8. 身体鍛錬(1)
翌朝、爽やかな気分で目を覚ましたユタカは、すでに起きて座り、自分を見つめているユステアの姿を見た。口には出さないが、昨夜の変化が気になって仕方ない様子であった。
「書棚の本が片付いたら、そなたの好きな本で満たすがよい」
そう告げ、彼女を休ませて自分の居所へ戻った。
眠気に負けてだいぶ聞き逃したと思っていたが、意外にも内容はしっかり頭に残っていた。それは帝国以前、王国時代の初代国王の物語であった。彼は魔族の脅威に立ち向かい世界を守り、魔王を封印して王となったという。
(どこでも王朝というものは、自分たちを美化するものだな……)
そう考えつつ、ユタカはこの地に来て以来唯一の楽しみとなってしまった食事を、心ゆくまで平らげた。満足げに腹を叩いたが、あまりにも突き出た腹に手を当てた瞬間、深い自責の念に襲われる。
もともと体を動かすのが好きで、幼い頃から剣道やボクシング、空手を習ってきた。総合格闘家を志していたが、偶然のきっかけでアクション俳優へと進路を変えてからも、日々トレーニングを欠かさず身体を鍛えてきたのだ。
なのに、今は、背丈ばかり大きくなった白く軟弱な肉塊に過ぎない。筋肉の影すらなく、まるで豆腐のような身体。こんな姿で刃を向けられでもしたら、一瞬で斬り伏せられるのは目に見えている。
このまま食って太るだけではなく、体力を鍛え、いざという時に備えねばならぬ。そう決意したユタカはカティルに尋ねた。
「鍛錬をしたいのだが、人目を気にせず出来る場所はないか?」
「目立たずに行うのでしたら、離宮におられるランシア様の御殿がよろしいかと。武家のご出身で、かなり広い鍛錬場を整えておられると存じます」
「そうか。午後に行ってみるとしよう」
午前には会議があり、午後にも本来は公務があるが、午前の会議だけで済ませることにした。もとより政務など放り出していた人間ゆえ、仕事を怠っても目立たないのは好都合であった。
会議を終えたユタカは、タランダルを伴って離宮へ向かった。本来なら、カティルも同行するはずだったが、その日はペトラオンに関わる用事があり、王宮に残っていた。
タランダルは久方ぶりに離宮へ行けるとあって、ひどく浮き立っていた。カティルからの情報と日誌によれば、タランダルは皇帝とともにしばしば離宮を訪れ、妃嬪たちにすら手を出す特権を享受していたという。皇帝と共に複数の妃嬪と夜を過ごすなど、まさにやりたい放題の仲であった。
気は進まないが、敵の目を欺くためにもタランダルと適度に付き合うほかない。離宮に入ったユタカは、「今日はランシアと用があるゆえ、適当に遊んでいろ」とタランダルに言い残し、ランシアの居室へ向かった。
ランシアは中くらいの背丈で、しなやかに研ぎ澄まされた猫を思わせる美貌の持ち主だった。額の片側に残るまだ癒えていない傷跡が、あのクズ皇帝が彼女にどう接してきたのかを雄弁に物語っていた。
他の女と同じく視線を伏せてはいるものの、その瞳の奥には容易くは屈しない強さが見て取れた。
「ここに身体鍛錬ができる部屋があると聞いた」
ユタカは応接間と寝室を通り過ぎ、奥へと進んだ。そこには浴槽のある浴室があり、その先にはかなり広い部屋が現れた。家具もなく、がらんどうの空間だが、やはり壁際には皇帝の趣味丸出しの怪しげな器具が並んでいた。
(この人間が鍛錬などするはずがない)
案の定、この部屋でもランシアを相手に、気味の悪い遊戯に耽っていたのだろう。唯一使えそうなものといえば、剣術の稽古に用いるらしい太い木の柱が3本。柱にはいくつかの枝が斜めに突き出ていた。
ユタカは木の柱以外の物はすべて片付けさせた。そして鍛錬場を見回すうち、ちょうど良い梁を見つけた彼は、高さと幅を測り、侍女たちに指示を出した。適度な太さと長さの鉄棒、細く長い縄、そして木剣を持ってくるように、と。
命じられた侍女は動揺を隠せず、ちらりとランシアを見やった。ランシアの顔色はみるみる蒼白に変わり、気の毒なほどだった。
何を心配しているのか、ユタカにも察しはついたが、いちいち釈明するのも面倒で、そのままにしておいた。どうせすぐ分かることだ。
「一人でいても構わぬ。部屋に下がっていろ」
そう言ったものの、ランシアは不安げな色を必死に隠しながらも、部屋の隅に立ち続けていた。
ユタカは、この部屋をトレーニングルームに改造しようと心に決めた。いずれは四方の壁すべてに大きな鏡を張り巡らせるとして、今はまず全身を映せる長鏡をあるだけ持って来させた。
さらに場所を指定してサンドバッグを二つ吊るすよう命じた。もちろん、この世界の者たちがサンドバッグなど知るはずもない。そこでユタカは紙に形を描き、おおよその大きさを決め、内部には穀物を詰め、外側は丈夫な革で仕立てるようにと、具体的に指示を与えた。