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『花の江戸、嘘の影 南町奉行・大岡忠相事件控』  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一


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第十一話 守った者、奪った者

人は、自分が誰かを守ったのだと信じたい。


 たとえその守り方が、別の誰かから何かを奪っていたとしても。

 家を守った。

 子を守った。

 暮らしを守った。

 名を守った。

 皆、それぞれにそう言うだろう。

 そしてたいてい、その言い分は嘘ではない。

 ただし、全部が真でもない。


 近江屋の裏庭で嘉兵衛を取り押さえたあと、忠相はそのまま奉行所へ連れ帰らせた。

 夜はなお深かったが、こういう話は一度口が開いたところを逃せば、次はまた十年黙る。人の胸の底に沈められたものは、引き上げる瞬間が肝心だった。


 詰問のための座敷へ通されても、嘉兵衛は妙に落ち着いていた。

 痩せた顔、酒で少し荒れた肌、細い指。背に背負っていた細長い包みの中には、筆と紙と、古い文を写すための薄い手本が入っていた。先代の筆に似せた文を書く技は、本当にこの男にあるのだろう。

 だが、その目はただの脅し屋の目ではなかった。

 長いあいだ、見て見ぬふりをし続けたものに、とうとう耐えきれなくなった者の目である。


 忠相は向かいに座り、火の夜“前”の帳面を脇に置いた。


「申せ」


 嘉兵衛はすぐには話さなかった。

 帳面へ目を落とし、やがて鼻で短く笑う。


「旦那、そこまで見つけたなら、だいたい筋は読めてるんじゃありませんか」


「お前の口で言え」


「律儀ですね」


「そういう役目だ」


 嘉兵衛は少しだけ肩をすくめた。


「じゃあ、どこから話しましょうかね。火の夜からじゃ遅すぎる。あの家の歪みは、もっと前から始まってたんです」


 源之丞が脇で黙って立つ。

 弥吉は部屋の隅へ控え、珍しく余計な口を挟まない。


「松之助が病弱だったことは、もう聞いてるでしょう」


「うむ」


「先代はそれを、家の中ではもちろん、分家筋や得意先にもあまり見せたがらなかった。跡取りが弱いと知れりゃ、商いの金は逃げる。親類は騒ぐ。だから、表では『いずれよくなる』って顔をしてた」


「その裏で、預かり子を置いた」


「そうです。最初は情もあったでしょうよ。お滝の子を哀れんだってのも、たぶん嘘じゃない。けど情だけなら、蔵の前の離れみてえな場所へ置いたりしません」


 忠相は静かに聞く。


「では、何だ」


「見比べてたんですよ」


 嘉兵衛はそう言い切った。


「松之助がどこまで保つか。預かり子がどこまで育つか。

 もちろん最初から『代わりにする』なんて露骨な話じゃない。けど帳場ってのは冷てえもんでね。人の情の横で、いつも別の算段が動いてる」


 源之丞が眉をひそめる。


「証は」


 嘉兵衛は忠相の脇の帳面を顎で示した。


「その帳面にも出てるでしょう。“表へ出さぬこと”って。あれはただ隠したい子だったからじゃない。いざという時、動かせるように、余計な目をつけさせなかったんですよ」


 忠相は帳面を開き、該当箇所へ目を落とした。

 たしかに、預かり子佐之助については、“表へ出さぬこと”とある。

 情の保護とも読める。

 だが、嘉兵衛の言うように“いざという時の備え”とも読めてしまう。


「お前は、どこまで知っていた」


「火の夜の前は、薄々です。けど火の夜のあとで確信しました」


「何を見た」


 嘉兵衛の目に、暗い色が差した。


「帳面のつけ替えです」


 部屋が静かになる。


「火の夜の翌々日だったか、先代に呼ばれて、古い覚えを書き直す手伝いをさせられたんですよ。名の場所だけ、別の紙へ写しておけ、って」


「お前はその時、もう入れ替えを知っていたか」


「そこまではっきりじゃねえ。ただ、帳面の上で“佐之助”の名が消され、“松之助”の方が生きるように直されるのを見りゃ、馬鹿でもわかる」


「なぜ黙った」


 嘉兵衛は笑った。

 だがその笑いに自嘲しかない。


「若かったんですよ、俺も。番頭株に食い込めるかもって頃でね。旦那に逆らって首が飛べば、それで終いだ」


「金を握らされたか」


「握らされましたよ。口止めってほど立派でもない。『これで働きに励め』って形で」


「受け取った」


「ええ」


「ならば、お前もその嘘の一枚だ」


「承知の上です」


 嘉兵衛は目を逸らさなかった。


「だから今さら善人ぶる気はありません。

 あの家は人の人生を食って立ってる、って気づいたあとも、俺はしばらくその飯を食ってた」


 忠相は頷いた。


 その言い方は醜いが、正直でもある。


「ではなぜ今になって動いた」


「先代が死んで、話は墓まで持っていかれたと思ってました。お紺も清之介も、家のためって顔で全部を押さえつけた。俺も、時々金に困った時に古いことを匂わせて銭を引っ張るくらいで……」


 源之丞が冷たく言う。


「立派な脅しだな」


「そうですよ」


 嘉兵衛はあっさり認めた。


「けど、あれは金のためだ。

 本当に腹が立ったのは、佐吉が蔵を漁り始めてからです」


「なぜ」


 嘉兵衛の声が、そこで初めて少しだけ固くなった。


「何も知らねえ顔で働いてた若いのが、ようやく自分の足場を探り始めたってのに、家の連中はまた同じことをしようとした。黙らせて、押し込めて、都合のいい名前だけ与えて生かそうとした。

 十年前と同じです」


 忠相は言った。


「だから脅し文を書いた」


「一通目は俺です」


 源之丞がわずかに動く。


「先代の筆に似せた文もか」


「はい」


「なぜだ」


「死人の名前を借りなきゃ、あの家の連中は本気で震えないからですよ」


 嘉兵衛は淡々と答えた。


「お紺も清之介も、役人や岡っ引きが何を言っても、“家を守る理屈”で耐える。けど、先代の影が戻ったと思えば、話は別だ」


「二通目もお前か」


「違います」


 忠相の目が細くなる。


「帳面を戻せと言った方は」


「俺じゃない。俺はあの家を震わせたかっただけで、帳面そのものは欲しかったけど、あんな急ぎ方はしねえ」


 弥吉がそこで初めて口を挟んだ。


「へえ。じゃあ誰で」


「清之介じゃないですか」


 嘉兵衛は鼻で笑った。


「あるいは、その筋の誰か。

 あいつは帳面が表へ出ると、今の勘定まで全部ひっくり返るのを知ってる」


 源之丞が言う。


「草履を川岸へ置いたのも」


「それも俺じゃない。俺なら、死んだことになんかしませんよ。生きて歩かせて、家の前に立たせる方がよっぽど効く」


 たしかに、と思った。

 嘉兵衛のやり口は芝居がかっているが、“死んだことにする”より“生きていることを見せつける”方に向いている。

 ならば草履と二通目の文は、家を守る側か、少なくとも“帳面だけは回収したい側”の仕業である可能性が高い。


「嘉兵衛」


「はい」


「佐吉は今どこだ」


 男は少し目を伏せた。


「深川の茶屋跡までは一緒でした」


「それは聞いた」


「そこで、あいつに帳面の話をもう少ししたんです」


「何を」


「火の夜の前から、お前は“備え”として見られてたかもしれねえ、って」


 その言葉に、忠相は胸の内で小さく息をついた。

 やはり、そこまで行っている。


「佐吉は何と言った」


「最初は怒ってました。『そんなはずはない』って。けど、帳面の“表へ出さぬこと”と、“松之助咳強し”の並びを自分で見てるから、全部を否定もできない」


「それで」


「『じゃあ俺は、誰に守られたんだ』って」


 忠相は目を伏せた。

 よい問いだ。

 そして、それに答えられる者が、今まで誰もいなかった。


「お前は何と答えた」


「守られちゃいねえ、って言いました」


 嘉兵衛の声は乾いていた。


「皆、自分のもんを守っただけだって。

 お紺は家と、死んだ松之助への気持ちを。

 清之介は今の勘定と飯の種を。

 お滝は、生き延びさせることだけを。

 先代は、商家の名を。

 誰も佐吉本人のこれからなんて、ちゃんと見ちゃいねえって」


 源之丞が黙る。

 弥吉もまた、珍しく茶化さない。


 忠相は静かに言った。


「それは半分、真だ」


 嘉兵衛が目を上げる。


「半分、で」


「皆、自分の守りたいものを守った。そこまではその通りだ。だが、お滝が子を生かそうとしたのまで、同じ平たさで切るのは違う」


 嘉兵衛は少し口を歪めた。


「旦那は優しいな」


「優しくはない。切り分けているだけだ」


 忠相は続けた。


「守った者がいる。

 だが同時に、奪った者もいる。

 その両方を一緒にせずに見るのが役目だ」


 嘉兵衛は何も言わなかった。


 しばらくの沈黙ののち、忠相は問いを変えた。


「佐吉は茶屋跡を出たあと、どこへ行くと言った」


「言いませんでした。けど……」


「けど、何だ」


「『あの女のところへ、もう一度行くかもしれねえ』と」


「お滝か」


「いや」


 嘉兵衛は首を振った。


「火の夜に、蔵前で自分を抱いてた年寄り女だって」


 忠相の目が止まる。


「古女中か」


「たぶん。あいつ、ぼんやり覚えてるらしいんですよ。火の色より、声より、乾いた手で抱かれた感じを」


 おさよでもなく、お紺でもなく、お滝でもない。

 火の夜に佐之助を蔵前へ移し、抱いていた古い女。

 おそらく、当時乳母代わりか、預かり子の世話を任された年増の女中。

 火の夜の本当の瞬間を、最も近くで見ていた者である可能性が高い。


「名は」


「お浜、だったと思います」


 弥吉がすぐに反応した。


「お浜なら、前に近江屋の古女中筋で一度耳にしやした。今は本所寄りの外れで、寝付いた年寄りの世話してるとか」


 忠相は即座に言った。


「そこだ」


 源之丞が頷く。


「佐吉もそこを目指した可能性がある」


「うむ。今ならまだ間に合うかもしれぬ」


 だが忠相は、すぐには立たなかった。

 嘉兵衛を見たまま、最後に一つだけ確かめる。


「嘉兵衛」


「はい」


「お前は一通目の脅し文を書いた。だが佐吉を死んだことにはしたくなかった」


「ええ」


「ならば、なぜお縫のところへも男をやった」


 嘉兵衛は眉をひそめた。


「俺はやってませんよ」


 弥吉が低く言う。


「筆みてえな包みを持った酒焼け声の男だぜ」


「そんなの、この町に俺一人じゃないでしょう」


 嘉兵衛は吐き捨てるように言った。


「それに俺があの娘を脅したって、何の得もない。

 むしろ、あの手は清之介寄りだ。佐吉の周りを一つずつ塞いで、どこへも逃げ場をなくしていくやり方です」


 忠相はその言葉を胸の内で留めた。


 嘉兵衛の仕業ではない。

 だとすれば、やはり一通目とそれ以外では手が違う。

 “火の夜を暴きたい手”と、“帳面と佐吉を押さえたい手”が並行して動いている。


 ここまで来れば、家の中の誰かがなお深く関わっている可能性は高い。

 お紺と清之介だけではない。

 勘定筋、奥向き、古女中。

 十年前から今まで、少しずつ知りながら暮らしてきた者たちの中に、まだもう一人、動いている手がある。


「源之丞」


「は」


「嘉兵衛はここへ置く。逃がすな。だが縄はきつくするな」


「承知」


 嘉兵衛が皮肉っぽく笑う。


「旦那、俺を信じるんで」


「信じはせぬ。だが今夜は、お前より先に探すべき者がいる」


「佐吉、ですか」


「そうだ」


 忠相は立ち上がった。


 そのとき、嘉兵衛がぽつりと言った。


「旦那」


「何だ」


「あいつが一番欲しかったのは、たぶん、本当の親の名前だけじゃないですよ」


 忠相は振り返る。


「……『なんで俺が生きることになったのか』です。

 それを知ったら、あいつ、怒るより先に、立つ場所がなくなる」


 忠相は静かに答えた。


「だからこそ、こちらが先に見つける」


 外へ出ると、夜気はさらに冷えていた。

 花の江戸の夜は長いようで短い。

 誰かが一晩で消えるには十分で、誰かを一晩で救うには足りないことが多い。


 だが今は、足りぬなら詰めるしかない。


 守った者がいた。

 たしかにいた。

 お滝は生かそうとした。

 お紺もまた、歪んだ形ではあれ、あの子を十年見捨てきれなかった。

 だが同時に、奪った者もいる。

 先代は家のために名を奪った。

 清之介は今の勘定のために居場所を奪おうとした。

 嘉兵衛は真を武器に変えようとした。

 そして、十年前の役所の浅い目もまた、結果としてその歪みを見過ごした。


 誰か一人が悪ではない。

 だが、だからといって誰も悪くないわけでもない。


 忠相は深く息を吸った。


「本所へ向かう」


 源之丞がすぐに応じる。


「お浜、でございますな」


「うむ。火の夜に蔵前で子を抱いていた女。そこへ佐吉が行く」


「あるいは、もう行っている」


「ならば先を急ぐ」


 弥吉もすでに立っていた。


「今夜は走りっぱなしでさあ」


「口だけではないところを見せてみろ」


「へいへい」


 軽口を叩いたが、声の芯は固い。


 おそらく次で、火の夜の“誰が何をしたか”はかなり見える。

 そしてそれは同時に、佐吉自身がもう後戻りできぬところまで来ていることも意味する。


 守った者。

 奪った者。

 その両方を背負わされたのが、入れ替わった幼子であり、今の佐吉だ。


 だからこそ、この先に必要なのは、誰か一人を悪人に仕立てて済ませることではない。

 誰が何を守り、そのために何を奪ったのかを、一つずつ切り分けて見せることだ。


 それができなければ、十年前の火と今夜の闇は、また別の若い者を呑み込む。

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