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『花の江戸、嘘の影 南町奉行・大岡忠相事件控』  作者: 常陸之介寛浩㊗️オリコン週間ランキング9位㊗️


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第一話 失踪した手代

 花の江戸は、朝のうちはまだ、どこか寝ぼけたような顔をしている。


 日本橋へ向かう大通りには、夜露を含んだ土の匂いが残り、店々の戸が一枚ずつ開くたびに、味噌の香り、干魚の匂い、反物に焚きしめた香が、薄い靄のように流れ出してくる。桶屋が木を打つ音、魚河岸へ急ぐ荷車の軋み、早起きの女房たちの甲高い声。町は目を覚ますと同時に、昨日の続きを何事もなかった顔で始める。


 だが、人の暮らしというものは、得てして何事もなかった顔をしている時に限って、その足もとに厄介なものを隠している。


 江戸南町奉行所の白洲は、朝の冷えをまだ幾分残していた。


 畳の縁に正座した訴人の男は、商家の番頭らしく、髷も着物もきちんと整っている。年のころは四十に届くか届かぬか。浅黒い顔に無駄な肉はなく、目つきは鋭いが、いまはその鋭さの上に、よく磨いた悲嘆の色が一枚、丁寧に塗られていた。


「では、もう一度申せ」


 上座より静かに言ったのは、南町奉行・大岡忠相であった。


 声は低く、厳しく響かせようという気負いもない。だが不思議と、その声音に触れると、人は余計な言葉を削ぎ落とし、要ることだけを口にせざるを得なくなる。


 番頭は深く頭を垂れた。


「はっ。日本橋通塩町に店を構えます呉服商、近江屋にて番頭を務めます清之介と申します。このたび、当家の手代、佐吉が、三日前より行方知れずとなりましてございます」


「歳はいくつだ」


「二十になったばかりにございます」


「親元は」


「上総の生まれと聞き及んでおりますが、幼いころに親を亡くし、のち口入れ屋を通して奉公に上がって参りました」


 淀みがない。


 忠相はそう思った。


 言葉の継ぎ目に迷いがなく、問われる前から答えの形が整っている。白洲に立つ者には二種類いる。心のままに喋って、後で自分の言葉に足を取られる者と、あらかじめ筋を用意し、それ以外を零さぬよう気を張る者。目の前の番頭は明らかに後者であった。


「行方知れず、か。奉公人が店を抜けること自体は、さほど珍しい話でもあるまい」


 忠相があえてそう言うと、清之介は顔を上げぬまま、慎ましく、しかし素早く食いついた。


「仰せの通りにございます。されど、今回ばかりは訳が違いまする」


「違う、とは」


「店の金が消えております」


 白洲の端に控えていた同心の榊原源之丞が、わずかに目を細めた。


 やはりその話が出るか、という顔である。


 忠相は番頭の前に置かれた手元の書付へ視線を落とした。届け出に記された額は三両二分。大店にとっては決して大金ではない。だが、奉公人一人が懐にして逃げるには、それなりの重みを持つ額である。


「三両二分か」


「はっ」


「帳場から消えたのだな」


「左様にございます」


「帳場は誰が預かる」


「日中は番頭である私が。夜は店を締めたのち、勘定場を改め、鍵を掛けます」


「その鍵は誰が持つ」


「私と、後家様にございます」


「佐吉がその鍵を持ち出した形跡は」


「……ございませぬ」


 ほんのわずか。


 それでも忠相は、その一拍を聞き逃さなかった。


 滑らかだった答えに、初めて爪先ほどの引っかかりが生じた。


「鍵を使わずに金だけ消えた、ということか」


「いえ、その……帳場の小窓が、内より開いておりまして」


「ほう」


「夜分、何らかの仕方で、佐吉めが内へ入り込んだものかと」


「何らかの仕方、とは」


「そ、それは……まだ詳しくは」


 今度は清之介の声が、ほんの少しだけ乾いた。


 忠相は顔には出さず、胸の内だけでひとつ印をつけた。


 近江屋は、奉公人失踪の届けを出しに来たのではない。最初から、佐吉を“金を盗んで逃げた者”として扱ってほしくて来ている。


 人がいなくなった時、まず案ずるのは普通、その身の無事である。川へ落ちたか、病で倒れたか、辻で何者かに巻き込まれたか。ところがこの番頭は、佐吉の心当たりや交友より先に、消えた金の額と横領の筋を整えて持ってきた。


 それは少し、早すぎた。


「佐吉という男は、普段どのような様子であった」


 忠相が問うと、清之介はすぐに答えた。


「気弱で、働きは並。誠実そうに見えて、腹の底までは知れぬ男にございました」


「誠実そうに見えて、か」


「はい。近ごろはどこか上の空で、帳場の脇をうろつくことも多うございました。何やら思案を抱えていた様子。店の者も、妙に落ち着きがないと申しておりましたゆえ」


「誰がそう申した」


「……皆が、そのように」


「皆、とは便利な言葉よな」


 忠相が静かに言うと、白洲の空気が少しだけ冷えた。


 清之介は慌てて額を畳に擦りつける。


「も、申し訳ございませぬ。口が過ぎました」


「よい。佐吉が消えたその晩、店の者は何をしていた」


 問いはさらに続いた。


 誰がどの時刻に戸を閉めたか。誰が最後に佐吉を見たか。佐吉の寝所はどこか。普段から金に困っていた様子はあったか。女の影は。賭け事は。酒は。


 清之介はそのたび、用意した箱から品物を出すように答えてゆく。


 見事なものだ、と忠相は思った。ここまで整えて来るなら、むしろ感心に値する。


 だが、話が整えば整うほど、人の姿は平たくなってゆく。


 生きている者の行いには、無駄がある。迷いがある。昨日は言わなかったことを今日は急に言い出し、肝心なところで筋が飛ぶ。ところが清之介の語る佐吉は、まるで「逃亡した奉公人」という札に似合うよう、都合よく作られていた。


 白洲から下がらせると、忠相は脇に控えていた源之丞へ目を向けた。


「どう見る」


 源之丞は背筋を正したまま答える。


「奉公人の逐電に見せたい、との思惑は濃うございます」


「うむ」


「ただ、店の金が消えているのも、まったくの出鱈目とは言い切れませぬ。帳場は荒らされており、鍵も確かに不自然とのこと」


「不自然、か。便利な言葉は、番頭だけのものではないな」


 忠相がわずかに口端を動かすと、源之丞は「は」とだけ答えた。武骨な男だが、忠相のこうした含みには慣れている。


「現場を見ましょうか」


「見る。だが、その前に」


 忠相は書付を指先で軽く叩いた。


「近江屋のこと、余計なところまで当たれ」


「余計なところ、にございますか」


「家付きの者、奉公人の入れ替わり、跡目の話、口入れ屋との付き合い、近ごろの商いの調子。表の訴えが一枚なら、裏にはもう二、三枚、別の紙が重なっているものだ」


「承知いたしました」


「それとな」


 忠相は声をやや落とした。


「番頭は、佐吉を悪く言いすぎている。人を貶すことで自らを正しく見せる者は多いが、そこまで急ぐ者は、たいてい何かを追い越したがっている」


 源之丞は小さくうなずいた。


 奉行所を出ると、江戸の朝はすでに昼へ向かう勢いを帯び始めていた。


 日本橋通塩町へ向かう道すがら、町は賑わいに満ちている。行商の声、犬を叱る婆の声、湯屋の薪を運ぶ若い衆の怒鳴り合い。空はよく晴れて、陽の光は店先の暖簾や色鮮やかな反物に柔らかく落ちていた。


 こんな日の江戸は、人がひとり消えたくらいでは歩みを止めない。


 だからこそ、消えた者のことは、誰かが立ち止まって考えねばならぬ。


 近江屋は、通りに面した二階建ての立派な店であった。格子は細かく、白い暖簾には丸に違い鷹の羽の紋。店先には上等の反物が並び、奥では女中や小僧が忙しなく動いている。客の足も絶えぬ。なるほど、失踪騒ぎがあっても商いは止められぬ、というわけだ。


 清之介は奉行が直に来たことに、驚いた顔を一瞬だけ見せた。だがすぐに商人らしい愛想を取り戻し、深く頭を下げる。


「これは恐れ入りましてございます。わざわざお出まし賜り……」


「店を改める。案内せよ」


 忠相は無駄な飾りを挟ませなかった。


 帳場は店の奥にあった。几帳面に整えられた勘定台、墨の残る硯、算盤。小窓の木枠には確かにいじった跡がある。だが無理にこじ開けたというより、もとから癖を知る者が静かに扱ったように見えた。


 忠相は指先で木枠に触れる。


「外から入ったのか、内から開けたのか」


 源之丞が屈んで覗き込んだ。


「外から荒々しくこじた跡は薄うございます。戸締まりを知る者の手と見た方が自然かと」


 清之介がすぐ口を挟んだ。


「奉公人どもも、戸締まりの手順くらいは見ておりますれば」


「見ておる、のと、実際に静かに開けられるのとは違う」


 源之丞が言うと、清之介は口をつぐんだ。


 帳場の脇には細い廊下があり、その奥に奉公人部屋が続いている。佐吉の寝所は六畳間の隅、ほかの若い衆と同じく粗末だが、妙に整っていた。布団は畳んである。衣類も数枚、きちんと重ねてある。逐電する者の部屋には、たいてい慌てた跡が残るものだ。だがここにはない。


「持ち物は、これだけか」


 忠相が問うと、清之介が答えた。


「は。もともと身ひとつで上がってきた男にございますゆえ」


「書付や、親元の手がかりになるものは」


「何も」


 その時だった。


 部屋の入り口で様子を窺っていた小僧の一人が、はっとしたように身を引いた。年は十四、五。丸い目に怯えがありありと浮かんでいる。


 忠相はそちらを向いた。


「お前、名は」


「し、新吉でございます」


「佐吉と同じ部屋か」


「は、はい」


「最後に見たのはいつだ」


 新吉は清之介の方をちらりと見た。


 その視線だけで、忠相は胸の内で小さく息をつく。


 白洲より、現場の方がよほど正直である。人は誰を怖れているかを、自分の目で先に語ってしまう。


「番頭を見るな。こちらに答えよ」


 忠相の声は静かだったが、新吉はびくりと肩を震わせた。


「お、おとといの夜で……ございます」


「どのような様子であった」


「いつもと……そう変わらず……」


「変わらず、か。ならばなぜ黙る」


「……」


「言え」


「……佐吉兄ぃは、近ごろ、夜になると、蔵の方を気にしておりました」


 清之介が鋭く振り向いた。


「おい、新吉」


「よい」


 忠相が制すると、場は再び静まった。


「蔵を気にしていた、とは」


「何かを探してるみてぇで……い、いえ、探してる、ように見えて……でも、鍵は開いてなかったですし、勝手に入ったところも見てません。ただ、その、蔵の前で立ってるのを、二度ほど……」


「それをなぜ先に言わぬ」


「……言って、よいものかと」


 新吉は小さくなった。


 奉公人の世界では、見たことを見たまま言うのは、賢い生き方ではない。とりわけ大店では、言葉ひとつで寝所も飯椀も失うことがある。


 忠相はそれ以上、新吉を責めなかった。


「蔵を見せよ」


 近江屋の土蔵は店の裏手にあった。火除けの厚い壁に守られ、帳面や反物の見本、古い証文類が収められている。鍵を開けさせ、中を改めると、紙の匂い、古布の匂い、乾いた土壁の冷たい気配が鼻を打った。


 源之丞が棚の並びを丹念に見て回る。忠相もまた、手を触れずにまず目で追った。古文書は紐で括られ、反物見本は札付きで積まれている。その中にひとつ、下段の文箱だけが、戻された形に乱れがあった。


「これか」


 忠相が指した箱を清之介が慌てて開ける。


「そ、それは先代のころの古い書付を納めたものにございます。商いにはもう使わぬものばかりで」


「使わぬのに、なぜ整えが甘い」


「……も、申し訳ございませぬ。確認が行き届かず」


 箱の中には、火事で端の焼けた帳面や、湿気を食って波打った証文が幾枚も入っている。忠相が一枚ずつ目を走らせていると、箱の底の隅に、小さく黒ずんだ紙片が挟まっているのが見えた。


「それを寄越せ」


 源之丞が摘み上げ、忠相の手元へ置く。


 半ば焼けている。角は炭のように脆く、触れれば崩れそうだった。残った部分に滲んだ墨で書かれていたのは、名前の一部らしき文字と、年号日付である。


 ――享保六年 卯月十八日


 その下に、かろうじて読める一字。


 ――……松


「これは何だ」


 清之介は紙片を見るや、明らかに面色を変えた。ほんの一瞬だが、整っていた番頭の顔に、素の狼狽が差した。


「わ、わかりませぬ。そのようなもの、見た覚えも……」


「見た覚えもない紙が、なぜ文箱の底にある」


「先代の代のものは多うございまして、ひとつひとつまでは」


「ならば、なぜ驚いた」


「おど、ろいた……とは」


「今、顔に出た」


 忠相が言うと、清之介は言葉を失った。


 その時、蔵の外から女の声がした。


「お奉行様」


 振り向くと、店と蔵の間の庭先に、若い娘が立っている。年のころ十七、八。藍の小紋に素朴な帯、飾り気はないが、目元に妙な強さがある。町娘らしい軽やかさの中に、容易には引かぬ芯が見えた。


 近江屋の者ではないらしい。だが店先から覗き込む客や女中たちとは違う、こちらを真っ直ぐに見る目をしていた。


「誰だ」


 源之丞が問うと、娘は少し顎を引いた。


「向かいの長屋に住んでおります、お縫と申します」


「何用だ」


「その、佐吉さんのことで……」


 清之介が苛立ちを露わにした。


「お縫、お前には関わりのないことだ。引っ込んでおれ」


「関わりがないなんて、よくそんなことが言えますね」


 娘は臆さなかった。


 奉行を前にしてなお、番頭へ真っ直ぐ言い返す。その気性の強さに、店の者たちが息を呑むのがわかった。


「佐吉さんは、金なんか盗んで逃げるような人じゃありません」


 その一言で、庭先の空気がぴたりと止まった。


 忠相は娘を見る。


 こういう時の断言ほど、当てにならぬものもない。だが同時に、断言の仕方には、その人の抱く感情がよく出る。


 お縫のそれは、理屈から出た言葉ではなかった。見栄でも、義理でもない。もっと個人的な、切実な確信だった。


「なぜそう言える」


 忠相が問うと、お縫は一瞬だけ唇を噛んだ。


「……あの人は、そんな卑怯な真似をする人じゃありません」


「それは答えになっておらぬ」


「じゃあ、こう言えばいいんですか。佐吉さんは、近ごろ何かに怯えていました。でも、自分のために怯えてたんじゃない。何かを知ってしまって、それで……」


「お縫!」


 今度は清之介の声に、露骨な怒気が混じった。


「軽々にものを申すな!」


「軽々しく人を盗人に仕立てる方が、よほど軽いでしょう!」


 娘は引かなかった。


 源之丞が一歩出かけたが、忠相は手で制した。


「お縫、と申したな」


「……はい」


「佐吉とは懇意か」


「……向かいの長屋に住んでいる者同士、顔を合わせることはありました」


「それだけか」


 娘は答えなかった。


 沈黙は、時にどんな言葉よりも濃い。


「よい。今ここで無理に喋らせても、店の前では本音は出ぬ」


 忠相はそう言って、娘から視線を外した。


「源之丞、この娘のことも調べよ」


「承知」


 お縫はむっとしたように眉を寄せたが、反論はしなかった。自分が疑われたのではなく、話を聞く価値ありと見られたことは、さすがにわかったのだろう。


 蔵の調べを終え、近江屋を出るころには、日もだいぶ傾き始めていた。通りのざわめきはなお絶えず、店先には夕刻前の客が増えている。誰もが明日の商いと今夜の飯の方に忙しく、若い手代がひとり消えたことなど、すでに町の空気の中で薄くなりかけていた。


 だが、忠相の手の中には、焼け焦げた小さな紙片がある。


 そこに残る年号の日付を、彼は歩きながらもう一度目でなぞった。


 享保六年、卯月十八日。


 今年より十年ほど前。


「源之丞」


「は」


「近江屋、十年前に何かあったはずだ」


 源之丞は即座に答えた。


「私もそう見ます。古い文書を手代が探る理由は、ふつう商いにはございませぬ」


「うむ。しかも、番頭はあの紙を見て驚いた。驚くということは、知らぬ品ではない。知らぬふりをするには、知りすぎている」


「では、古傷でございますか」


「古傷だろうな。消えた奉公人の件にしては、あまりに古い火の匂いがする」


 忠相が言うと、源之丞はわずかに首をかしげた。


「火、にございますか」


「紙の焼け方だ。あれはつい先日、炙ったものではない。長く箱の底にあって、時を経た焦げだ」


 源之丞は感心したように息をついたが、すぐに表情を引き締める。


「では、佐吉はその古い書付を見つけたことで、消されたのでしょうか」


「まだ早い。人が消える時には、消された場合と、自ら消える場合と、その両方が混ざる場合がある」


「混ざる、とは」


「追われて逃げた者は、自ら消えたように見える。だが本当に自分の意志だけで消えたとは限らぬ」


 忠相は道の先を見た。


 夕日が町屋の屋根を赤く染めている。江戸は美しい、と他国の者はよく言う。たしかに美しい。だが美しい町というものは、影もまた深い。


 奉行所へ戻ると、岡っ引きの弥吉がすでに上がり框の近くで待っていた。小柄で痩せぎす、目ばかり妙にくるくるとよく動く男で、町の噂話と裏路地の空気を吸って生きているようなところがある。


「旦那」


 弥吉は忠相を見るなり、にやりともへらりともつかぬ顔で頭を掻いた。


「近江屋のこと、ちいと耳に入りまして」


「早いな」


「こういう話ぁ早えのが取り柄でさ」


「申せ」


「近江屋ぁ、ここ二、三年、表向きは景気よう見せてますがね、内じゃあ少しばかり、跡目の話が揉めてたって噂がありやす」


 忠相と源之丞は視線を交わした。


「跡目」


「へえ。先代が亡くなって、今の後家様がおさめてる形でござんすが、分家筋だの番頭筋だの、いろいろ口を出す連中がいたそうで。ま、店が大きけりゃ、金の匂いに寄ってくる奴も多いってことで」


「それだけか」


「それだけじゃござんせん。消えた佐吉って若い衆、近ごろ口入れ屋にこっそり通ってたって話もありやす」


「奉公口を変えるためか」


「最初はそう思いやしたが、どうも様子が違う。働き口を探すってよりゃ、自分の身の上を探るような聞き方だったってんで」


「誰から聞いた」


「口入れ屋の下働きの小娘でさ。あっしの顔見ると、よく喋るんで」


 弥吉はけろりとしている。どうせ余計な愛想でも振りまいて聞き出したのだろう。


 だが、これで線が一本増えた。


 佐吉は店の古い文書を気にし、口入れ屋で自分の身の上を探り、そして消えた。


 金を盗んで逃げた、という近江屋の筋書きとは、ずいぶん顔つきが違う。


「弥吉」


「へい」


「口入れ屋を当たれ。佐吉が誰に、何を尋ねたか、一つ残らず拾ってこい」


「合点で」


「それと、十年前の近江屋の火事か騒ぎか、何か古い話を知ってる者も探せ」


「十年前、ねえ。古い話ぁ口が渋くなりやすが、掘りゃあ土ぐらいはつきまさ」


 弥吉が去ると、日もすっかり暮れていた。


 忠相は自らの机に戻り、改めて焼け焦げた紙片を灯火の下へ置いた。火に照らされた焦げ跡は黒く、文字の残りは心もとない。


 ――……松


 人名か、屋号か、土地の名か。


 それひとつでは何も言えぬ。だが、何も言えぬものほど、後で大きな顔をすることがある。


 奉行所の外では、夜回りの拍子木が遠く鳴った。


 江戸の夜は、昼より口が軽い。酒が入り、提灯の下では人も油断する。そうなれば、昼に引き締めていた口も、思わぬ隙から何かを零す。


 その夜更け前、源之丞が再び現れた。


「申し上げます」


「何だ」


「近江屋の若い衆の一人が、言いづらそうにしていたことをようやく吐きました」


「申せ」


「佐吉の部屋を改めた折、布団の下から何か紙くずのようなものが出たので、番頭が自ら持って行った、と」


「ほう」


「その時は皆、盗みの証かとばかり思っていたようですが……」


「現物は」


「もうありませぬ」


「番頭が処したか」


「おそらくは」


 忠相はしばし黙った。


 やはりだ。近江屋は失踪者を探しているように見せながら、実のところ、佐吉の残した何かを先に押さえようとしている。


「もう一つ」


 源之丞が続けた。


「向かいの長屋の娘、お縫のことですが」


「どうした」


「幼いころ、近江屋へ出入りしていた時期があるようです。母親が針仕事を納めており、その手伝いで」


「……なるほど」


「佐吉と以前から顔なじみだった可能性は高うございます」


 忠相は細く息をついた。


 あの娘が「逃げるような人ではない」と言い切ったのは、単なる町内の顔見知りゆえではないらしい。


 人が誰かを庇う時、その庇い方には過去が出る。


 同時に、そこに嘘も混じる。


「明日、お縫から話を聞く」


「承知しました」


 源之丞が下がった後も、忠相はしばらく紙片を見ていた。


 失踪した手代。消えた三両二分。整いすぎた番頭の説明。蔵をうろついていた若い奉公人。身の上を探る口入れ屋通い。向かいの長屋娘の不自然な庇い立て。そして、十年前の日付を残した焼け焦げた紙。


 どれもまだ、小さい。


 だが小さいものほど、拾い上げるのが遅れれば、やがて見失う。


 忠相は紙片をそっと文箱へ戻し、灯明の火を見た。


 この火は、部屋を照らす。


 同時に、影も作る。


 江戸の事件もそれと同じだ。人の嘘は闇そのものの中には隠れない。むしろ、もっとも明るく照らされた場のすぐ脇に、薄く長く伸びている。


 そして翌朝、その影は、思いがけぬ形でさらに濃くなることになる。


 佐吉の寝所をもう一度改めていた源之丞が、畳の継ぎ目の奥から、小さく焼け焦げたもう一片の紙を見つけたのである。


 そこに残されていたのは、たった一文字。


 ――子


 名の端か、身分の記しか。


 忠相はその報せを受け、静かに目を閉じた。


 金の失踪ではない。


 これはもっと古い、そしてもっと面倒な、人の名にかかわる話だ。


 花の江戸の朝は、今日も何事もなかったように始まるだろう。


 だが、その足もとにはすでに、誰かが隠した嘘の影が、確かに伸び始めていた。

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