばなぜ黙る」
「……申し上げて、何になります」
「真に近づく」
「真に近づいたところで、救われぬこともございます」
その言い方は、昨日のお紺の言葉とよく似ていた。
――名前を明かせば余計に不幸になることもございます。
守る対象は違えど、口を閉ざす理屈は同じだ。つまり、お紺とおさよは、同じ中心を別々の場所から見ている。
「おさよ」
忠相は静かに言った。
「お前は十年前の夜、二つの泣き声を聞いた」
「……」
「片方は、病で弱った近江屋の坊か」
「……わかりません」
「では、もう片方は」
おさよの呼吸が乱れた。
「申せ」
「……どちらも、子の声でした」
「それは聞いている。どちらの子がどこにいた」
おさよは震える指を膝に押しつけた。
「……ひとりは、奥の部屋に」
「もうひとりは」
「……土蔵の前あたりで」
源之丞が息を呑んだ。
忠相は顔を動かさなかったが、胸の内で一つ大きな札が立った。
「幼子が、蔵の前にいた」
「火が出る前だったか後だったか、もう……。みな叫んでいて、女中衆も走っていて、私は表と奥を行ったり来たりして……」
「その子は誰に抱かれていた」
「女中の……いえ、乳母ではない、もっと年のいった女で」
「名は」
「……覚えておりません」
嘘半分、本当半分。
だが今はそれでよい。要るのは細部の完全な真ではなく、骨の形だ。
「その子は近江屋の坊と同じくらいの歳か」
「……たぶん」
「顔は見たか」
「火の騒ぎで、よくは」
「それでも見たのだな」
おさよは目を閉じたまま、小さく頷いた。
「……ひとりは寝巻きのようなものを着ていました。もうひとりは、もっと粗末で」
「粗末な方が蔵の前か」
「はい」
お縫が母を見た。その目には驚きと、少しの悔しさが混じっている。母が自分に話していなかったことの多さを、いま初めて知ったのだろう。
忠相はそこで問いを変えた。
「昨夜の守り袋を見て、お前は何を思い出した」
おさよは答えなかった。
「袋を置いた者は、お前なら思い出すと思ったのだ」
「……」
「思い出したのだな」
長い沈黙ののち、おさよはようやく口を開いた。
「……あの夜、蔵の前にいた子が、握っていたような気がします」
根付ではなく、守り袋の方を見て言った。
「袋ごとか」
「はっきりとは……でも、小さな手が、何か紐のついたものを掴んでいて……」
「その子が佐吉か」
「そこまでは」
「では、なぜ娘に話さなかった」
「話せば、あの子が余計なことを知りたがると思ったからです」
お縫が低く言った。
「余計なことじゃないでしょう」
おさよは娘を見た。その目には、叱る強さより、守りきれなくなる前の諦めがあった。
「余計なことになるのよ。人の家の、昔の、しかも隠したがってることなんて」
「でも佐吉さんは」
「だからこそよ」
母の声が、初めて少し強くなった。
「だからこそ、あんたまで巻き込まれたくなかった」
部屋が静かになる。
おさよはそれきり口を閉ざしたが、その一言は十分だった。
この女は自分のために黙っていたのではない。娘を遠ざけるために黙っていた。そしてその黙りが、結果として佐吉を孤立させた。
忠相はしばし黙ってから言った。
「お縫、お前はまだ何か隠しているな」
お縫の睫毛が震えた。
「……」
「佐吉が最後にお前へ何を言った」
「……何も」
「嘘だ」
「……」
「お前は失踪前の佐吉に会っている」
お縫は目を見開いた。
「なぜそう」
「お前は『怖かった』と言った。何が怖いかは、近江屋の昔の話だけでは説明がつかぬ。お前自身が、佐吉から何か託されている顔をしている」
お縫の喉がひくりと鳴った。
源之丞が黙って見守る中、娘はようやく唇を開いた。
「……会いました」
「いつだ」
「消えた前の晩」
「どこで」
「裏の井戸のところで」
「何を話した」
お縫は膝の上で手を握りしめた。
「『もし自分に何かあったら、これを見せてくれ』って」
「何を」
お縫は帯の間から、小さく折られた紙を取り出した。
源之丞の目が鋭くなる。おさよが息を止めた。
「なぜ今まで出さぬ」
「……出したら、もう後戻りできない気がしたからです」
忠相は紙を受け取った。
古い紙ではない。だが乱れた筆で、急いで書いたことがわかる。短い文だ。
――おれが消えたら、近江屋の蔵の下段を見ること
――焼けた文のほかに、紐で括った帳面がある
――おれは、そこで自分の名を見た気がする
忠相はその文を読み終え、ゆっくりと息をついた。
蔵の下段。
焼けた文のほかに、紐で括った帳面。
昨日は気づかなかった。あるいは見せられなかったものが、まだある。
「お前はこれを誰にも見せなかったのか」
「……はい」
「母にも」
「……見せていません」
おさよが愕然と娘を見た。
「お縫……」
「だって、母さんに見せたら、絶対に隠せって言うでしょう」
娘の言葉に、母は何も返せなかった。
忠相は紙を机上へ置いた。
これでまた一つ、はっきりした。
佐吉は、ただ過去を疑っていただけではない。近江屋の蔵で、自分の名に関わる何かを見た。だからこそ追われるように消えたか、あるいは自ら姿を隠した。
そしてお縫は、その事実を知りながら、昨日まで黙っていた。
それはこの娘の嘘だ。
悪意の嘘ではない。
だが、人を守ろうとした結果、真を遠ざける嘘であることには変わりない。
「お縫」
「……はい」
「お前はよくやったとは言わぬ。黙ったことで事を悪くした」
お縫は唇を結んだまま頷いた。
「だが今、出したのは間違いではない」
その一言で、娘の肩が少しだけ落ちた。責められる覚悟で来ていたのだろう。責めるだけで終わらなかったことに、ほっとしたのが見て取れた。
忠相は源之丞へ向いた。
「近江屋へ行く。蔵をもう一度、今度は全部改める」
「はっ」
「清之介に先触れするな。帳面を動かされる」
「承知」
お縫母子が下がると、部屋には春の昼前の明るさが戻った。だが明るいだけに、さっきまであった人の怯えや黙りが、かえって濃く残って見える。
源之丞が低く言った。
「娘は、もう巻き込まれておりますな」
「うむ」
「守るために黙った者が多すぎます」
「人の心はそういうものだ。目の前の一人を守ろうとして、少し先の誰かを見失う」
「今回は、その『少し先』が佐吉であった」
「そしてもっと先には、十年前の子らもいる」
忠相は立ち上がった。
奉行所を出ると、日差しはすでに昼の強さを帯び始めていた。道には往来が満ち、軒先では女房が菜を刻み、桶屋が槌を振るい、物売りが声を張る。花の江戸は、今日も賑やかだ。だがその賑やかさの奥で、名も知らぬ子どもの泣き声が、十年越しにようやくこちらへ届こうとしている。
近江屋へ向かう道すがら、忠相は胸中で整理していた。
火事の夜、子は二人いた。
片方は松之助。
もう片方は、蔵の前にいた粗末な身なりの子。
おさよはそれを見た。
お紺は何かを知って黙る。
清之介は店の都合を守ろうとして隠す。
佐吉は蔵で、自分の名を見た気がすると言い残した。
ならば、次に見るべきは帳面だ。
名が書かれたもの。
人の生きた証であり、同時に、いくらでも書き換えられる紙の上の証。
近江屋へ着くと、店先は昨日と変わらぬように見えた。暖簾は風に揺れ、客が反物を見ている。だが、変わらぬように見せる家ほど、内側で何かが揺れている。
忠相が無言で奥へ進むと、清之介が慌てて飛んできた。
「お、お奉行様、何か」
「蔵を改める」
「また、でございますか」
「今度は下段も全部だ」
清之介の顔色が、はっきりと変わった。
「何か、入り用なものでも見つかりまして」
「そうだ」
「何が」
「お前にはまだ申さぬ」
忠相はそれだけ言い、返事を待たずに蔵へ向かった。
土蔵の扉が開かれると、ひやりとした紙と土の匂いが流れ出す。昨日と同じ棚、同じ文箱。だが今日は、見る目が違う。焦げた紙を探すのではない。紐で括られた帳面だ。
源之丞が下段を改め、弥吉が脇から覗き込み、下役が一冊ずつ取り出していく。古い帳面は同じような色をしているが、使い込まれ方、埃の溜まり方、戻され方の癖がそれぞれ違う。
「旦那」
弥吉が小声で呼んだ。
「これで」
指したのは、文箱のさらに奥、見本裂の束の陰に押し込まれるように置かれていた一冊だった。薄い藍の表紙に、他の帳面より新しい紐がかかっている。古い帳面の群れの中で、そこだけ結び直されたような不自然さがあった。
「出せ」
源之丞がそっと引き出す。
表紙には何も書かれていない。
だが、開けば一枚目に、幼い子に関する細かな書き付けが並んでいた。
――衣服入用
――乳母替え
――薬代
――夜泣き続く
そして数枚めくったところで、忠相の指が止まった。
そこには二つの名が並んでいたのである。
松之助。
そしてもう一つ、佐吉ではない、見覚えのない幼名。
だが、その二つのうち、一つには後から線が引かれ、脇に別の書き込みが足されていた。
帳面を覗き込んだ源之丞が、低く呟く。
「……これが」
忠相は答えなかった。
まだ、この場で答えの形にしてはならぬ。
だが、骨は見えた。
火事の夜、近江屋には確かに二人の子がいた。
そしてそのどちらかの名は、帳面の上で消され、別の形へ直されている。
つまり人の人生そのものが、紙の上で一度書き換えられているのだ。
忠相は帳面を閉じた。
「源之丞、これは奉行所へ持ち帰る」
「はっ」
清之介が血の気を失った顔で一歩出た。
「お待ちくだされ! それは、店の内の古い覚え書きに過ぎませぬ!」
「覚え書きでも、紙は嘘をつく」
「……」
「だが、人よりは正直な時もある」
清之介は何も言えなかった。
そのときだった。蔵の外で、女の悲鳴に近い声が上がった。
「だ、誰か……!」
皆が振り向く。
店の裏口の方から、女中が蒼白になって駆け込んできた。
「後家様が……!」
忠相と源之丞は同時に蔵を飛び出した。
裏庭の小径の先、井戸端のそばで、お紺が崩れ落ちるように座り込んでいる。手には、何か小さな紙片を握りしめていた。
顔色は真っ白で、呼吸が浅い。
「どうした」
忠相が問うと、お紺はかろうじて顔を上げた。その目には、初めてはっきりとした恐怖が浮かんでいた。
「……あの子が」
「誰だ」
お紺は握っていた紙を差し出した。
そこに記されていたのは、たった一行。
――次は、生きている方の名を明かす
春の日差しの下、その文字だけが妙に冷たく見えた。
人が過去を隠そうとする時、たいていは沈黙で足りる。
だが今、その沈黙を破ろうとする別の手が動いている。
しかもそれは、十年前のことを知る者の手だ。
忠相は紙を見つめたまま、静かに目を細めた。
誰かが怯えているだけではない。
誰かが、意図してこの家を揺さぶっている。
そしてその者は、松之助という死んだ名と、まだ明かされていない“生きている方の名”の両方を知っている。
蔵から出た帳面。
お縫の隠していた文。
おさよの証言。
お紺へ届いた脅し。
散らばっていたものが、急にひとところへ寄り始めた。
だが、寄り始めたということは、同時に誰かが焦っているということでもある。
忠相は紙を懐へ収めた。
「源之丞」
「は」
「お紺を休ませろ。医者も呼べ」
「はっ」
「それと、近江屋から今夜は誰も出すな。内も外も見張る」
「承知」
弥吉が低く笑った。
「ようやく、向こうさんも隠れてばかりじゃいられなくなったってわけで」
「軽口を叩くな」
「へい」
忠相は近江屋の空を見上げた。
青い。どこまでも春の、穏やかな空だ。
だがその下で、人は十年も昔に書き換えた名に、まだ縛られている。
名を隠した者。
名を知ろうとした者。
名を思い出させようとする者。
これでようやく、事件は金や失踪の顔を脱ぎ始めた。
次に問うべきは、もう一つしかない。
――では、誰が死んだことにされ、誰が生きることにされたのか。
つづく




