第二話 焼け跡から出たもの
朝の江戸は、昨日の秘密を抱えたまま、平気な顔で今日を始める。
南町奉行所の庭先では、下役たちが掃き清めた砂利にまだ朝の湿りが残っていた。門の外からは、魚を売る声、味噌屋が荷を下ろす音、遠くを渡る馬の蹄の響きが、薄い春の空気に交じって聞こえてくる。日が高くなれば、これらは皆、町の賑わいという名の大きな流れに呑まれてゆく。だが、奉行所という場所は、その流れから零れた小石のような違和を拾い上げるためにある。
大岡忠相は、机の上に置かれた二片の焼け焦げた紙を、朝の光の中で並べて見ていた。
ひとつは昨日、近江屋の蔵の文箱から見つかったもの。もうひとつは今朝がた、源之丞が佐吉の寝所の畳の継ぎ目から見つけ出したもの。焦げた端を慎重に合わせても、ぴたりとは噛み合わない。もとは同じ書付の一部ではなく、別の紙である可能性の方が高い。
だが、同じように古い焦げ方をしており、しかも片方には「……松」、もう片方には「子」の一字が残っている。
人の名に見えなくもない。
あるいは、何か別の記しに過ぎぬのかもしれぬ。
「源之丞」
忠相が声をかけると、傍らに控えていた榊原源之丞が一歩進み出た。
「は」
「畳の間から見つかった方、どのように隠れていた」
「畳を上げずとも見えぬほど深くはございませなんだ。だが、普通に掃けば出る場所でもありませぬ。布団を引く折にこぼれたというより、慌てて押し込んだ形に近うございます」
「佐吉がか」
「あるいは、部屋を改めた者が、にございます」
忠相はうなずいた。
昨日の時点で、番頭・清之介が布団の下から何か紙くずのようなものを見つけ、自ら持ち去ったという話は得ていた。ならば、今朝の紙片は、その時の見落とし、あるいは取り切れなかった残りかもしれない。
どちらにせよ、近江屋は失踪した手代の“持ち物”より先に、“残したもの”を恐れている。
源之丞が続けた。
「もう一つ。昨日のうちに、近江屋の古い火の記録を町年寄の控えから当たりました」
「出たか」
「十年前の卯月、日本橋通塩町にて小火一件。類焼は軽く、死者もなし、とございます」
「死者もなし」
忠相はそこで指を止めた。
「そう記されておりました」
「近江屋では、幼子が病死したという話があるのだろう」
「はい。町の古老に二、三尋ねましたところ、『近江屋の坊があのころ身罷った』と覚えておる者はおります」
「ならば、火事の記録と食い違う」
「町年寄の控えには、火に関わる死者はなし。病で亡くなったのなら、別立てに考えることもできましょうが……」
「人は往々にして、都合のよいように一つの夜を二つに分ける」
忠相は低く言った。
「火事の夜のことと、病の夜のこと。本来なら同じ晩に起きたことでも、後になれば『別々の出来事であった』ように語りたがる。とくに、そうせねば困る者がいる場合はな」
源之丞は目を伏せた。
「では、やはり十年前の夜に、近江屋で何かあったと」
「そう見るほかあるまい」
そこへ、障子の外から軽い咳払いがした。
「弥吉でございます」
「入れ」
岡っ引きの弥吉は、昨夜のうちにいくつもの湯屋と口入れ屋と居酒屋を巡ってきたのだろう、少しばかり酒気の抜けきらぬ顔で、しかし目だけは妙に冴えていた。
「旦那、口入れ屋の筋、探ってきやした」
「申せ」
「佐吉は、近ごろお峰って口入れ屋の女将んとこへ二度ほど顔出しておりやす。けども、奉公口を変えたいって相談じゃあなかったそうで」
「何を聞いていた」
「へい。自分が近江屋に上がった時のこと、親元の控え、誰が口を利いたか、みてえな話を」
源之丞が眉を寄せた。
「奉公人が、自分の奉公入りの経緯など、今さら気にするものか」
「ふつうはしやせん。だからお峰女将も、妙だと思って覚えてたってことで」
「ほかには」
「それがねえ、旦那。佐吉の奴ぁ、『自分は本当に上総の生まれなのか』なんて聞いたそうで」
部屋の空気が一段、静かになった。
忠相は弥吉の顔を見た。
「そう言ったか」
「へい。お峰女将は、『控えには上総とあるよ』と答えたそうですが、佐吉はそれでも納得した顔じゃなかったってことで」
「控えは残っているのか」
「そこが面倒で。古い控えは火や湿気で傷んだのも多くて、十年前の分は一部しか残っちゃいねえそうでさ」
「都合のよいことだ」
源之丞が苦く言うと、弥吉は肩をすくめた。
「古い話に限って、帳面はよく燃えるもんで」
忠相は弥吉を見たまま、わずかに口端を動かした。
「それは帳面が勝手に燃えるのか、それとも人が燃やすのか」
「さあて。火の気の多い江戸でさあ」
弥吉はそう言いながらも、その目は笑っていなかった。
「そのお峰に会う」
「いつでも会えるでしょうが、朝いちは機嫌が悪いかもしれませんぜ。商売女ってのは、朝より昼の方が口が滑りやすい」
「お前の経験か」
「経験ってほど立派なもんじゃございやせん」
軽口を叩いてから、弥吉はふっと顔を寄せた。
「もう一つ。近江屋の跡目の噂、少し詳しいのが拾えやした」
「申せ」
「先代が亡くなった後、分家筋の一人が『本来なら跡を継ぐべき筋がある』なんて騒いだことがあったそうで」
「継ぐべき筋、か」
「へい。けど、その話はすぐに立ち消えになった。金を掴まされたのか、脅されたのか、そこまではわかりやせん。ただ、町の口は一度そういうことを飲み込むと、後から吐き出したがらなくなる」
忠相は机上の紙片へ再び目を落とした。
――……松
――子
火の記録。死んだはずの幼子。奉公人の身の上探し。跡目を巡る噂。
線はまだ細い。だが、細い線ほど、早く結べば強くなる。
「弥吉。昼までにお峰の機嫌が良くなるよう、何でもせよ」
「何でも、は便利な言葉で」
「お前に似合っている」
「へいへい」
弥吉はにやりと笑い、するりと下がっていった。
忠相は立ち上がった。
「源之丞、近江屋へもう一度行く」
「また、にございますか」
「番頭は昨日、古証文の件を『知らぬ』で押し切ろうとした。今日もう一度同じ問いをすれば、昨日とのずれが出る」
「同じ問いを、間を置いて重ねるわけですな」
「人は作り話を一度は覚えられる。二度目に同じ顔で言えるかは別だ」
奉行所を出たころには、日もだいぶ上がっていた。春の江戸は空が高く、薄青い空に白い雲が刷毛で引いたように浮かんでいる。日本橋へ向かう道には、反物を担いだ男、炭俵を運ぶ荷車、子を背負った女房が行き交い、誰もが自分の一日を疑わずに進んでいく。
忠相は歩きながら、町の音の下にあるものへ耳を澄ませた。
町には表の声がある。威勢のいい掛け声、笑い声、客を呼ぶ声。だがその下には、決して大声では言われぬ種類の話が流れている。あそこの家は実子が弱い。あの番頭は主の顔色を見すぎる。あの娘は、昔どこぞの店に出入りしていた。
事件とは、多くの場合、その下の声の方から生まれる。
近江屋に着くと、昨日と同じように店は忙しく動いていた。商いは人の不幸に合わせて止まってはくれない。むしろ止まれぬからこそ、誰かが無理にでも平静を装う。
清之介はまたも意外そうな顔をしたが、今回はすぐにそれを隠しきれなかった。
「お、お奉行様。何か新たな……」
「少し聞き直す」
忠相は店の奥へ進み、昨日と同じ帳場の間に腰を下ろした。源之丞が脇に控える。
「番頭、古い文箱のことだ」
清之介の肩がわずかにこわばった。
「は、はい」
「お前は昨日、あの焼け焦げた紙を見た覚えもないと申したな」
「そのように申し上げました」
「では、なぜ見た途端に顔色を変えた」
「……火に焼けたような古文書でございましたゆえ、驚いただけに」
「古文書はあの箱に多いと、お前自身が申したではないか」
清之介は一瞬、息を詰めた。
「そ、それは……」
「驚く理由が他にあるなら申せ」
「……」
「ないなら、昨日の答えは嘘だ」
源之丞がぴたりと追い打ちをかけるように無言で立つ。武辺者の圧というより、逃げ道の少ない壁のような気配である。
清之介は畳の目を見たまま、ようやく口を開いた。
「……先代のころ、あの蔵で一度、小さな火が出たことがございます」
「昨日は知らぬと言ったな」
「お、お奉行様のお尋ねが、どこまでのことを指すか、測りかねまして……」
「便利な言い回しだ」
忠相は少しも声を荒げなかった。
「小さな火、とは」
「行灯の不始末にございます。大事には至らず、文書が少々焦げたのみで」
「いつだ」
「十年ほど前かと」
「卯月十八日か」
清之介の顔から、音もなく血の気が引いた。
その反応だけで十分であった。
忠相は机上に焼け焦げた紙片を置いた。
「知らぬと言える顔ではないな」
「…………」
「なぜその火のことを隠した」
清之介は返す言葉を探した。だが人は、自分が隠したい核心に近い話になると、かえって上手く嘘を組めない。昨日まで滑らかだった番頭の口は、今や乾いた砂を噛んだように重くなっている。
「たかが小火にございます。大事でもなく、今さら申し立てるようなことでは……」
「たかが小火の記憶で、そこまで顔色が変わるものか」
「……」
「その夜、近江屋で何があった」
長い沈黙ののち、清之介はようやく言った。
「坊ちゃんが……お亡くなりになりました」
源之丞がわずかに目を上げた。
「病で、にございます」
清之介は急いで付け足した。
「生まれつきお体が弱く、あの春先よりずっと臥せっておられまして。火が出た夜、折悪しく、容体が……」
「火と死が同じ夜に重なったのか」
「は、はい」
「なぜ昨日、それを言わぬ」
「亡くなった幼子のことを、今さら土の下から掘り返すようで……後家様もおつらかろうと」
「なるほど。主への忠義は結構」
忠相はそこで少し身を乗り出した。
「だが番頭、忠義の顔をした口止めほど、厄介なものはない」
清之介は口を結んだ。
「その坊の名は」
問われると、清之介はほんのわずかにためらってから答えた。
「松之助様にございます」
忠相の視線が、机上の紙片の「……松」に落ちる。
源之丞も同じものを見た。
やはりそうか、という空気がわずかに差したが、忠相はすぐにはそれを口にしなかった。早く繋げすぎると、相手がその線に合わせた嘘をつく。
「では、『子』の方は何だ」
清之介の目が、一瞬だけ揺れた。
「……存じませぬ」
「また知らぬか」
「本当に」
「佐吉が蔵を気にしていたことは」
「私は知りませぬ」
「口入れ屋へ通っていたことは」
「今、初めて」
「では、お前は何を知っている。『佐吉が金を盗んで逃げた』という筋だけか」
番頭は返せなかった。
忠相はそれ以上責めず、立ち上がった。
「後家に会う」
清之介は明らかに顔を曇らせたが、奉行を止めることはできぬ。
近江屋の奥座敷は、店先の慌ただしさから切り離されたように静かだった。障子越しの光は柔らかく、床の間には季節の花が一輪活けてある。香がごく薄く焚かれ、その場の空気を上品に整えていた。
そこへ現れた後家・お紺は、年のころ三十半ばほど。地味な色合いの着物を隙なく着こなし、顔立ちは派手ではないが、見れば見るほど目を引く品があった。悲しみを忘れた顔ではない。だが、長く胸の内へ沈めて、もう人前では滅多に波立たせぬ類の悲しみである。
「このたびは、つまらぬことでお手を煩わせまして」
声もまた静かだった。
「つまらぬかどうかは、これから決まる」
忠相が言うと、お紺はわずかに目を伏せた。
「佐吉という手代が消えた件だが、番頭からは粗方聞いた」
「はい」
「十年前の小火と、亡くなった幼子のこともな」
その瞬間だけ、お紺の指先が帯の上でわずかに止まった。
本当に小さな揺れであった。だが、感情というものは大きく荒れる時より、抑え込まれた時の方が形を見せる。
「昔のことでございます」
「昔のことは、今のことにならねば掘り返されぬ」
忠相は机上へ紙片を置いた。
「これは蔵から出た。松之助、の名か」
お紺は紙片を見た。見たが、触れない。
「……そうかもしれませぬ」
「かもしれぬ、か」
「焼けておりますれば」
「ではこちらは」
もう一方、「子」の字を残した紙片も並べる。
お紺の呼吸が、今度ははっきりと一つ浅くなった。
それでも彼女は、顔を崩さない。
「存じませぬ」
「佐吉が何を調べていたか、心当たりは」
「ありません」
「本当にか」
「はい」
忠相はしばらくお紺を見ていた。
この女は嘘をついている。
だが、清之介のような“整えた嘘”ではない。言うべきでないことを知っており、それを言わぬために、必要最小限の言葉だけを置いている。そういう沈黙であった。
「後家」
「はい」
「人は守りたいもののために嘘をつく。そこまでは咎めぬ。だが、守る相手を誤れば、その嘘は別の者を傷つける」
お紺は答えなかった。
「佐吉を傷つけているのは、誰だ」
「……」
「このままでは、あの若者は金を盗んで逃げた者として、町に名を残す」
「……」
「それでもよいのか」
長い沈黙ののち、お紺はようやく、ほんの僅かに声を震わせた。
「世の中には……名前を明かせば余計に不幸になることもございます」
それだけ言って、彼女は口を閉ざした。
忠相はそこに、昨日よりもはるかに重いものを見た。
名。
やはり、この一件は金ではなく、名に関わる。
奥座敷を辞するとき、源之丞が小さく問うた。
「どう見られます」
「後家は知っている」
「番頭も」
「知っている。だが知っている中身が違う。番頭は店の都合を知っている。後家は人の都合を知っている」
源之丞は少し考えてから言った。
「同じ事実でも、握っている端が違うわけですな」
「うむ。綱は一本でも、握る場所が違えば見える景色も違う」
店を出たところで、通りの向こうから誰かがこちらを窺っているのに忠相は気づいた。
長屋の軒先、洗い物をする女房たちの陰に立っていたのは、お縫である。
昨日と同じ藍の着物に、今日は白い手拭いを腕へ掛けていた。こちらが気づいたと知ると逃げるでもなく、むしろ腹を決めたように一歩出た。
「何だ」
源之丞が警戒を露わにするより早く、お縫は忠相へ頭を下げた。
「少し、お話ししたいことがあります」
「ここでか」
「人目のある方が、かえっていいこともあります」
気の強い娘だ、と忠相は改めて思った。
だが、こういう者ほど、本当に核心に触れる話は人目の下ではしない。これは“話したい”というより、“聞く気があるか確かめたい”顔である。
「申せるところまで申せ」
忠相が言うと、お縫は唇を湿らせてから言った。
「佐吉さんは、近ごろ、昔のことばかり気にしていました」
「昔、とは」
「自分が近江屋へ来た時のこと、自分が小さいころ、どこにいたのか、誰が自分を知っているのか」
「なぜ急にそんなことを」
「……紙を見たからです」
「何の紙だ」
「そこまでは、私にも」
お縫はそこで一度、視線を伏せた。
「でも、たぶん、火事の夜のことが書いてあったんだと思います」
「お前はその夜を知っているのか」
すると、お縫の目が、ほんの一瞬だけ硬くなった。
「知っている……というほど、私は大きくありませんでした」
「ではなぜ、そう言える」
「母が、何度か寝言みたいに口にしていたからです」
「何と」
「『あの夜、二つの泣き声がした』って」
源之丞が息を呑んだ。
忠相は表情を変えなかったが、その一言がどれほど重いかは十分に知れた。
近江屋で病死したとされる幼子は一人。
だが、お縫の母は火事の夜、二つの泣き声を聞いたという。
「二つ、か」
「はい」
「お前の母は、近江屋へ針仕事を納めていたのだな」
「そうです。あのころはよく出入りしていました。私はその手伝いで一緒に行くこともあって」
「その夜もいたのか」
「……そこまでは、はっきりしません」
忠相はお縫を見た。
この娘も、全部は言っていない。だが、嘘を作るためではなく、何をどこまで口にしてよいかわからぬまま、持っている端だけ差し出している。
「母に会う」
お縫はすぐにはうなずかなかった。
「母は、身体が丈夫じゃありません」
「無理にはせぬ。だが会う」
「……わかりました」
その時、近江屋の店先から清之介がこちらを見ているのが見えた。遠目にもわかるほど、顔が険しい。
お縫もそれに気づき、わずかに眉をひそめた。
「番頭さんは、私が何か喋るのを嫌がっています」
「なぜだと思う」
「私が知ってることがあるからじゃなくて」
お縫は苦い顔をした。
「私の母が、昔のことを少し知ってるからです」
「お前自身は」
「……私は、はっきりしたことは知りません。でも」
「でも、何だ」
「佐吉さんは、自分が『誰の子なのか』を知ろうとしていました」
その言葉は、春の昼の賑わいの中で、妙に冷たく響いた。
誰の子か。
名前の話であると同時に、身の上の話でもある。
商家の跡目に絡めば、それは家の根に触れる。
「それを、お前はどうして知った」
「一度だけ、私にそう言ったからです。『俺は、もしかしたら、ずっと誰かの代わりだったのかもしれない』って」
忠相は、そこでようやく一つの形をはっきりと見た。
まだ確かではない。だが、もう疑いでは済まぬ。
十年前の火の夜、近江屋には幼子が二人いたのかもしれぬ。そして今、失踪した手代・佐吉は、そのどちらか、あるいはその夜に関わる何者かの“代わり”として生きてきたと疑い始めていた。
人が自分の名を疑い出した時、世界は急に不安定になる。
忠相は静かに言った。
「お縫。今後、何か思い出したらすぐ奉行所へ知らせよ」
「はい」
「番頭に脅されたら、それも申せ」
「……脅されるようなことは、まだ」
「まだ、か」
お縫は答えず、深く頭を下げた。
奉行所へ戻る道すがら、源之丞が低く言った。
「二つの泣き声、でございますか」
「うむ」
「火事の夜、幼子が一人ではなかった」
「あるいはそうだ」
「そして片方が死に、片方が残った」
「残った者が誰として残ったのか、だな」
源之丞の顔は固かった。
「もし、近江屋の跡目に絡むような入れ替えがあったなら……」
「番頭が口を重くするのも、後家が沈黙するのも理にかなう」
「佐吉はそのことを知ってしまった」
「あるいは、自分がその中心にいると気づいた」
奉行所へ戻ると、弥吉が待ちかねたように飛び込んできた。
「旦那、お峰女将、会えやす!」
「今から行く」
「へい。ただし機嫌は良うなってますが、腹の中まで口を開くかは別で」
「腹の中まで見せる必要はない。歯の隙間から零れるもので足りる」
「そいつぁ旦那らしいや」
お峰の口入れ屋は、表通りから少し入ったところにあった。間口は狭いが中は意外に奥深く、奉公口の世話だけでなく、女中や小僧の口入れ、里子の仲立ちまで扱っているらしい。こういう場所には、人の名前と行き先と、言葉にしにくい事情が自然と集まる。
女将のお峰は五十を過ぎたあたり、髪をきっちり結い上げた、細身で目のよく利く女であった。笑えば商売人らしい柔らかさが出るが、笑っていない時の目は算盤玉のように硬い。
「これはお奉行様。弥吉さんからお話は伺っておりますよ」
「佐吉の件だ」
「でしょうねえ」
お峰は茶を勧めながらも、最初から観念した顔ではなかった。何をどこまで言うか、こちらの出方を見て量っている。
「佐吉が自分の奉公入りのことを尋ねたそうだな」
「ええ、そうでした」
「何と尋ねた」
「『俺は、どこの生まれで、誰に口を利かれて近江屋へ入ったんだ』と」
「控えには何とある」
「上総国、父母ともに早く亡くなり、幼少のころに縁者を頼って江戸へ出た、と。ありふれた書きようです」
「ありふれているからこそ、いくらでも作れるな」
お峰は少しだけ目を細めた。
「お奉行様は、きついことをおっしゃる」
「商売にしているお前なら、もっときついことも知っていよう」
お峰は笑った。今度の笑いは、さっきより少し本物に近かった。
「佐吉さんは、その控えを見せてほしいと言いましたよ。けれど古いものは傷んでいて、全部が残っているわけじゃない。見せたところで、本人が納得するほどのものはなかったでしょう」
「なぜ佐吉は納得しなかったと思う」
「それはねえ」
お峰は茶碗を置いた。
「近江屋から上がった時の佐吉さんの様子が、あまりに整いすぎていたからですよ」
「整いすぎていた」
「ええ。貧しい子はもっと貧しいなりの癖があります。怯え方も、物の持ち方も、言葉の切れ目も。けれどあの子は、最初こそ痩せてはいたけれど、どこか妙に、躾がついていた」
源之丞が問うた。
「商家の子のように、ということか」
「そこまでは申しません。けれど、ただの流れ者の子ではなかったでしょうね」
忠相はそこへ重ねるように聞いた。
「誰が口を利いた」
お峰は少し黙ってから答えた。
「近江屋の先代に近しい筋から、です」
「誰だ」
「名までは、ここでは」
「商売の義理か」
「ええ。死人に近い話まで、何もかも売るほどあさましくはございませんよ」
「だが売らぬことで、生きている者が盗人の名を着せられる」
お峰はそこで初めて、はっきりと顔色を変えた。
この女は世の理を知りすぎている。だからこそ、筋の悪い話でも平気で飲み込める。だが、それと見過ごせるかは別だ。
「……ひとつだけ、申し上げます」
お峰は低く言った。
「近江屋が佐吉さんを入れた時、あたしは『どうして今さらこの子を』と思いましたよ」
「今さら、とは」
「年が半端だったんです。奉公口へ入れるには遅すぎる、けれど養うには手がかかりすぎる。なのに無理にでも入れた。あれは働き手が欲しかったんじゃない。店の目の届くところへ置きたかったんです」
忠相はゆっくりとうなずいた。
やはりそうだ。
近江屋は佐吉を“拾った”のではない。管理できる場所へ“戻した”のだ。
口入れ屋を出るころには、日も西へ傾き始めていた。町は夕方前のせわしなさを帯び、軒先で魚をさばく音、湯屋へ向かう子どもの足音、裏長屋から漏れる味噌汁の匂いが春の風に乗って流れてくる。
だが忠相の胸中には、そのぬくもりとは別の冷たい形ができつつあった。
十年前、近江屋で火が出た夜、幼子が一人死んだことになっている。だが、その夜には二つの泣き声があった。口入れ屋の控えは曖昧で、佐吉の奉公入りは不自然で、しかも近江屋は彼を店の目の届くところへ置いていた。
失踪した若い手代が追っていたのは金ではない。
過去でもない。
自分の名であり、自分の生まれであり、ある夜に“誰の代わりにされたのか”ということだ。
奉行所へ戻ると、夕刻の灯が入り始めていた。忠相は机に向かい、二片の焼け焦げた紙の横へ、今日聞いたことを一つずつ書き留める。
十年前の小火。
死んだとされた松之助。
二つの泣き声。
奉公入りの不自然。
店の目の届く場所へ置かれた佐吉。
どれもまだ、証には遠い。
だが証に遠い話ほど、人の心には近い。
そのとき、障子の向こうで足音が止まった。
「源之丞にございます」
「入れ」
源之丞は一礼し、短く告げた。
「近江屋の過去帳について、寺へ当たらせておりました者から戻りがありました」
「どうだ」
「松之助とされる幼子の記載、ございます」
「される、とは」
「戒名の脇に、書き直しの跡があるとのこと」
忠相の目が細くなった。
「書き直し」
「はい。もとの文字を削って改めたような痕が、うっすらと」
部屋が静まった。
寺の過去帳は、人の死をこの世に刻むものだ。その記しに書き直しの跡があるというのは、ただの記入違いでは済まぬ。
「寺の者は何と」
「古いことゆえわからぬと。だが、当時の住職はすでに亡く、記した小僧も今は別寺へ移った由」
「追え」
「承知」
忠相はしばらく動かなかった。
書き直された死者の名。
それはつまり、死んだ者の名ですら、あの家では確かなものではなかったということだ。
灯明の火が少し揺れた。障子に映る影もまた細く揺れる。
花の江戸に暮らす者たちは、名を頼りに生きている。家の名、親の名、主の名。だが一度、その名が嘘を含めば、人は自分の足場ごと失う。
佐吉は、まさにその足場を探ろうとして消えたのだ。
忠相は筆を置き、静かに言った。
「これは、もう小さな失踪ではないな」
源之丞が答えた。
「はい。商家一つの都合では済まぬ話に見えて参りました」
「うむ。だが、慌てるな。大きな嘘ほど、端から引けば崩れる」
「次はどこを」
「お縫の母だ。それと、寺の移った小僧。十年前の夜に口を持っていた者はまだ残っている」
源之丞が下がった後も、忠相はしばらく机上の紙片を見ていた。
焦げた紙は、火をくぐったからこそ残る形がある。まっすぐ燃え尽きたものは灰になるだけだ。だが半端に焼け、消されかけたものほど、後になって妙な強さで残る。
人の嘘も同じかもしれぬ。
完全に隠しきれたものは、もはや誰の目にも映らない。だが、半端に隠され、半端に救われ、半端に書き直されたものは、十年たっても焦げ跡のように残る。
その夜、忠相は最後にもう一度、紙片の字を見た。
――……松
――子
松之助の「松」か。
あるいは、まだ別の名の端か。
そして「子」は、ただの一文字なのか、それとも、誰かが死んだことにされた子の記しなのか。
答えはまだ出ていない。
だが一つだけ、確かなことがある。
失踪した佐吉は、過去を暴くために蔵を漁ったのではない。
自分が何者であるかを知るために、焼け跡を掘り返していたのだ。
そしてその行いは、誰かにとって、金を盗まれるよりよほど恐ろしいことであった。
春の夜の江戸は、昼の賑わいとは別の顔で静まってゆく。軒先の灯は一つずつ消え、長屋では夕餉の話し声が低くなり、やがて遠くで拍子木が鳴る。
けれど静けさとは、秘密が眠る時の顔でしかない。
翌日、その静けさを破るように、また一つ新たな品が忠相の前へ運び込まれることになる。
それは、誰かが人知れずお縫の家の戸口に置いていった、古びた小さな守り袋であった。
中には、焼け跡の証文と同じ夜を指すような、幼子用の根付が入っていた。




