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『花の江戸、嘘の影 南町奉行・大岡忠相事件控』  作者: 常陸之介寛浩 


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第十話 裁きの古傷

 裁くということは、何か一つを正しい場所へ戻すことではない。


 むしろ多くの場合、すでに歪んでしまったものの中から、これ以上は壊さぬための線を探すことに近い。

 人はよく、奉行が判じれば物事は白黒に分かれると思いたがる。だが実際には、白も黒も混ざり合い、誰かの正しさが別の誰かの傷になる場面ばかりだ。

 そして、もっとも厄介なのは、昔いちど下した裁きの影が、後になって別の形で戻ってくる時である。


 その夜、忠相は近江屋へ向かう前に、奉行所の古い記録部屋へ足を向けた。


 火の夜“前”の帳面を探す。

 嘉兵衛をおびき出す。

 佐吉がまだ生きているうちに、今の近江屋の勘定へ繋がる筋を押さえる。

 やるべきことは多い。


 だが、その前に一つ、どうしても自分で確かめねばならぬものがあった。


 十年前の火の夜。

 近江屋の小火は町年寄の控えにも残り、寺の過去帳にも痕がある。ならば当然、奉行所にも何らかの吟味や届出が残っているはずだ。

 それがどの程度の扱いを受け、どのように処理されたのか。

 もしそこに、自分自身の目が一度でも通っていたなら、この一件は単なる他人事では済まない。


 記録部屋は静かだった。

 夜半も近い刻限、火の気を慎重に扱うため灯りも最低限しかなく、古紙の匂いと乾いた木の匂いだけが濃い。棚には年ごとに括られた控えや届書が並び、紙の背は色あせ、端は虫食いや湿気で波打っている。奉行所の記録というものは、表向きにはきちんとして見えるが、古くなればなるほど、人の手の都合や急ぎ仕事の跡まで露わになる。


 忠相は、卯月十八日前後の火事控えと町方吟味の簡易記録を引かせた。


 源之丞が脇で灯を寄せる。


「これでございます」


 忠相は文を追った。


 日本橋通塩町、近江屋にて小火。

 類焼軽微。

 出火は行灯の扱い不如意によるものと見られ、深く追わず。

 同日、家内に病人ありて騒擾。

 大事に至らず。

 以上。


 それだけなら、よくある処理である。

 江戸は火の町だ。いちいちすべてを大事に立てれば役所が持たぬ。小火で済み、死人が表向き出ず、店が翌日から立つなら、軽く流されることもある。


 だが忠相の指は、その末尾の小さな記しで止まった。


 ――同心控え確認済

 ――大岡出役下見


 源之丞が横からそれを見て、目を上げた。


「旦那……」


 忠相はしばらく何も言わなかった。


 若いころのことだ。

 奉行に就く前、町方の実務に近い立場で、同心たちの簡易な確認の末尾に名が添えられることはある。

 とはいえ、本格の吟味ではない。

 火の規模も小さく、死人も表に立たず、家の中に病人があって騒ぎになったとだけ聞けば、深く踏み込まぬのもありうる。


 だが、いま目の前にある十年前の歪みを見たあとでは、その“ありうる”が妙に重い。


「目を通していたか」


 源之丞が低く問う。


「おそらくな」


「覚えておいでで」


「ぼんやりと、だ」


 忠相は記録から目を離さずに言った。


「小火があり、商家の奥に病人がいて、家内が混乱していた。出火の筋に不自然はなく、表に死人も出さず、主人筋も事を荒立てぬよう願った……その程度の記憶がある」


「では」


「当時の私は、踏み込まなかった」


 その言葉は、静かだったが重かった。


 源之丞は何も言わない。

 言えるはずもなかった。


 役人は、すべてを掘り返していたら務まらない。

 軽く流すべきものを流す判断もまた実務だ。

 だが、その判断の先で誰かの人生が書き換えられていたとすれば、話は別になる。


 忠相は文を畳まず、そのまま灯の近くへ寄せた。


 十年前の自分は、ここにあった。

 火は小さく、死人は表に出ず、家は静かに収めたがっていた。

 その条件だけ見れば、深入りしなかったのも不自然ではない。

 だが、いま見ればわかる。

 “静かに収めたがる家”ほど、内に別の火を抱えていることがある。


「旦那」


 源之丞が言った。


「それは、旦那のお咎めになる話では」


「咎めになるかどうかは別だ」


 忠相は静かに答えた。


「ただ、十年前に私は『大事に至らず』と見た。その見立てが、今一人の若者の足場を揺らしているかもしれぬ」


「……」


「裁きとは、その場で終わるものではない。役人の軽い見立て一つで、あとから歪みが育つこともある」


 源之丞は、珍しくすぐには返事をしなかった。

 やがて低く言う。


「では今回、その歪みを正すと」


「正せるかどうかはわからぬ」


 忠相は首を横に振った。


「十年積もったものだ。正すと言い切るには、あまりに多くが人の暮らしになっている」


「だが、放ってはおけぬ」


「うむ」


 記録部屋を出るとき、忠相はその簡易控えの写しを取らせた。


 火の夜の記録は薄い。

 薄いからこそ、何を見なかったかが浮かび上がる。

 今の自分が追っているのは、近江屋の嘘だけではない。

 十年前の役所の目がこぼしたものまで含めてだ。


 奉行所の廊下を戻るころには、外の空気はさらに冷えていた。

 夜が深くなると、江戸の音は減る。

 遠くの拍子木、犬の遠吠え、舟の櫂が水を切る鈍い響き。

 その静けさの中では、胸の内の音の方が大きく聞こえる。


 忠相は歩きながら、ふと十年前の火の夜を想像した。


 近江屋の奥。

 病んだ松之助。

 蔵の前に抱かれたもう一人の子。

 慌ただしく走る女中。

 小火。

 混乱の中で、死人の名と生き残った子の名を取り違える――いや、取り違えたことにする者たち。

 そのそばで、若い自分は「小火一件、大事に至らず」と見た。


 もちろん、その場で全部を見抜けと言うのは酷だ。

 だがそれでも、心のどこかに引っかかりは残る。

 役人が一度「ここまででよい」と線を引いた時、その線の外に置かれた者は、その後どれほど長くそこに置き去りにされるのか。


 帳場へ戻ると、弥吉が待っていた。

 今夜は本当に走り回っているらしく、羽織の裾に土がついている。


「旦那、嘉兵衛の筋で一つ」


「申せ」


「今夜、あいつに似た男が、筆墨問屋の裏から紙を受け取ってたって話がありやした」


「どこへ向かった」


「日本橋へ戻る方へ。で、途中で見失った」


「一人か」


「最初は一人。けど、橋のたもとで、別の男と立ち話したって」


「どのような」


「商家の手代風で、歳は四十前後。羽織の合わせがきっちりしすぎてて、町人にしちゃあ、ちと気取った感じ」


 源之丞が言う。


「清之介ほどでは」


「そこまでは。ただ、帳場まわりの匂いはあるって見た奴が」


 忠相は少し考えた。


 嘉兵衛が動いている。

 しかも単独ではなく、誰かと接触している。

 清之介本人か、あるいは番頭筋の別の者か。

 帳面を巡って、内と外の手がすでに結びつき始めている可能性もある。


「弥吉」


「へい」


「近江屋の古い帳場の者、今は暇を取った者まで洗え」


「古株筋ですな」


「うむ。火の夜のあと、勘定のつけ替えや名義の移しを手伝える者だ」


「合点で」


 弥吉が去ると、源之丞が低く言った。


「旦那、今夜のうちに蔵へ入りますか」


「入る」


「火の夜“前”の帳面を探すために」


「そうだ」


「嘉兵衛が動く前に」


「うむ。だが今夜はそれだけではない」


 忠相は記録部屋から写させた控えを源之丞へ見せた。


 源之丞が目を通し、しばらく黙る。


「……旦那ご自身の名が」


「末尾にな」


「これは」


「若いころの、浅い下見だ。だが、浅かったからこそ、今に尾を引いている」


 源之丞は控えを静かに返した。


「お気になさるな、と申しても無理でしょうな」


「無理だな」


 忠相は正直に言った。


「自分で一度“軽い一件”と見たものが、十年越しにこう出るとなれば」


「……」


「ただし、悔いるために見るのではない。今度は見落とさぬためだ」


 源之丞は深く頷いた。


 それで十分だった。


 近江屋へ再び向かったのは、夜がさらに更けてからである。

 今度は表向きの取り調べではない。

 源之丞と下役を最小限だけ連れ、弥吉は外周へ回し、忠相自身が蔵を改める。

 火の夜“前”の帳面がまだ残っているなら、家の者が気づく前に押さえねばならない。


 蔵の中はひやりとしていた。

 昼に入る時より、夜の蔵はなお冷たい。紙も木も、火を恐れて余計な湿りを吸い込んでいる。

 下段、文箱、見本裂の束、古い商い帳、乳母の覚え書き、外向きの控え――。

 忠相は順を追って見た。


「旦那」


 源之丞が小さく呼んだ。


「これで」


 見つかったのは、下段のさらに奥、底板との隙間に薄く押し込まれた帳面だった。

 表紙は擦り切れ、紐も古い。火の夜の帳面よりさらに古く、誰かが“見つかってほしくない”と思って隠した形をしている。


 忠相は慎重に取り出した。


 表紙を開く。

 最初の数頁はありふれた雑記である。

 女中の入れ替わり。

 小間物の注文。

 子どもの疱瘡除けの祈祷料。

 だが中ほどで、明らかに異質な記しが現れた。


 ――預かり子 佐之助

 ――母 滝

 ――月々入用渡し

 ――表へ出さぬこと


 源之丞が息を呑んだ。


「佐之助……」


 忠相の指先も、そこで止まった。


 やはり“佐”の字である。

 火の夜の帳面に消された幼名。

 寺の過去帳で最初に記されたとされる“佐”の字の入る名。

 それがここに、火の夜より前の帳面としてはっきり残っている。


「母 滝」


 源之丞が低く読む。


「お滝に違いありますまい」


「うむ」


「これで、入れ替わる前の形は出ましたな」


「出た」


 忠相は頁をさらにめくった。


 そこには預かり子の衣服代、医者代、乳母代わりに付けた古女の手間、月々渡す金の覚えまで並んでいる。

 そして火の夜に近い頁になると、字が急に慌ただしくなる。


 ――松之助 咳強し

 ――佐之助 蔵前へ移す

 ――滝へ知らせず

 ――夜火事

 ――以後別記へ


 それだけだった。

 だが、それで十分だった。


 火の夜、預かり子・佐之助は蔵前へ移されている。

 お滝には知らせず。

 そして「以後別記へ」とある。

 つまりその先は、火の夜の帳面へ続いているのだ。


 源之丞が低く言う。


「ここまで露骨に」


「古い帳面だからだ。まだ、後から誰かに見られる前提で書いていない」


「火の夜のあと、隠した」


「そして書き換えた」


 忠相は帳面を閉じた。


 これで骨はさらに確かになった。

 佐吉の本当の幼名は佐之助。

 母はお滝。

 火の夜に蔵前へ移され、松之助死後、以後別記へ――つまり入れ替え後の帳面へ繋がった。

 そして今、その火の夜の帳面と、この前の帳面の両方が揃えば、近江屋はもう「勘違いでした」で押し切れない。


 その時だった。


 蔵の外で、かすかな物音がした。


 源之丞の目が鋭くなる。

 下役が息を潜める。


 忠相は灯を少し庇い、声を潜めた。


「誰かいる」


 返事はない。

 だが、微かな衣擦れがした。


 源之丞が一気に戸口へ出る。

 外で、短いもみ合いの音。

 弥吉の声が低く飛ぶ。


「待て!」


 足音が遠ざかる。

 だが今度はすぐには見失わなかったらしい。

 裏庭から塀沿いへ、二人分か三人分かの気配が走る。


 忠相は帳面を抱えたまま蔵を出た。


 裏庭の薄明かりの中、弥吉が一人の痩せた男の袖を掴んでいる。

 男は細長い包みを背に負い、髷は乱れ、顔には酒と寝不足が刻まれていた。

 目だけがぎらぎらしている。


「嘉兵衛か」


 忠相が問うと、男は苦く笑った。


「……ようやく、お目見えですか」


 その声はしゃがれているが、妙に芝居がかった調子を残していた。


 源之丞が肩を押さえつける。


「逃げるな」


「逃げてなんかいませんよ。見に来ただけだ」


「何を」


「帳面がまだあるかどうかを」


 嘉兵衛は忠相の腕の中の帳面を見た。

 その目の色が、一瞬だけ本気で変わる。


「……そいつか」


 忠相はその視線を見逃さなかった。


「欲しいか」


「欲しいに決まってるでしょう」


「なぜだ」


 嘉兵衛は笑った。

 だがその笑いに愉快さはなかった。

 長く押し込めてきたものが、ようやく口の形だけを借りて出てきたような笑いだった。


「だってそれは、あの家が十年かけて何を食ってきたかの証ですからね」


 源之丞が低く唸る。


「何を食ってきた」


「死んだ子の名と、生き残った子の人生と、ついでに分家筋の金まで」


 忠相は嘉兵衛を見た。


 この男は知っている。

 しかもかなり深い。

 そして、その知り方には憎しみが混じっている。


「ならば、十年前の夜に何があったか、ここで申せ」


 嘉兵衛は忠相を見返した。


「旦那、それを聞くなら、あんた自身の名前も出てくるかもしれませんぜ」


 源之丞が一歩出かかったが、忠相は手で制した。


 嘉兵衛は笑みを消した。


「火事の次の日、役所は軽く見て引いた。家は助かった。けどその助かった家が、誰を踏み台にして立ち直ったか、知ってますか」


 忠相は静かに答えた。


「今、知ろうとしているところだ」


 嘉兵衛の目が、わずかに揺れた。

 その揺れは、挑発が通じた喜びではなかった。

 むしろ、自分の投げた石が真正面から返ってきた時の戸惑いに近い。


 忠相は一歩近づいた。


「私は十年前、この件を軽く見た」


 源之丞も弥吉も黙る。

 嘉兵衛さえ、一瞬だけ口を閉ざした。


「その古傷が、今ここへ戻ってきている。ならば、今度は最後まで見る」


 嘉兵衛はしばらく忠相を見ていた。

 やがて、乾いた声で言った。


「……だったら、先に言っておきますよ。佐吉は、自分がただの預かり子じゃないことまで気づきかけてる」


「何」


「預けられた時から、あいつは“ただ預けられた”んじゃねえ。最初から、松之助が死んだ時の備えみたいに見られてた」


 源之丞が厳しく問う。


「それはどういう意味だ」


 嘉兵衛は忠相の抱える帳面を顎で示した。


「その前の帳面じゃ足りねえんだよ。もっと前――松之助が病み始めたころの覚えを見りゃわかる。あの家は、死ぬかもしれねえ実子の代わりを、最初から計算に入れてた」


 空気が凍る。


 忠相の指が帳面の端をわずかに強く掴んだ。


 火の夜の入れ替えは、咄嗟の苦し紛れではなかったのかもしれない。

 病弱な実子を抱えた家が、預かり子を“もしもの備え”として、最初から勘定の上で見ていた。

 もしそれが真なら、話はさらに冷たくなる。


 嘉兵衛は薄く笑った。


「生きてる佐吉は、そこまで知ったら、もう黙って奉公人なんかやってられませんよ」


 忠相は静かに言った。


「ならば、その先を話せ」


 嘉兵衛は夜気の中で、小さく息を吐いた。


「話しますよ。けどその前に――」


 彼は忠相の目を見た。


「佐吉を先に見つけてやってください。

 あいつ、今は自分の名前より先に、何のために生かされたのかを知っちまってる」


 夜の裏庭に、風が吹いた。

 火の夜の歪みは、もうただの古傷ではない。

 それは今ここで、生きている若者の胸の中に、もっと新しい傷として開き始めている。


つづく

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