98. マリゼ
ジフリートとメイナード、ブラットはエタン父子に付き添い、マリゼが暮らす塔へ向かった。命を賭けねばならない、あまりにも危険な頼みごとをしに行くのだから、礼を尽くして出向くべきだと、 メイナードが提案したものだった。
地下の秘密通路を抜け、衛兵が守る入口を通過し、らせん階段を延々と登っていった先、塔の上階にマリゼの居室はあった。皇帝の「美女狩り」からマリゼを守るため、ロジテアン家が彼女を外界から切り離し、徹底して隠して育ててきたからだ。
愛と豊穣の女神フォルミオサから特別な恩寵を授かった聖女であるがゆえに、教団側から「教団施設で保護したい」との申し出もあった。だが、末娘マリゼを溺愛する当主エタンは、あくまで家族の手で守り抜くことにこだわった。
外には「幼い頃の事故で身体が不自由になり、持病も抱えている」ということにしておいた。長年まったく姿を見せないものだから、人々の間では「大きなあざが顔にあるらしい」「おぞましい腫物があるそうだ」「身体に重大な欠陥がある」などという噂話まで飛び交っていた。
エタンとチェドウィックが先に部屋へ入り、侍女とマリゼの護衛役である神官戦士を下がらせたのち、マリゼ本人に事の次第を説明して戻ってきた。部屋を出てくるエタンの目尻は、赤く濡れていた。
チェドウィックに続いて部屋へ入った一行は、その場に立ち止まり、言葉を失った。開け放たれた窓から差し込む陽光を受けて立つ少女は、澄み切り、清らかで──神々しいまでの美しさをまとっていた。腰まで流れる黒髪、透き通るように白い肌、大きく澄んだ青緑の瞳が、見る者の視線を捕らえて離さなかった。
マリゼは落ち着いた所作で、ジフリートたちに一礼した。
「マリゼ・ロジテアンと申します。先ほど、父からお話をうかがいました。魔王の復活を阻み、家族と人々をお守りするための戦いだと。神の御心に従い、微力ではございますが、できる限りのお力を尽くす覚悟です」
その顔立ちと声には、静かだが揺るぎない決意が宿っていた。マリゼは、自分がこの戦いに加わることの意味を、はっきりと理解しているのだ。
メイナードが一行を代表して礼を述べた。
「容易い決断ではなかったはずだが、快く応じてくれて感謝する。わしも、できることは何もかもやろう」
階下へ降りる前に、マリゼはひとつだけ願いを口にした。ほかの仲間には、今回の戦いで自分が背負う負担について詳しくは話さないでほしい──というものだった。
「私だけでなく、皆さまが命を賭して臨まれる戦いです。私のことを気遣って、特別に遠慮やご配慮をなさるようなことがあってはなりません」
その思いやりに、ジフリートたちの胸はますます重く、やりきれなくなった。この清らかで無垢な少女を、あの恐ろしい戦いの場へ連れ出さねばならない。その事実が、罪悪感となってのしかかるのだった。
*** ***
これまでクズ皇帝の手から守るため、マリゼは世間の目から隠されてきた。だが、もはやその必要はなくなり、彼女は塔を出て自由の身となった。デシオールとの決戦に備える、わずかな準備期間に限るとはいえ、マリゼにとってはかけがえのない「自由時間」だった。
マリゼと対面したクラインたちは、最初は、その眩いばかりの美貌と聖なる雰囲気に圧倒されてしまい、まともに声もかけられず、少し離れたところから感嘆の吐息を漏らすばかりだった。
幼いころからずっと塔の中で暮らし、外の世界の経験が皆無に等しいマリゼにとって、目に映るものすべてが新鮮で、不思議で、興味をそそるものばかりだった。
その中でも、家族以外の若い男性を間近で見るのは初めてであり、クラインやセイツ、シラードらの姿を見ては、恥ずかしさと好奇心が入り混じった反応を見せた。とりわけ、彼女の視線は、自分でも意識しないうちに、セイツのほうへと何度も向かってしまっていた。
メイナードをはじめとする魔導士たちが、デシオールとの戦いに備えた準備に取りかかるあいだ、クラインとセイツたちは、そのメイナードの指示で、マリゼを連れてグラバンテの街へ見物に出た。これから苦しい旅路を共にする仲なのだから、今のうちに打ち解けておけ──という理由だった。
何年も前からマリゼと共に暮らし、彼女の護衛を務めてきたフォルミオサ教団の神官戦士ジェニンも同行していた。ジェニンもまた、デシオールとの戦いに一緒に赴く予定である。
クラインは、自分の隣を歩くマリゼを横目でちらちらと盗み見た。マリゼは、これまで彼が出会ってきた人々の中で、群を抜いて美しい存在だった。そんな少女と並んで街を歩いているというだけで、夢を見ているような心地だった。
街を行き交う人々も皆、彼女の姿に見惚れたように目を奪われていた。ただ、飾り気のない質素な服装でありながらも、高貴な雰囲気をまとっているうえ、すぐそばには神官戦士ジェニンが付き添い、後ろにはセイツとマクシムが控えている。おかげで、軽々しく声をかけたり、ちょっかいを出そうとする者はいなかった。
「いつもは塔の上から街を見下ろしているだけだったから……こうしてこの道を歩けるなんて、夢みたい」
マリゼが目を輝かせて言った。年の近いクラインとは、すでに気安く言葉を交わせる関係になっていた。
「あれは、何かしら?」
マリゼが足を止め、横手を指さした。串に刺した焼き魚を売る屋台だった。
「ああ、焼いた魚……みたいだな?」
つぶやいたクラインの肩を、セイツが軽く小突く。
「来い」
セイツが代金を払い、焼き魚を買うと、3人は木の板をつないだ長い腰掛けに並んで座った。ジェニンがハンカチを広げ、マリゼを真ん中に座らせ、その両側にクラインとジェニンが腰を下ろす。セイツとマクシムは、周囲を警戒しながら立ったままだ。
「どうやって食べるのかしら……?」
頭から尾まで丸ごと串に刺さった魚を前に、マリゼが不思議そうに首をかしげる。
「こうやって串を持って、口でかじり取るんだ。小骨があるかもしれないから気をつけて」
クラインが先にやって見せると、マリゼはこくりとうなずき、それにならって慎重に一口かじった。
「ん……おいしいわ」
嬉しそうにそう言うマリゼに、クラインも大きくうなずいた。
「だよな。川魚とはまた違う味だね」
マリゼは魚にそっと歯を立てながら、マクシムと並んで立つセイツを、こっそり横目でうかがった。整った顔立ちと、どこか落ち着いた青い瞳は、何事もないように正面を見据えている。
魚の頭までぼりぼり噛み砕いていたマクシムが、セイツに声をかけた。
「海辺はいいなぁ、こういうもんが食えるからさ。その魚の頭、食わないなら俺にくれ」
「わざわざ人の食い残しまで欲しがるって、どういう了見だ?」
あきれ顔のセイツに、マクシムは彼の手から串を半ばもぎ取るようにして奪い、残っている頭の部分を口に放り込んで、むしゃむしゃと咀嚼した。
「お前の食いかけなら平気だって。捨てるのはもったいないだろ。昔はお前だって全部食ってたくせに、最近は必ず頭を残すよな」
「家を出るとき、魚の頭なんかもう食わないって決めた。お前も、そろそろそういうのやめろ」
「くだらねぇ決意だな」
マクシムは、魚の頭と内臓の部分が残った串を手に持ったまま、もじもじしているクラインを見て、ふっと吹き出した。
「やっぱ内陸育ちだと、魚の食い方が分かんねぇか。お前の分は要らねぇよ。これでも灰色狼傭兵団の副団長様だかんな。残飯処理係じゃねえ」
クラインはマクシムにつられて気まずそうに笑い、マリゼとジェニンが少しずつ残した分まで受け取ると、さっきから足元でうろつきながら、じっとこちらを見上げていた野良猫たちに、分けてやった。




